Lost⇔Last=Note

第3楽章#気付けばソコにあるアタリマエ

部活動勧誘週間が終わりを迎える4月末日を目前に、十夜は悩んでいた。
未だどの部活動に籍を置くか決めかね、気付けばもう入部届提出まで今日を入れて3日しかない。
正確には明日は休みなので実質2日しか残っていないというのに、まだ部活動が決められないのだ。
午前中の授業を終え、既に恒例となった祐一手作り弁当の相伴にあずかりながら十夜は真剣に部活動について悩み続け、今日のデザートが出された時点になってもまだ悩み続けていた。
因みに今日は洋食を中心とした弁当メニューで、デザートはなんとシュークリームだった。
校舎内で1番高い場所から雲一つない青空を見上げ、遠くに街並みを見下ろすことの出来る屋上にビニールシートを広げての遠足風景も、向けられてくる視線にもようやく慣れて日常の光景になりつつある。
中庭か屋上か天候次第で別の場所にもビニールシートを広げるが、どこに行っても衆目は集めてしまうらしいが、最高学年3年生の中でも恐らく良い意味で目立つ外見4人に加えて異例の編入生といった構成なのだからそれも必然なのかもしれない。
屋上で温かな陽気を感じながらも思考は一向に晴れないまま十夜はやっぱりまだ悩み続けていた。
一応色々と見学もして回ったが、これと言って興味を惹かれる部活動は存在せず、吹奏楽部は当然ながら弦楽器の入る余地はない。
最初は音楽に関わっているだけで得る物もあるだろうと吹奏楽部にしようと思っていたのだが、何度か足を運ぶうちにこの学校の吹奏楽部の底が知れてしまった。
自らを磨き高める音楽ではなく、楽しむ音楽。
それがこの学校の吹奏楽部のレベルだ。
中には技術や表現力を磨くために練習に練習を重ねている部員もいるようだったが、それはあくまでも少数派でしかないらしい。
現に主な活動日は週3回、月水金だけだという。
自身の練習に多くの時間を割きたい十夜としては毎日放課後が潰されるわけではないという点は利点と言えなくもないが、軽い気持ちで音楽に臨む彼らと仲良くなれそうな気もしないというのが正直なところだ。
食後のお茶の時間を楽しみながら、十夜はそろそろ期限的に後がないとため息を零す。
「悩み事か?」
アンニュイな空気を纏わせる十夜に、いい加減見兼ねたらしい祐一が声をかけた。
「ちょっとね…」
彼らに言ってもどうしようもないことなので、十夜はそう言って曖昧な笑みを浮かべた。
「何だ?恐らく大抵の悩みには誰かが何かしら役に立つと思うが」
友人たちを見渡し、祐一が軽く口の端を釣りあげる。
そこには友人たちに対する信頼と信愛が含まれていて、十夜は少し羨ましく思う。
十夜には互いを蹴落としあう関係の同業者は数多く存在するが、信頼や信愛といった感情を向け合えるような友人は存在しない。
音楽で生きていくと決めた時、それで構わないと決めたはずだったが、実際に目の当たりにすると羨ましいと感じてしまう。
恐らくこの学園に編入しなければ気付きもしなかった自分の心の中に空いた穴に最初は自分でも驚いたが、少しずつ素直に認めることが出来始めたところだった。
「でも十夜、勉強得意そうだろ?勉強以外の悩みか?あ、5限目の体育のバレーボールが苦手とか!」
大口を開けてシュークリームを頬張りながら、赤也が彼なりに考えた悩みを口にして違うか?と笑顔を見せる。
「苦手以前に球技は一切やらないことにしてるんだ。ちゃんと理事長の許可も取ってあるよ。あっさり許可くれたけど、この学校、そういうの甘いのかい?」
悩み事はそれではないのだが赤也なりに考えてくれたことに苦笑を返すと、十夜は話題転換とばかりにそう訊いた。
「いや、基本的には厳しいぞ?ただ、うちのクラスには瑞貴がいるからな。体育そのものに不参加の生徒がいるんだし、理由があれば許可せざるを得なかったんじゃないか?」
拓海が軽い笑顔でそう教えてくれる。
言われてみれば確かにこれまでに数回あった体育の授業に1度も参加していないクラスメイトがいたではないか。
「別に僕としてはやってもいいんだけど…」
でも禁止されてるんだよねと瑞貴は割と気にする様子も見せずに肩を竦めてみせた。
「禁止されてるって相当だな」
事情は深く聞くつもりはないが、十夜は何となく察して苦笑する。
毎日欠かさず薬を飲み続ける生活を送っているような状態では、確かに禁止されても仕方がない状態なのだろうと勝手に解釈した。
「でもさ、十夜、別に体育苦手って程じゃないだろ?祐一より断然スポーツ得意じゃん」
「俺を引き合いに出すな」
何故球技をやらないのかと不思議そうに首を傾げながら問いかけた赤也に、ついでとばかりに比較対象にされた祐一が呻く。
十夜は自分にとっては当たり前の事実を知らない様子のクラスメイトに、僅かに目を丸くした。
音楽科の学校で当たり前でも、ここは普通科の学校だ。
当然事情が分からない生徒もいるということに、十夜は今ようやく思い至る。
だがしかし、指を傷めないようにという説明で彼らに伝わるのだろうか。
どう説明したら理解力に乏しそうなクラスメイトにも理解出来るのかと十夜は首を捻った。
「音楽を志す人間は手を傷つける可能性のあることはしないよ?音楽家生命に関わるから」
悩んでいる十夜に変わって当然だというような口調でそう説明したのは瑞貴で、その言葉を聞いた赤也は成程と大きく頷いている。
そんな簡単な説明で納得できる程度には、音楽に関する知識があったのかと十夜は少しだけ驚いた。
とりあえずソレで間違っていないという意思表示に十夜は頷いて見せる。
「んじゃ一体何悩んでるんだ?」
「お前の思いつく内容が貧困すぎるぞ…」
カラリと笑う赤也にやれやれと呆れてみせる拓海はいつもながら本当によく呼吸を掴みあっているものだと感心してしまう。
聞けば幼馴染という関係らしく、仲が良いのも頷ける。
「悩み事は自分でどうにかするさ。それより5時間目、体育だろう?あんまりのんびりしていては遅れてしまうよ」
十夜はいつも通りの仮面を張り付けると、優等生の笑顔でそう言った。
始めは処世術として造り上げた穏やかで優しい少年の仮面は本来の自分とはかけ離れているのだが、彼此(かれこれ)10年近くにはなるかというこの仮面はすっかり定着してしまって自分でも滑稽だと思う。
「バレーボールか…。体育の授業など、体育科の学校だけでやればいいものを」
忌々しげに呟いたのはクールで知的な優等生の見た目に違わず運動は得意ではない祐一だった。
眼鏡の奥でキラリと光る切れ長の目は、如何に苦手な授業を楽に切り抜けるかの算段でもしているのかもしれない。
「いいじゃん、6月頭あたりに球技大会なんだし、頑張ろうぜ?」
見た目からして健康優良児で野生児の赤也は当然ながら体育は得意らしい。
1番得意なのは格闘技だと公言して(はばか)らないが、それでも3組4組の合同で行われる体育の授業の中では抜群の運動神経を誇っていた。
「自由参加みたいなものだろうが」
そう言って赤也の頭を掴んだ拓海も、赤也に負けないくらい運動神経は抜群だ。
実家が居合道場と聞いているが、割とどんなスポーツでもこなしているように見える。
十夜はまだクラスメイトたちの正確な学力は知らないが、拓海は間違いなく文武両道を地でいっていると見ていた。
「遅刻したら時任(ときとう)先生にグラウンド周回させられそうだ。悪いが片付けを頼んでいいか?俺は赤也と拓海と違って、グラウンド周回をした後にさらに授業に参加出来る体力がない」
情けない内容を堂々と言い放った祐一は、ビニールシートの上に纏められた荷物を指してそう言う。
確かにグラウンド周回はキツそうだと広い敷地面積を誇るグラウンドを思い浮かべて十夜は頷いた。
「片付けて机の上にでも置いておけばいいかい?」
「頼んだ。では悪いが俺は先に行く」
言うが早いか祐一は屋上から駆け出していく。
「…学校施設内は走らない」
走って行く祐一の背に向かって、瑞貴が聞こえるはずのない音量でそう言った。
忘れがちだがそういえば瑞貴は生徒会長だったなと去っていく祐一の姿を眺めながら思い出す。
「ぁー、じゃあオレたちも行くわ」
後よろしくと片手を上げて赤也がのんびりと歩き出した。
急いでいるようには見えないが、見た目よりも真面目な赤也のことだから遅刻はしないだろう。
その後を追いかけ、拓海も屋上を後にした。
屋上に残された十夜と瑞貴はどちらからともなく顔を見合わせると、手早く荷物を片付けて教室へと戻る。
戻ったところで教室には人影はない。
5限目は体育で、男子はグラウンド女子は体育館にそれぞれ向かったはずである。
チャイムが鳴るまでに着替えて集合しなければならないのだから、既に姿がないのは当然だろう。
「…というか、俺たちはせめて外で見学してないと怒られるんじゃないかな」
屋上から持って戻ってきた荷物をそれぞれの机に並べながら十夜はふと気になって瑞貴を振り返る。
そう言えば体育の授業において1度も見学しているところすら見かけていないが、一体ドコで何をしているのだろうか。
「そう?怒られたことないけど」
だから好きに過ごせばいいと言われて、十夜は軽く表情を引き攣らせる。
普通に考えたらそれは間違っているように思えてならない。
「じゃあ普段はどうしてるんだい…」
聞かなくてもたぶん予想の範疇なのだが。
「…寝てる」
十夜の予想通りの答えが返され、やっぱりなと十夜は微かに笑った。
「なんでその不真面目さで生徒会長なんだい君は」
本気で呆れた目を向ければ、暇そうに見えたんじゃないと言われてしまう。
1週間ほど前に中庭で起こった乱闘騒ぎを治めた時には、少しは見直したのだが、やはり瑞貴は真面目とは程遠い生徒に見える。
「この時間なら音楽室空いてると思うから、弾いて来たら?」
ふと思い出したようにそう言った瑞貴は、持ってきてるんでしょ?と意味ありげな微笑みを見せた。
確かに楽器は持ってきているが、自分よりも遅く教室に姿を見せた瑞貴が一体何故それを知っているのかと十夜は目を瞬かせる。
「生徒会室から昇降口見えるから」
続けられた言葉で十夜は成程と納得しかけたが、それはつまり十夜が登校してくるよりも早くに登校していたということに他ならない。
そんなに早く来て何をしているのだろうか、授業中は寝ているくせに。
「…勝手に音楽室を使って怒られないのかい?」
50分丸ごと好きなように過ごせるのは魅力的だ。
それが楽器に触れられるともなれば尚更魅力的なのだが、いくら使用していないからといって勝手に侵入してもいいのだろうか。
「それは問題ないよ。…弾くの?」
十夜の表情が変わったのを見て、瑞貴が首を傾げた。
「怒られないならそうさせてもらうさ」
そう応えると十夜はロッカーに向かい、バイオリンケースを引っ張り出す。
「…聞きに行っていい?」
瑞貴は後ろから覗きこむようにして十夜に問いかける。
控えめな言葉と共に向けられた瞳は、先月までのクラスメイトから向けられていた裏のあるものではなくて純粋な興味や好奇心。
自分の演奏を聞きたいという素直な様子に十夜は(くすぐ)ったさを覚えて視線を逸らした。
「君も何かを弾くという条件なら構わないよ」
わざと挑発的に言えば了解と笑みを含んだ声が返ってくる。
そのまま連れだって教室を出て音楽室に向かう。
音楽室の扉に手をかければ、鍵がかかっていた。
問うような視線を瑞貴に向ければ、学生証を取り出して勝手に開錠してしまう。
生徒会長の権限なのだろうか、恐らく不法侵入だが開錠した本人はまったく気にする様子の片鱗すら見せない。
「いいのかい…」
あっさりと音楽室の中に入って行く背中に問いかければ、いつものことだからとあっさり返された。
僅かに気おくれしてしまった十夜を置き去りに、瑞貴は勝手知ったるという様子で音楽室に足を踏み入れると、片っ端から窓を開けていく。
「どうして開けるんだ」
それでは勝手に音楽室に侵入して、あまつさえ演奏までしていることがバレてしまうではないかと十夜は完全に呆れてしまう。
「怒られないから大丈夫だよ」
窓を開け放ち、通り抜ける風に軽く目を細めた瑞貴は笑顔でそう太鼓判を押す。
万が一誰かに何かを言われたらその時には恨み言の1つや2つ言ってやろうと決めて、十夜は音楽室の中に進むと楽器を取り出した。
弦の調整もしなければならないし、今日は朝に弾いていないから松脂も塗らないといけない。
すぐに曲を弾くことは出来ないので、手早く準備を整える。
その様子を興味深そうに覗きこむ視線に気づいた十夜は、軽く顔を上げた。
「準備している間に、何でもいいから弾いてみてよ」
元々それを条件に同席を許可したという建前がある。
手元をずっと見られているのも気が散ってしまうし、何よりピアノの音を聴いたのは音楽の授業で伴奏を弾いたあの1回きりだ。
純粋にどの程度弾けるのかという興味があったので、十夜は手にしていた弓でピアノを指した。
「いいよ?」
瑞貴は軽く笑顔を浮かべてそう応えると、ピアノへと向かっていく。
誰かの前で弾くということを怖がらないという点は、評価してもいいと松脂を片手に十夜は小さく笑った。
さぁ、お手並み拝見といこうか、といった挑発的な気持ちで音が鳴るのを待つ。
不意に小さいながら澄んだ軽やかな音色が音楽室に響き渡る。
決して簡単な曲ではなく、どちらかと言えば難しい曲だ。
流れるような滑らかな旋律はとめどなく、細かく早く指を躍らせ続けなければ弾けない。
ラヴェルの水の戯れ。
ただ楽譜通りに音を鳴らしているような弾き方ではなく、自然に曲に合わせてきちんとアクセントがつけられている技術の高さには正直驚いた。
本当に水の流れを思い起こせそうでうっかり聞き入ってしまいそうだ。
同時に、予想通りに繊細で優雅な曲を弾くのだと妙に納得する。
1度も間違うことなく、難しいはずの曲を完全に暗譜しきって弾いているところから考えれば、それなりに小さい頃から弾き続けているのだろう。
プロのピアニストと比べては可哀相だとは思うが、ただの道楽ならば充分すぎる腕だった。
正直これ程弾けると思っていなかったが、これは思わぬ収穫になるかもしれない。
もしコンクールに出ていると言われても、なんとか納得出来る程度の技術があるのは確実だろう。
「…上手いね。俺の好みじゃないけれど」
演奏を終えて鍵盤から手を離した瑞貴に、十夜は笑みを含んだ声を向けた。
十夜が好むのは静かな曲ではなく、同じく技巧が必要な曲でももっと激しいものやひたすらに技巧を追い求めたもので、繊細というよりも自分の限界に挑戦するような曲だ。
ただ賞賛に値する技術だとは思ったので素直にそう言った。
「…佐伯くんの好み…?」
瑞貴は一瞬だけきょとんと首を傾げると、(おもむろ)に鍵盤に手を伸ばす。
弾けるかなぁという小さな呟きと共に鍵盤の上で指が跳ねる。
高音が鳴り響き、ほんの数小節だけで十夜にはその曲が何であるかがすぐに理解できた。
なんせこの曲の作曲者は、十夜が好き好んで練習を重ね毎日のように挫折感を味わっているあのパガニーニ。
パガニーニによる超絶技巧練習曲の第3番、ラ・カンパネルラ。
さすがに先ほど奏でていた曲ほど余裕があるわけではなさそうだが、それでも淀みなく弾く瑞貴を見て十夜は2重に驚いていた。
何故、自分の好みといえる種類の音楽がわかったのだろうか。
そして何故、そんな超絶技巧を必要とするような、要するにプロを目指す人間やプロが発表会やコンクールで演奏するような曲を弾いてしまえるのか。
一体何者なのだろう。
最後の1音まで弾ききると、瑞貴は鍵盤から指を放して十夜に視線を向けると仄かに微笑んだ。
「違った?」
驚きに固まったままの十夜に瑞貴が首を傾げて尋ねてくるが、微かな笑顔はその推測が違わないことを確信しているようにも見える。
「何故そう思った!」
思わず素になって十夜は勢いよく言い返してしまう。
確かに合っているが、一体何故だという気持ちが何よりも大きい。
「…そういう音だと思ったから」
そっと囁くような声で告げられ、十夜は驚きに目を瞠る。
「音、だと?」
口調や表情を取り繕うことも忘れ、睨むように相手を見た。
「真っ直ぐで情熱的な音。…今みたいに直情的なのがホントのキミでしょ?」
違う?と覗きこんでくる瑞貴の瞳は深くて、まるですべてを見透かされているような気になってしまう。
可笑しそうに小さく肩を震わせる様子にからかわれているような気になった。
けれど、指摘された内容に否定できる要素は何もない。
「なんでこっちが素だと思ったんだよ」
完全に取り繕うことを止め、十夜は舌打ちしながらそう問いかける。
「あんな存在を誇示するような音で弾いといて、性格が柔らかいわけないでしょ」
気付かない方がどうかしているとでも言いたげに、瑞貴はくすくすと笑いつづけていた。
奏でる音の色までわかるのかと驚くべきか、むしろ酷い言いぐさに殴るべきかと十夜は瑞貴を睨む。
「つまり貴様はわかっていて黙っていたというワケか」
それは相当性格が悪いんじゃないかという意味を込めて十夜は笑いつづけているクラスメイトに盛大にため息をついてみせる。
「学校に馴染んだら自然と変わると思ったんだけど、全然そういう素振り見せないから…」
「それで黙っていられなくなったって?」
笑いの余韻を残したまま告げられた言葉に、十夜はハッと吐き捨てた。
当たり前だろう、そもそも馴染むつもりなんて欠片もなかったのだから。
「赤也も拓海も祐一も、みんな仲良くしたいと思ってるよ?早く慣れて欲しくて、ちょっと構いすぎなところもあるけどね」
十夜の思考を読んだかのように続けられた言葉に、クラスメイトたちの姿が思い浮かんだ。
編入してきて半月ちょっとというか1か月弱というかとにかくそれだけの時間で、学園には慣れることが出来ている。
3年生からの編入だったというのに、疎外感を感じたことは1度もなかった。
それはいつだって煩いくらいに構ってくるクラスメイトたちがいたからで、最初は真剣に鬱陶しいと思っていた十夜もいつの間にか構われるのを当たり前に感じ始めている。
少なくとも、目立つと解っていながら一緒に小学生の遠足のような昼食風景を日常にしてしまったくらいには。
「貴様も仲良くしたいクチか?したいなら、理由も言ってみろ」
もし満足のいく答えが得られたら、少しくらいは認めてやってもいいかもしれない。
クラスメイトという不特定多数の有象無象というカテゴリではなくて、友人という分類だということを。
「仲良くしたいと思ってるよ。理由は、単純にキミのバイオリンの音が好きだから」
今までで見た中で1番綺麗な笑顔で、瑞貴はそう言った。
裏のない素直な笑顔と単純明快な理由は十夜にとって心地よく響く。
今までこんな単純に音が好きだと言われたことはない。
先生かライバルかそれに類する人間としか関わってこなかったせいだと解っているが、それでも嬉しいと感じる自分がいることが少し悔しい。
「じゃあ、賭けだ。俺が勝ったら友人は諦めて下僕にでもなるんだな」
フンと鼻を鳴らし挑戦的に言い放てば、相手は目を丸くした。
「内容は?」
軽く首を傾げて問いかけてくる相手に、十夜はニッと笑って見せる。
普段の取り繕ったニセモノの笑顔ではなく、素のままの挑発的で挑戦的な笑顔で相手を見つめた。
「俺が今から5曲弾くから、全部曲名を当ててみせろ」
全部当てられたら、友達にでも何でもなってやるさ。
俺の弾くバイオリンが好きというならソレくらい受けて立ってもらわなければ面白くない。
それに、友達になりたいと言うからには、それくらいのお遊びに付き合ってもらってもいいだろう。
「いいよ」
そう応じて笑顔を浮かべた瑞貴に満足すると、十夜はバイオリンを構えて弓を引く。
奏でられた音楽に、たった1人の聴者は心底楽しそうに耳を傾けていた。
本当に曲名を考えているのだろうかと途中で心配になるくらい、単純に曲を楽しんでいるだけに見える。
5曲弾ききった十夜に、パチパチと小さな拍手が送られた。
そして、賭けの結果は。
「―――」
つらつらと並べられた曲名は、まさしく十夜が弾いたものの通りで。
せっかく苦手な種類の曲まで混ぜたというのに、いとも簡単に答えられてしまった。
迷ったり考えたりする素振りすら見せないのが実に腹立たしい。
「わかった、俺の負けだ」
十夜は諸手を挙げ降参の意を示しながら、自分がどこか満たされた気持ちになっていることに気付いて驚く。
別に友人など欲した覚えはないのだが。
「どうせなら名前で呼んでみるといいんじゃない?みんな、驚くよ」
賭けに勝った相手はといえば、悪戯を思いついた子供のような目でそんなことを口にした。
それも悪くないのかもしれないとうっかり思ってしまった十夜は、口角を釣り上げて笑みの形に変えて見せる。
「調子に乗るな、小動物」
十夜が馬鹿にするような口調でそう突き放してみたところ、瑞貴はただ可笑しそうに笑うだけだった。
「時間的にあと1曲だな。リクエストがあれば弾いてやる」
十夜はニヤリと笑うと、さぁどんな曲が聴きたい?と目で問いかける。
「ヴォカリーズ…は可哀相だから、剣の舞で」
小さく考えるように視線を床に落とすと、瑞貴はそう言った。
言葉の通り十夜は後者の方を得意としてはいるが、曲の難易度としては後者の方が上だ。
十夜が前者を苦手としているのは、曲そのものの難易度などではなく、単に曲調の情緒面で性に合わないというだけである。
素人にそんな部分まで聞き分けられるとは思わないので、恐らく性格から勝手に判断したのだろう。
「普通、逆じゃないか?可哀相なのは」
そう指摘しながらも、十夜は再び楽器を構えた。
「キミああいうの弾く柄じゃないよ」
笑いながら言われたその言葉に今度こそ殴ってやろうかと思った十夜は、その感情に任せて勢いよく弓を滑らせる。
何から何まで指摘される通りなのが実に腹立たしい。
腹立たしいのに、何故だかとても心地よくて晴れやかだ。
曲の通りに踊りたくなるような気持ちのまま1曲弾ききれば、まるで見計らったかのようなタイミングでチャイムが鳴った。
5限目を終えて教室に戻ってきたクラスメイト改め友人たちに、素のままで話しかけて名前で呼んでみたところ、赤也には嬉しそうに破顔され拓海には満足そうに頷かれついでに祐一には少し照れられたのでコレはコレで有りだとほくそ笑む。
しかし同じように瑞貴も名前で呼んでみたところあっさりと何、十夜と振り返られて、何となくムカついたので思わずノートで叩いてしまった。
他の友人たちのように少しくらい素直な反応を返せよと思ったところで、チャイムが鳴って席に戻ったが、やり取りを反芻して名前で呼ばれた自分の方がうっかり照れてしまったことは墓の中まで持って行く秘密にしようと密かに誓う。
急に十夜の態度が変わったことを訝しむことなく自然に受け入れてしまった友人たちに、十夜は今までに感じたことのない不思議な心境になっていた。
取り繕わない素のままの自分でいられるというのは、存外心地よいことなのかもしれない。
もしかすると、この学校で過ごす時間が、本当に自分の音楽を広げてくれる可能性があるのだろうかと十夜は編入してからおよそ1か月経過してようやく志貴ヶ丘学園高等部の一員になったのだった。
そして放課後、ようやく意を決した十夜は入部する部活動を決めると職員室に向かう。
「それじゃ、部活動の入部届です。よろしくお願いします」
担任の広瀬を呼び出し、十夜は入部届を手渡した。
「あら、吹奏楽部にしたのね?わかったわ、話は通しておくわね」
十夜から手渡された入部届を確認し、広瀬は朗らかに笑う。
「よろしくお願いします」
それだけ言うと、十夜はくるりと踵を返す。
曜日からすれば、今日は活動日ではないはずだ。
「それじゃ、ゴールデンウィークが開けたら部活動に参加してもらうように顧問に言っておくわね」
背後から広瀬の明るい声が追いかけてきて、十夜は1度振り返って頷いてみせた。


そして月が移り変わってゴールデンウィーク明けの5月始め、水曜日。
時刻は午前8時40分になろうかという時間、十夜は学園の最寄り駅から1つ先にある大司(おおつかさ)という駅にいた。
大司駅は普段電車通学をしてくる生徒たちが利用している学園最寄り駅を含む私鉄の駅とJRの駅が連絡しているそこそこ大きな駅だ。
何故本来学校がある時間に制服でこんな場所に立っているのかと言えば、当然ながら学校行事の一環だからである。
因みに、いい加減支持勢力を決めろと迫られた十夜は、迷った末に【正義の味方部】を支持することを表明したので十夜のブレザーは臙脂色に変わっていた。
本音を言えばどちらを支持しても良かったのだが、ふと思う事があったのだ。
どうして【正義の味方部】を支持することにしたのかと友人に聞かれた時、十夜は【世界征服部】の【杜若】に翻弄される【ジャスティスレッド】と【ジャスティスブラック】に何となく共感を覚えたからだと説明した。
最初に出会った時に1曲要求された挙句、不十分な説明で去って行った少女に隔意があるわけではない。
未だ学園内ですれ違ったことはないが、あれだけ人目を惹く美少女なら見落とすこともないだろうし、今度遭遇すればリクエスト通り威風堂々でも弾いてやってもいいとすら思っている。
けれど彼女にとってただのシンパに成り下がってしまうことに、何となく抵抗を感じた。
彼女にとっての不特定多数に成り下がることが嫌というのも、もしかすると【正義の味方部】を支持することを選ぶ間接的な原因になったのかもしれない。
それはさて置き、この学校は本当に進学校なのだろうかという疑問が今日も浮かんだ。
「大丈夫なのか…うちの学校」
十夜は制服のポケットから懐中時計を取り出し時間を確認する。
利き手である右手に腕時計をつけると邪魔だし、だからと言って左手に付けると演奏の時に外すのが面倒くさいという理由で十夜は常に懐中時計を持ち歩いていた。
「大丈夫って、どうかしたのか?」
不意に背後から掛けられた声に驚いて振り返れば、いつもと変わらぬ制服姿の祐一が立っている。
「…脅かすな」
既に素で話すことに抵抗がなくなってしまった十夜は、気配もさせずに背後から声をかけてきた友人を睨み付けた。
「脅かしたつもりはないが、性分でな。それで、うちの学校がどうかしたのか?」
飄々とした態度で肩を竦めると、祐一は先ほどの十夜の呟きの意図を問う。
「テストまで残り2週間くらいだろ?なのに暢気に校外学習?」
ふざけてるんじゃないのかと問いかければ、祐一はふむと口元に拳を当て考える素振りを見せる。
「だいたい校外学習って要するに遠足だろ?なんで私服じゃないんだ?」
納得のいかない部分を挙げればキリがなくなりそうだが、十夜は自分の服装、要するに臙脂色のブレザー姿を指した。
「正確には今日は校外学習ではないからな。遠足モドキは明日だ」
祐一からもたらされたその答えに十夜は目を剥く。
「何だとっ!?つまりソレはアレか?今日も授業がないのに明日もないというコトか!?」
ますますどうなっているんだ、この名前だけのエセ進学校は。
十夜は人の往来がある駅前だということも忘れ大声で食って掛かる。
「おっす!何朝からエキサイトしてんだよ、十夜」
「何か驚くことでもあったのか?」
そこへいつものように仲良く現れたのは赤也と拓海のセットだ。
私鉄の改札口の方から爽やかな雰囲気で歩いて来た2人に、十夜は2日連続授業がないとはどういうことだと食って掛かる矛先を変える。
「え?うちの学校、割とイベント多いぞ?」
知らなかったのかと赤也は軽い調子で笑う。
「おい…ソレだと大半の生徒はテストで泣きを見るんじゃないのか!?」
というか普段の授業にもちゃんとついていけてるのか不安な友人がいないでもない。
十夜はますますヒートアップし、自分に関係ないはずの他者のためにもキレていた。
「十夜は優しいな。ついてこれない奴はソレまでってことだろ?まぁ、うちの学校は割と詰め込み型だからな」
仕方ないと拓海はバッサリと切り捨てる。
割り切らなければやってられないというのが本音なのかもしれないし、学校の風潮なのかもしれない。
「十夜、心配する程、勉強苦手じゃないだろ?」
何をそんなに気にしているんだとでも言いたげに赤也が首を傾げる。
「俺のコトじゃないっ!いるだろ、他に!明らかに勉強出来無さそうな奴が!」
そもそも問いかけて来た赤也だって決して勉強が得意そうに見えない。
それも込めて十夜は赤也に思い切り言い返す。
十夜が記憶する限り、少なくともいつもつるんでいるメンバーの1人は1度もまともに授業を受けていないというのに、誰も助けようとしないのだろうか。
いや、そんなことをしている余裕がないのかと一瞬考えたが、少なくとも祐一なら勉強に関してはそこそこ余裕がありそうに見えるし面倒見もよく見えるのだが。
「…あれ、みんな早いね」
そこへ、何故か駅とは全く別の方向から瑞貴がやってきた。
寮で暮らしているはずなので本来なら十夜と同じ、駅まで徒歩か私鉄で1駅という場所から来ているハズなのに、明らかに逆の方向から歩いてくる。
「オマエが遅いんだって。待ち合わせの時間まであと2分だろ」
ポケットから携帯を取り出して時間を確認した赤也が瑞貴に画面を向けた。
「過ぎてないんだからいいでしょ」
瑞貴は苦笑しながら自分の腕時計をチラリと確認する。
今更ながら気付いたが、珍しいことに腕時計が嵌っているのは右手だった。
確か利き手は右だったはずなので、何かしら理由があるのだろう。
「全校集会でも同じことを言えるか?生徒会長」
からかうような口調で祐一が言えば、それは5分前行動必須と笑顔で返される。
公私を分けていると言えば聞こえはいいが、未だかつてこんな適当な生徒会長がいただろうかと十夜は呆れた。
「これで揃ったな。それじゃ、現地集合なわけだから急いで向かうか」
場所は調べてないけどなと拓海は事も無げに言いきる。
「場所くらい調べてこいよ!」
十夜は呆れを通り越して最早軽い怒りに近い心境で吠えた。
いくら友人と連れだって向かうからと言って場所を調べてこないというのはどういうことか。
万が一逸れたらどうするつもりだ。
「安心しろ、俺も調べていない」
そこへ、祐一からも追い打ちというか援護射撃というか無責任なひと言が放たれる。
「あ、オレもオレも」
さらに便乗したように赤也が面白そうに手をあげた。
「貴様ら、何を考えているんだっ!!」
コイツら馬鹿だと十夜は血管が切れるかというくらいの大声で怒鳴る。
場所が場所なら、全員そこに正座しろと言ったかもしれない。
「十夜、大丈夫だよ。携帯にGPSあるから」
調べなくてもなんとかなると瑞貴までがそんなことを言いだした。
「貴様も調べてないとか言わないだろうな」
瑞貴を睨み付け、十夜は脅すように迫る。
「調べてないよ?」
十夜から向けられる圧力を気にした様子も見せず、瑞貴は不思議そうに首を傾げた。
「おいっ!貴様もか!」
揃いも揃ってふざけていると十夜が怒鳴るが、友人たちは悪びれた様子も見せずどこか楽しそうにしているだけだ。
土地勘のない自分しか調べていないのかと十夜は深く溜息をついた。
「じゃあ、さっさと行くぞ」
迷って遅刻でもしたら笑い種だし目も当てられない。
憤然と歩き出した十夜に、友人たちが軽く顔を見合わせている。
「大丈夫だよ。場所なら知ってるから」
大股で歩いて行く十夜を追いかけ、瑞貴があっさりとそう言った。
「…何?…貴様、調べてないと言わなかったか!?」
ピタリと足を止め、十夜は柔らかい笑顔を浮かべた友人を思いっきり睨み付ける。
「言ったよ?調べるまでもなく知ってたから、調べてないって」
見た目だけならば可愛らしいに分類される笑顔で瑞貴はさらりとそう口にした。
ただの天然発言に思えるが、単純に十夜の反応を楽しんでいるだけだとそう長くもない付き合いで学習済だ。
それだけで十夜の怒りゲージは臨界点に限りなく近づく。
「オレは瑞貴が知ってるのを知ってたし」
「俺もソレを知ってたというワケだ」
「以下同文」
十夜の精神に追い打ちをかけるように、悪戯っぽい笑顔を浮かべて赤也が言えば、ニヤリと笑った拓海とわざと表情と消し去った祐一が追従した。
ここでようやくからかわれたのだと気付く。
「なっ!貴様らっ!」
一気にゲージが臨界点を突破するが、楽しそうに笑う友人たちに妙に毒気を抜かれてしまった。
「本気で土地勘のない十夜を道案内にするワケないじゃん?」
思わず殴り掛かろうとした十夜をあっさり躱し、赤也が楽しそうに笑う。
「電車に乗り遅れると流石にシャレにならないぞ」
拓海がそう言いながら何事もなかったかのようにJRの改札口の方へ向かっていった。
その手にはパスケースが握られている。
「切符を買うならば540円だ」
祐一も手にパスケースのようなものを持ちながら、それでも切符を買う人間のために値段を口にした。
ふざけてさえいなければ、基本的に面倒見はいいのだ。
「十夜は切符か?」
やはりパスケースを取り出した赤也が財布を取り出そうとした十夜を見て問いかけてくる。
バイオリンのレッスンを遠方で受ける時しか電車は使わないし今は寮なので電車通学も必要のない十夜は、当然ながらICカードは持っていなかった。
そうだと頷けば、納得したように頷かれる。
大人しく切符を購入すると、十夜は友人たちに少し遅れて改札を潜った。
十夜は自分と同じ寮生活をしている瑞貴までICカードを持っていたことに少しだけ驚く。
一体、いつ使う用事があるのだろうか。
目的地へ向かう電車を待つこと5分、快速電車に乗り込めば、通勤通学ラッシュを終えた電車内は割と閑散としていた。
「なぁ、今日って一体、何しに行くんだ?」
電車に揺られながら、赤也が不思議そうに首を傾げる。
4人掛けの向かい合ったボックス席2つに3人と2人で別れて座るという、電車内に殆ど人が居ないからこそ出来る状況は少しだけ遠出を楽しい気持ちにしてくれた。
「そんなの決まってるだろ!…いや、そういえば何も聞かされていないな」
赤也に説明しようとして、そういえば現地集合の場所と時間以外何も聞かされていないことを十夜は思い出す。
「場所はハルシネーションホールとかいう名前だったと思うが」
ホールの名前を口にし、祐一も首を傾げる。
何一つ情報が与えられていないのに現地集合時間厳守とは、うちの高校もどうかしていると口の端だけで小さく笑った。
「ネットで調べたら、同じ名前のホールがいくつかあったな。北海道とか沖縄とか」
恐らくあまり関係ないだろう情報ではあるが、拓海がついでとばかりにそう付け加える。
「ソコに俺たちを集めて一体何があるって言うんだ?」
十夜はさっぱり予想がつかず、首を傾げた。
ホールの名前は初めて聞くもので、それが劇場ホールなのか音楽ホールなのかそもそもただの体育館に毛が生えた程度のものなのかすらわからない。
「…行ってからのお楽しみじゃダメなの?」
窓の外をぼんやりと眺めていた瑞貴だったが、友人たちが悩んでいるのを見て不思議そうな目を向ける。
「気にならんのか?」
祐一が問いかければ、瑞貴は別にと気のない様子を見せた。
「いきなり、今日は皆さんに殺し合いをしてもらいますという漫画みたいな展開になったらどうしようとか考えたら気になるだろ?」
どう考えたらその発想に行きつくのかさっぱり不明だが、拓海の言葉に祐一と赤也が小さく吹き出す。
「その発想はなかったがな」
十夜は呆れたような目を拓海に向けるが、それはそれで面白いと思わないか?と目で問われた。
「そうなったら赤也と拓海は強そうだよね」
ますますどうでもよさそうに瑞貴がポツリと呟く。
「そういう話じゃない!」
今日の突発的学校行事の話だと十夜はズレたところに反応を示した友人に呆れた目を向けた。
「なぁ、瑞貴、そのホールってどんな場所なんだ?知ってるんだろ?」
赤也がそう問いかければ、瑞貴は何故か驚いたように目を瞬かせると小さく笑みを零す。
「じゃあ、ヒントだけね。ホールの名前hallucination、日本語に直すと?」
「…ハルシネーションの日本語訳~?」
問いを向けられた赤也は考え込むように首を捻って腕を組む。
どうやらすぐに日本語訳は出てこないらしい。
「幻想だ」
代わりに横から祐一が解答を口にした。
「あぁ!」
ソレで合点がいったとばかりに赤也がポンと手を打つ。
「ってことは、フェアリーテールの本拠地か!」
赤也の明るい声に、今度は十夜が驚いて目を丸くする番だった。
「フェアリーテール!?」
ソレは正式名称が不明のアマチュアながらプロ顔負けどころか下手なプロよりよっぽどすごいと言われている楽団の通称ではないだろうか。
正体不明、団員の素性はおろか構成すら明記されていないというところからついた呼び名が幻想交響楽団。
演奏会を大々的に告知することもなくゲリラ公演的なものが多い上に、公式サイトにすら詳細を一切書かないことで有名であり、当然ながら写真は1枚も載っていない徹底ぶりだ。
強いて有力な情報といえば、アルス・ノトリアというテーマパークでゲリラ公演を行っていることや、大型連休である夏休み、冬休みには各地の関連ホールで演奏会を開いているという程度しかない。
「十夜、フェアリーテールを知ってるのか?」
僅かに意外そうに目を瞠ると、拓海は十夜を見て軽く口角を上げる。
「それがあの幻想交響楽団のことを指しているなら、名前とウワサだけな」
重々しく頷いて見せれば、ヒュウと軽く口笛の音で賞賛された。
「マイナーなハズなのに、よく知ってんな」
感心したような赤也の声に、それはむしろ自分の台詞だと十夜は言い返す。
「クラシックに携わっている俺が知っているのは当然だが、むしろ貴様らが知っていたコトの方が驚きだ。俺たちの業界では一目以上置かれている」
声に憧れが滲んでしまうのは仕方ないことだろう。
それに口コミの域は出ないが、音楽関係者の間ではかなり有名な楽団だ。
マイナーという評価は、あくまで音楽に携わらない一般人の感想でしかない。
「そんなに凄い楽団なのか?」
十夜の口ぶりに思うところがあったのか、祐一が不思議そうに問いかける。
「凄いなんてレベルじゃない!チャリティー用でしかCDも出していないみたいだから、あんまり知られていないかもしれないが、あの演奏は1度は聞くべきだ!」
まるで我が事のように十夜は力説してしまう。
だってそうだろう、ここだけの話だが偶然入手出来たその楽団のCDを毎晩聴きながら眠るくらいにはその音楽に魅了されているのだから。
「そうだったか…」
十夜の力の入りように少しだけ表情を引き攣らせると祐一は落ち着けとばかりに両手を軽く掲げて宥めるような仕草をした。
「貴様らも知っていたとは驚きだ…」
明らかに楽団を知っている口ぶりだった赤也と拓海を見て、十夜は同好の士を見つけた気持ちでふっと笑みを浮かべる。
音楽なんててんで分からないように見えるのに、その楽団を知っているとは心底驚きだ。
「ぁー…偶然、ナマで聞く機会あったからなぁ」
乾いた笑みを浮かべ、赤也が事情を暴露した。
何やらしきりにそんなにすごいのかぁとしみじみ呟いているのは、そうと知らずに演奏を聴いたということなのだろう。
生演奏なんて、なんて羨ましいと十夜は真剣に思った。
「…話逸れてるけど、いいの?」
全く興味がないのか、瑞貴が窓の外に視線を向けたまま問いを口にする。
あれだけピアノを弾けるくらい音楽に精通しているというのに、興味がないのが勿体ない気がしないでもないがソコは個人の自由だと十夜は己を納得させた。
「そうだった。その楽団の本拠地ということは、音楽ホールだな」
十夜はわざとらしく咳払いを1つすると、話を元に戻す。
「本拠地といっても、流石に幻想交響楽団が何かするというのは考えにくい…」
関係者と特殊なコネでもない限り、あの楽団の演奏会を前もって把握するのは無理だと十夜は首を捻る。
「何が起こるんだろうなぁ…」
本気でバトルロワイヤルが開始されたりはしないと思うがと拓海が暢気に呟いた。
「いい加減その発想から離れたらどうだ」
それにツッコミを入れながら、祐一もさて一体何が起こるのやらと思案げな顔になる。
「…そんなに前もって知りたいもの?」
着いたら嫌でも分かるだろうにと瑞貴は考え込む友人たちを見て、完全に呆れているようだ。
「オマエのその余裕が憎いぞ、オレは」
何処までも無関心を貫く瑞貴に、ついに赤也がそう言った。
含みのある言い方に聞こえるのは十夜の気のせいだろうか。
しばらく窓の外を眺めて無視を決め込んでいた瑞貴だったが、やがて諦めたように友人たちを振り返る。
「…そのホールでドイツから来日中の管弦楽団の公演。明日がゲネプロ」
ホールのホームページを見れば書いてあると瑞貴はつまらなさそうに呟いた。
その言葉に十夜はポケットから携帯を取り出してホームページを開く。
ホールの名前を打ち込み、公演予定一覧を表示させれば確かに明日が初演のようだ。
因みに演目は何故か書かれていない。
いやしかし、ソレは今日関係ないのではという思考が脳裏をよぎる。
「もう後は着いたらわかるって…」
瑞貴は再びそう言うと視線を窓の外へ戻してしまった。
本当に欠片も興味がないように見える。
結局そこで会話が途切れ、目的の駅に着くまで無言であった。
駅に着いて電車を降りれば、デパートなども併設された巨大な駅の構内にこれは逸れたらアウトだなと小さく呻く。
場所を把握しているという瑞貴について改札を抜け、地下道を歩く。
完全に迷宮となっている地下道は、たぶん1度迷子になったら出られないような気がする。
そんな地下の道を延々歩くこと15分、途中で地下鉄の駅を素通りしていったので、もしやどこかで乗り換えていたら明らかに迷わない程度の地下街に出られたのではないかと思わなくもない。
そんな地下街を通り抜け、ようやく地上に出るとソコは一見ただのオフィス街。
本当にこんな場所に音楽ホールが存在するのかと思いながら大きな横断歩道を歩き、着いた先は本当に大きなガラス張りの高いエントランスが存在する建物で、見間違う余地のないオフィスビルなのだが何故かビルの中には見覚えのある制服がちらほらと見えた。
ビルの前の開けた場所に立つ看板代わりのモニュメントに視線を向ければ、ソコにはハルシネーションホールという名称が書かれている。
背の高い扇型に近いビルを見上げ、十夜は感心したように溜息をついた。
「着いたよ?」
先導していた瑞貴は1度軽く振り返ってそう言うと、そのままスタスタとオフィスビルの中へ入って行く。
オフィスビルに入ることに何の抵抗もないのかという驚きよりも少しは気にしろという気持ちで十夜はその後を追った。
現地集合を言い渡された時間まで、あと60分近くある。
「あら、思ったより早く来る生徒が多いわねぇ」
朗らかな声に少しだけ困惑を乗せて、エントランスにいた広瀬が十夜たちに近づいてきた。
広瀬の姿を認めると、5人はそれぞれにおはようございますと朝の定型文を口にする。
「はい、おはよう。あなたたち、時間までどこかで時間を潰してらっしゃい。さすがにここを生徒で埋め尽くすわけにはいかないでしょ?」
そう言われて否はなく、頷きを返した生徒たちを見て広瀬は安心したように他の生徒の方へ向かっていった。
恐らく同じことを話すのだろう。
「とはいったものの、ドコで時間を潰したらいいんだ」
初めて訪れる場所に、十夜は困ったと腕を組む。
「カフェでいい?」
エントランスから出ればいいだろうと瑞貴がくるりと友人たちを振り返る。
頷きを返せば、エントランスから外に出るのではなく正面のエレベーターホールとは別に見えづらい位置にあるエレベーターへと向かっていった。
エレベーターに乗り込むと、迷うことなく最上階を押す。
エレベーターの扉が開けば、そこは展望のために広くガラス張りにされたカフェというよりもお洒落なレストランという雰囲気の店が広がっている。
明らかに高校生には場違いな場所なのだが、奥から姿を見せたバーテンダーのような衣装のウェイターは制服姿の高校生を目にしても動じることなく席へ案内してくれた。
少しくらい騒いでもいいという意図なのか、通された席は奥のやたら眺めのいい個室。
深くゆったりとした革張りのソファに一点の曇りのないガラステーブル、壁には高価そうな絵画まで掛けられていて、妙に居心地が悪い。
ウェイターが置いて行ってくれたのは、気を利かせてドリンクメニューだけだ。
結局それぞれ適当にドリンクだけをオーダーし、時間まで談笑に興じるといういつもと変わらない光景で時間を潰し、集合時間10分前に店を後にした。
エントランスに戻れば集合時間間近なので生徒で溢れかえっているのかという予想とは裏腹に人影があまりない。
いつの間にか置かれた案内用の看板には、志貴ヶ丘学園の生徒の皆さんは奥のエスカレーターで2階に向かってくださいと書かれている。
案内に従って2階に辿り着くと、そこはどう見てもホールのエントランスで奥にはホワイエも見える。
まだ開場時間ではないのか、多くの生徒の姿がエントランスに群がっていた。
確かにビルのエントランスで群がるよりもホールのエントランスの方がオフィスビルを使用している企業の関係者に迷惑がかからないので理に適ってはいるが、かなりの人ごみに十夜は苦笑する。
絨毯張りのエントランスに降り立つと、奥から劇場の従業員と思われる初老の男性が出て来たのが見えた。
燕尾服に身を包むその男性はまるで洗練された執事のようだ。
「ようこそ当ホールへお越しくださいました。まもなく開場時間となりますので、もうしばらくお待ちください」
外見の通り穏やかな声音でそう告げると、執事風の男性は再び奥へと消えていく。
「座席は自由だけど、出席確認のために各担任のところでチェックしてもらってちょうだいね」
広瀬の朗らかな声が響く。
音響効果の高い場所のせいか、彼女の声はエントランス中に広がった。
出席の報告を終え、開場待つこと数分。
開場の案内がなされると、十夜たちはホワイエを横切ってホールの客席へと向かう。
ホールはビルの中だということを忘れさせるくらいに大きくしっかりした造りだった。
天上にはシャンデリアが煌めき、重厚な雰囲気を醸し出している。
どこでも自由にということだったので、舞台の上がよく見え、かつ全方向から反響してきた音が聞こえるような場所を選ぶ。
十夜がホールを歩くと、当然のように友人たちはついてきた。
追い払う必要もないので、5人は仲良く横並びに座る。
舞台の上には椅子、指揮台、ティンパニやコントラバスなどの大型の楽器が並んでいるので間違いなくオーケストラだと理解できる。
小規模なものではなく、きちんとした交響楽団の様相だ。
思い思いに席に着いた生徒たちから洩らされる騒めきは普段の喧騒と比べかなり小さなものばかりで、ホール全体から醸し出される重厚な雰囲気に飲まれたのだろう。
まさか学校行事でいきなり集合させられた場所でオーケストラに出会えるとは思ってもみなかった十夜は心が躍るのを感じていた。
一体どんな楽団がどんな曲を奏でてくれるのだろうか。
「…結局、何が始まるんだ?」
小さく洩らされた赤也の呟きは、開幕を告げるベルに掻き消される。
客席の照明が落とされ、典型的な携帯電話の電源はお切りくださいというようなアナウンスが流れ出す。
そのアナウンスに合わせて慌てて携帯電話の電源をオフにする生徒たちの姿がいたるところで散見された。
いつの間にか教師陣も客席に収まっている。
志貴ヶ丘学園高等部関係者が見守る中、楽器を手にした正装姿のメンバーが舞台の上にぞろぞろと現れた。
彼らはそれぞれ決められた場所に座り、演奏する瞬間を待っている。
静謐な佇まいと言えばいいのか、静かながらも濃密な存在感と重い空気を感じさせた。
肌を掠める緊張感に、客席内は完全な無音に包まれる。
舞台の上がパッと明るく照らされると、舞台の下手から指揮者らしき老獪な雰囲気の白髪の男性が現れた。
そしてその後に続いて出て来たのは、貴公子然とした青年だ。
その青年は楽団員や指揮者とは違い、ごく普通のスーツ姿をしている。
青年は指揮者と笑顔で握手を交わすと、手にしていたマイクを持ち上げた。
「ようこそ、志貴ヶ丘学園の皆さん」
柔らかく耳に心地よいテノールがホールに響き渡る。
「明日からこのホールで公演をされる楽団の皆さんから、今回は一風変わった依頼を受けました」
いきなり話し出した青年の言葉に耳を傾けながら、十夜は妙に舞台慣れした青年だという感想を抱く。
どこまでも堂々とした立ち居振る舞いと聴衆を意識した話し方は、彼が人前に出るコトに慣れている人種なのだと物語っている。
「その依頼というのが、本公演の前に日本人の反応を確かめてみたいというものでね。さすがに私もどうしようかと思ったんだが、それならば詳細は伏せて一般人に聴いてもらうのが1番だと思ったんだよ。そこで浅からぬ縁のある小笠原(おがさわら)理事長に頼んで、内容を教えないまま生徒諸君を招待させてもらったというわけだ」
青年は軽く芝居がかった様子でおどけてみせると、ぐるりと客席全体を見渡した。
「とても素敵な演奏だから、ぜひ楽しんでいって欲しいね。あぁ、それと、あまりにも素敵な演奏だからと言って途中で席を立ったりしないでおくれよ?」
最後にそう言って、青年は優雅に腰を折る。
マイクを下ろすと、指揮者の男性と少しだけ言葉を交わして舞台袖へと引っ込んでいった。
指揮者は1度客席を振り返ると、指揮台の上に上がってタクトを手に取る。
彼の一挙一動に合わせ、息を飲むような雰囲気がホール全体を包み込んだ。
最高潮に高まった緊張感の中、指揮者が勢いよくタクトを振り上げる。
途端、完全に呼吸の揃った演奏が始まった。
本当に芸術性の高い、洗練された演奏。
十夜が目を向けるのは、当然ながらバイオリンの集団。
中でも特に目が離せないのは第1バイオリンの首席、指揮者のすぐ目の前下手側に座る壮年の男性の動きだ。
一切の無駄のない洗練され尽くした力みのないボウイングに見惚れながら、絶え間なく流れ続ける音の奔流に飲まれていく。
演奏が佳境に差し掛かってきたからなのか、指揮者が不意にタクトを持っていない方の手でネクタイを緩めたのが見えた。
それくらい演奏が白熱しているということだろう。
そろそろ演奏は20分に達そうというところ。
大音量の音楽に包まれるという独特の熱気と熱狂、それに緊迫感に陶酔しながら演奏に耳を傾け続けた。
ふと、指揮者がいきなりタクトを下ろしたかと思えばぐっと譜面台を掴む。
何事かと思ったが、演奏は途切れない。
次の瞬間、客席内が騒然となった。
衆目の見守る中、いきなり指揮者の男性の身体が傾いたかと思えば、譜面台をも巻き込んで舞台の上に倒れ伏したのだ。
「なっ…!?」
十夜は思わず声を上げ、腰を浮かせた。
いや、十夜だけではない。
少なくとも十夜の隣に座っていた赤也も驚いたように腰を浮かしていたし、その向こうで拓海が息を詰めるようにしていたのも伝わってきた。
プロ根性なのか、指揮者が倒れても彼らは演奏を止めない。
それどころか代わりとばかりに立ち上がったコンサートマスターが指揮を引き継いだ。
舞台の袖から現れた、恐らく楽団のスタッフと思われる人影が指揮者を担架に乗せて運んでいく。
そのまま演奏は5分ほど続き、代理指揮者となったコンサートマスターが手を降ろし、奏者たちが楽器を降ろす。
コンサートマスターが客席を振り返り優雅な一礼をすれば、戸惑ったように客席から拍手が上がり、徐々に大きな大喝采へと変わって行った。
舞台の上から楽団員たちが去り、客席が明るくなると同時に騒々しいほどの喧騒に包まれる。
機会的にただいまより20分間の休憩とさせていただきますというアナウンスが響いた。
「休憩って…中止だろ!?」
「ていうか、明日からの公演どうなるんだ?」
客席のいたるところから生徒たちの声が反響して十夜の耳に届く。
「おい、今の…」
祐一がまさに顔面蒼白といった様子で呻いたのが見える。
「まさかこんなことになるとは…」
そう言った拓海の声は悲痛な響きを持っていた。
「なぁ、やっぱ、こういう場合って、明日から中止になったりすんの?」
不安な様子を隠しもせずに、赤也が友人たちに視線を向けている。
「…指揮者が不在でも、コンサートマスターが代理を務めることがあったりもするが…」
十夜は赤也の問いに反射的に応えながらも、同じように気が気でない心境で茫然と人気のなくなった舞台を見つめた。
指揮者の男性は、大丈夫なのだろうか。
気丈にも指揮者不在となった中、最後まで演奏を続けた楽団員たちには心からの尊敬と、同時に同情を向ける。
「そういや…オレらどうしたらいいんだろう…」
明らかに中止になるはずの状況なのに、未だ何の指示ももらえないことに赤也が不安そうに呟いた。
恐らく舞台の裏側ではそれどころではなく、観客の生徒たちのことを考える余裕すらないのだろうと十夜はいたたまれない気持ちになる。
「どうって…普通に20分の休憩でしょ?」
一体何を騒いでいるのかと不思議そうな様子で首を傾げてみせたのは瑞貴だった。
舞台の上であんなことがあったのに、全く動じている様子も案じている様子もない。
その瞬間、十夜の中で何かがブチっと音を立てて切れたような気がした。
「貴様、何故アレを見て何も感じないんだっ!」
血の色は何色だと言いたくなるような感情をギリギリのところで抑え、十夜は周囲の迷惑にならない程度の声で怒鳴りつける。
「何かあれば指示があるでしょ?ないんだから、僕たちに出来るコトは大人しく待つだけだよ」
小さく嘆息すると瑞貴は会話に聞き耳を立てている周囲にまで聞こえるようにはっきりした口調でそう言った。
声音は穏やかで、まるでそうすることが当然だと諭しているようにも聞こえる。
理性的に考えれば確かに瑞貴の言っていることは正しい。
だが、そこには本来持ち合わせるべき感情が欠如しているような冷たく突き放すような印象を受けた。
会話が聞こえていた周囲は、しかしそれで少しだけ落ち着きを取り戻したらしい。
どこかほっとしたような空気が流れ出したのを感じて、落ち着いていられる人が1人でもいることの偉大さを少しだけ噛みしめる。
それでも客席全体を包む空気は相変わらず暗くて重い。
その様子を見て、瑞貴は再び小さく嘆息すると仕方ないといった表情を浮かべた。
「そんなに気になるなら、ホール関係者に聴いてこようか?」
事も無げに言われた言葉に、十夜は慌てて首を左右に振って止めた。
「逆に迷惑だろうが!」
状況は混乱しているかもしれないというのに、高校生にいちいち確認に来られたらホール関係者は大変だ。
そんなこともわからないのかというように睨み付ければ、瑞貴は小さく笑う。
「だから大人しく待ってるしかないんだってば」
わかった?と念を押すように言われれば、もはや十夜も大人しく椅子に座り直すしか出来なかった。
言っていることは確かに間違っていないが、こうも冷静すぎると逆に腹が立つ。
そんなことを考えながら深く椅子に沈む込むこと10分程。
再び機械的にまもなく開演時間ですというアナウンスが流れた。
そのアナウンスに、戸惑う様子を隠せないまま生徒たちが席に戻っていく。
しばらくして再び上演を知らせるブザーが鳴り響き、客席の証明が落とされた。
舞台の上には楽団員が姿を見せる。
間違いなく先ほどのメンバーだ。
十夜はこの状況で後半も演奏をするのかという驚きに目を瞬かせ、プロの意地に感動すら覚えて舞台が整えられていくのを見守っていた。
明るい照明に舞台が浮かび上がり、コンサートマスターが立ち上がる。
あぁ彼がこのまま指揮者代理を務めるのかと思った次の瞬間、舞台の下手から白髪の男性が現れた。
間違いなく先ほど舞台上で仰向けに倒れたはずの指揮者の彼だ。
先ほどの出来事が夢か何かだったかのように元気そうな軽やかな足取りで舞台中央の指揮台のところまでやってくると、コンサートマスターと指揮者はしっかりと握手を交わした。
元気な様子に驚いて安堵した十夜だったが、まさかという疑念が脳裏をよぎる。
倒れた直後の割には彼の足取りはしっかりしすぎているし、そもそも本公演ならともかく今日は言ってみればただのリハーサルのようなものなのに、再びタクトを振る必要性もないのではないかという疑問は、もしかしてただの演出だったのではという可能性を生んだ。
しかしそんな疑念も何もかもが演奏を聴いている間に薄れてどうでも良くなってしまう。
心が洗われるというか、本当に質の高い音楽というのは心の栄養剤みたいなものだと感じる。
高らかに鳴るティンパニの跳ねる音が心地よく響き、軽快なテンポはまるで踊っているような軽やかなステップを連想させた。
演奏も佳境に差し掛かり、クライマックスはティンパニの独壇場。
存在感を誇示するように響く音が極限まで高まり、最後、奏者が大きく振りかぶった。
そして。
頭から真っ直ぐ、ティンパニに突っ込む。
鼓面を突き破り、文字通りティンパニに刺さったところで演奏が止んだ。
それが予定調和であったかのように指揮者はタクトを降ろすと、客席を振り返って深々とお辞儀をして見せる。
驚きはしたが、演奏は確かにすごかった。
すぐに惜しみのない拍手が注がれる。
洪水のような拍手の中、演奏を終えた指揮者や楽団員たちは皆一様に満足げな表情を浮かべているように見えた。
感動の余韻が残る中、さすがにアンコールは存在しないようで指揮者と楽団員たちが次々に舞台を後にしていく。
完全に舞台上から撤収が完了すると、客席が明るくなった。
何か指示があるのかと座ったまま待てば、案の定舞台の下でマイクを手に教師が注目を集めるように手を叩く。
マイクを手に注目を集めたのは堀之内で、彼は客席が静かになるのを確認してから口を開いた。
「諸君、今日はこれで解散です。各自気を付けて帰宅し、明日の集合に遅れないようにしてください。くれぐれも明日は制服でこないようにしてくださいね。それでは、解散」
ゆったりとした口調ながら、言いたいコトだけをつらつらと並べて一方的に言うとマイクを放す。
そこへ慌てたように体育教師の時任遼平(りょうへい)が舞台の下に駆けてくると、堀之内が舞台に置いたマイクを手に取った。
「1年は勝手が分からないだろうから説明する。悪いがホワイエに集合してくれ」
そうか時任は1年の担任をしていたのかと割とどうでも良いことを考えながら十夜は客席から出ていく人波に逆らわず流されるようにして出て行く。
ホワイエを横切り、ホールのエントランスからエスカレーターを下りてビルのエントランスに辿り着くと、そのまま人波に沿ってビルから出る。
現地流れ解散ということだったので、彼らは大人しく来た道を戻り明日も同じ時間に同じ場所で集合といって別れて行った。
友人たちとの別れ際に、まるで答えあわせのように瑞貴が先程の曲目について、楽譜の指示通りだから大丈夫だとどこか楽しそうに笑いながら教えてくれた。
だったらその場で教えて欲しかったというのが本音だが、きっと内緒にしておいた方が純粋に楽しめると思って黙っていたのだろうと十夜は勝手に推測する。
それでも最後に教えてくれたのは、後味の悪い思いや心配を引き摺らなくていいようにという、瑞貴なりの思いやりなのだろう。
そして翌日。
十夜は昨日よりも少しだけ早くに集合場所に着いていた。
校外学習で私服ということだったので、いたって普通の服装を選んだが私服姿なので友人たちが見つけられるだろうかと自分の恰好を見下ろす。
白地に柄の入ったカジュアルな長袖Tシャツにジーンズ、足元はただのスニーカー。
昼食も現地で適当に買って良しということだったので、ポケットに財布と携帯を放り込んだだけの軽装だ。
ポケットに懐中時計のチェーンが伸びているのが唯一のアクセントと言っていいだろう。
さて友人たちはまだだろうかと視線を巡らせた十夜の視界に、近づいてくる人影が見える。
「おはよう、十夜。今日も早いんだね」
1番最初に待ち合わせ場所に立っている十夜を認めるなり、軽く駆けて来たのは瑞貴だった。
白の広襟のカットソーの丈は長めで、その下は細見の黒いチノパン、足元はハイカットの一応スニーカー。
更に荒く編んだ防寒という意味では微塵も役に立たなさそうな黒の長いカーディガンについでに上部を円形ではなく直線状にしてあるニット帽という出で立ちは、うっかり性別を間違われても文句は言えない。
帽子の縁の位置が、ちょうど猫の耳のように見えてますます小動物っぽく見えるし、長すぎるカーディガンに手が半分以上隠れているのだから、コレは狙ってやっているのかと思わずまじまじと見てしまう。
ついでに斜めにかけられた小振りのショルダーバックが実にあざとい。
「…どうかした?」
上から下までを眺める十夜に、瑞貴が不思議そうに首を傾げる。
覗きこんでくる目に違和感を覚えれば、普段のフレームレスの眼鏡ではなく赤い下フレームの眼鏡に変わっているコトに気付く。
「小動物だな…」
他に言いようがなく、十夜は軽く表情を引き攣らせた。
校外学習に、こんな恰好で来るやつがあるかと思わないでもないのだが、困ったことに似合っていて何とも言えない。
「おはよう」
背後から掛けられた声に振り返れば、そこには祐一が立っていた。
「…ぉ、ぉぅ」
思わず十夜は呻くように返事をしたのは、祐一の出で立ちも校外学習に沿うとは思えなかったからだ。
紺のテーラードジャケットと淡いグレーのリネンシャツ、その下は黒のストレッチパンツという出で立ちだ。
中のシャツが白のだったりした日には、制服と大差ない仕上がりだろう。
肩から軽く小振りのトートバックをかけており、まるでこれからキャンパスに向かう大学生のような雰囲気を醸し出していた。
ついでに足元なんてカジュアルなものではあるが黒の革靴だ。
明らかに校外学習に向かうような恰好には見えない。
「…貴様ら、何故そんな恰好なんだ…」
片や小動物、片や明らかに歩くことを想定していないカジュアルさに欠ける服装、という友人たちを交互に見ると十夜は盛大にため息をついた。
「俺はこういう服しか持っていないのだから仕方なかろう」
自分の服装を見下ろし、祐一がそんなにおかしいか?と首を捻る。
似合っているし、コーディネートとしては何もおかしくないが、TPOには合っていない気がして十夜は軽く頭を抱えたくなった。
「実家にある私服の中でまだマシな方だよ、コレ」
「その帽子は猫耳にしか見えんがな」
おかしいかなぁと苦笑する瑞貴に、祐一が頭の上を指してそう言っている。
いや帽子だけの問題じゃないだろうと言いたいのを十夜はぐっと堪え、まだ来ていない友人たちが姿を見せたら同意してもらおうと決意した。
「おっはよ~」
やたら明るい声が聞こえ、目を向ければそこには赤也の姿が見える。
黒系のスタジャンの中に薄手のV字ネックシャツ、カーキ色のカーゴパンツといった出で立ちに、足元はスポーツ用のスニーカーという今までの中では1番マシな服装で現れた赤也に十夜はほっと息をつく。
小振りのメッセンジャーバックを掛けてはいるが、膨らみが全くないので恐らく物はほとんど入っていないだろう。
良かった少しはまともな服装の奴がいてと一瞬だけ考えたが、赤也がくるくると指で回しているのはデザインを重視した野球帽のような造りの帽子。
あくまでスポーティに纏めてはいるが、赤也も割と校外学習だということを度外視して服を選んだのではないかと思わずにはいられなくなってしまうのは、トータルコーディネートとしてしっくりきすぎているからだろうか。
「拓海はどうした?」
基本的に一緒に行動している事が多い幼馴染の姿を探し、祐一が赤也に問いかけた。
「あぁ、コンビニ寄るってさ」
すぐ来ると思うぞという赤也の言葉の通り、コンビニエンスストアからこちらに向かって歩いてくる人影が見える。
黒の襟付シャツの首元からはシルバーのチョーカーが覗いていて、下は黒のジーンズで大振りなベルトのバックルがシャツの隙間からチラリと見えた。
足元はこれまた黒のデザートブーツで極め付けは真っ黒なサングラスをかけているというところだろう。
片手に缶コーヒーを持っている姿が実に様になっているが、気のせいでなければその人物が向かってくるのは十夜たちの方向だ。
嫌な予感がすると十夜の第六感が告げた時には、当然のように片手を軽くあげておはようと声を掛けられていた。
残念ながらその声は十分すぎる程聞き覚えのある友人のものだ。
「拓海、今日行くのは水族館だぞ?」
サングラスなどしていて見えるのか?と祐一が問いかければ、ニヤリと笑ってソレを外すと胸元にかける。
「…貴様ら、ファッションショーか何かと勘違いしていないか…?」
それぞれに個性的かつ似合っている服装を披露している友人たちを見て、十夜は盛大にため息をついた。
制服姿でもそれぞれに別の種類で女性ウケする外見のため目立っているというのに、それが際立つような私服姿なのである。
間違いなく目立つ、というか既に目立っているのだ。
先ほどから道行く人々の視線を割と集めているのだが、彼らは気にならないのだろうか、いやならないからこそこんな自由極まりない服装なのだろう。
「毎回こんなもんだぞ?私服って」
そんな気にするようなものかと赤也があっさり一刀両断した。
「…そうなのか…」
校外学習開始以前にすでにどっと疲れた気持ちで十夜は友人たちをチラリと見る。
こんな目立つ集団と行動を共にしなければならないのかと、編入してくるまで散々注目を集めていた過去など忘れてしまったかのような脱力感に襲われた。
「それでは集合場所へ向かうとしようか」
祐一の言葉に、やたら目立つ集団はぞろぞろと移動を開始する。
前日と同じように電車での移動だ。
時間帯のためか、やはり人は少なくのんびりと移動することが出来た。
目的地へは途中までは昨日と同じ路線で行き、途中で市営地下鉄に乗り換えて行く。
昨日よりも移動時間を30分以上上乗せし、目的地に到着すれば見覚えのある顔がちらほらと見える。
要するに彼らはクラスメイトというわけだ。
平日の午前中とはいえ有名な観光スポット、もう少し言えば有名なデートスポットであるだろうその場所は若い男女のカップルやグループデートの様相の数人連れ、それから同性同士の気の置けない友人関係といった様々な種類の若者たちで賑わっている。
遊び慣れた雰囲気の彼らと違って、まだ高校生である見知った顔たちがどこか初々しく浮いた印象に見えるので、顔を知らなくてもそういう雰囲気の人間は十中八九同じ高校の同じ学年の誰かなのだろう。
広場のような場所で1組から4組までの担任と副担任が点呼を取るために立っているのが見える。
担任の広瀬は当然ながらいつものふわふわした可愛らしい服装で、足元は相変わらずの厚底。
それを考えれば友人たちの服装は幾分かマシに思えなくないと前向きに考えながら、十夜は点呼を受けるために広瀬の元へ向かった。
点呼とは名ばかりで、出席確認の後水族館への入場券が渡されるだけだ。
午後の15時になる20分前にに再び集合して、帆船型観光船でクルージングをするので時間に遅れないようにということらしい。
さすがに全クラス1度となると人数が多すぎるというコトで、2クラスごとに分かれてクルージングをするということだが、それでも相当な人数だろう。
出席の報告を終え、十夜たち5人はとりあえず周囲を見渡した。
そういえばチケットを受け取る際、広瀬がナンパには気を付けてねと笑っていのも少し気になる。
「平日なのに、結構人いるんだなー」
周囲を見渡しながら、赤也が面白そうに笑う。
視線の先にはチラチラと控えめにこちらに視線を向けてくる恐らく女子大生数人。
視線を巡らせた時にうっかり目でも合わせてしまったのだろう、赤也は彼女たちに軽く笑顔を向けてから視線を逸らしていた。
「水族館は告白するのに適した場所って言うからなぁ。非日常の空間かつ閉塞感がいいらしいぞ?」
視界の中に何組か見えるカップルを見つけ、拓海がそんな豆知識を披露する。
「成程。外的要因の手助けがないと告白出来ないとは、軟弱だな」
一生懸命女性の機嫌を取っているように見える大学生くらいの青年を視界の端に止め、祐一が人の悪い笑みを浮かべた。
「貴様ら…人間観察をしに来たわけじゃないだろ…」
一向に水族館へ移動しようとしない友人たちに呆れた十夜が軽いため息とともにそうぼやく。
「だって時間ズラさないと、今入っても学校の奴らだらけだろ?」
どうせならとことん楽しもうぜと赤也は移動しない理由を明かす。
言われてみれば納得できなくもない理由だったので、十夜は渋々頷いた。
しかし、徐々に向けられる視線が増えている気がするのは気のせいだろうか。
「突っ立ってるのも周囲の迷惑だな。あそこで少し時間潰さないか?」
拓海がオープンカフェのようなスペースを指しそう提案したので、連れだって移動する。
そこは一般的なオープンカフェではなく、ただのテーブルとイスというスペースを自由に使って良い休憩スペースで、手近な売店か何かで買ってこなければいけないようだ。
すぐ近くにフードコートの入口が見えるので、そこで何かを買ってくればいいということだろう。
「昼にはまだ程遠い。何か飲むか?」
ただ座って時間を潰すだけというのも芸がないと祐一がそう言ってフードコートを指した。
ちょうど入口から見えるところにフレッシュジュースの店が見えたので、メニューを眺めそれぞれオーダーを決める。
「1人では持てないだろうから一緒に行くさ」
拓海がそう言って2人連れだって行ってしまう。
周囲のテーブルに、少し距離を開けて女性の友達連れが何組か座ったのが見えた。
考えるコトはみんな同じなんだなと十夜は小さく苦笑する。
程なくしてドリンクを抱えた2人が戻ってきた。
仲良く席について、ただ時間を潰す。
「何が悲しくてヤロウばっかでデートスポット回らにゃならんのだ…」
周囲に見える女性連れも似たようなことを考えているのだろうかと思いながら、十夜は軽くぼやく。
華やかな雰囲気のデートスポットを、いくら見た目がいいとはいえ男ばっかりで回ると言うのも不毛な気がする。
校外学習という性質上それは仕方のないことだと解ってはいるし、当然一緒に回るような女性のアテがあるわけでもないのだがソコは別問題だ。
「気楽でいいじゃん?」
赤也はドリンクの入った紙コップを弄びながら、軽い調子で笑ってみせる。
強がっているような様子は全くなく、本当に自然体で気楽だと感じているようだ。
「是非にでも潤いが欲しいのであれば、手頃なところで瑞貴にでも女装させるが」
からかうような口調で祐一はそう言うと、十夜に向けてどうだと問いかけた。
「見た目だけなら何とかなっても、その小動物は俺らと同じ性別だろうが」
何が悲しくて男子高校生の女装など見ないといけないんだと十夜は嫌そうに頬を引き攣らせる。
確かに私服姿だと瑞貴は普段よりも少女めいて見える。
元々が一見少女めいた外見をしているだけあって、可愛いという形容詞が1番似合うだろう。
だが、男だ。
いくら見た目を多少取り繕ってそれっぽく見せたとしても、仕草や表情で台無しというのが女装のセオリーである。
「言っとくけど、やらないからね」
十夜がチラリと視線を向ければ、瑞貴は笑顔できっぱりとそう言った。
表情は笑っているが、目は笑っていない。
「俺も見たいとは思わんわっ!」
十夜はそう言い返すと、ジュースに手を伸ばす。
普通に考えて嫌がらせ以外で女装をさせるという選択肢はない。
そんなくだらない会話で時間を潰し、結局十夜たちが水族館に向かったのはおよそ1時間が経過してからだった。
水族館に足を踏み入れると、青い色彩に出迎えられる。
アーチ状に作られた水槽の中を、色とりどりの熱帯魚が縦横無尽に泳ぐ空間は日常とかけ離れていて、まるで別の世界に迷い込んだかのような錯覚に陥った。
水に反射する光が自分にまで反射してきて、水の中を歩いているような気分を味わえる。
アーチを抜けて大きな水槽の前に立つ頃には、完全に思考が日常から切り離されて海洋生物の一員になったような気すらしてしまうほどだ。
普段騒がしい友人たちも、大人しくというと語弊があるが周囲の邪魔にならないように鑑賞に勤しんでいた。
やはり興味を惹かれるのは色鮮やかな熱帯魚や普段あまり目にする機会のない奇抜な形状をした深海魚などだろう。
ほとんどの来場者がそういう目に鮮やかな海洋生物に目を向ける中、一心に中央の巨大水槽を見つめている瑞貴の姿が目に留まった。
珍しい海洋生物もいなければ、色鮮やかな海洋生物もいないその水槽はたくさんの回遊魚がくるくると泳ぎ続けている水槽だ。
真っ直ぐにその水槽を見つめ、無言で佇む様子は絵になった。
ただ、何がそんなに気に入ったのかと疑問に思った十夜はそばに近づくと声を落として何に惹かれたんだと聞いてみる。
十夜の問いに、瑞貴は仄かな笑みを見せると惹かれたんじゃないと否定の言葉を口にした。
しばらく無言のまま水槽に目を向けていた瑞貴だったが、そっと視線を逸らすと十夜をまっすぐ見て笑った。
「十夜って回遊魚みたいだよね」
あまりにも可笑しそうに笑うので毒気を抜かれながらも、十夜はそれは一体どういう意味だと言葉の主を睨み付ける。
色鮮やかでもなく特に目立った特徴のない魚ばかりの回遊魚をチラリと見て、そんなに無様に見えるのかと憎々しげに思う。
「そんなに特徴がないと言いたいのか?」
それは自分の音に足らないモノがあると指摘した師匠の言葉を否応なしに思い出すものだった。
何が足らないとは教えてはくれなかったが、不充分だと言われたのだ。
どうせ色鮮やかな人の目を楽しませる魚にはなさないさと自嘲を込めて視線を逸らす。
「弾き続けてないと死んでしまうところが似てるんだよ」
瑞貴が口にした言葉に、十夜は弾かれたようにそちらを向いた。
視線の先では既に別の場所へ向かおうとする瑞貴の横顔だけが見える。
何を考えているのかさっぱり読めない、水面のように静かな表情に見えた。
順路に従って歩いて行く後ろ姿を見送った十夜は、もう1度大きな水槽を泳ぎ続ける回遊魚を見上げる。
プロのバイオリニストになるためだけにあらゆる物を切り捨て生きて来た自分を振り返れば、確かに自分は弾き続けていないと死んでいるのと変わらないのだと改めて思い知らされた。
だったら、自分を回遊魚と評した奴は一体何だろうか。
つかみどころがなく、いつもふわふわとしていて、実体が掴めない。
何も考えていないようにも見えるし、時折とても鋭いことを言う。
そこまで考え、十夜は先に進んでいった友人の後を追った。
追いついたのはちょうどペンギンたちが泳ぎ回る大きな水槽。
そこには他の友人たちの姿もあって、赤也が特にはしゃいでいるように見えた。
ペンギンを見ているというよりもはしゃぐ赤也を見ていた瑞貴の隣に立つと、十夜はニヤリと笑う。
「俺が回遊魚だとしたら、貴様は海月(くらげ)だ」
そう言ってやると、瑞貴は目を丸くして十夜を見上げた。
鸚鵡返しに海月?と聞かれたので、一見癒される外見なのに割と害のあるところがと言ってやる。
睨むなり言い返すなりするかと思えば、妙に神妙な表情で成程と小さく呟くだけで、拍子抜けしてしまった。
「なぁ、ペンギンって鳥だよな?」
周囲に他の来場客の姿がなくなるなり、赤也が友人たちを振り返ってそんな当たり前のことを言う。
「鳥類ペンギン目ペンギン科だったと思うぞ?」
拓海がそう言って赤也が眺めていたペンギンに目を向ける。
「いや、あの手っていうか羽、羽毛に見えないじゃん?」
再び視線をペンギンに戻した赤也が分厚いガラス越しに指を指すのはペンギンの羽だ。
「もう進化の過程で翼じゃなくてフリッパーだからな」
そりゃ羽毛にも見えなかろうと拓海は肩を竦めた。
「なのに鳥なんだよなぁ…」
もう全くの別物で良くない?と赤也は面白がっているのか真面目に考えているのかイマイチ判別のつかない様子でそう笑う。
「遺伝子的みて、別種にしてしまえない程度なのだろうよ」
祐一が赤也に近づくとそれで納得しておけと軽く肩を叩いた。
言っている内容は割とくだらないが、何故か馬鹿だと言い切れない程度にはまともな内容に聞こえなくもない気がして十夜は眉根を寄せる。
「じゃあアザラアシとオットセイの違いは?」
「あとで自分で生物図鑑でも確認しておけ」
「アシカもオットセイもトドも全部まとめてアシカ科だ」
ペンギンの件は納得したらしい赤也が次の疑問を口にすれば、間髪入れずに祐一が頭を叩き、拓海が極論で片づけてしまう。
そのやり取りを見ていると、十夜はやはり小学生と同レベルではないかと小さく笑ってしまった。
そんな風に水族館を満喫し、遅めの昼食を摂れば今度は船の上だ。
南国の海というわけではないので海そのものの景観がいいとは言えないが、潮風が心地よい。
室内でのんびり遊覧も出来るようだったが、せっかくだからと甲板にやってきた十夜たちだったが、出航の前から既にテンションは高かった。
「なぁ、誰かあそこでタイタニックやらね?」
立ち入り禁止となっている舳先を指し、赤也が友人たちを振り返る。
「男同士でか?」
それは痛いから止めておけと十夜が即座に言い返せば、赤也は子供っぽく不満を露わにした。
「いいじゃん、面白そうじゃん」
「落ちたら洒落にならんぞ?」
言い募る赤也に、今度は祐一が呆れた目を向ける。
流石にそんな馬鹿な真似をすれば教師陣に盛大に怒られる程度では済まないだろう。
40分超のクルージングの間、自由に行き来出来る甲板などを好きなように渡り歩き、時に駆け回るようにして遊んでいると時間はあっという間に過ぎてしまった。
船を下りてそこで1度全員集合となり、クラスの集合写真が撮られる。
私服のせいか、やけに個性的でバラバラな印象の写真になるだろうなと十夜は出来上がりを予想して心の中で軽く笑う。
集合写真の後は、今日もまた勝手に解散しろということらしい。
やけにテンションが上がったせいですぐ帰る気になれなかったらしい赤也の誘いに乗って、水族館に併設されるようにあった多目的ショッピングセンターに足を踏み入れれば、何故か忍者体験コースといった店やお化け屋敷が存在している。
更に大きな観覧車もあったのだが、さすがに男ばっかりで乗るものではないと辞退した。
結局、帰ろうと言い出したのは17時になろうかという時刻で、これは普段よりもかなり遅い時間に寮に着くだろうなと苦笑する。
帰る方向は全員同じなので同じ駅に向かって歩く。
駅の改札口までやってきたところで、何故か瑞貴に見送られる形になった。
理由を問いただせば、どうしても寄らなければいけない場所があるという。
また明日と手を振って別れを告げる。
それに、冗談めかした笑顔で、また来週と手を振り返された。
作者:彩華