来々ゾンビーズ 1
一般的な受験生は、既に受験勉強に追われ始めているはずの夏休み。私立志貴ヶ丘学園高等部の3年4組に在籍している成績上位者たちのうち、半数を超える4人が、学校の校門の前に集まっていた。
時刻はまだ午前8時半を少し回ったところで、早朝というほどでもないが遊ぶための集合にしても少しばかり早い時間だ。
集まっているのは1学期末の総合順位で2位、3位、4位、5位と並んで上位を席巻した佐伯十夜、黒島拓海、日下祐一、新田赤也の4人で、普段つるんでいるうち相変わらず1位独占中の忍足瑞貴と、少し順位は下がって8位だった土屋雅臣の姿はない。
これが補講のための集合あれば、受験生の鑑、さすがは成績優秀者たちと諸手を上げて褒められるところなのだが、彼らは決して補講のために集まったわけではなく、もっと別の目的でこの場所に立っている。
服装も至って普通というと少しばかり語弊があるものの、少なくとも勉学に励むための服装には見えなかった。
世間の真面目な受験生からは全力で批難され兼ねない上に、受験生としては決して一般的ではない彼らが学校の校門前に集合しているのには、当然ながら理由があって、そもそも補講ではないにしろ学校関係者からの招集を受けたからである。
「ソレにしても、オレたち一応受験生なんだけどなぁ」
言葉とは裏腹に、欠片も危機感を覚えていないような能天気な声で空を仰いだのは赤也で、夏らしいスポーティな軽装なのだが、長袖のパーカーを腰に巻き、下はきっちり踝までの丈のカーゴパンツで、学園が山の中腹に位置していることを考慮してもやや暑苦しい恰好に見えた。
「特別強化合宿とか、良く分からない名目で集合させられたからな…」
私服姿の時のトレードマークとなっているサングラスに太陽の陽射しを受けながら、赤也同様少しばかり暑苦しそうでありながら、相変わらず女性ウケしそうな服をこなれた感じに着こなしている拓海が苦笑を浮かべる。
まだ太陽もそこまで高くなく、山の中腹ということで夏の暑さも少し和らぐ場所とはいえ、真夏に外でする服装には見えない。
それは側らに立っている祐一や十夜も同様で、季節感で言うならば初夏か初秋にすべき服装だった。
「学校側からの半ば強制じみた招集を無視すると、後が恐ろしいからな…」
やれやれと肩を竦め、祐一が小さく嘆息する。
いつも通りテラードジャケットにスラックスという出で立ちの祐一は、普段から暑そうだと評されてはいるものの、基本的に夏場はジャケットの丈は短かったりと多少は涼しくする努力が見られるのだが、今日に限って長袖という見ている方も暑苦しいレベルの服装で、その代りなのか何なのか、普段は革靴だというのに珍しくしっかりとしたトレッキングシューズのような靴を履いていた。
集合早々、いつも通り十夜が暑苦しいと言い放ったのも頷ける服装だ。
「まったく…。何で俺まで招集されなきゃならんのだ…」
全身から不満のオーラを立ち昇らせ、十夜が忌々しそうに吐き捨てる。
1番服装がラフに見えるのが実は十夜なのだが、やはり十夜もまた季節感を少しばかりはき違えているような服装になっていて、Tシャツにジーンズ、それにスニーカーという至って普段通りのカジュアルな服装なのだが、Tシャツは薄い長袖に同じく薄い半袖を重ねるというファッショナブルではあるものの暑さは何割増しだろうかという出で立ちだった。
揃いも揃って、冷房対策かと思われるような服装の彼らだが、共通して言えることは露出が少なく、本人にとって動きやすい服装というところだ。
「んで、結局、瑞貴と雅臣は、来るって?」
時間を確認する名目というよりは連絡が来ていないかを確認するためだろう、赤也がポケットからスマホを取り出して何の通知も来ていない液晶に視線を落とすと、他の3人にそう訊いた。
招集を掛けられたのは、今この場に集合している4人だけではなく、一言でまとめるなら普段から一緒に行動をしている通称委員長と愉快な仲間たちの面々全員なのである。
一括送信されたメールの宛先に、その6人の名前がきっちり入っていたのを確認しているので、それは間違いない。
「雅臣はともかく、さすがに瑞貴は来ないだろう。というか、来れないんじゃないか…?」
苦笑交じりにそう応じたのは拓海で、別に友人を除け者にしようというのではなく、そう推測するにはきちんとした根拠がある。
「仕方あるまい。瑞貴は俺たちと違って、そもそも外泊許可が出るかどうかも怪しいからな。そこは学校側も考慮するだろう」
メールの差出人を待ちながら、祐一は拓海の言葉に重ねるようにそう言った。
強制召集メールには、集合の日時と簡単に服装の指定が書かれた後、当然のように参加しなければ夏休みの課題の点数はないものと思えというような職権濫用を超える脅迫文がきっちり明記されていたのだが、外泊するには主治医の許可が必要という身の上である瑞貴に関しては、流石に考慮するだろという推測である。
因みに、そういう事情のない他のメンバーに関しては、理不尽だろうが何だろうが情状酌量の余地などなく、他の生徒と比べて欠片も平等ではないとしても、当たり前のように単位を剥奪されるというのがこの学園の暗黙のルールなので、哀しいことに彼らがこの招集を無視など出来るはずもなかった。
そんな彼らの耳に、車の走行音が届く。
閑静な住宅街からも離れ、学園の先の山頂付近へは一般車両の進入は不可とされている。
そんな場所に現れる車があるとすれば、ソレは彼らの関係者に他ならないハズで、見慣れない大きな高級感溢れる雰囲気の、明らかに大人数での長距離移動を前提とした車は、推測通り校門の前に停車した。
シートの数は外からでは分からないが、大人が10人くらい乗れそうな大きさのその車は、始めから大人数を収容する前提で用意されているのか、ルーフに荷物が積めるようにボックスが取り付けられていて、まさしく夏休みのアウトドア向きと言えるだろう。
しかし、そんな車が何故、こんな場所に停まったのかと思わず顔を見合わせた4人の前に、車の運転席から人影が降り立った。
「あ、おはようございます~。みなさん、早いんですね~」
車から降りてきて、明るく間延びした朝の挨拶をしたのは雅臣で、当然ながらこの場に召集されたハズの1人だ。
他のメンバーとは違って、雅臣はごく普通の半そでTシャツにダボっとしたジーンズという、1番夏らしい服装をしているが、ソレは恐らく彼が車でやってきたからだろう。
「…貴様、車の免許を持っていたのか…」
車の運転席から降りて来たということに1番驚いたのは十夜のようで、まじまじと雅臣を見つめながら驚きの声を上げた。
「ぼく、皆さんより誕生日早いですから~。実は免許取ってたんですよ~」
応える雅臣は相変わらずのんびりとした口調のままで、実にあっさりとそう言った。
いくら他の友人たちよりも誕生日が早いとはいえ、かなりタイトなスケジュールで免許を取ったのだろう。
「それで、雅臣はどうしてこんな大きな車で現れたんだ?というか、車なんて持っていたのか?」
祐一は改めて車と雅臣を交互に見比べると、不思議そうに首を捻る。
雅臣自身があまり悲惨だと感じていないようだが、天涯孤独の身の上で生活費すら援助してもらいながらバイトで生活しているという現状の雅臣が、自身の収入で車を持っているとは考えにくい。
それならば、一体この車はどこから沸いたものなのだろうかというのが、祐一の感じている疑問だった。
「あれ?皆さん、聞いてないんですか~?今日の強制召集の中身は、学校外でやることらしいので、移動手段として借りてきたんですよ~」
強制召集のメールだけしか送られてきていない他のメンバーとは異なり、雅臣はその先の課題とやらに関わる情報を与えられているらしく、それに必要だから車で来たらしい。
口調は暢気だし、性格も押しが弱く自虐的と取れる程自己評価の低い雅臣ではあるが、与えられた役割はきちんとこなすし、責任感も強い方だ。
必要だと言われれば、割とどんなことでも平気で請け負ってしまう性質らしく、自分で出来る事は決して人任せにしないために、こういう役回りになることは実は多い。
「オマエだけ事前に説明聞いてんのかよーズルくね?内容教えろよ」
からかうような口調で言いながら、赤也は挨拶代りにそう言って、未だ明かされていない招集の理由を問うた。
「事と次第によっては、俺はそのまま帰宅するがな」
馬鹿馬鹿しい内容なら付き合わないと、十夜は単位と天秤にかけて許容できる方を選ぶつもりでそう言うと、説明を求めるような視線を雅臣に向ける。
何故雅臣だけが先に事情を聞かされているのかは、十夜にとって些細な問題であって、重要なのは課題とやらの中身だ。
「えぇ!?ぼくだけじゃないですよ!?瑞貴さんだって先に聞いてますよぅ」
4対の視線に晒された雅臣は、誰も責めてなどいないのに責められているような表情で言い訳のようにそう言った。
事情を知っているのは自分だけではないのだから、責めないでほしいとでも言いたげな様子に拓海が小さく笑う。
「別に俺たちは責めてるんじゃないんだけどな。なんで車が必要なのか気になっただけだ。それに瑞貴の場合は、どうせ不参加だろう?」
だったら内容を知っていようが関係ないと、拓海はフォローしているのかしていないのか、とにかく自分たちが集められた事情についての説明を求める。
「え?瑞貴さんもちゃんと参加してくれますよ。というか、この車、手配してくれたの瑞貴さんのお兄さんですから~」
拓海の言葉に対する雅臣に反応は、目を丸くするというものだった。
重ねて説明を求められたことよりも、未だ校門の前に立っていない人物についての発言の方が、雅臣にとっては聞き流せない内容だったらしい。
言い方は適切ではないが、雅臣にとって瑞貴は過度な庇護欲を向ける相手というべきか、ある意味での絶対君主とでも言うべきか、ただの友人という枠を超えた存在のようで、事情は殆ど明かされていないが、どうやら雅臣の生活を援助しているのは瑞貴の実家らしいという程度のことは皆知っていた。
「参加、するのか…」
というか、出来るのか、と独り言のように呟いたのは十夜だ。
十夜自身は気付いていないようだが、表情が微かに喜色を浮かべている。
こちらは雅臣とはまた違った事情で、友情の枠からはみ出した特別な思い入れというものがあるらしく、恐らく瑞貴が参加するという事情だけで、課題の内容すら聞かないまま十夜の参加も決定したようなものだった。
「それなら、後は我がクラスの眠り姫を待てばいいのだな。瑞貴の場合、プライベートでは時間前行動という概念が欠落しているからな」
祐一は小さく笑うと、改めて現状を確認するような言葉を口にする。
雅臣によって瑞貴の参加が告げられ、結果的に十夜が無意識のままでも参加の意思を表明したことによって、不参加の可能性がある存在はいなくなった。
残念ながら学校側からの理不尽かつとんでもない内容に、赤也も拓海も祐一も慣れきってしまっているせいで、多少のコトでは動じないし、ある程度の無理難題には応えてしまうのが当たり前となっていて、その内容がいつも最終的には何かしら得るものがあって無駄にはならないということも経験則で知っている。
そういう理由で、そもそも彼らは課題と銘打たれなくても、参加しないと言う選択肢は用意していないのだ。
別の事情から参加するかどうか未知数の瑞貴にしたって、主治医という第三者から不許可と言われない限りはなし崩し的に参加しているので、本人の意向を確認する必要はない。
だから、参加の意思を確認する必要があるのは、正しくは十夜だけだった。
その十夜も、瑞貴という餌が参加するとあっては、参加しないという選択肢は選ばないだろうというのが、共通の友人たちの見解だ。
もっともそれを本人に指摘すると、全否定された挙句思い切り怒鳴られ、ついでに機嫌を損ねること間違いなしなので誰も口には出さないのだが。
「ええと、瑞貴さんはまだ病院に居るハズなので、このままみんなで迎えに行くって言ってあります~。それじゃ、車に乗ってください~。課題の内容は、せっかくなので、後で瑞貴さんに聞いてください~」
説明することを放棄し、雅臣はそう言うと追い立てるように友人たちを車に向けて追い立てた。
「そんな急いで出かけないといけないくらい遠方でやる課題なのか?」
急かされるままに車に乗り込みながら、赤也が小さく首を傾げる。
既に赤也の脳内では課題ではなく遊びにでも分類されてしまったのか、遠足を前にした小学生のように目を輝かせていた。
後部座席へ続くドアを開ければ、中は広々とゆったりした空間設計になっていて、外観からの推測通りに詰めれば10人くらいは乗れそうに見える。
ワゴンタイプではないようだが、3列シートの1番奥であっても窮屈そうな印象は受けず、乗り降りもスムーズに出来るようになっていて、少なくとも学校の遠足で使用するような観光バスよりは余程快適に過ごせそうだ。
「メールにはアウトドアに適したなるべく露出のない服装でと書かれてあったからな。さすがに学校で何かするのではないというくらいしか分からなかったが」
赤也に続いて車に乗り込みながら、拓海は少し落ち着けと幼馴染兼親友兼相棒を小突く。
そのまま赤也を最後部に押し込むようにして奥に詰めるが、高校生とはいえ対して大人と変わらない体格の2人が並んでも、車内はゆったりして見える。
「俺にはナビは無理だから、期待するなよ」
十夜はそう言うと、同じく後部座席の2列目に大人しく陣取った。
恐らくナビゲーションシステムと思われる液晶ディスプレイは見えるが、万が一地図を見てナビゲートしてくれと言われた時に、さっさと断るつもりのようだ。
「では、その役目は俺が務めよう」
友人たちを見送った後、祐一は少し考えた末に助手席へと回る。
全員が車に乗り込んだことを確認すると、雅臣は運転席へと戻っていく。
「それじゃ、皆さん、シートベルト着用してくださいね~。安全運転で行きますから、安心してください~」
口調は変わらず間延びしたもののままだが、雅臣は普段より少しだけイキイキして見える。
4人がシートベルトをちゃんと着用したのを確認するなり、雅臣は勢いよくアクセルを踏み込んだ。
とはいっても、別に交通法規を逸脱するような運転をしているわけではなく、速度も制限速度をしっかり守った、本人の言う通り安全運転である。
「この車はマニュアル車なのだな」
助手席の祐一が、少し意外そうな口調で今更ながら気付いたらしい事実を口にした。
「あ、そうなんですよ~。こっちの方が運転しやすいですって言ったら、こっちを手配してくれたんです~」
本来ならば免許取得したての若葉マークであるだろう雅臣は、運転しながら会話に興じられるだけの余裕があるらしい。
よくよく思い返せば、そもそもこの車に若葉マークは貼られておらず、取得1年以内であれば掲示は義務付けられているはずなのだがと祐一はこっそり首を傾げる。
もっとも、雅臣の場合、少しばかり抜けた性格をしているので、普段使用している車から貼り換え忘れた可能性は否定できず、高速道路を使用する場合や、知らない土地まで行く場合にはその時に指摘しようと思うだけに留まった。
志貴ヶ丘学園の本校舎が建つ位置から、瑞貴が通っている病院までの距離は、車であればさほど遠くない。
車であればという注釈が付く理由は、電車等を利用する場合、大幅に迂回するルートを直線で移動できるため、時速では電車に劣る車の方が圧倒的に早く目的地に着けるからである。
そんな理由で、普段見舞いに訪れる時よりも格段に早くに目的地の前に到着した。
因みに到着するまでのおよそ30分の間、赤也と拓海はバイトの内容について話し合っており、専門の隠語が使われていたために他の3人にはまるで意味の分からない会話となっていたし、十夜は十夜で何やら考え事をしながら窓の外の流れる景色を眺めていたし、運転者である雅臣は助手席の祐一に聞かれるままに車の設備について説明していたりで、未だ課題の内容も告げられていないせいもあって完全な行楽気分だ。
いつ見ても大きく物々しい雰囲気の総合病院の壁が、夏の陽射しに晒されてどことなく暑そうに見える。
「ええと、ココ、路駐ダメらしいので、どなたか瑞貴さんを迎えに行って貰えませんか~」
ぼくは車に残らないといけませんから、と雅臣は病院の正面玄関脇に車を停止させ、車内を振り返った。
「俺が行っても構わないが?」
それまで外の景色を眺めていた十夜は、ソレだけ言ってドアに手をかける。
別に止める人間はいないはずだし、誰が迎えに行っても同じだろうというのが十夜の心情だった。
「あ、オレもオレも!バイトのコトで、瑞貴のにーちゃんに聞きたいコトがあるからさ」
それに便乗するように、赤也が明るく挙手をする。
「そうだな。ソレなら俺も行くべきだな」
赤也と同じバイトをしているからだろう、拓海が控えめな挙手と共にそう言った。
「では、俺は雅臣とここに残るが、課題の内容もまだ分からんのだし、油を売らずにさっさと戻って来い」
迎えに行くと意思表明をした3人に対し、逆に残ることを祐一が表明したことで、迎えに行く組はさっさと行動を開始する。
「そいじゃ、行ってくるなー」
ドアを開けて外て出ていく際、赤也は明るくそう言って手を振った。
そのまま3人連れだって病院の入口の中へと入っていくが、はっきり言って見舞客の出で立ちにも見えずに彼らはやや浮いて見える。
十夜の服装ならば冷房対策をした普通の恰好でも何とか通るが、他の2人は明らかに行楽目的のような服装なので、病院という空間には不釣り合いだ。
それでも特に咎められる視線を向けられたり、白い目で見られることもなく彼らはすぐに目的の場所へ辿り着いた。
形式的にノックをするが、中から応えなどあった例もなく、赤也は躊躇うコトなく病室のドアを開ける。
「おっはよ~」
病室で、その病室の主にかける挨拶としては適切だと思えないほど底抜けに明るい声で、赤也は言った。
「…おはよ…。朝から元気だね…」
応える病室の主も、病室という空間では違和感を覚えさせる出で立ちで友人たちを出迎える。
一応の外出準備は終えていたのか、瑞貴は友人たちにとって見慣れた私服姿だった。
普段から季節感を追及したい服装であるコトが多く、膝上丈のワンピースと錯覚する長袖のシャツにデニムのスキニー、腕には目の粗いニットのカーディガンと肩から掛けられるようなショルダーバッグ、それによく被っている帽子という、いつも通りの恰好をしている。
普段よりバッグが大き目に見えるのは、遠出という補正で持ち歩く物が普段より多いからなのだろう。
唯一の違いは、既に度が入っていないと周知されてしまった眼鏡というオマケがない程度だが、それ以外は普段と何ら変わらない出で立ちで、少なくとも病室でするような服装でないことは確かだった。
「もう、すぐに出かけて大丈夫なのか?」
見たところ何かの処置中でもなさそうで、病室を訪れる度に目にする点滴も今日は視界にはなく、十夜はベッドに腰掛けた状態で友人たちを出迎えた瑞貴にそう問いかける。
その問いは、単なる外出許可を確認するだけでなく、外出可能な状態にあるのかという確認の意味合いも持っていた。
「…万全とは言えないんだけど、大丈夫だよ。許可は取ってあるから」
問いかけの内容を正確に理解し、瑞貴は仄かな笑みを浮かべるとそう言って立ち上がる。
「万全じゃないのに、よく許可が出たな。主治医ではなくて、和樹さんからな」
横から拓海はそう声を掛けると、学校内でよくやっているように瑞貴の髪を軽く撫でるようにして梳いた。
別に相手を子ども扱いをしているわけでも、少女のように思っているわけでもないハズなのだが、どういうワケか拓海がこういう振舞いをするのは日常のことで、されている方も友人たち以外の人目があれば迷惑そうに払い退けるフリをするだけで、特に気にせずされるがままになっている。
「許可を出さないと本気で恨まれるからね」
不意に、背後から柔らかな声が降ってきて、十夜は思わず驚いて振り返れば、そこには声の主である瑞貴の兄の姿があった。
いつ見てもきちんとしたスーツ姿の彼は、例にもれず今日もまたきっちりと3ピースを着こなしている。
暑くないのだろうかと思わないでもないが、病院内は当然空調が効いているし、大企業の社長という肩書を持つ彼の場合、炎天下を徒歩で移動するということもないハズなので、見た目に暑苦しい恰好でも平気なのかもしれない。
もちろん夏仕様の素材で作られたセットなのだろうから、見た目ほどは暑くないという事情もあるだろう。
「あ、おはようございまーす」
その姿を認めるなり、赤也が明るく元気よく挨拶をする。
十夜と比較して、赤也と拓海はバイトの依頼人という側面もあって面識があるという以上に親しいらしく、気さくに声を掛けられる相手のようだ。
「やあ、おはよう。2人足らないね、祐一くんと雅臣くんは、外で待っているのかな」
病室の中に揃った顔触れを見渡し、瑞貴の兄・和樹は穏やかな笑みを浮かべてそう言った。
「はい。俺と赤也は、恐らくバイトの依頼をされるだろうと思ったので顔を出しました。十夜は純粋に、瑞貴を迎えに来ただけですよ」
和樹の言葉に、拓海はそう応えると意味ありげな笑みを浮かべる。
「…察しがいいね。今回はわたしの目の届かないところで、しかも学園の保護も及ばない場所だからね。くれぐれも、よろしく頼むよ」
そう言うと、和樹はスーツの内ポケットから何かを取り出して拓海に向かって差し出した。
黒い本革の札入れのようなものと、その上に乗せられた黒いカードを見て、目を丸くしたのは十夜だけで、差し出された拓海はと言えば自然な動作でそれを受け取っている。
「破格の経費ですね…」
受け取って中身を確認した拓海は、苦笑交じりにそう言った。
盗み見ることをしていない十夜に詳細な中身は分からないが、恐らく聞いたら目が点になるようなレベルなのだろうと勝手に推測する。
「ソレは経費でもあるけど、同時にきみたち全員へのお小遣いでもあるんだよ。せっかくの夏休みだろう?精一杯、色んな経験をしてくるといい。勿論、ハメを外さない程度にだけどね」
必要だと思った物は、何でも揃えるといい。
そう言って、和樹は穏やかな笑みを3人に向けた。
「ありがとうございます!あ、ちゃんと護るんで、安心してください!ソレ忘れて遊んだりしませんから」
素直に礼を言い、子供のようにはしゃぎながらも赤也はしっかりとバイトの依頼を請け負ったという意志表示をする。
赤也と拓海の休日だけのバイトは、シークレットサービスだ。
そして依頼人は和樹で、護衛対象は彩夢という少女というのが普段の光景なのだが、彩夢というのはつまり瑞貴の変装中の姿なので、つまるところ彼らの護衛対象は瑞貴なのである。
とはいえ、身体能力の高さに於いても、状況判断能力に於いても、別段保護しなければならないような要素は欠片もなく、目を離したすきに迷子になるとか、転んでけがをするとか、そういう心配は瑞貴には皆無なので、本当にイレギュラーな事態にでも遭遇しない限りただの話し相手程度のものらしい。
むしろ見た目だけならば誰もが護ってあげたいと思うような儚げで大人し気な外見をしている瑞貴の実態は、どちらかと言えば護衛泣かせと言われるくらいにハイスペックなので、そうそう危険な目に遭うとも思えない存在だった。
「それじゃ、責任もってお預かりします。と言っても、俺たちは行先も目的も聞かされていないんだがな」
和樹に対し、拓海は業務的に依頼を受けたという意味の言葉を告げた後、友人である瑞貴に視線を向ける。
「行先とかは聞いてるから、車の中で説明するね…。ええと、いってきます」
拓海に対して曖昧な笑みで答えた後、瑞貴は兄に向き直って微かな笑みでそう言った。
「ああ、気を付けていっておいで。くれぐれも、無理や無茶はしないようにね」
優しく微笑むと、和樹はそう言ってひらひらと手を振って4人を見送る。
十夜は会釈を返しながら、いつ見ても仲の良い兄弟だという感想を抱いていた。
1人っ子の十夜は一般的な兄弟という尺度が分からないので、正直なところ何とも言えないのだが、和樹が瑞貴を見守る眼差しは、弟に対するものというよりもっと別の種類の深い愛情に思えて仕方がないのだが、ソレは恋人に対するようなものとも違う気がして、明確にしっくりくる言葉がいつも見当たらないのだ。
そのままナースステーションの前を通過し、居合わせた看護師たちに明るく見送られて病院を後にし、大人しく車に乗り込む。
運転席には変わらず雅臣が居て、その隣の助手席には祐一の姿がある。
真っ先に最後部の1番奥に収まったのは赤也で、その隣には赤也を止めるという名目で拓海が収まったので、必然的に2列目に瑞貴と十夜が座ることになった。
「で、万全ではないとは、どういう意味だ?本当に外出して大丈夫なんだろうな」
車内に落ち着くなり、十夜は隣の瑞貴にそう詰め寄る。
以前の十夜なら、迷惑を掛けられるのはごめんだと、素直に心配の言葉を口にすることはなかったのだが、そういう確認の仕方ではいつもはぐらかされてしまうと気付いてからはこうやってストレートに訊けるようになっていた。
「…薬の調整が終わってないだけだから…大丈夫だよ」
開口一番、真っ先に向けられた質問に対し、瑞貴は驚きに目を瞬かせると、苦笑交じりにそう答える。
その言葉に、十夜は現時点で何らかの不具合があるというわけではないのだとほっと胸をなでおろしたが、すぐさま別の意味で問題だと気付く。
「ソレはつまり、薬が効かない可能性があるとか、副作用が酷いとか、そっちの問題があるんじゃないのか!?」
誇張表現ではなく、薬を飲み続けなければ死ぬとまで言われているというのに、そんな状況で遠出などしていいのかと、十夜は睨み付けるようにして声を荒げる。
別に怒っているわけではなく、本気で心配しているだけなのだが、傍から見るとただ怒っているようにしか見えないのが十夜の不器用なところだった。
「…まだ慣らしてない薬だから、ちょっと効きすぎるってだけかな…。副作用も、今のところは普段以上に眠いっていうことくらいだし…。慣れるまで、効きすぎるからって理由で他の薬の数とか減らしてるから、そこさえ気を付ければ別に大丈夫だよ…?」
声を荒げる十夜に対し、本来1番深刻にならなければならない瑞貴自身は、ほんの少しだけ考えるように視線を彷徨わせた後、、身を乗り出すようにして覗きこんでくる相手を宥めるように言葉を選びながら仄かな笑みを見せる。
「それは充分、大問題だろうがっ!」
宥めようとしたのは逆効果だったのか、十夜はますます声を荒げてそう叫ぶ。
「まぁ、十夜、落ち着け。俺たちが無茶をさせなければいい話だろう。十夜がそれだけ真剣に案じているのに、わざわざ無茶なことをする程、瑞貴は命知らずではなかろう」
代わりに十夜を宥めるべく言葉を挟んだのは、前の席に座る祐一だった。
彼は背後を振り返ると、同意を求めるように十夜と瑞貴に交互に視線を向ける。
「…少しでも無茶なコトをしたら、怒るからな」
祐一の言葉で、冷静になったというよりは今更自分が何を言っても変わらないということに思い至ったために、自分が気を付けて見ていればいいと無理やり結論付けた。
それに、遠出するとはいえ、あくまで学校から出された課題程度、外出許可も出ているのだし、そんな無茶な内容ではないのだろう。
「改めて…課題の内容、説明するね…。コレなんだけど…」
十夜が表面的に引き下がったので、瑞貴は話を切り替えてしまうべく本題を切り出した。
コレと言いながら、瑞貴は持っていたショルダーバッグの中から1枚の白い封筒を取り出すと、前の席の祐一に手渡す。
何故祐一なのかと言えば、祐一がクラス委員長だからなのだろう。
「内容を読めば良いのだな?」
封筒を受け取ると、祐一はそう言いながら中身を取り出した。
中には1枚の便箋と、プリントアウトされた地図、それから何かの鍵が入っていたようで、祐一は軽く首を傾げた後、便箋を広げて目を通す。
「……何といえばいいのか、流石はうちの学校だなというか、何を考えているのやら…」
便箋の内容を把握するなり、祐一は半眼になって呆れ交じりの溜息を零した。
「何て書いてあったんだ?」
興味津々の様子で、最後部の席から赤也が身を乗り出す。
「アウトドアを楽しみつつ、ついでに自由研究を兼ねたレポートを作成してこいという内容だ。同封されているのは、目的地の洋館の鍵らしい。勿論、自由研究とは名ばかりの、研究内容は勝手に決められているがな」
祐一は書かれてあった内容をざっくりと説明し、溜息と共に便箋を赤也に向けて差し出した。
「えー、何々…」
手渡された便箋に視線を向け、赤也はその内容を視線で追う。
「…この年齢になって、まさかこんなことをさせられるとはな…」
赤也の横から便箋を覗きこんでいた拓海が、内容を把握するなり小さく吹き出す。
「何て書かれてあるんだ…?」
自分で確認する気すら失せる友人たちの態度に、十夜は嫌な予感しかしないという態度でそう訊いた。
「肝試し、だとさ」
便箋の中身を全部読み終えた赤也が、可笑しそうに笑いながらそう答える。
「は…?」
聞き間違いなどではないと理解しながらも、十夜はそうであって欲しいという願望から声をあげた。
「古い洋館を、理事長の知り合いが買い取ったらしいんですけどね。あまりにもお誂え向きなんで、肝試しを兼ねてご招待だそうです。と言っても、あくまで肝試しなんで、ぼくたちだけで行けってことみたいですけどねー」
予め内容を聞かされていた雅臣は、十夜の反応に対して素直に内容を解説してくれる。
「結構遠いから、移動手段がないと困りますよね~って話をしていたら、和樹さんがこの車を貸してくれたんですよ~」
ニコニコと笑顔を浮かべ、雅臣が補足とばかりにそう説明した。
因みに、車はまだ病院の前に停まったままで、一向に出発する気配はない。
「…肝試し…?しかも、古い洋館、だと…?」
まるでホラー映画やホラー小説の冒頭そのままではないかと、十夜は嫌そうに呟いた。
別にホラーが苦手というワケではないが、特別好きというワケでもない。
コメディよりは好きかもしれないが、わざわざ自分で体験したいとは露程も思わないのである。
「大丈夫だって、もしお化けが出てきても、俺が退治してやるからさ!」
根拠があるのかないのかさっぱり分からないが、赤也が自信たっぷりにそう宣言した。
どこか楽しそうな口ぶりは、まるで本当に出てきたらいいとでも思っているような雰囲気ですらある。
「そうだな。お化け程度なら、赤也と俺が居れば撃退できるんじゃないか?」
適当に話しを合わせている風でありながら、こちらもまた妙に自信ありげに頷いているのは拓海だ。
赤也も拓海も、生身の人間相手ではかなりの勝率を誇る武闘派であり、バイトでシークレットサービスを務めているのは伊達ではないというくらいの戦闘能力を誇っているので、そういう意味では不安はない。
ただし、相手があくまで生身の人間であればという注釈がつく。
「…お化けって、実体あるのかな…」
ポツリと呟いたのは瑞貴で、少しばかり困惑気味に首を傾げている。
「えぇ!?実体ないんですかぁ!?ぼく、触れるお化けなら倒せるんで怖くないと思うんですけど、触れないならちょっと怖いです~」
普通逆じゃないのかと思うようなことを口にし、雅臣が情けない声を上げた。
「お化けというか、幽霊なら一般的には実体がないものだがな。安心しろ、雅臣。そもそも幽霊など、一般人には見えんからな。仮にいたとしても気付くことはない」
それのどこをどうとれば安心できるのか不明だが、祐一がややズレた太鼓判を押して大丈夫だと大きく頷いている。
「…実体ないなら、別にいいや…無害だろうし」
雅臣と対照的に、どうやら瑞貴は仮に存在していても存在を認知できない幽霊の方が抵抗はないらしく、あっさり無害認定してしまったようだ。
逆を言えば、自力で倒すコトが出来るかもしれない実体のあるお化けは、有害ということだろうか。
「もしかして、怖いのか?」
実体がある、つまり見えるお化けが有害だと言うのはひょっとして、と十夜は人の悪い笑みを浮かべて傍らの瑞貴を覗きこんだ。
苦手な物などないように見える友人にも、もしかすると苦手な物があるのかもしれないという、少しばかり性質の悪い考えなのだ、実際に苦手だというのなら普段の仕返しに少しばかり怖がらせてやろうと一瞬だけ考えてしまっていた。
本当は、苦手な物など無いように見えて、見る事すら出来ない恐怖の対象が存在していることは知っているのだが、それはからかうなどというレベルでは済まないし、本当の意味で怖がらせたいワケでも傷つけたいワケでもないので、当然ながら話題に出すコトすらしないように努めているのだ。
「…怖いっていうか…常識外の生き物だったら嫌だなって…。どう対処していいか、わからないし…」
人の悪い笑みを向けられた瑞貴は、十夜の言葉を肯定するでも否定するでもなく、ただそう言った。
「いや、お化けにそんな対処とか、リアリティ持って考えんなよ」
後ろからすかさず赤也の軽妙なツッコミが飛んできて、十夜もその言葉に合せてそうだと軽く笑ってしまう。
「多少の化け物ならば、どうとでも対処してやるから安心しろ」
可笑しそうに笑いを噛み殺しながら、拓海までもがそう言って、珍しそうに瑞貴に視線を向けた。
瑞貴という人間が、元々物事を深く考えていないように見えて、その実しっかりと熟考している性格だと知ってはいるが、よもやお化けという概念までリアリティを持って考えているのはオカシイというか、可愛いと言うか。
「仮に触れられるお化けが出る可能性があるとして、ソレでも参加するのか?」
そんなあり得ない仮定の上に成り立つ質問は、そもそも質問にすらなっていないと理解していながらも、十夜は傍らの相手に訊いた。
別にからかってやろうという意図があるわけでも、馬鹿にしているわけでもなく、単に話の流れで適当につないだだけなので、あり得ない質問だと訊かれた方も理解しているだろうという前提だ。
「…もしそんなお化けがいたとして、僕だけ不参加だったらたぶん皆に恨まれちゃうしね。あ、それと、赤也と拓海がやり過ぎたとして、止められるのは僕だけだし…」
冗談を冗談と理解した上なのだろう、瑞貴は先ほどとは少し違う種類の、しょうがないとでも言いたげな微かな笑みを浮かべてそう答えて小さく肩を竦める。
「それじゃ、お化け退治と決まったところで、さっそく出発しようぜ!」
自分が運転するワケでもないのに、赤也はそう明るく音頭を取った。
「待て、赤也。お化け退治が目的なのではなく、健全なアウトドアとついでの肝試しだ」
そんな赤也を冷静に止めるのは、いつも拓海の役割だ。
隣に座る赤也の脇腹を小突くようにして、拓海は出発する前からテンションの高い赤也を窘める。
「いや、拓海も少し待て。そもそも、そのアウトドアのための用品もホームセンターなどで調達してから向かうようにと書いてあっただろう。当然食材もだぞ」
最前列の助手席に座る祐一から、更に冷静な追い打ちがかけられた。
「キャンプ道具はルーフのケースに積みこめばイイって聞いてます~。あと、トランクはないですけど、後部座席の後ろにあるスペースにクーラーボックスとか買って積めば食材もかなり積めるって聞いてますよ~」
車の管理を任されたらしく、雅臣がにこやかにそう説明を加える。
アウトドア前提なのは別に構わないが、すべての準備を一任してしまうあたり、やはり志貴ヶ丘学園高等部の教師陣はだいぶオカシイ。
いや、そもそもそんな課外授業課題が出ること自体がオカシイし、教師陣だけでなくその課題のためにこんな車を用意して貸し与えてくれる瑞貴の兄もややオカシイかもしれない。
しかし、1番オカシイのは、この状況がオカシイと認識できていながらも、あっさりと受け入れてしまっているこの場にいる6人だろう。
「まず近くのホームセンターに行って、水とかキャンプ道具とか必要そうなものを揃えて積んだらいいんじゃないかな…。その後、スーパーに寄って、食品類とか細々としたもの買って…。途中で不足に気付けば、都度買えばいいんだし…」
最初から目的を知っていた強みなのか、瑞貴は計画というには大雑把すぎるが、当面の指針を口にした。
「…一応確認しておくが、学園から経費は支給されているのか?」
普通の考えて高校生のポケットマネーで賄えるようなレベルではないだろうと、十夜は友人たちの中で恐らく最も金銭感覚がズレている瑞貴に声をかける。
「大丈夫、兄さんから必要経費として現金とかカードとか預かってるから、拓海が。それに、名義がどうって言うなら、僕のカード使えばいいんだし」
さすが高校生ながらも驚くべき額の収入がある瑞貴の言葉は、とても世間ずれしたものだった。
「成程、気前のよすぎる経費だと思っていたが、そういうコトだったんだな」
瑞貴の言葉でコイツに言っても無駄だったと脱力してしまった十夜に変わり、逆に納得したとらしい拓海は先ほど和樹から預かった札入れとカードを取り出して頷いている。
「じゃあ、とりあえずホームセンター向かいますね~」
ようやく行動の方向性が定まったため、雅臣は再び全員にシートベルト着用のアナウンスをすると、ゆっくりと車を走らせ始めた。
学校から病院の前に向かう時よりも、心なしか安全運転度が増していると思うのは、車通りの多い道を走っているからなのか、それとも別の理由なのか。
程なくして大きなホームセンターに着くなり、各自必要な物を探して集合と店内解散が言い渡された。
因みに集合場所には、最初から瑞貴が待っていることになっている。
それというのも、諸事情により高校入学まで家と病院以外を知らずに過ごしてきた上に、家では使用人に傅かれ、兄にまで溺愛を通り越したレベルで愛され世話を焼かれてきた瑞貴にとって、アウトドアやキャンプにイメージは持てても必要な物が何ひとつ分からないという、そもそも探しに行くだけ時間の無駄という事情があるからだ。
ただ、瑞貴1人を置いておくワケにはいかない事情、要するに営利誘拐に持ってこいの人材であるという事情をこっそり鑑みて、十夜も自主的に居残りを決め込んでいた。
店内を物色している赤也や拓海は一応瑞貴のシークレットサービスを兼ねているし、護衛という存在ではないにしろ雅臣も特別気にかけているので、広い場所に1人で置いておいても少し気にしていればずっと視界に入れて置くことだって出来るくらいに安全なのだが、ソレでも1人にしておきたくなかったのか、単に物色するのが面倒なのか、十夜は集合場所に一緒にいる。
方々に散ってキャンプに必要そうなものを物色しにいった他の4人だが、赤也と拓海は主に寝袋などの簡易寝具やガスボンベとバーナーなど、衣食住の住の部分に関わるものを探しに行ったようで、逆に普段から料理を嗜む祐一や雅臣は、まさに食の部分に関わる調理器具や使い捨てやスチール製の簡易な食器などを物色しており、忙しく動き回る友人たちを遠目に、集合場所に残った瑞貴と十夜はすぐ近くにディスプレイされた風雨を凌ぐための撥水ジャケットなどを手に取って、必要なさそうだけど面白そうだから買ってみようなどとくだらなく笑いあっていた。
ホームセンターで1時間弱ほどかけて、彼らが揃えた物は、車の後部座席後ろに設置する大容量クーラーボックス2つと、長距離移動のために車内での飲食を想定したドリンク類を入れるための小さなクーラーボックス、それに電池式のランタン、クッション性の高いシュラフといったキャンプ道具の定番品、そして何を想定して購入されたのか少しばかり不明な天然水2リットルペットボトルが18本などが特に目につく。
因みに、シュラフ購入の理由は、車中泊を想定しているワケでもなければ当然テントを張って宿泊することを想定しているワケでもなく、単純に長距離移動で座りっぱなしなので、疲れないようにというクッションの代わりでしかないらしい。
それならば普通のクッションでイイのではと思いがちだが、撥水性や耐久性の高さを考えて、アウトドア中に普通のシートの上に重ねて敷けば、良い座布団の代わりにもなるんじゃないかという多様性を考慮して選んだのだという。
それ以外に、細々とした調理に必要な器具、それに食器類に関しては、逆に必要最低限の物を小さくまとめた感じで揃えられており、調理担当の祐一と雅臣が吟味を重ね選りすぐったものが持ち運びやすいプラスチックケースに収められていた。
学園からの課題であるアウトドアには、洋館での宿泊、洋館の設備の使用は可と書いてあったので、テントや蚊帳のような天幕は用意されていない。
ただ、ライフラインは通っていないとも書かれてあったので、バーベキュー用のコンロや炭などの燃料、それからガスボンベにガスコンロといったアウトドア御用達の器具は見繕われていた。
全部合わせればそれなりの大きさと重さなのだが、元々車内設置用のクーラーボックスと、クッション代わりのシュラフ以外のキャンプ道具一式は車上のルーフボックスに収めることが出来、大量に購入された水もほどんとがルーフボックスの中だ。
少しばかり入りきらなかったものは、食品を購入した後にクーラーボックスの上に積まれる予定で、取りあえずクーラーボックスの中に収められている。
キャンプと言えば道具に拘ってテーブルやイスを揃えたりする人も多いだろうが、彼らは前述のシートの上にシュラフを敷けば快適に過ごせるだろうと、荷物を減らす目的もあってそういった物は一切購入しなかったようだ。
深く考えていないような行動ばかりなのに、一応は考えているらしいという集団に、十夜はいつものように呆れ半分で対応しながらも、表面には出さずに少しばかり感心もしていた。
余裕を持たせて荷物を積み終われば、次は別の場所へ移動だ。
一行はそのまま食材を買い求めるためにスーパーやドラッグストアが並立するショッピングセンターに移動したのだが、この時点で既に太陽は中点に近く、朝早くから集合したのにも関わらず目的地に向けて出発する前に昼前となってしまった。
ショッピングセンターの駐車場に車を停め、一行は食糧という必需品を買い求めるために車を降りる。
「では、各自必要と思われる物を買ってくるということで、一同解散」
まるで何かの任務でも言い渡すかのような口調で、祐一が音頭を取った。
このメンバーで行動する場合、大抵は赤也が勢いに任せて号令をかけるか、祐一がまとめるかの2択だというのはいつもの事で、それに異を唱える者はいない。
「それじゃ、ぼくは安くて美味しくて日持ちするものを探してきますね~」
真っ先に自分の担当を決め、雅臣が意気揚々とスーパーに向かっていく。
最も主夫に適しているというか、家庭的な知識があり、保存や節約などにも精通しているのは、当然ながら雅臣なので、まるで水を得た魚のようだ。
「…え、缶詰とか?」
雅臣の背中に、瑞貴の小さな呟きが届く。
普段、食材の買い出しなど一切しないであろう人間の発想は、やや斜め上だ。
「えぇ!?確かに日持ちしますし安いでしょうけど、そういうのじゃないですよ~!?傷みにくい野菜とか、そういうものを中心に探すだけです~」
くるりと振り返り、雅臣は調理前の食材の購入であることを簡単に説明すると、スーパーの中へ消えて行った。
「キャンプと言えば、バーベキューだよな!で、長距離移動となれば、お菓子だよな!」
典型的な行楽目的の、食材というよりもメニューそのものを挙げて赤也がぐっと拳を握る。
「オレ、そういうの全般探してくるな!料理とか、よくわかんねーけど、バーベキューくらいわかるからさ」
自分の担当を表明し、赤也もさっさと雅臣を追ってスーパーの中に消えていく。
「…何だ、この、言った者勝ちのような分担は」
各自得意分野を活かすという訳ではないが、思いついた者から出かけていく図に少しだけ呆れながら、十夜はさっさとスーパーの中に消えて行った2人の背中に苦笑した。
「では、俺はごく普通の料理その他の必要そうな調味料その他を探してこよう。あとは適当に何かあれば買ってくるさ」
先に行った2人のフォローのように、祐一は自分の担当を表明して同意を求めるように他の3人に視線を向ける。
「あとは、飲み物とか、そういう物が必要だよな。他に必要な物って、何かあったか?」
拓海は祐一に向けて確認をするようにそう訊いた。
この6人の中で、衣食住の食の部分に特化しているのは、プロの料理人顔負けの祐一と、完璧な主夫である雅臣だ。
そういう事情から、必要な物が不明な場合は彼らに聞けばそれなりに間違いなく揃うという、餅は餅屋にという流れだろう。
「そうだな。長距離移動ということと、山奥に向かうということを加味すれば、途中で飲料を調達できない可能性も高い。それなりに考えて買った方が良いかもしれんな」
拓海の言葉に、スーパーに向かおうとしていた祐一がしっかりと頷いた。
「…そういうのわからないから、僕、向こう見てくるね」
衣食住の食は特に管轄外だとでも言いたげに、瑞貴はそう言ってドラッグストアを示す。
「…何を買いに行くつもりだ?」
果たしてドラッグストアに何の用なのかと、十夜は不思議そうに首を捻る。
まさかソコで携帯用保存食でも探しに行くつもりだろうかと一瞬だけ考えて、いくら何でもたかがアウトドアとオマケの肝試しくらいでその発想はないだろうと自分で打ち消した。
「古い洋館が目的地でしょ?小さな怪我とか、ありそうかなって」
ドラッグストアを指して、瑞貴はそう言って小さく笑う。
言われてみれば確かにその可能性はありそうだと、十夜は小さく納得したが、同時にそっちも専門外だろうという思考が脳裏を過る。
「貴様が探しに行って、応急手当に必要な物が揃うとは思えんがな」
怪我以前に危ないコトとは無縁の生活を強いられている相手を上から下まで眺め、十夜はそう言った。
必要だと思いついたところは評価に値するのだが、本人の身体能力と置かれている環境から、食材と同じくらいに専門外ではないのかと言外に指摘する。
「それなら、俺が着いて行くさ。一応シークレットサービスでもあるからな、応急処置についての知識もあるしな。十夜は祐一と一緒に行って、飲み物類などの調達を任せていいか?」
十夜の指摘に別の意味で納得したらしい拓海がそう言ったことで、全員の分担が決定した。
結果的に飲料関係を請け負うコトになった十夜だが、ある意味では適材適所だと言えるかもしれない。
飲み物類という指定ならば、大きい方のクーラーボックスに入れて置く2リットルサイズのお茶やスポーツ飲料のペットボトルをいくつか見繕えば解決だ。
こういう時、例えば目先のイベントであるバーベキューという思考になってしまっている赤也に任せたりすれば、炭酸飲料などの甘い物を中心に揃えかねないのだが、冷蔵庫が搭載されているワケでもない車内に長時間置いておけばある程度常温に近くなってしまい、美味しくなくなってしまう。
それに、1度で飲み切らなければいけないようなものは、はっきり言って不向きだ。
十夜自身、恐らく気付いていないのだろうが、彼は見ていないようできちんと周囲の友人たちを具に観察している。
結果的に、彼らの志向通りとでもいうか、ある程度の好みは無意識に記憶されていて、自然と選ぶものは普段から選ばれている銘柄ばかりだった。
それぞれが勝手に役割を決めて必要な物を買い求めて戻ってきたのは、解散から30分程度経った頃だ。
打ち合わせもなくバラバラに出て行った割りには、まるで申し合わせたように再集合を果たし、買ってきた物は祐一と雅臣の最終チェックを経て、ようやくこれで遠出する準備が完了した。
ついでに昼の時間だという理由で、そのまま付近で軽く食事という流れを経て、ようやく遠方に向けて出発出来るようになった時間は、昼を過ぎてからだ。
「でさ、目的地って、ドレくらい遠いんだ?」
車に乗り込み、移動を開始し始めたとはいえ、彼らはまだただの遠足気分で、赤也は暢気に運転者である雅臣に問いかけた。
「道が混んでなければですけど、そんなにかからないと思いますよ~。たぶん、3時間もあれば目的地付近には着くんじゃないですかね~」
免許を取って1年に満たないハズの雅臣だが、既に相当慣れているのか会話に応じながらあっさりとそう答えている。
「3時間って結構な距離じゃないのか?」
そこまで離れた場所に行くのかと、十夜が口を挟む。
詳細な地図など、学園側から下された指令の紙を唯一見ていない十夜は、そもそもの目的地すら知らない状態だ。
別にそれでも集団で行動している上に、十夜が車を運転する可能性は皆無なので問題はないのだが、今更になって少しばかり遠方すぎではないのかと感じたらしい。
別に高校生ばかりで県外に外泊自体はおかしなことではないのだろうが、付随する様々な状況を加味すれば、遠方であればある程、何かあった時にどうするのだろうかという疑問が浮かぶ。
「本気出したら1時間くらいで着くかもしれませんけど、たぶんスピード違反で捕まっちゃいますよ~」
運転席の雅臣から、発言の不穏さに似合わないくらい暢気な声が届く。
「何の本気だっ!出さんでいいっ!」
条件反射で怒鳴り返し、十夜はいつもと変わらない能天気な友人に苦笑する。
「冗談ですよ~。山の中を通るんで、安全運転を前提に長めに時間計算してるだけですから、実際はそんなにかからないと思いますよ~」
雅臣は怒鳴られたことを気にした様子もなく、のほほんとそう言った。
楽し気に会話をしながらも、安定感のある運転は、免許取立てとは程遠いくらいに慣れているようにすら思える。
車が走り出して30分くらいは、物珍しさと開放感からそれなりに騒がしかった車内だが、慣れたというか今から疲れては本末転倒だと気付いたからなのか、落ち着いた空気が流れていた。
会話がないというわけではないのだが、出発して間もない頃のような、無駄にハイテンションの空気は消え去り、代わりに普段とは異なる風景に視線を奪われる頻度が少しずつ増えていく。
車を走らせ始め、1時間半が経過した頃だろうか。
学園が位置する場所も都会とは程遠く、そもそも山の中腹にあるのだからそれなりに自然の溢れる環境に慣れている彼らでも、思わず遠くまで来たものだと感じるくらいの景色に変わっていた。
道は存在しているものの、あまり人の手が入っているとは思えない深い森林。
最後に民家らしき物を見かけたのは、30分以上前だ。
舗装されてはいるものの、道の脇は苔むしており、普段から人通りがないことをうかがわせる。
「…あれ?」
すれ違う車もなくなってそろそろ何分が経過しただろうか、運転していた雅臣が不思議そうな声を上げて車を停車させた。
「通行止めか?」
目の前の光景に、ナビゲーター役を買って出た助手席の祐一が小さく声をあげる。
止めた理由をわざわざ聞くまでもなく、目の前には一体いつ設置されたのかも不明な通行止めのバリケードがあった。
劣化具合からすれば、相当な年月が経過していると思われるソレが道を中途半端にふさいでいるため、横をすり抜けて通れはするが念のために雅臣は車を停めたらしい。
本当に道を通行止めにしているのか、撤去が面倒なのでそのまま放置されただけなのか、判断に迷う。
「…随分と古いな」
後ろから覗きこむようにして通行止めのバリケードを見た拓海は、見たままの感想を呟く。
「これ、通ってイイのかな。ちょっと、降りて見て来ようか?」
同じように覗きこんだ赤也は、目を瞬かせるとそう言って返事も待たずにドアを開ける。
山特有の、青々とした清々しい香りと少し湿った涼しい空気が車内に入り込む。
普段と違う濃密な空気だけで、日常とかけ離れた遠方までやってきたのだという実感がわいた。
「気を付けろよ。滑るかもしれないぞ?」
赤也の後を追うように、拓海も車外に降りる。
対向車ともすれ違わず、民家もかなり遠いこの場所は、明らかに人の手が入っていないというよりもかなり長い期間放棄されている場所に見え、拓海は一応注意を促した。
「大丈夫っぽいぞ。ちょっと、ソコの奥まで見てくるわ」
放棄されて随分と経過してはいるものの、あくまで舗装された道で、特に支障はないと判断したらしい赤也はバリケードを越えてその奥へと姿を消す。
行動力があるというか、考えるよりも体を動かす派の赤也は、迷った時はまず行動という性格だ。
赤也ほど先陣を切って行動するという程でもないが、拓海も同じようにしてバリケードの向こう側へと姿を消した。
怪我をして帰ってくるような2人でもないので別に止める必要もないのだが、深く暗い木々の向こうというのは、少しばかり不安にさせる。
けれど、祐一や十夜は彼らに追従しようとは言いださない。
そもそもの身体能力が違いすぎて、赤也と拓海ならば問題がない場所であっても足手まといになる可能性の方が高いからだ。
雅臣に至っては、身体能力的には何の問題もないのだが、そもそも唯一の運転役ということで車から降りると言う選択肢は存在しない。
「…僕も見て来ようか?」
姿の見えなくなった友人たちの見えない背中を視線で追いながら、少し困惑の混ざる空気に支配された車内で、控えめにそう発言したのは瑞貴だった。
主に十夜に向けて、許可を取るというかお伺いを立てるという雰囲気なのは、余程の事情がない限り、こういう提案は却下されると経験則で知っているせいだ。
確かに、身体能力だけで考えれば、祐一や十夜よりも余程安全に確認してこれるだけのスペックを持っているのだが、基本的に瑞貴がそういう場に借り出されることはない。
「貴様は目の届く範囲にいろ。ホイホイ動き回られると、俺の精神衛生上、かなり有害だ」
即座に十夜が提案をスッパリと却下する。
十夜の言う精神衛生上というのは、主に見た目と置かれている状況のせいだ。
実際の身体能力がいくら高かろうが、見た目には絶対そう見えないので、大丈夫だと知っていても不安になってしまうというのが主に十夜と雅臣の言い分だった。
重ねて言えば、ソレが本当に見た目だけの問題で片付くのならば、恐らく十夜も割り切って見送るコトが出来たのかもしれないのだが、病院に通いながら常に薬を服用し続けなければいけないという事情が、余計に不安を煽っているのだ。
「…いつも言うけど、動いちゃダメとか、そういう病気じゃないからね…?何度も言ってるけど、体育の授業に出ちゃいけない理由だって、十夜と同じ理由だよ?」
案の定、きっぱりと却下した十夜に、瑞貴は毎度のことだが小さな溜息と共にそう説明する。
毎回ほぼ同じ内容を伝えているし、相手もソレを理解しているハズなのだが、それでも素直にゴーサインが出る事はない。
「ソレは知っているが、そう見えないんだから仕方ないだろ」
そして十夜が言い返す言葉も、毎回ほぼ同じだった。
知っていてもそう見えないために自分の精神衛生上よろしくないという、割と自己中心な発言で、言われた瑞貴は呆れるなり怒るなりしてもいいものなのだが、そういう反応が返ってくることはない。
ただ少しだけ困ったように笑うだけだ。
「…見た目は、どうしようもないんだけど…」
ソコを指摘されても困ると、瑞貴はいつも通り微かに笑いながら、予定調和のように言葉を交わす。
普段なら、ここでこの会話は終了だ。
「そもそも万全の状態ではないと言ってただろうが。そういう時くらい大人しく自粛しようという発想はないのか?」
けれど、今日に限って、会話は途切れずそのまま続いた。
十夜の中の何かの琴線に触れたらしく、そのまま説教モードに突入してしまったらしい。
「ぇ…。ええと、そういうモノじゃないんだけど…」
怒られているはずの瑞貴は、相手の言い様に少しだけ苦笑しながら、適当に言葉を濁しつつ火に油を注がないように相手を窺う。
十夜がこういう風に怒っている時は、単に相手の身を案じているだけだと理解しているので、祐一も雅臣も言葉を挟むことはない。
それどころか、祐一は我関せずといった様子で、赤也と拓海が消えた先に視線を向けていた。
雅臣は所在無げに視線を彷徨わせてはいるものの、どちらかに味方出来るものでもなし、大人しく口を挟まず成り行きを見守っている。
「じゃあどういうモノなんだっ」
1度スイッチが入ってしまったせいなのか、十夜は大きな声で相手に詰め寄った。
元々すぐ傍、隣に座っているせいで近い距離が、一気に縮まる。
「どういうモノって…。どう説明していいのか分からないんだけど…、薬の種類が普段と違うから、慣れるまでちょっと負荷が大きいかなってくらいで…」
詳しく噛み砕けばきちんと説明出来るのかもしれないが、ザックリ説明出来るようなものでもなく、瑞貴はやはり適当に言葉を濁すような説明しかしない。
そもそも医療に関して知識が豊富というわけでもない十夜相手に、詳細に説明をしたところできちんと把握できるかは怪しいところだ。
ソレは十夜自身もよくわかっているので、十夜が求めている説明は、本当はそういうモノではなかった。
強いて言えば、十夜が求めていたのは、安心感だ。
「だったら、やはり貴様は大人しくしていろっ」
十夜にとって、目の前の相手が無事でいることがとても大きな意味を持っている。
友人たち全員等しく大切だと思ってはいるが、瑞貴だけはその中でも特別だった。
十夜にとっての瑞貴は、自分にとっての道しるべであり目標であり、そして崇める音楽の女神が具現したようなもので、ある意味での精神安定剤と言い換えても差し支えない程だ。
いつものように仄かな笑みで見ていてくれるだけで、十夜の演奏はその時出来る最高の演奏になるくらいに、十夜の音楽にとって無くてはならない存在なのである。
素直に心配だと言えない十夜は、憤然と言うだけいってそっぽを向いた。
相手に自分の感情が見透かされていることなど、解りきっているため、急に恥ずかしくなってしまったらしい。
「…別に、動き回ろうが大人しくしてようが、変わらないんだけどね」
横を向いた十夜に小さく苦笑すると、瑞貴は小さく独り言ちる。
けれど、大人しくしていて欲しいという友人の願いを叶えるべく、ただ窓から外を眺めるだけで外に出たりはしない。
木々に陽の光が遮られ、影を落とす風景を眺める姿は絵になるが、辺りが薄暗いせいかどころなく憂いを帯びて青ざめて見える。
2人のやり取りがひと段落したのを感じて振り返った祐一は、瑞貴を見てこれは十夜が止めたくなる気持ちも分からないではないと内心苦笑していた。
別にタイミングを見計らったワケではないのだろうが、ちょうど静かになった辺りで赤也と拓海がバリケードの奥から姿を見せる。
2人共、困惑を隠せない表情のまま車のすぐ傍まで戻ってくるなり、盛大に肩を竦めて見せた。
「どうでした~?」
車内の微妙な空気を打ち消すように、雅臣が窓を開けて赤也と拓海に声をかける。
「道自体、別に通れなくも無さそうなんだけどさ、見た感じ」
困惑の様子を隠せないまま、赤也が見て来た感想を口にした。
「別にこの先で道が消えているような土砂崩れのような兆候はなかったんだが…」
赤也の言葉を補足するように、拓海はそう言って思案気に眉根を寄せる。
「それじゃ、このまま進んでも良さそうですかね~?」
通れそうだという2人の言葉に、雅臣はのんびりと笑う。
別に迂回路を探したところで、さほど時間はかからないだろうが、進めるならこのままの方が解りやすいとでもいうところだろうか。
「進んでみて、無理ならば引き返せばいいのではないか?」
実際に道を見たワケではないので2人の困惑の理由は分からないかか、祐一が間を取る提案を口にした。
「たぶん、普通に通れると思うんだよなぁ…」
車内に戻りながら、赤也は首を捻りつつそう言って何かを考えるような素振りを見せる。
「というよりも、割と最近、大きな車が出入りしたような形跡があってな…。この先の枝が少し折れていたからな」
赤也に続いて車内に戻りながら、拓海が道の先を指す。
曲線を描く道なので、ここからいくら視線を巡らせても該当箇所は見えないのだが、言われるままに雅臣は首を巡らせて見えない道の先を探すように視線を向けた。
「それなら、この先が通れないということはないんじゃないか?貴様らは一体何が疑問なんだ?」
通った形跡があるのなら、進めばいいのではないかと十夜はむしろ赤也と拓海の様子が不可解だと言わんばかりに首を傾げる。
「いや、大きな車が出入りしてるとしてさ、ココにバリケードあったら通れないサイズなんだよなぁ。実際通ったんなら、何でココ封鎖したままなんだろうなって思ってさ」
実際に道の先を見て来た赤也が、フロントガラス越しにバリケードを指してそう言った。
「もしかすると、進んだもののもっと先で通行できないような場所があって、戻ってきた可能性があるということか?」
ソレに対し、祐一が首を傾げてそう訊く。
それならば、素直に通れ無さそうだと言えばいいのではないかと言外に匂わせていた。
「それが、その車が引き返してきた形跡がなくてな。車の轍が残っていたからな」
普段あまり使われていない道だからなのか、拓海がそう言って赤也と2人で首を捻っていた理由を明らかにする。
学園からの指示書に同封されていた地図と、カーナビで表示された道は、間違いなくこの道であることは運転者の雅臣と、ナビゲーター役の祐一、それから面白がって地図とカーナビを見比べていた赤也が確認済だ。
山道に入る前や、最後の民家を見かけた時も話しながら外の景色を見ていたので、ここが決して私有地や私道でないことも解っている。
そもそも国道としっかり標識が出ていた。
それなのに、他の車が通った形跡だけがあるのに通行止めのバリケードが設置されている。
赤也と拓海の推測が正しければ、つまり1度バリケードをどかして進入した後、わざわざバリケードを戻し、それから奥へと進んで行ったということになるわけだが、この先は彼らの目的地がある以外、特に何も無さそうだ。
何故こんな場所に洋館を建てたのかというくらい、人里離れており、自然は豊かだがオートキャンプ場などのレジャー施設があるワケでもない。
彼らは洋館の鍵を預かっているので、最低限風雨はしのげる屋根のある場所に滞在できる前提だから問題はないが、別の山に抜けるような道も地図上は存在していないこんな場所に、その車とやらは一体何の用だったのだろうかと疑問に感じたらしい。
「…気になるなら、少し戻って人が住んでる場所まで行って、聞いてみるっていうのは?この先って進んでもいいんですか?って」
窓の外を眺めたまま、瑞貴は悩む素振りも見せずにあっさりとそう呟いた。
ここで悩んでいても埒が明かないのは確かで、その発想は正論ではあるのだが、思わず同乗者たちは顔を見合わせる。
そもそもソレが時間の無駄だから先に進もうとしていたハズなのだが、しかしこうしていても埒が明かないのは事実だ。
「そうですね~。進んでみて細い道で通行止めとかだと、戻るのも大変ですし、少し戻って聞いてみますか~」
結局は、運転者の雅臣がそう言って車をUターンさせたことで指針は勝手に固まった。
山の天気は変わりやすいとは言うが、まだ15時くらいだと言うのに晴れていた空には厚い雲がかかり始めている。
本来なら夏の眩しい日差しが暑苦しいハズなのだが、分厚い雲に陽射しは遮られ、山で冷えた空気が少しばかり寒々しい程だ。
「コレ、早く目的地つかないと雨降りそうだよなぁ」
窓から見える空を見上げ、赤也が独り言のように呟いた。
「近くに大きな川などはなかったハズだ。最悪、雨が降ったところで車での移動だし、支障はないんじゃないか?」
運転者が平気ならだが、と拓海は周辺の景色を見渡し、そう告げる。
確かに道は舗装されているし、近くに増水して氾濫しそうな河川もない。
視界が多少遮られることや、車から建物へ移動する際に少しばかり濡れる程度で、テントを張るわけでもないのだから特に気にすることはないだろうというのが、拓海の見解だった。
「あ、ぼくは別に雨だろうが運転は平気ですよ~。真夜中に山道を思い切り飛ばしてくれって言われても、大丈夫ですから安心してくださいね~」
事故ったりしませんから、と明るく笑う雅臣だが、真夜中に山道を飛ばすという可能性は恐らくないだろう。
それに、高校生に実際そんな運転をされてしまったら、世の自称走り屋たちの面目は丸つぶれだ。
「真夜中に山道を飛ばすって、どんな状況なんだ…」
素直と言うか、違和感のある発言を聞き流せない性質の十夜が思わずといった様子でツッコミを入れている。
少しだけ想像しようと試みたのか、何とも言えない微妙な表情をしていた。
「そうですねぇ、例えば急病人とか~」
深く考えていないのか、雅臣は車を走らせながら暢気に笑っている。
「いや、救急車を呼べばいいだろう…」
うっかり素で、十夜はそう呟いていた。
雅臣が本気でそんなことを考えていると思ったワケではなさそうだが、ソコは一般車両ではなく素直に緊急車両を呼べばすむ話だと、融通の利かない性格の十夜は半ば無意識に口にする。
「…廃村とか…?」
そこへ、普段なら言葉を挟まない瑞貴が、小さく首を傾げながらポツリと零す。
「…廃村で急病人が出るワケないだろうが」
ある意味で一理あるその発想に対しても、十夜は律儀にツッコミを入れる。
大前提として、真夜中に山道を飛ばすこと自体が危険であり、そうそうそんな事態が訪れるコトはないと理解しているからこそ、こういうくだらない会話になるのだが、それが解っていてもついつい何かしらツッコミを入れてしまうのは十夜の持ち味と言えば持ち味だ。
「まぁ、廃村に人がいたら、ソレはもう廃村じゃねーもんなぁ」
そりゃそうだとカラリと笑って赤也が後ろから十夜の肩をポンと叩く。
「あまり話に夢中になっていると、人を見落とすのではないか?」
前の助手席から祐一が後部座席の友人たちに注意を促した。
道を探しながら進んできた最初よりも、来た道を戻るだけの方が早いのは当然だろう。
最初に通った時は30分程かかった道のりも、ただ戻るだけならその半分くらいで済んでしまったらしく、既に民家らしきものや畑が視界に入りだしていた。
けれど雲行きが怪しくなってきたせいか、視界に人影を見つける事は出来ない。
「この天気じゃ、少し戻らないとダメですかね~」
徐行するでもなく、通常のスピードのまま車を走らせる雅臣は、本当に人を探しているのか、まっすぐ前を見たままだ。
最も、他の5人がそれぞれ外を見ていれば、誰かしら人影があれば見つけられるハズなので、問題は無さそうではあるが。
「そういえば、もう少し先にローカルなコンビニのような店があったな」
昔の駄菓子屋を思わせる店構えがあったことを思い出し、拓海が指摘した。
確かにそこまで行けば、誰かしら人は常駐していそうだ。
「じゃあ、ソコまで戻っちゃいますね~」
そう宣言すると、雅臣は少しだけ車を加速させた。
次第に暗くなっていく怪しい雲行きに、雨が降る前に目的地に着きたいとでも思ったのかもしれない。
車を走らせること、およそ10分。
小さな農村を思わせる村の入口くらいと思われる場所に、バス停とベンチと昔の駄菓子屋のような店構えの雑貨屋が姿を見せた。
「着きましたよ~」
車を停め、雅臣は明るく友人たちを振り返る。
「よく道を完全に覚えていたな…」
いくら来た道を戻っただけにしろ、割と曲がりくねっていたり、幅の変わらない横道が多い中、よくも迷わずここまでたどり着いたものだと、助手席に乗っていた祐一は素直に感心していた。
途中で1度や2度くらい道に迷うのも、知らない土地ではよくあるコトだし、旅の醍醐味でもあるのだが、雅臣は余程空間把握に長けているのか、迷うことも考える事もなく、あっさりと目的地に辿り着いてしまっている。
「来た道を戻ってきただけですからね~。知らない場所へ行けとか、迂回しろとか言われたら、流石にぼくだって迷いますよ~」
雅臣はそう言うと、車のエンジンを切った。
「それじゃ、ぼく、聞いてきますね~」
先程は車の中で待っていた雅臣だが、元々パシリ体質というか率先して動く性格なので、今度は真っ先に行動を起こしたようだ。
「あ、オレもオレも!」
珍しいコトや楽しいコトに目がないというか、何でも行動しないと気が済まない性質の赤也も続いて車から降りる。
「…せっかくだ、少し外に出てみるか?」
店の奥に向かって呼びかけている雅臣を眺めながら、拓海が他のメンバーにそう提案した。
ずっと車の中にいるだけでは、遠くまで来た実感がわかないのではないかと外を指す。
「そうだね。少しくらい外の空気に触れないと、勿体ないよね」
拓海の言葉に真っ先に賛同したのは瑞貴で、その様子に十夜は少しだけ驚いたように目を丸くしていた。
普段の瑞貴なら、こういう時、無理やり連れださないと自ら動かないような性格なのだが、やはり遠くまで来たという開放感なのだろうかと小さく首を傾げる。
「…十夜、どうしたの?道を聞きに行くのなら、全員で行った方がいいでしょ?」
目を丸くしている十夜に、瑞貴は小さく笑うと行動を起こした理由を明らかにした。
「貴様にそういう類の協調性があったことに驚いてるんだ」
十夜は、正直に思ったまま、瑞貴に対してそう言いながら車から降りる。
基本的に完全な自己完結型の性格である瑞貴の割には、道を聞くということ自体珍しい行為に思えてくるくらい、十夜の中の瑞貴という人物像は大人しいというか率先して行動を起こさない人間だった。
「学校とか、誰もが知ってる安全な場所なら何もしないけど…。知らない場所だから、全員がある程度知っておいた方がイイのかなって。道を聞く以外にも、何か教えて貰えるかもしれないでしょ?例えば、洋館の元の持ち主とか」
だったら情報の共有者は多いに越したことはないと、瑞貴はあっさりとした口調で言って、店内へ姿を消した雅臣と赤也の後を追う。
「俺たちも行くとするか?」
残された祐一が、発案者でもある拓海に声をかけた。
外に出てはどうかと提案した本人が、外に出る気配がないからだ。
「車を無人にするワケにもいかないだろ?俺が残るから、祐一も行って来たらどうだ?」
唯一の移動手段である車に何かあってはマズイと、拓海は動かない理由を口にした。
視界に映る範囲には人影もなく、せいぜい雨に降られそうだということ以外に危険があるようにも思えないのだが、万が一ということもある。
「…そうか。では、お言葉に甘えて俺も道を聞いてくるなりしよう」
ずっと座っていたのでは逆に疲れると、祐一は拓海の言葉に納得しながらそう言って席を立った。
友人たちのいなくなった車の中では、拓海は特にすることもなく周囲に視線を巡らせているだけだ。
一方、店の中へ向かった方はといえば、店中をくまなく探しても店番代わりの猫や犬に遭遇するどころか、誰にも遭遇出来ずに首を傾げながら外へ戻ってくる。
「う~ん、農作業にでも出かけてるんですかねぇ~」
真っ先に店内へ踏み込んだはずの雅臣が、店内を一周して呟いたのがこの言葉だった。
「天気も崩れそうだし、急いで行ったのかもなー」
同じように店内を見渡してから、赤也もそう言って誰もいないと後から来た友人たちに告げる。
「…その割には、誰も見かけなかったよね。どこまで出かけてるんだろう…」
田畑らしき場所を通り抜けて戻ってきたのだが、道中人影らしきものは見なかったと瑞貴は小さく首を傾げてそう呟いた。
「それなりに入り組んでいたからな、通りに面していない場所にでも行ったんじゃないか?」
他に考えられるものもなく、十夜はやれやれと肩を竦める。
ここまで戻ってきたものの、何の情報も得られそうにないなと周囲を見渡す。
さてどうしたものかと、後から来た祐一を加えて5人が何となく顔を見合わせた時、車のエンジン音らしき音が聴こえてきた。
音の方を見れば、白いワゴン車が走ってくるのが見える。
その方向は、6人が最初に通って来た街の方からでもなければ、これから向かおうとしている、一旦引き返してきた道でもない。
別の道、恐らくこの周辺の民家かどこかから、街に向かうべく出て来た車のように思えた。
「あの~すみませ~ん!」
ちょうど近くを通って行く車に、赤也は大きな声をかけながら駆け寄っていく。
長閑な風景に溶け込むように、ゆっくりと走行していたワゴン車は赤也の姿に気付いたのか声が聞こえたのか、ピタリと止まった。
「あんれぇ、珍しい、こんな辺鄙な場所に若者がおるとはな。道にでも迷ったんか?」
窓を開け、顔を覗かせたのはがっしりとした体格の、よく日焼けした中年男性だ。
駆け寄った赤也を筆頭に、長閑な村にそぐわない外見をした高校生たちの姿を認めるなり、驚いたように声を上げた。
普段から野良仕事で鍛え上げているのか、ハリのあるよく通る声と屈強そうな体格に似合わず、実に暢気な口調だ。
「あー、迷ったって言うか、この先の洋館に呼ばれてて…。で、通行止めってなってたから、通れないのかなって思って戻ってきたんだけどさ」
気さくな雰囲気の中年男性に、赤也が笑顔で話しかける。
人懐っこいというよりは、警戒心を持たなさすぎる性格の赤也は、こういう時に真っ先に相手の懐に飛び込んでいく傾向にあった。
「あぁ、あの先に行きよるんか。あの先にも、小さな村はあるし、通れはするけども。洋館なんてあったかいな」
行先の道を指す赤也に、中年男性はすぐに目的地を察したらしい。
男性の言葉によれば、あの先にも人が住む場所は存在しているらしく、それならば車が通った後、戻ってきた形跡がないことも納得だった。
「なんか、だいぶ前に放棄された洋館らしいんだけどさ、おっちゃん知らない?」
放棄されたとまではどこにも書かれていなかったが、お誂え向きだから肝試しにと言われたことを加味して赤也がそう笑顔で問いかける。
別に洋館までの道のりの地図はあるのだし、目の前の男性が隣の村のことを詳細に知らなくても問題はないのだが、赤也は人懐っこく話しかけていた。
「もしかすっと昔の村長さんの別邸のことかもしらんなぁ。まぁ、そんな広い村でもなし、行ってみたらすぐ見つかると思うけんどな。あぁ、でも、雨も降りよるし、気をつけてなぁ」
考えるような素振りを見せた後、中年男性は唯一思い当たる可能性を口にして、ついでに天候と重ねてそう言う。
人の良さそうな笑みを浮かべ、赤也だけでなく他の高校生たちにも視線を向けた。
「ありがとーおっちゃん、呼び止めてごめんな!」
どこかへ向かおうとしていた車を呼び止めたことを詫び、赤也は男性に明るく礼を言って手を振る。
知りたかったこと、要するにあの先の道は通れるのかということが分かっただけでも、十分な収穫だ。
「そいじゃ、気を付けて行くんよ。山は危ないかんね」
明るく手を振り返し、男性はそう言って再び車を走らせていく。
手を振る際に、腕に嵌めていたやけに大きな腕時計が、何となく印象的だった。
出で立ちはどこにでもいる農夫のようだったのに、サバゲーマーを思わせるミリタリー風味の時計は少しばかりミスマッチにも思えるが、防水防塵という意味では確かに野良仕事に適しているのかもしれない。
街へ向かうその車を見送り、改めて周囲を見渡したところで、ポツリと空から水が降ってきた。
「やべ、降ってきた!」
雨に気付いたらしい赤也が、慌てて声を上げた時にはもう遅く、ポツリポツリと降り始めたと思った次の瞬間には、一気に大粒の雨が降り注ぐ。
「わ、急いで車に戻ってくださいぃ~」
濡れる濡れると、雅臣が大慌てで声を張り上げる。
真夏に多少濡れたところで、酸性雨で髪や肌が痛む以外にはあまり害は無さそうだが、車の中も濡れるし服も濡れたら濡れたで張り付くしで出来ることなら避けたいものだ。
外に出ていた5人は、何とかずぶ濡れになる前に車の中に避難することに成功したが、それでも全く濡れなかったというワケではない。
「いきなり降ってきたな…」
唯一、車の中に残っていたために全く濡れずに済んだ拓海が、慌てて車に駈け込んで来た友人たちを出迎えてそう言った。
アウトドアの必需品として、スポーツタオルを用意していたことが幸いしたとでもいうべきか、拓海はそれを積んでいたクーラーボックスの上から取り出すと、友人たちに手渡す。
「いきなり土砂降りかよ…」
タオルを受け取り、赤也は濡れた髪を拭いながら恨めしそうに空を見る。
彼らが車に避難し終えた頃には、大粒の雨が窓や屋根に叩きつけられていて、あと少し退避が遅ければ完全にずぶ濡れだったという具合だ。
「山ですからね~。雨だと、ちょっと肌寒いですよね~、濡れちゃってますし」
タオルを受け取った雅臣は、車のエンジンを掛けながら苦笑する。
夏とはいえ、山の中で、雨ともなれば、流石に少しばかり冷えるのは仕方がない。
だからと言って暖房を入れる程でもなく、空調は相変わらずただの送風だ。
「雨が止むまで待ってもいいぞ、雅臣。さすがにこの視界では、危なくないか?」
叩きつける雨は、先ほどまでかなり開けていた視界を一気に狭めてしまうくらいで、祐一は助手席から道を眺めながら運転席の雅臣に声をかける。
舗装されているとはいえ、手入れのあまり行き届いていない道、でこぼこになった場所には、既に大きな水たまりが出来ていた。
「大丈夫ですよ~。ソレに、しばらく止みそうにないですよ~この雲じゃ」
運転に関しては心配ないと雅臣は明るく請け負い、同時に空を指してそう笑う。
見渡す限り重い雨雲が続いている空は、確かに少し待った程度では雨脚は弱まりそうにない。
「…行くなら、本当に通行止めになる前に行った方がいいかもね。雨、強すぎたら道無くなっちゃわない?」
空を見上げるようにしていた瑞貴が、小さく首を傾げてそう言った。
あまり広くもない山道は、確かに最悪のケースとして土砂崩れが考えられる。
「コレで肝試しできませんでした、とか言ったら、間違いなく単位貰えないよな、オレたち」
あの学校だしなと赤也は明るく笑いながらも肩を竦めて見せた。
「…まったく、本当にあの学校は何から何まで間違ってるとしか思えん…」
吐き捨てるように言った十夜の言葉は、赤也の言葉に対する肯定の現れだ。
「じゃあ、通れるうちに行っちゃいますね~」
赤也と十夜の言葉に、前に進む以外の選択肢がないと判断したのか、雅臣はそう言うと車を走らせ始める。
雨で視界が狭いせいもあって、最初に通った時と同じくらいの時間をかけ、再び通行止めのバリケードのところまで戻ってきた彼らを出迎えたのは、やはり変わらず設置された通行止めのバリケードだ。
雨が強く叩きつけられているせいか、心なしかズレているようにも思えるので、もしかするとバリケードの役割は殆ど果たせていないのかもしれない。
「それじゃ、通過しま~す」
別に宣言する必要もなさそうなものだが、1度ここでひき返したという流れもあってバリケードの横をすり抜けながら雅臣がそう口にした。
バリケードさえ抜けてしまえば、ごく普通の山道が続いているだけだ。
雨が降っているのに、土砂が全然道路に落ちてこないくらいには、見た目よりもきちんと排水や土砂落石防止の整備がされているらしい。
そのまま車を走らせることおよそ20分くらいだろうか、通行可能だと教えてくれた中年男性の言葉通り、山道ではなく農道風の開けた道へと変わって行った。
更に少し走らせれば、先ほど通過してきた農村よりはやや寂れた雰囲気の、こじんまりとした民家がいくつか視界に入ってくる。
それ以外にも、農家の畑というよりただの家庭菜園に毛が生えた程度の敷地面積しかない田畑が見える。
「…アレは、人か…?」
雨でだいぶ見づらい田畑の向こうに、人影のようなものを見つけたらしい十夜が小さく呟いた。
視界が悪い上に遠いこともあって、かなり不鮮明なせいで思わず目を細めてしまう。
「…この雨なのに?案山子とかじゃないの…?」
十夜の視線の先を横から追って、瑞貴は訝しむようにそう言った。
十夜と同じように目を細め、十夜の言う人影とやらを補足しようと試みたらしい。
「この土砂降りの中、外に出てるとしたら余程の変わり者か、案山子でしょうね~」
車を走らせている雅臣が、どこか楽しそうに笑う。
「雨の中って、割とフリーダムではしゃいだりしないか?」
後ろから、赤也が明るくそう割って入る。
「貴様は雨の中、外で走り回るタイプの馬鹿だったのか」
赤也に対し、十夜は全力で呆れたという視線を向けた。
普通に考えて、土砂降りの中、わざわざ外に出ようなどという馬鹿はいない。
そんな馬鹿は赤也だけで充分だと、十夜は視界の隅で見つけた影を、瑞貴の言う通り案山子だろうと結論付けて視線を車内に戻した。
実際、自分ならこんな雨の中、傘もささずに外に出ようとは思わないのだから、普通の人がこんな大雨の中、外にいるはずなどないのだ。
「洋館までは、基本的に1本道なのだな」
既にカーナビは何もないただの山だけを映すようになっており、祐一は学園からの指令に入っていた地図を片手にそう言った。
カーナビの地図が古いワケではないはずなので、今彼らが走っている道は、国道や県道のように整備された道ではなく、農道が整備されただけの、私道に近い物なのかもしれない。
それでも学園から渡された地図だけで今のところ迷うことなく目的地を目指せているので、祐一はその地図を頼りに一応の現在地把握に努めていた。
「目的地に着いたとして、雨が止まないことにはどうしようもないけどな」
そう言ったのは拓海で、肝試し前にせっかくのアウトドアという理由でバーベキューと決めてかかってはいるものの、雨の中では不可能だろう。
他にも、彼らは初めから日帰りの予定ではなく、1泊くらいはする覚悟でやってきているのだが、洋館の肝試しを終え、少なくとも一晩を過ごせることを確認しなければ車中泊になってしまうわけで、肝試しというか洋館を確認するという意味でもバーベキューの用意をするという意味でも、早いところ雨に上がって欲しいと感じていた。
「ただの通り雨だとイイんですけどね~」
視界が悪くなっても少しも危なげのない運転で車を走らせながら、雅臣はそう言って適当にラジオのスイッチをオンにする。
天気予報でもやっていればとでも思ったのだろうが、山の中ということもあってどの局の電波も拾わないらしく、ザーっという音だけが車内に響く。
「さすがにここまで山奥じゃ、ラジオも届かないんだな」
ザーという音に苦笑しながら、十夜はしみじみとした口調でそう言った。
そのまま、ただ道なりに車を進める。
一向にやむ気配のない雨を、車の窓から見上げながら、前途洋々だったハズの夏休みの自由研究が、気付かないうちに暗礁に乗り上げているような気がして十夜はこっそりとため息を零す。
何となく、このまま何事もなく無事に終わればいいと、祈るような気持ちで暗く重い雲を見上げた。
作者:彩華
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