薔薇姫奇譚

氷の華

  全てが氷で覆い尽くされ、何ものも時を刻むことのなくなった冷たい国が、北の果てに在るという――

 生命(いのち)の息吹が全くと言って良いほど感じられない不毛の大地に、氷柱と見紛う木々に隠されるように、ひっそりと建つ宮城が在った。
 死を感じさせる宮城は、1つの灯火(ともしび)もなく、どの部屋も暗く閉ざされ、流れる時の中に在りながら、時が止まってしまったかのような沈黙を保っている。
 たった1つの部屋を除き、この国に動くモノなど何もなかった。

 宮城の1室、最奥にある寝室で、人形のように動くことのなかった少女がわずかに身じろぐ気配がした。
 少女の夜の帳色の長い黒髪がシーツの上でサラリと音を立て、その隙間から雪のように白い肌と紫水晶のような無機質な瞳がのぞいた。
 焦点が定まらぬままに視線を彷徨わせた少女は、ある1点をその水晶の瞳に映した刹那、生の光をわずかに宿らせた。
 少女が見つめる先には、自らが生涯に唯独りきりと心に決めた相手の姿がある。
 少女と同じ夜の帳色をした髪と鴉の濡羽色の瞳を持つ青年は、少女の視線に気づくと遥か遠い過去から何も変わらぬ優しい笑みを向けた。
 慈しむような、愛しむような温かい微笑みを、青年は絶やすことなくたったひとりの主のためにだけ湛える。
 少女はふと、記憶の奥底で凍っていた過去を緩やかに溶かしていった――

「――姫。何処におられます?」
 隠れていた薔薇の生垣のすぐ向こう側から、笑いを含んだ優しい声が聞こえてきた。
 けれども、隠れているのだから答えず、音を立てないようにそっと生垣の奥へと移動を試みた。
 今回は上手く撒けたかしら、と思って振り返ったとたん、優しい笑みを浮かべた彼と、思いっきり目が合ってしまった。
「姫、見つけましたよ」
 余裕たっぷりに言って、彼は私と目線を合わせるために膝を折った。
 そうすると、彼が私を見上げる格好になった。
 彼の黒い瞳が、陽射しを受けて黒曜石のような光を放っていた。
 鋭利な刃を思わせるその光も、彼のものだと怖く感じないどころか、とても心が安らぐのが不思議で、そういえば飽きもせずよく眺めていた気がする。
「姫、あれほどお部屋にいらしてくださいね、と申し上げたのに。まったく困った方ですね…」
 何も言わずに彼の瞳を覗いていたらそう言われた。
 言葉とは裏腹に、彼の声は少しも困っているようには聞こえなかった。
 私が彼の言いつけを「聞かなかったこと」に決め込んで、部屋を抜け出すのは、もう「いつものこと」になってしまっていた。
 彼との、このかくれんぼのようなほんの少しのお遊びの時間も、そろそろ日常に呑み込まれつつあった。
 そのことが嬉しかったのか、それとも悲しかったのか、当時の私はどう思っていたのだろう。
「さぁ、もうお部屋にお戻りください。私がご一緒しますから」
 彼はそう、諭すように言うと立ち上がった。
 その直後、ゴウッッ!! と激しい音を立てて突風が吹き荒れ、私たちのいた庭園を襲った。
 視界が急に暗くなってしまって驚いたが、それは彼が咄嗟に抱き込むようにして庇ってくれたためだった。
 そのままの体勢でいたのはほんのわずかな時間でしかなかったのに、私にはとても長い時間に感じられた。
「大丈夫でしたか?」
 本気で気遣う声音で問われ、心配そうな優しい瞳で覗きこまれても、肯くことが出来なかった。
 明確に、恐怖や不快感を覚えたわけではないのに、何か言い表すことのできないものが澱のように胸の奥に沈み、しんと積もっていくような感覚だけがあった。
「…困りましたね。だから、お部屋にいらして欲しかったのですが…」
 彼はひとりごちると、すぐに何かを否定するように首を左右に振った。
「今更言っても、仕方ありませんね。私の注意が足りなかったようです…」
 そう言って、上空のある1点を振り仰いだ彼の瞳は見たことのない色をしていた。
 剣呑な、底冷えするような暗い煌きを湛えていた。
 私に向けられる、春の陽だまりを思わせる温かいまなざしとは違い、見つめられた者は例外なく、全てを凍らせる絶対零度の猛吹雪の中に投げ出されたと錯覚するような冷たさだった。
 横から見上げた私ですら立ちすくみ、意志とは関係なく心臓の辺りが急激に冷えて、身の縮まる思いがした。
 それでも、私は彼から目を背けることが出来ずに、震える手で恐る恐る彼の服をそっと掴んでいた。
「……誰にも触れさせはしない」
 呟くような彼の独白は、炎ですら瞬時に凍てつくような響きを持っていた。
 不安と恐怖を同居させ、私は彼の服を掴む手にぎゅっと力を込めた。
「…姫?」
 彼が私を振り返った。
「大丈夫ですか?」
 心配そうに私を見つめる彼には、もはや冷たさなど微塵も感じられなかった。
 反対に、溢れんばかりの慈しみと温かさがあった。
 優しい瞳と声に、少しだけ落ち着きを取り戻すことが出来た私は、微かに肯きほっと息をついた。
「…姫、少しこちらへ」
 しばらく私の所作を見守っていた彼はそう言って、私の手を取って歩き出した。
 後を追うようにして、私も彼と共に歩き出した。
 彼に手を引かれ向かった先は、庭園を一望できる空間だった。
 もっと昔、住んでいた城にあった物とよく似ている、水を湛える造り物の泉があった。
 上部の飾り皿のような部分から水が溢れ、中央部の広めの皿のような部分に1時溜まり、下部の泉の部分に向かって虹を生み出しながら流れていく。
 筋を成す水が光を弾いて、キラキラと輝いて見えた。
 彼はその脇に置かれた、精巧な細工の施された長椅子の前まで歩み寄ると、私に座るよう促した。
 私が椅子に腰掛けると、彼は先程と同じように膝を折って、私を見上げる体勢を執った。
「姫。外には出ないでいただきたい、というお願いは苦痛ですか?」
 彼は困ったような声音で問い掛けてきた。
「先程の突風のように、外には姫を害するものがあるのです。今の姫には、防ぎきることのかなわないものです。それでも、外へお出になりたいですか?」
 ゆっくりと、諭すようにどこまでも優しい声で彼は同じ問いを繰り返した。
「…部屋には、花が咲かない…。私はひとりで…つまらない…」
 私の答はそれだった。
 部屋には、何も無く、ただ退屈だった。
 私の身体が、まだ外で自由に遊ぶことにも、本当はこうしていることにも耐えられないことは、もちろん私自身知っていたけれど…。
 それでも部屋は退屈で、孤独だった。
「…私が。私が傍にいるとお約束しても、お部屋にはいらしてもらえないですか?ずっとではなく、たまには庭園にもお連れしましょう」
 少しだけ考えるそぶりを見せた彼は、そう言って少さな我侭を認めてくれた。
 退屈で孤独でなくなるのなら…と、私はじっと彼の瞳を見つめると、肯いた。
「ありがとうございます。大丈夫ですよ、きっと姫のお身体もすぐに外に出られても問題のないようになりますから」
 心底ほっとした声で、さぁ、もうお部屋に戻りましょう、と続けた彼に、私はようやく少し笑むことで応え、もう嫌とは言わなかった。
 彼にそっと抱き上げられ、宮城の奥の部屋に戻った時には、外へ出たことでの疲労感があった。
 何枚もの紗幕で覆われた広い寝台へと降ろしてもらった時には、ただ起き上がっているだけでも軽く息が上がりそうなほどだった。
 彼は、大人しく横になった私の横に腰を下ろすとシーツに広がった髪を、そっと梳いてくれた。
「あぁ、姫。髪に花びらが…」
 笑みを含んだ声と共に、彼は私の髪から拾い上げた赤い花びらを見えるように示した。
 私が見つめる先で、花びらが急に凍りついた。
 彼は、凍らせた花びらを指先で軽く玩び、そっと私の頬に触れさせた。
 ひんやりとした感触はとても心地良かった。
「姫は…その花びらのようですね」 
 ぼんやりと目を閉じると独り言のようなぽつりと呟く彼の声が降ってきた。
「氷で出来た、薔薇のようです」
 どこか面白そうな声でそう、やはり独り言のように付け加えた。
「…私、冷たいの?」
 氷、と言われたのでそう訊いた。
 目は閉じたままだったので、その時彼がどんな表情だったのかわからない。
「いいえ。いつまでも、枯れることなく永遠に咲き誇る、赤い薔薇の花です」
 彼の言葉の意味はよく解らなかった。
 ただ、耳に優しく響く声が心地良かった。
 ただ、私の髪を梳きだした指がどこまでも柔らかかった。
 ただ、傍らに居てくれる存在感が温かかった。
 だから私はこう訊いた。
「…ねぇ…ずっと側にいてくれる…?」
 彼の答を聞きながら静かに眠りの落ちていった。

 少女はつかの間の回想から醒めると、あの約束から今も変わらず横に居つづける青年の姿を見つめ直してみた。
 今も昔も変わらない温かい笑顔が向けて少女は問い掛ける。
「…永遠って信じる?」
 久しぶりに少女の声を耳にした青年は、一瞬驚いたように目を丸くする。
 そして、心からの笑顔で遥か昔の答を繰り返す。
「貴女が…其処に在る限り――」

 ――深紅の薔薇の花言葉は、永遠にアナタを愛します――
製作者:月森彩葉