薔薇姫奇譚

陽だまりの記憶

 光を弾いて煌めく銀糸の髪に、紫水晶の瞳。その姿は見る者に安らぎを与える。そして、その声は天上の音楽のように、聞く人の心に響く。『聖女』と呼び慕われる彼女は、いつでも、穏やかに、優しく、そしてどこか儚げな微笑みを、決して絶やすことはなかった。常に誰かの為に、そっと優しく笑いかけるような、そんな少女だった。春の木漏れ日のような、柔らかかくて温かい、正に地上に使わされた御使い・・・天使そのもののような存在だったから。

 だから、いつか天に還って行く日が来ることを、ボクはどこかで感じていたんだ。そして、最期の瞬間まで、彼女は笑っているんだ、と思っていた。どうしてだろう、聖女様だって、本当は普通の女の子のハズだったのに。ボクは、聖女様に、『神聖』で『特別』な『何か』を見ていたんだ。それも、かなり一方的な憧れで。『聖女様』という理想を、1人の少女に押し付けていたんだ。





 目の前には、何の変哲もない、扉。ちょっとだけ装飾過多ではあるけれど、特別でもなんでもない、普通の扉。それでもボクは、毎日、この扉の前で固まってしまう。もう、1年も繰り返していることなのに、未だにものすごく緊張してしまう。ボクの仕事は、この扉を叩いて、中にいる人物に声をかけることだ。たったそれだけのこと、と思う人も、きっと少なくはないと思う。ボクだって、この扉以外だったら、緊張もしなければ、躊躇もしない。
 この扉の向こうにいるのは、世界中にたった1人の、かけがえのない存在。正教会の信仰の源。天上の力を授けられた、麗しき聖女様なのだ。ボクは、聖女様にお声をかけるという、今の立場に誇りを持っている。ものすごく光栄で、正教会からも、聖女様からも信頼を得ている、と思うと、それだけで自信になる。
 でも、だからといって、平然と声をかけられるほど、ボクは潔くなくて、いつもこうやって扉の前で頭を抱えたり、葛藤したりしているんだ。もし、廊下で百面相をしているボクの姿を見たら、きっとものすごく滑稽に見えるに違いない。

「・・・せ、聖女様・・・っ。お時間です。あの・・・お、お迎えに・・・その・・・あがりました・・・っ」
 意を決して、扉の向こうに話しかける。緊張のあまり、扉を叩くのを忘れてしまった。
「・・・はぁ~ぃ・・・。今、参りますぅ~・・・」
 扉の向こうから、何とも愛らしい、ふわふわした声が聞こえてくる。
「ごめんなさい・・・ちょっと、考え事をしていたら、眠ってしまいましたぁ~・・・」
 内側から、そっと扉が開いて、聖女様が顔を覗かせた。そのさらに向こう側には、聖女様の護衛でもあるクルセイダーが、優しい笑みを浮かべているのが見える。人に在らざる、悪魔と同じ色彩に、生まれつきという尖った耳のクルセイダー。優秀なエクソシストであり、聖女様の1番の信頼を得ている彼に、ボクはどうしても畏怖を捨てきれない。漆黒に彩られた、悪魔的な外見が、苦手なのだ。
「お、お休み中でしたか・・・?申し訳ありません・・・起こしてしまって・・・」
 意図して、視界に聖女様だけを入れた。子供のように、眠そうに目をこする仕草がとても可愛らしくて、ボクの中から彼の恐怖を消し去ってくれる。
「眠るつもりはなかったの・・・。もぅ・・・起こしてくれれば良かったのに・・・」
 聖女様は、柔らかく微笑んで、ボクと、それから彼に言葉を向けた。
「声はかけましたよ、お姫様。もちろん、応えはありませんでしたけどね」
 彼の声は、常闇の中から聴こえてくるような深い声でもあり、同時に春の陽射しのような暖かさも感じられる。本能的に抗えないような、そんな響を持つ、独特の声だった。
「それは起こすって言わないと思うんだけど。アナタの場合、耳元で名前を囁いただけで、起こしたって言いそうだもの」
 聖女様は拗ねたような口調で言うと、困ったような表情を作ってボクに笑いかけた。
「散々、待たせてしまってごめんなさいね。大丈夫、目は覚めたわ」
 銀の髪に風をはらませ、ふわり、と法衣の裾をひるがえして、聖女様は歩き出した。
「は、はぃっ!」
 ボクは慌てて扉の向こうのクルセイダーに会釈をして、扉を閉める。彼は変わらず笑顔のまま、手をひらひらと振ってくれていた。聖女様は、踊るような、軽い足取りで、廊下を歩いていく。正教会の法衣を纏い、聖女としての勤めを果たし、奇跡を行う。それでも、彼女は、初めて修道会を訪れた日と変わらず、少女の無邪気さと、姫君のごとき高貴さ、そして時折見せる、王のような威厳を全く損なわず、9年間過ごしてきた。ボクが正教会に召されたのが、ちょうど同じ年だったから、とてもよく覚えている。
 聖女様は、変わらない。
 初めてお会いした時のまま、姿は大人になっていっても、その本質は、いつまでも変わらない、愛らしい少女のままだ。
 きっと、ずっと変わらない。
 変わらないで欲しい、と切に願う。
 たった1つの、心の在処。

 そして。
 ボクは、後悔することになる。
 自分の、浅はかさと愚かしさを。





 いつものように、お勤めを終えられた聖女様をお部屋までお送りしようとした時だった。
 不意に、聖女様は廊下で立ち止まり、中庭に目を向ける。
「・・・少しだけ、寄り道しても、いいかしら」
 ボクを振り返り、聖女様は中庭を示す。
「おひとりで、ですか?」
 正教会の敷地内は、安全だ。常に何人ものエクソシストが常駐しているし、敷地全体を結界でも覆っている。それでも、1人のエクソシストとして、聖女様の護衛を任される1人としては、聞かずにはおられない。本当は、自由にさせてあげたいと思うのだが、そういうわけにもいかないのが、聖女様と、ボクの立場だった。
「私が1人で出歩いたら、アナタが困るんじゃないかしら。だから、ご一緒してくださる?」
 悪戯っぽい笑顔と、楽しそうな声。聖女様が、たまに見せてくれる、普通の少女のような部分だった。
「もちろんです。お供させていただきます」
 ボクはそう応えて、姫君をエスコートする騎士のように、そっと手を差し出す。
 聖女様は、少しだけ驚いた表情をしたが、すぐに微笑んで、ボクの手にその手を重ねてくれた。
 中庭に降りると、聖女様の銀の髪が光を弾いて、光の粒が宙を舞っているように見える。
「1つだけ、私のお願いを聞いてくれませんか?」
 いつもと変わらない、柔らかい笑み。声は穏やかで、澄んでいた。
「ボクに叶えられることなら、何でも」
 ボクは笑顔で応える。聖女様の声には、強制する響きなんて全くない。それでも、ボクは聖女様が望むことなら、なんでも叶えたいと思ってしまうのだ。
「ありがとう・・・。どうか、私の話を聴いてください。そして、その内容は、誰にも話さないで、アナタの心の中だけにしまっておく、と約束してください」
 そっと、小指が差し出される。
 ボクは、聖女様の細い指に自分の指をそっと絡めた。
「はい。お約束します」
 ボクに向けられた笑顔が嬉しくて。
 他の人には内緒にしておく、という秘密をもらうのが嬉しくて。
 ボクはきっと、盲目になっていたんだ。
 彼女の様子が、普段と違うことに、気づかなかったんだから。
 彼女の笑顔が、ほんの少し違うことに、ボクはその時、気づけなかったんだから。
 何よりも、誰よりも、気づかなければいけない立場にいたのは、ボクだったのに。

「・・・私ね―――――――――――」

 どうして、ボクはその時、気づかなかったんだろう。
 どうして、ボクはその時、見なかったんだろう。
 彼女の、本当の姿を。
 聖女としてではない、彼女本来の姿を。
 1人の少女のことを。
 ボクは、知らなければいけなかったんだ。
 穏やかな笑顔で、全てを受け入れた、大切な人のことを。





「・・・聞いていますか?アコライト」
 不意に名前でなくクラスで呼ばれた。目の前には、エクソシストにとって上司にあたる監督官の任にあるシスター。正教会の、この地区の責任者の1人で、ボクの上司だ。
「す、すみません、シスター。聞いてますっ」
 そうだった。ボクは任務のために、シスターの執務室に呼ばれたんだった。頭を切り替えないと。
「聞いていたのですね?それなら良いのです」
 シスターは、睨むような目をボクに向ける。怒っているわけではないのだろうけど、ボクにやる気がないと思われてしまったのかもしれない。
「はい。昼頃に、悪魔狩りに出たアコライトが戻らないので、ボクが聖女様と一緒に現場に向かうんですね?本来なら、クルセイダーが向かうべきですが、現在、みんな他の任務で出払っていて、急を要するので、本部に残っているエクソシストの中で1番現場慣れしてるボクにその任務が与えられた、んですよね」
 なんとなく頭に残っていたシスターの言葉をそのまま復唱する。
「そうです。至急、任務に取り掛かってください」
 くれぐれも気をつけて、というシスターの言葉を最後まで聞くか聞かないかくらいで、ボクは退室の挨拶を述べ、執務室を後にしようと扉に手をかける。早く聖女様を伴って任務に赴かねばならないからだ。自分の思考に違和感を感じた。
「それじゃぁ、行きましょうか」
 扉の外でボクを待っていたのは、他ならぬ聖女様だった。
「行くって、ボクは今から、任務で、危険な現場に赴くんですよ」
 外出用の法衣に身を包んだ聖女様に、ボクは困る。確かにボクは聖女様の護衛の1人だけど、今回は任務が優先されるので、聖女様の外出に付き合うわけにはいかないのだ。
「だから、私とアナタで現場に向かうのよね?」
 聖女様は不思議そうに首を傾げていた。
「・・・すみません、今、なんておっしゃいました?」
 今、まさか、危険な場所に赴く、という内容のことを言わなかっただろうか。
「んっと、シスターから聞かなかったのかしら。任務からアコライト数名が戻らないので、私とアナタで現場まで確認に行くのよね・・・?」
 困ったような、不安そうな表情で聖女様はおっしゃった。ボクの空耳じゃなかったみたいだ。
「そんな・・・何があるかわからないような・・・危険な場所へお連れするわけには・・・」
 ボクは護衛だ。聖女様を護る義務があるし、義務なんかなくても護りたいと思う。危険な場所へ連れて行くなんて、もってのほかだ。
「危険だから、私が行くのでしょう?私は護られるためにいるのではないわ。護るために、いるのよ」
 そう言って、ボクをまっすぐ見据えた聖女様は、気高い王のようでもあり、慈悲深い天使のようでもあった。
「さぁ。行きましょう」
 ボクを見て微笑む彼女は、『聖女様』の『笑顔』を浮かべていた。温かくて、柔らかい、見る者に安心感を与える笑顔。それは弱冠15歳ですらない少女の、神々しさすら感じさせる聖女としての姿に他ならなかった。
 踵を返して1歩先を進む彼女の後を、ボクは追いかけた。1歩の距離でしかないのに、とても遠い背中に見えた。ソレがボクと聖女様の距離。触れられそうなのに、遠くて、追いつけなくて、護るコトすら、ホントは出来ない距離なんだ。
 ふと、聖女様が足を止めた。
 くるり、とボクを振り返る。
 ふわり。
 笑った。
 そっと差し出される、白くて細い手。
 花のような、可愛らしい、少女の笑顔だった。
 ボクはその手に、自分の手を重ねる。
 歩き出す。
 一緒に。
 ボクと、聖女様と。





 目の前に広がる惨状に、ボクは思わず目を背けた。一面に広がる、真っ赤な色。鼻につく、錆びた鉄の匂い。
 それから、壁や床に張り付いている布の残骸で、辛うじてエクソシストだったとわかるくらいにぐちゃぐちゃになった、人間だった『モノ』。
 現場・・・死体にだって慣れているハズのボクでも、正視出来ない。惨状としか形容できなくて、そこに散らばるのが、原型は何人だったのかもわからない状態で、1歩踏み出したら、鈍い水の音がした。肉片となったナニカを踏む、ぐにゃっとした感覚が、靴を通しても生々しくカンジられて、吐きそうになるのを必死に堪える。
 この奥に、ナニカがいる。ボクは、全身の産毛が逆立つような、悪寒にもにた独特の感覚で、近くに悪魔がいることを察知している。
「聖女様、ここにいてください」
 搾り出すような、くぐもった声になってしまった。聖女様に、この中を歩かせるわけにはいかない。清浄なる存在、至高の神子である聖女様にこの場所は似合わない。何より、まだ15歳でしかない少女には、耐えられるわけがない。
「アナタの方が、待ってた方がいいわ」
 涼やかな声がそう告げると、ボクの横をすり抜けて行く影があった。ふわり、と銀の髪をなびかせて、微塵の迷いもなく、真っ赤に彩られた死の匂いのする部屋へと足を踏み入れる。法衣の裾が、赤く染められていくのも気に留めず、真っ直ぐに危険な場所へと進んでいく。
 神々しいまでに、清らかだった。
「待ってくださいっ!危険なんです。ボクが先に行きますからっ」
 ボクは慌てて聖女様を追いかけた。そのまま、聖女様を背後に庇うような位置で奥へ進んでいく。任務が優先、聖女様を護るのがさらに優先。この光景に負けてる場合なんかじゃなく、ボクは前に進まなくちゃいけないんだ。
「私なら、平気なのよ。悪魔は私を傷付けられないもの」
 くすり、と笑った。彼女は、笑っていた。この中で。優しさと慈愛に満ちた、聖女の微笑みではなく、面白がるような愉悦を含んだ笑い声だった。
 ボクは、振り返れなかった。だから、彼女がどんな表情をしていたのか、わからなかった。わからなくてイイと思った。ボクの知らない、聖女様じゃない彼女がソコにいたんだろうから。
 その時の感覚を。
 ボクは、気づかなきゃいけなかった。
 気づいていたら、きっと違う未来があったんだろうから。
 全身が総毛立つような、悪寒を通り越した、重圧、空気そのものの圧力に気づかなきゃいけなかったんだ。
「私、本当は、聖女様なんかじゃないもの」
 ぽつり、彼女が呟いた。
「この身にあるのは、けして消えない罪の証・・・」
 囁くような、唄うような声で。
 彼女は確かにそう言った。
 ボクにはそう聴こえたんだ。
 否定しなきゃいけないと思った。
 振り返って、聖女様を見つめた。
 傷ついた子供のような、何かを諦めたような表情をしていた。
 揺れる瞳で、ボクを見上げていた。
 何かを言いたそうな、でも言い出せないような。
 そんな、弱々しさで、彼女はボクだけを見ていた。
そして。
 気づいたら、すぐ近くに悪魔がいた。
 黒い、巨大な蝙蝠のような、大きな塊に見えた。
 悪魔は真っ直ぐに聖女様を目指して、突進してくる。
「聖女様っっ!!」
「・・・ぁ」
 聖女様の驚いたような小さな声。
 ボクは、自分の身体を投げ出していた。
 護らなきゃいけないって思ったんだ。
 大事な人だから。
 淡い、恋心にも似た想いを抱く相手だったから。
 傷ついた少女のようにしか、見えなかったから。
 
 悪魔は、ボクを貫いた。

 それでも、悪魔は止まらない。
 ボクは、自分の身体が崩れていく感覚を遠くに感じながら、その光景を見ている。
 痛みなんか、なかった。
 護りたい。
 悪魔から、聖女様を護りたかったのに。
 悪魔はボクに一瞥をくれただけで、聖女様へと向き直る。
 聖女様は、悪魔を見ていなかった。
 聖女様の瞳の中には、ボクがいた。
「・・・どうして・・・」
 聖女様の呟きは、とても弱かった。
 ボクをじっと見つめていた。呆然と見つめていた。普通の少女のように。
 儚い、硝子細工のような壊れてしまいそうな弱々しさだった。
 聖女様の瞳に映るボクは、弱々しく手を伸ばそうとして、それすらままならず、緩やかに目蓋を閉じようとしていた。
 ボクの意識も、どんどん遠のいていく。
 聖女様の瞳に、一筋の雫が伝うのが見えた。
 護りたい。
 泣かないで欲しいのに。
 護りたかったのに・・・!!
 ボクは、最期まで、無力だ。
 そして、意識の蓋が閉じようとしていく。
 ゆっくりと。
 視界が暗くなって。
 最期の瞬間。
「――――――――!!!」
 ボクは、彼女の叫び声を、はじめて聞いた。
 虚ろなボクの目に、最期に映ったモノは、彼女を庇うように抱きとめるクルセイダーと、ボクに向かって必死に手を差し伸べる少女の姿だった。





 ボクは、彼女を護る騎士になった。
製作者:月森彩葉