夢見る仔猫の恋物語

 いつまでも大好きなたった1人だけに贈る、たった1つの真実の物語。
わたしが綴る、深くて悲しくて切なくて、何よりも愛しい恋物語。
たとえもうわたしの言葉が届くことがなかったとしても、この物語は永遠にキミだけを愛しているという証。


 *
 
 
舞台の上。
書割の背景には、とても美しい満月が輝いている。
俺は演劇部に所属していて、今はコンクールに向けての通し稽古の最中だ。
通し稽古とリハーサルの違いは、衣装だけだと思う。
今回の台本のタイトルは『月景色』。
月狂い、ルナティックと恋愛をテーマにした幻想的で切ない恋物語という壮大なテーマを掲げ、文芸部に協力を仰いで書かれた力作だとは脚本担当の言だ。
演じているシーンはちょうど佳境。
『俺』に『彼女』が黙っていた想いを告げる瞬間。
―君との約束、果たせなかった・・・・・・。あの笑顔さえ、消えてしまった・・・・・・。
深い悲しみと後悔に彩られた『彼女』の告白。
『俺』との約束を果たせなかったと淋しげに笑っていた。
その表情は泣き顔よりもよっぽど泣いているように見えるほどで、『彼女』の想いが痛いほどよくわかる。
『俺』はその想いを受け止めて、『彼女』に手を伸ばす。
それでも『彼女』に触れることは出来ず、もう少しで届きそうで届かない。
本当はすぐにでも傍に行って抱きしめたいと思うのに、それが出来ない。
―どうして、私なの?
―どうして、誰もいないの?
―どうして、ドウシテ、どうして?
―どうして、こうなったの?
―どうして、教えてよ。
『彼女』の声は次第に狂気を帯びていく。
『俺』は『彼女』が壊れていくのを止められない。
1歩踏み出すだけで手を伸ばせば触れられる距離。
涙に濡れる頬に触れたい。
哀しみから狂気に彩られた瞳を覗き込んで、笑いかけて慰めたい。
そんな衝動に駆られるのに、『俺』は動くことも出来ず、ぎりぎり届かない場所から手を伸ばす。
―君のくれたあのぬくもり、月のように優しかった。
―叶わぬ想いだけ、明日の空に消えてく。
狂気に彩られ、絶望に心と閉ざした『彼女』が『俺』の傍から消えていった。
壊れたオルゴールのように虚ろに詠いながら、ゆっくりと舞台を降りていく。
ゆっくりと花道を歩く『彼女』にピンスポットでライトが左右から当てられる。
舞台の照明は、全部落とされた。
月の綺麗な夜空の書割は、明るい朝の書割へと転換される。
何も置かれていなかった舞台の上には、保健室から借りてきたベッドに手を加えたものや台などの舞台設備がいそいそと設置され、真っ暗な舞台の上で目印のバミテだけを頼りに転換後のシーンに合わせて準備されていく。
もちろん、役者である俺も次のシーンに合わせて立ち位置を変える。
俺の立ち位置は、ベッドの上。
真っ白な光の中をゆっくりと花道を歩く『彼女』は、ついに1番後ろまで歩いていってしまう。
そして、暗転。
急激な場面転換で、舞台の上に朝が演出される。
「・・・・・・本当に・・・どこへ行ったんだ・・・」
『俺』はベッドの上に腰を降ろした状態で、薄い毛布を強く握り締める。
「夢なんかじゃなくて・・・・・・君に逢いたい・・・・・・」
何も告げずに、行き先もわからずに突然消えてしまった最愛の人。
『俺』はその存在を求め、毎夜のように探し、そして結局見つけられずに同じ夢を見る。
哀しくて切なくて泣き出したい思いを堪えて今日もいつもと変わらない生活を送るはずだった。
カラン・・・と乾いた音を立てて、何かが台の上から転がり落ちた。
「ん・・・?何だ・・・・・・?」
反射的にソレを拾い上げた『俺』は、目を見開いて動きを止めた。
ソレは『彼女』がいつも必ず身に付けていた髪飾り。
「・・・・・・どうして・・・・・・」
ここにあるはずがない。
これは『彼女』がいつも身に付けていたものだ。
だから、『彼女』がいないのに、これがあるはずがない。
「・・・・・・どうして」
『俺』の口から零れ落ちたのは、小さな疑問。
だって、これがこんな場所にあるわけがない。
ある日突然姿を消してしまった『彼女』。
『俺』だけを置いて、どこかへ行ってしまった。
それなのに。
「・・・・・・・・・!!」
『俺』の時間が、止まる。
雷に打たれたような衝撃が身体を貫く。
錯覚だとわかっているのに、聴こえる落雷のように大きな音。
視界が真っ赤に染まった。
文字通り、真っ赤なライトで舞台が照らされる。
そして、また暗転。
俺は決められた場所に立つ。
最後のシーン。
真っ暗な舞台に、俺目掛けてサスペンションライトの光が降り注ぐ。
『俺』がいるのは、月景色の綺麗な崖の上。
あの日、『彼女』が突如をして姿を消した場所から、ほんの少ししか離れていない場所。
「月はまだ光って・・・。巡り来る明日と同じで・・・。もうやめよう・・・。もう、いいよ・・・。・・・・・・・・・君の傍へ」
真っ直ぐに空を見上げる。
空にはどこまでも綺麗な月景色。
そして、見下ろした先にも同じ月景色。
透明な水面に映る、地上の空。
「もうすぐ、逢えるから・・・。月の夜へ・・・・・・」
1歩踏み出す。
「君に逢いに行くよ・・・・・・」
そして、『俺』は地上の月景色に、迷わず飛び込んだ。
俺は舞台から飛び降りると、ライトが消えるのを待った。
再び訪れる、真っ暗な時間。
次にライトが点くまでの僅かな時間に、俺はそそくさと舞台袖へと身を隠す。
そして、幕。
本番であればライトが点くと、舞台には重い緞帳が降りているはずだ。

「お疲れ様」
そう言って俺に近づいてきたのは、俺の彼女だ。
明るく可愛らしいと評判の役者だが、今度の役はそれを一転させるものだった。
つまり、俺の相手役。
配役を決める際に、部長が鶴の一声で実際のカップルが演じたほうがいいと言ったからだ。
「そっちこそ、お疲れ様」
くるくると表情を変える可愛らしい少女から狂気に飲まれた少女まで、その壊れていく様を演じきった彼女の方が、当然俺よりもお疲れ様と労われるべきだ。
「わたしは楽しく演じてるから、平気。もちょっと怖くした方が面白いかな?ねね、どう思う?」
可愛らしく首を傾げて俺を覗き込んでくる。
人目が無ければ抱きしめたいのだが、生憎先輩の目もあってそれは出来ない。
「あんまり怖いと、メッセージ性が薄れるんじゃない?」
あくまでもテーマは幻想的で切ない恋物語。
彼女がミステリアスなシーンを幻想的に演じるからこそ、そのイメージは保たれているのだ。
「・・・そっかー。じゃあ、もうちょっとバカップルっぽく行こうかな、前半」
演じるのがよほど楽しいのか、彼女は真剣に考えているようだ。
少し前にそんなに演じるのが楽しいのかと聞いたら、違うよと頬を膨らませていたけれど、演じるのが好きだとしか思えない。
それも指摘したところ、彼女は困ったように笑っていた。
「ぁ・・・」
不意に彼女が俺の方を見て、小さく声をあげた。
否、正確には俺の背後を見ているようだ。
「よっ。相変わらずのバカップルっぷり、堪能させてもらったわ」
そう言って明るく話しかけてきたのは、照明を担当している悪友だった。
俺の肩を叩きながら、カラカラと笑っている。
「バカップルな役どころなんだし、別におかしくないよねっ」
これ見よがしに俺の腕に自分の腕を絡ませ、彼女は楽しそうに笑って応えた。
「まぁ、そういう役だし」
それに重ねるように、俺も悪友に開き直った笑顔を向ける。
「この舞台、一時はどうなることかと思ったけど、上手くいきそうで良かったよ。・・・一緒に帰ろうぜ」
悪友は何故か感慨深そうに勝手に納得すると、笑顔のままそう誘ってくる。
通し稽古が終わると、今日は帰っていいことになっている。
既に完全なリハーサルは昨日終わっていて、本番を明日に控えた最後の稽古。
最後の稽古は、ダメ出しもリテイクも一切なし、ただリラックスして本番を迎えるためだけの最終確認だった。
「俺は別に構わないけど・・・・・・」
俺は悪友に向けて控えめに同意を伝える。
さすがに本番を明日に控えた今日、彼女だって2人きりで寄り道したいとは言わないだろう。
「わたしもイイよ?明日に向けて寄り道なんて出来ないし」
予想通り彼女は俺の横で笑っていた。
「それじゃ、帰ろうぜ」
悪友がそう言って荷物を肩に担ぎ上げた。
そのまま揃って体育館の出口へ向かうと、まだこの場に留まる人間に向かって頭を下げる。
「お先に失礼します。お疲れ様でした」
代表して俺がそう言うと、一斉に振り返られた。
役者として鍛えられた発声のせいで、意識して大きな声で言ったわけでもないのに体育館中に声が響いたせいだ。
「おう、お疲れ。お前ら、明日、絶対遅刻してくんなよ」
部長であり演出担当の先輩がそう笑って見送ってくれた。
明日の本番は、現地集合なのだ。
「はーい。頑張って起きますー」
可愛らしく笑って彼女がそう答えている。
彼女は今日も寝坊したと言って通し稽古開始の直前の緊迫した空気の中に駆け込んできて、そのまま稽古を始めてしまった。
以前はこんなことはなかったのだが、最近どういうわけか遅刻が多い。
元々あまり外で遊ぶようなタイプではないので日焼けしていなくて白い肌が、最近は青白く見えることがあって少し心配だ。
明日の本番が終わったら、打ち上げを兼ねてどこかに連れて行ってやろうと前から決めていたのだが、休ませてあげた方がいいかも知れないと思い始めて数日が経った。
「大丈夫です、ちゃんと行きます」
俺は笑って先輩に頷くと、彼女と悪友に目配せをしてさっさと体育館を後にする。
昼から練習を始め、まだ3時頃にしかなっていないのでグラウンドの方から大会を控えた運動部の掛け声が聞こえている。
その声を背後に聞きながら、俺たちはさっさと帰路についた。
「・・・いよいよ明日かぁ・・・」
校門を出たところで、彼女が小さく呟いた。
何ヶ月か前から練習をはじめ、途中で台本にも大幅な演出上の修正が加わったり舞台配置が変わったり、何かとトラブルの多かった今までを思い浮かべたのか、その声は感慨深く響く。
今日も遅刻で現れた彼女は当然発声もウォーミングアップの柔軟も何もやっていない。
それでも他の役者たちを凌駕してみせた鮮烈な演技力に、俺は圧倒されながらも悔しく思っている。
役者としては、絶対に彼女に敵わないと思い知らされるのだ。
「明日で、今までの成果が全部発揮されるんだな・・・」
彼女に釣られて俺もしみじみとそう言ってしまった。
「学校の評価としては、全部オマエたち役者にかかってるからな・・・。頑張れよ!」
悪友はそう言って、バシっと俺の背中を平手で打った。
イイ音がしたが、ちゃんと加減はされているようで痛みは感じなかった。
「大丈夫、任せといて」
彼女は自信たっぷりにそう言うと、トンっと自分の胸に手を当てて満面の笑みを浮かべている。
どうやらプレッシャーには強いようだ。
「・・・・・・いや、色々と不安要素あるんだけど・・・」
1番の不安は、集合時間にちゃんと遅れずに来れるかどうかだ。
俺はそんな気持ちをこめて、小さく溜息をついた。
「何だよ。・・・・・・体調でも悪いのか?」
悪友は意外そうな顔でそう訊いてくる。
演技面での不安だとは思わなかったようだ。
確かに、俺もその点について一切不安はなかった。
いつだって俺の演技は彼女に引っ張られるようにして、舞台の上で本来以上の実力を発揮してきた。
「・・・体調が悪いワケじゃないんだけど・・・・・・明日で終わりかと思うと・・・」
俺の溜息の理由を正確に把握したらしい彼女は苦笑いを浮かべてそう呟いた。
「まぁ、さすがに緊張するし・・・」
明日で評価も何もかも決まる上に主演2人が1年生という大抜擢だ。
緊張しない方がおかしい。
演じることへのプレッシャーは感じなくとも、それに付随する別のプレッシャーはしっかりと感じているらしい彼女の弱気な様子が可愛らしく感じて、愛しかった。
「大丈夫だって、やれるやれる」
悪友は俺を軽く笑い飛ばすと、必要以上に明るく笑った。
「・・・・・・うん、そうだね」
その笑顔に彼女は仄かに微笑んだ。
普段は明るく元気いっぱいな彼女なのだが、たまに見せる儚げな姿はそのまま消えてしまいそうだと錯覚するくらいだった。
思わず抱きしめて、温もりを感じたいと思ってしまう。
今は、さすがに悪友の目があって恥ずかしくて出来ないが。
「期待に応えられるよーに、まぁ、頑張るわ」
俺はあえてヤル気なさそうに言うことで、少しでも緊張や不安を和らげようと試みた。
演技だって不安はない。
最近は遅刻の多い彼女だって、間に合わなかったことは1度もない。
この舞台の完成度は、役者の自分から見ても相当なものだと自負できるほどの出来栄えだ。
俺自身、何にこんなに緊張して何がこんなに不安なのかわからないくらい、漠然とした感情は重く暗い。
それに飲み込まれてはいけないと解っているので、見ないように目を背けているのだ。
「気持ちとしては、ファーストフード店かどこかで激励してやりたいんだけど、今日はやめとくわ。・・・・・・1人の時間だって、欲しいだろうし」
悪友は妙に生真面目な顔でそう言って、何故か黙り込んでしまった。
学校から駅までの短い道程は、そのまま無言の時間で過ぎていった。
駅での別れ際、悪友は何か言いたそうだったが、結局「また、明日な」と言って帰っていった。
方向が違うので、彼女とも駅で別れた。
別れ際は、いつだって彼女が俺を見送ってくれる。
明日になればすぐに逢えるのに、いつだって名残惜しそうに淋しそうに笑って手を振っていた。
「また明日・・・」
駅の改札を抜けてから彼女を振り返り、俺はいつもと変わらない別れの挨拶を口にする。
「気をつけて帰ってね」
彼女はひらひらと手を振りながら、柔らかい笑顔で俺を見送った。
そういえば、彼女の利き手は右手なのに、手を振るのは最近ずっと左手だった。
以前は荷物を持っていても右手だったのに、何かあったのだろうか。
そんなことを考えながら、俺は電車に乗り込んだ。

翌日。
本番を前に、集合場所に急ぐ。
寝坊はしなかった。
緊張して眠れなかったということもなかった。
「あれ?その制服、清和の子?」
集合場所へ向かう俺に声をかけてきたのは、他校の生徒だった。
一見すると可愛らしい1年生女子に見える外見ではあるのだが、落ち着いて慣れた雰囲気があるので、1年生ではなさそうだ。
「おはようございます。・・・そうです。清和の1年です」
とりあえず決まり文句の挨拶をして、小さく目礼しておいた。
名乗る必要なないだろうから、これで充分だと思う。
「そっか。清和の事情は部長さんから聞いてるから、知ってるよ。大変だったね。あ、あたし、富岡の部長よ。よろしく」
どうやら相手は3年のようだ。
富岡といえば、毎年コンクールでうちと争うライバル校ではないか。
どちらかと言えばシリアス路線で攻めるうちに対して、本来シリアスで描くべき内容をギャグ路線にして客席を笑いに包むことが多い、強敵校だと以前に部長が言っていた。
清和の事情というと、今回の作品が色々とトラブルに見舞われた経緯のことだろうか。
「よろしくお願いします・・・。色々ありましたけど、負けませんよ。・・・集合時間なんで、行きます」
役者の意地でそう言うと、俺は頭を下げてその場を後にする。
背後から頑張れと能天気なエールが送られてきたが、無視することにした。
何となく強敵校の部長にバカにされたような気がしたからだ。
集合場所へ着くと、ほとんどの部員が集合していた。
既に緊迫した空気に包まれており、上級生や裏方を中心に部長からの指示が飛んでいる。
役者組や今は用事の無い部員はその空気に飲まれるようにして大人しく待っている。
その中に彼女の姿を見つけ、俺はほっと胸を撫で下ろした。
どうやら遅刻はしなかったらしい。
1人佇んでいる姿は、普段の存在感溢れる明るい様子とは異なっていて、儚げで虚ろに見えた。
制服のブレザーが黒いせいもあって、白い肌が抜けるように白く見える。
既に役に入っているのか、脚本のイメージそのままの『彼女』がそこにいた。
「よし、全員揃ってるよな?時間だから、行くぞ。役者、声出ししてあるだろうな?」
普段よりも慌てているように早口で部長が部員全体を見渡していた。
声出しとは発声のことだ。
さすがに本番を演じる舞台の外や道端で大声を出すわけにもいかない。
役者は各自、家で発声や柔軟をやってからくるようにと予め言われてあった。
当然、俺もやってきている。
近所の広い公園で発声をしてから来たのだが、幸いにも近隣住民に不審者として通報はされなかった。
部長に先導され、俺たち清和高校演劇部は指定された控え室へと向かう。
そんなに広い控え室ではないが、一応更衣室も完備されていた。
控え室へ向かうまでの間にすれ違った他校生と、おはようございますと挨拶を交し合う。
コンクールのために貸しきりにされたホールには何とも言えない緊張感が漂っていた。
「役者は気になるトコあれば今のうちに確認しとけよ。衣装、メイクは役者を作ってやれ」
部長から鋭い指示が飛び、勝手のわからない1年生を含む全員が動き出した。
俺の目の前には3年生の先輩がやってきて、メイク道具を広げ始めた。
「それと、大道具、小道具、最終チェック終わってるな?」
まるで戦場のようと言うとさすがに大げさだが、雰囲気だけはそれに近いものがあると思う。
「大丈夫です、全部確認済みで大道具搬入にも立ち会いました」
代表して答えたのは、2年の大道具班のリーダーだった。
まるで上官に直立不動で応える兵士のような受け答えだと思ってしまう。
普段は和気藹々とした緩やかな演劇部も、さすがに本番直前だけは緩んだ空気はどこにもなかった。
もうすぐ本番。
演技に不安はないとは言え、やっぱり緊張する。
先週のリハーサルでこのホールの舞台には立っているが、今日はリハーサルと違って審査員もいれば観客もいる。
その事実を改めて考えると、緊張するなという方が無理だった。
メイクを施され、衣装に着替えた後だとなおさらだ。
そんな中、不意に彼女と目が合った。
この緊迫した空気の中、いつものようにバカップルでいるわけにはいかないので、わざと距離を置いていたのだが、彼女は目が合うとにっこりと安心させるような笑顔で俺に笑いかけてきた。
大丈夫、と声に出さず口だけを動かしている。
ふと、緊張したら手のひらに人って3回書いて飲み込めば平気と笑っていた彼女の言葉を思い出した。
言葉を交わしていないのに、彼女が教えてくれたような気がして、俺はさっそく試すことにした。
手のひらに人と3回書いて、飲み込む。
実行してから彼女の方を見ると、声をあげずに楽しそうに笑っていた。
彼女はどうやら緊張とは無縁のようで、いつもと何も変わらなかった。
俺はそのことに安心し、彼女の笑顔で緊張も消えていくのを感じた。
彼女に微かな笑顔を返す。
「本番まで、あと30分です」
淡々と告げられた言葉に、いよいよだなと気を引き締めた。

舞台は、何の問題もなく滞りなく、練習の通りに終わった。
審査員や観客にもっと緊張するかと思ったのだが、始終彼女を見ていたせいで気にならなかった。
普段以上の力を発揮し、役と同化した俺以上に彼女は今までで1番の演技を見せた。
魅せたと言っても過言ではない。
恐らく、これが彼女の本気。
彼女は演じているのではない。
彼女は『彼女』そのものだった。
俺はそれに引っ張られリードされ、気づいたら演じているという感覚は消えていた。
完全に役の『俺』と自分が同化しきった感覚だった。
緞帳が下りても、しばらく終わったという感慨がないほど、役に入り込んでいた。
ここまで入り込んだのは、彼女と2人きりで練習をしていた時以来だ。
夏休み、2人きりで泊りがけの小旅行をした。
台本の通りの月景色の綺麗な場所で練習しようと言って。
その時も今日のように完全に役に成りきっていた。
その夜と、まったく同じ感覚だった。
幕間のインタビューが始まる頃には、まだ余韻が消えないまま舞台袖に立っていた。
「では、清和高校の部長さんに、この作品について一言いただきたいと思います」
緞帳の裏で片付けを始めている他の部員を視界の隅に認めながら、進行役の他校生が部長にマイクを向けているのを眺めていた。
「・・・えっと、この作品は、本来、この場所に一緒に立っているはずだった部員に、捧げたいと思います。今日をこんな形で迎えられたのは、本当に奇跡だと思っています・・・」
部長は緊張した声でマイクに向かって喋っている。
こういう時、部長が役者であればもっとスラスラと言葉を紡げるのだろうが、うちの部長は完全な裏方専門なので、言葉を何度も途切れさせながら答えている様子が微笑ましくも場違いに見えてしまう。
「この話は、ミステリーなんでしょうか」
予め質問は決めてあったのか、進行役の生徒が再び部長に問いかけた。
「いいえ・・・。ミステリーなんかじゃありません。・・・これは、純粋で美しくて切ない、幻想的な恋物語です」
恥ずかしげもなく部長はそう言い切った。
さらに続く言葉を聞いていたかったが、不意に袖を引かれて無言で手招きをされた。
最後の学校が準備を始めるから、さっさと舞台を明け渡せということだろう。
もう少し幕間の会話を聞いていたかったのだが、俺はさっさと控え室へと戻ることにした。
控え室に戻って、急いでメイクを落として着替えたら、彼女と一緒に最後の学校の舞台を見ようと決めた。
控え室に戻ると、部員は搬出のために小道具などを箱詰めしている裏方担当の先輩とそのアシスタントが何人かいるだけだった。
メイクも落とさずそのまま客席に向かった役者や、今の時点で出来ることがないのでやはりそのまま客席に向かった裏方が大半なのだろう。
俺も急いでメイクを落としてしまおうと、用意されてあったメイク落としのシートで乱暴に顔を拭った。
濃いメイクではないので、苦もなく落とせるのがありがたい。
鏡を見て、気にならない程度までメイクを落としたのを確認すると、衣装から制服へと手早く着替えた。
「先輩、アイツ知りませんか?」
控え室にいると思っていた人物がいなかったので、搬出の手配をしている先輩に声をかける。
「さっき、ホールの入り口付近でお茶飲んでたと思うけど」
名前を言わなくても誰のことか察してくれたらしく、先輩はあっさりとそう答えてくれた。
「ありがとうございます」
先輩に礼を述べ、俺は控え室を後にする。
そのまま裏から回ってホールの入り口を目指した。
ホールの入り口には悪友を筆頭に1年生の裏方組みが何人か寛いでいた。
「ぉ、お疲れ」
悪友は俺の姿を見つけると、手に持っていた缶ジュースを掲げて労いの言葉をかけてきた。
手に持っているのが缶ビールで、制服がスーツであれば駆けつけ一杯といった様子だ。
「おう、そっちもな」
俺は片手を挙げてそう応えると、周囲を見渡した。
先輩が言うには、ホールの入り口付近なのだが、捜している姿は見つからない。
「ん?どうかしたのか?」
俺の様子を見て、悪友が声をかけてくる。
その様子は酔っ払いが絡んでいるように見えて、何とも言えない。
「・・・いや・・・」
彼女を探しているとはさすがに恥ずかしくて言えず、曖昧に笑って言葉を濁す。
視線を彷徨わせていると、ホールの外に目的の姿を見つけた。
道路を挟んだ公園に、彼女を見つける。
どうしてそんな場所にいるのかわからないが、舞台を観る気はないのだろうか。
「おい、ドコ行くんだよ」
外に向かう俺に、悪友が声をかけてきた。
見ればわかるだろうと思ったので、何も言わなかった。
そのまま、脇目も振らずに彼女のところへ向かう。
俺に気づいた彼女が、手を振っていた。
手招きをされているわけではないが、おいでおいでと呼ばれているような気になる。
今は誰かが見ているわけでもないので、ようやく人目を気にせず抱きしめることが出来そうだ。
道路へ出ようとした時、何かに躓いた。
転びはしなかったが、その表紙にポケットから何かが転がり落ちた。
「・・・あ」
慌てて追いかけて、それを拾い上げる。
それは小さな花を模った天然石のチャームが揺れるネックレス。
彼女が1番気に入っているアクセサリーだ。
どうしてコレがポケットに入っているんだろう。
いつも身に付けていて、校則違反だと何度も嗜めたものなのに。
拾い上げてみると、鎖が切れていた。
大切にしているものなのに、どうしてだろう。
「おい、何やってんだ」
背後から悪友の声がする。
道路に立ち止まっているせいだろう。
「おいっ!」
俺が無視したせいか、悪友の声は悲鳴に近いような叫び声だった。
そんな大きな声を出さなくても、ちゃんと聴こえているのに。
「おいっ!!」
再び悪友が叫んでいる。
軽く振り返ると、何故か必死な様子で俺を見ていた。
視界の端に、大きなトラックが見えた。
なるほど、危ないからさっさと道路から退けと言いたいのだろう。
俺はそんな悪友に苦笑しながらも、彼女の元へ急いだ。
早く返してあげたいと思ったからだ。
彼女が1番大切にしていたものだから、ちゃんと彼女に返してあげたい。
歩きながら自分でも器用だと思う手際で切れていた鎖を繋ぎなおす。
道路を渡りきって、公園で待つ彼女の元へと歩み寄った。
「・・・お待たせ」
別に公園で待ち合わせをしていたわけではないのだが、シチュエーションとしては合っているような気がして、そう言った。
「大丈夫、そんなに待ってないから」
彼女は俺の台詞に合わせるようにそう言うと、にっこりと微笑んだ。
「コレ、ずっと持ってたんだ。返すよ」
手の中にあるネックレスを彼女の首にかけながら、そう言った。
「ありがと」
彼女は嬉しそうに笑っていた。
俺は、そんな彼女をそっと抱きしめる。
「・・・やっと、抱きしめられた・・・」
長い間、こうしていなかった気がする。
腕の中に大切な存在を抱きしめるだけで、こんなに安心できるとは思わなかった。
こうしているだけで、もう何も気にならないくらいに倖せだった。
「一緒に、いってくれるの?」
 腕の中で、彼女は囁くようにそう言った。
 「もちろん。そのために、探しに来たんだから」
 一緒にいるためにわざわざ探しに来たのだ。
 これで一緒に行かなければ、何のために探していたのかわからないじゃないか。
 もう1度、腕に力をこめてしっかりと抱きしめる。
 2度とこの手を離さないように。
 これからもずっと一緒にいられるように。
 遠くで悪友が俺の名前を叫んでいるのが聴こえた。
 けれど、そんなことはもうどうでも良かった。
 俺は、ずっとこうやって最愛の人を抱きしめたいと思っていたのだから。
 
 コンクールでは、うちの学校が最優秀賞を獲得した。
 けれど、この台本は、2度と演じられることは、なかった。





わたしがもし、もう2度とキミと言葉を交わすことが出来なくなっても、わたしがキミに贈る物語に込められた想いは、きっと届くと信じ続けていたいと思った。
キミがわたしを信じられなくても、わたしはわたしの想いを誰よりも信じられるのだから。
だから、これはわたしだけの物語。
たった1人のために綴り続ける、永遠に終わらない、深い愛の物語。
恋が愛に変わった日から、わたしはもう囚われていて、ただキミがそれを知らないだけだから。
この静かな月の夜にわたしはキミの姿を探す、仄かな光のような泡沫の夢でも幻でも逢いたいと願うから・・・・・・。
製作者:月森彩葉