どうかこの月明かりの下で静かな眠りを

 それは仮定。今となっては考えることすら無意味な、ただの夢の残滓(ざんし)

 あの時、もしも――――ていたならば……
 未来は、別のカタチを示していたのだろうか?

 それは仮定。今となっては考えることすら無意味な、ただの夢の残滓。
 けれども、それは(おり)のように(こご)り、彼女のこころを絡め取ったまま放そうとしない――


 まだ、鮮明に思い出せる。アルバムを開くかのように、克明に。
 灼きつくようにわたしの(なか)に刻まれた、それは鮮烈な思い出。けして色褪せることのない、鮮やかな……鮮やかすぎる記憶(おもいで)
 今となっては泣きたくなるほどに切なく眩い、それは在りし日の想い出(できごと)

 あの人と出逢ったことを。
 交わした言葉を。
 この胸に抱いた想いを。

 どれほど時間が経とうとも忘れない――忘れられない。たとえ墓の下にだって持っていく。
 その想いは、けして変わることなくこの胸に、ある――





 長く伸ばされたあかがね色の髪の毛。冷たく冴えた光を放つそれはとても硬そうに見えるのに、手に取ってみると驚くほどにすべらかで優しい。それが不思議でしょうがなくて、手の中に握り込むようにしていたら笑われた。
「きみは、僕の髪に触れるのが好きだね」
 どこか困ったような、けれどもとても優しい声音で呟かれた言葉に顔を上げる。
「だって、ふしぎなんだもの」
 サラサラと手の内からこぼれてゆく髪の毛に頬を寄せて呟く。
「まっすぐで、剣みたいにふれたら切れそうなのに……どうしてこんなに優しい手ざわりなのかが、とてもふしぎ」
 男の人なのに、こんなに髪がキレイだなんてズルイ。サラサラで、まっすぐで……わたしのとは全然違う。
 ぎゅっと彼の髪の毛を引っ張って、拗ねたように呟けばまた笑われて。それが子供扱いされたような気がして悔しくて、ツンとそっぽを向く。そうしたら、笑いながら胸の中に抱き寄せられた。
「僕は、きみの髪の毛の方が不思議だよ」
 胸にもたせかけた頭に、ついばむようなキスを降らせて。
「おひさまみたいな優しい金色の、まるで綿菓子のようにふわふわの髪の毛。初めてきみを見た時、天使かと思ったよ」
 優しい笑顔に、ぎゅっと手を握り締めて思う。
 ――そうだったらいいのに、と。もしわたしが天使なら、あなたを護ってあげられることが出来るから。
 もうすぐ、大きな戦争が起こると大人たちは言うから。そして、戦争になったならば、きっとこの人も兵士として戦地に赴くのだろうから。
 たとえ、天使じゃなかったとしても。わたしがあと何年か早く生まれていて、神官の資格が取れる年齢だったなら、助けることが出来たに違いないのに。

「――どうかしたの?」

 俯いて、そんなことを考えていたら顔を覗き込むようにしてそう訊ねられた。
「わたしが天使だったら、まもってあげられたのにって思ったの」
「きみは優しい子なんだね」
 ふわりと微笑んでわたしの頭を撫でて。
「――きみみたいな子を護りたいと、僕は思うよ……」
 どこか遠くを見つめて呟かれた言葉。今にも消えてしまいそうな儚げな微笑を見て、強く思う。

 護られるだけじゃなくて、誰かを護れるような強い人になりたいと――

 今のままじゃ、きっと何も出来ずに大切なモノを失ってしまうだけだから。そんな現実を“仕方ない”と言って、受け入れてしまいそうだから。
 だから、強くなりたい。大切なモノを護るために。





 第一印象は、“よく笑う人”だった。
 わたしと同じように“戦災孤児”として施設に引き取られてきたはずなのに、何でもないことですぐに笑う。人生が楽しくて仕方がなくて、悩みなんてないんじゃないだろうか。そう思うくらい、本当に笑顔の絶えない人だった。
 “あのこと”がなければ、ずっとそう思っていたのかもしれない。後にも先にもたった一度だけ、あの人が弱音を吐いた時。
 徴兵されていた、あの人の親友が戦死したと知らされたあの日。幼かったわたしにしがみつくようにして、声を殺して泣いていた。
 どうしてあいつが、と。戦争なんてなければいいのに、と。

「死にたくない……」

 肩を震わせて、絞り出すような声で、そう、呻いた。
 数時間前まで、明日出兵すると、護るために戦うと、どこか誇らしげに話していた人が。
 あまりに幼すぎて、わたしには慰めの言葉を見つけることが出来なくて、ただあの人の背中に両腕を回して抱きしめていた。
 あの人が落ち着くまで。一晩中、ずっと――――


 翌朝、あの人は笑って戦地へと旅立っていった。昨夜の慟哭を、怯えを、誰にも悟らせることなく。
 強い人だと思った。自分の恐怖を心の奥底に隠し、他の誰かを励ますために笑みを浮かべる。本当に強いこころを持っていなければけして出来ないだろうに、まるで簡単なことのようにやってのける。強い……とても強い人。
 みんなに見送られながら列車に乗り込むあの人を見て、不意に不安に襲われた。もう二度と逢えなくなるような、そんな予感。
「……かえって、くるよね?」
 てのひらに爪が食い込むほどに強く拳を握り締めてあの人を見上げる。
「また、ここにかえってくるよね?」
 不安がっているわたしのこころに気づいたのか、あの人はしゃがみ込んで目線を合わせ、笑いかけてくれた。
「うん。僕は必ずこの場所に帰ってくるよ、約束する。だから僕が戻ってきた時、ここに迎えに来てくれるかい?」
「うん!」
 確認するように問いかける声に、一も二もなく頷いた。
「わたし、まってるから。だから、ぜったいぜったい、かえってきてね? 約束だからね!」
 泣きそうになるのを我慢してそう叫ぶと、列車が見えなくなるまで手を振り続けた。そうしないと、真っ黒な不安に押し潰されそうだったから。





 それはあの人が徴兵されてから二年ほど経ったある日の事だった。“終戦のメドがたったらしい”という噂と共に、一通の手紙が届いたのは。旅立ったあの人から、わたしに宛てた手紙。封筒の中には紅い宝石がひとつだけ。
 それが何だかわからずに首を傾げていたら、孤児院の院長先生が教えてくれた。それは伝声の魔法だよ、と。部屋に戻って、高鳴る胸を押さえながら、教えられた解呪の手順を辿る。
 封じられていた言葉はたった一言。

『もうすぐ、帰れそうだよ』

 とても高価な魔法を使って、それだけ。だけど、あの人の声を聞くことが出来て嬉しくて。くすくす笑いながら、何度も何度も繰り返し聞いた。
 ――もうすぐ、あの人が帰ってくる。
 それが嬉しくて、その翌日から毎日駅に行った。日に一度だけ列車がやってくる時間の一時間も前から駅へ行って、孤児院へ帰って。バカみたいに浮かれて、毎日毎日その道を往復した。だから、その報せを受け取ったのもわたしだった。
 あの人が配属された小隊の隊長だと名乗った、軍人。沈痛な面持ちで、言いにくそうに。

「――は、亡くなりました。敵の奇襲を受けて……」

 それ以上聞きたくなくて、言葉の途中で逃げるように身を翻した。だけど、その人は孤児院にやって来た。あまりにも軽い棺を携えて。
「遺体は見つけられませんでした」
 そう言って開けられた棺の中に納められていたのは、一握りの土。あの人が亡くなった場所の土だと言っていた。
 葬儀は、その日の内に慎ましく執り行われた。
 呆気ないほど、皆あっさりとあの人の死を認めた。ただひとり、わたしを除いて。

 ――どうして? 帰ってくるって、約束したじゃない。

 からっぽの棺の上に建てられた墓標の前に膝をつく。
『もうすぐ、帰れそうだよ』
 両手で握り締めた紅い宝石が、封じられた声を投げかける。もう二度と、聞くことの叶わない声。もうとうに枯れ果てたと思っていた涙が溢れ、頬を濡らす。
 ――あの時、もしも引き止めていれば……
 ぼんやりと靄がかかった頭でそんなことを考えた。

 行かないで、と。
 一緒に逃げよう、と。
 あの時、泣いて縋っていたならば――。あの人はまだここに、わたしの傍にいたのだろうか?

 それは仮定。今となっては、考えることすら無意味な、ただの夢の残滓。
 だけど、その言葉が導いたかもしれない未来はとても魅惑的で。熱に浮かされたように、ただ同じ言葉を繰り返す。
 あの時引き止めていれば、と。


 怖いくらいに綺麗な満月を見上げる。
 彼の遺体は、見つからなかった。帰ってきたのは、彼の血を吸ったのかもしれない、一握りの土。ならば、彼のこころは、今も戦場を彷徨っているのだろうか?
「そんなの、哀しいよ……」
 強く握りすぎた紅い石が、高く澄んだ音を立てて砕け散った。吹き寄せた一陣の風が粉々になった宝石を空へと舞い上げる。それはほんのひととき月を紅く染め、すぐに吹き散らされる。
 熱に浮かされたように焦点の合わない瞳でそれを見つめていた少女の頬を、涙がひとすじ滑り落ちる。
「せめて、あなたが静かに眠れますように――」
 魅入られたように月を見上げたまま、少女が祈るように囁く。
 瞳を閉じ、三日月のように細いナイフを滑らせる。溢れ出た赫い血が肌を滑り、まるで腕輪のように月光を弾いた。
 がくん、と少女の体が崩れ落ちる。目尻にたまった涙がこぼれ、血液と混ざって土へと染み込む。

 ――せめて、この月明かりの下で静かな眠りを……――

 銀色の大きな満月が、まるで目を伏せるように雲間へとその身を隠した。
毎度ながらアレですが、最早語れる言葉はありません。
解説するならば、最初と最後の三人称部分が繋がっていて、現在。真ん中の一人称部分が過去の回想です。
後日、文章をチェックしていて、後半の三人称部分がどこからなのか、自分でもわからなかったのはここだけの話。ダメすぎる…。
製作者:篠宮雷歌