Over the sky

 今でも時々思い出す。あの(ひと)の言葉を。少女のような瞳で空を見上げて、焦がれるように呟いた言葉を。

「空を越えて、伝わる想いってあるのかな」

 あの時は幼すぎてその意味がわからなかったけれど、今となってはとてもよく理解(わか)る。その言葉の意味も、歌に込められた願いも。
 熱に浮かされたようなその瞳が、祈るように歌うその声が、静かに頬を伝う一粒の涙が。
 脳裏に焼きついて、心の奥に刻み込まれて――僕を、放そうとしない。





 僕がその人に出逢ったのは、十になったかならないかくらいの頃だった。
 親や周りの大人たちは誰もが言葉を濁して詳しくは教えてくれなかったが、セシリアというその女性は病気の療養のためにフィラッテ村を訪れたという話だった。
 若い頃は冒険者をやっていたという彼女の話は、村から一歩も出た事のない僕にとっては宝石のようにキラキラと光り輝いていて、僕はすぐに彼女に懐いた。
 暇さえあれば彼女の家へと向かい、物語をせがむ僕に嫌な顔一つせずにセシリアは様々な話をしてくれた。傭兵として参加した大国同士の戦争や、空に浮かんだ大陸。そして神と呼ばれる竜が住まう世界――
 まるで御伽噺(おとぎばなし)のようなそれらの物語の合間に、彼女は冒険の途中で出会った人々の事も話してくれた。生き別れとなっていた兄や、志を共にした仲間たち。
 それらもまた、僕にとっては御伽噺のように眩しくて。

 ある日、いつものように若い頃の話をしてくれていた彼女が、ふと空を見上げて呟いた。
「空を越えて、伝わる想いってあるのかな……」
「セシリア……さん?」
 きょとんとして見上げる僕に気づいて、彼女は小さく笑みを浮かべて頭を振った。
「――ああ、ごめんなさい、レスター。なんでもないのよ。ただ……少し、疑問に思っただけなの。空を越えて、想いは伝わるものなのかしらって」
 刺繍をしていた針を止め、彼女は大きく開いた窓から空を見上げた。
「セシリアさんには好きな人、いるの?」
「ええ、いたわ。とてもとても好きな人が。その人のためなら、命さえ差し出しても惜しくないと思えるほどに……」
「ふぅん……その人、今はどうしてるの?」
 深い考えもなく口にしたその問いに、彼女は僅かに目を細めて。
「さぁ……どうしているのかしらね?」
 どこか哀しげにそう呟いた。
「わからないの?」
「ええ、わからないの。出逢ったその時はわたしは色々な意味で幼くて、その人への感情が恋だという事にすら気づけなかった。気になって夜も眠れなくて、だ けど逢うと何を話していいのかわからない……。持て余すほどの感情が怖くて、とても優しかったその人から逃げた。今思うと、何て愚かだったのかしらと笑っ てしまうのだけれど……」
 話している途中で言葉を詰まらせ、彼女は顔を覆ってむせび泣いた。指の間を伝って零れる涙に、悪い事を聞いてしまったのだと幼心に悟ってただ俯く。泣き止んで欲しいと願いながら、強く拳を握り締めて。
 すすり泣く声が次第に小さくなり、やがてか細い声で歌が紡がれた。ハッとして顔を上げ、目に飛び込んできた光景に息を呑む。
 熱に浮かされたような瞳が、祈るような歌声が、頬に光る涙が、一瞬で心の奥底に刻み付けられて。僕よりも遥かに年上のはずなのに、まるで少女のように見えるその横顔に強く惹きつけられた。


 それから何年かして彼女はいなくなってしまったけれども、今もその時の光景は脳裏に焼きついて忘れる事が出来ずにいる。ふとした拍子に蘇っては、心の更に深いところに刻み込まれて僕を放そうとしない。
 そして、思うのだ。あの人の言っていた、“持て余して怖くなるほどの感情”というのはこれの事なのだろうかと――
 そんな時、僕は決まって空を見上げる。零れそうになる涙を隠すために。そうして、あの人のように歌を歌うのだ。祈りにも似た歌を、あの人に届くようにと願って。


 空を越えて、想いは伝わるものですか?

 もしもそれが叶うのならば――
 風よ、どうかあの人に届けてください。
 伝えられなかった想いを。
 隠し続けてきた心を。

 もしもそれが叶わぬならば――
 風よ、どうかわたしに教えてください。
 あの人は今、どこにいますか?
 何を思っているのでしょうか?

 もしも、もう一度出逢う事が出来たならば――
 この気持ちを、貴方に伝えても良いでしょうか?


 ――あなたが、すきです――


 秘めたる想いよ。風に乗って、どうかあの人の許へと届いて――
いつ書いたものかは覚えておりませぬが、たしかテーマは初恋だったハズ。

作者:宵月