Wish
視界の端を過ぎった淡い色彩。戦場にその眼差しの先には、濃緑の髪をなびかせて駆ける一人の少女。水色のドレスと淡い緑のケープが、風をはらんで大きくはためく。戦場という
「ふぅん?」
顎に手を当てて小さく唸る。
「戦場にオヒメサマ、ねぇ?」
訝しげに歪められていた口元に笑みが刻まれた。大きく剣を一振りして付着した
「さァて、いっちょ行きますかね?」
愉しげにそう呟くと、男――マードックは少女を追って駆け出した。
*
「そんなに急いでドコに行くの? 可愛らしいオヒメサマ?」
突然行く手に立ちはだかった男に、少女は驚いたように目を見開いて足を止めた。予想通りの反応に、マードックは満足気に笑う。
「お供が必要ならば、オレがご一緒いたしましょうか?」
にやりと笑って言ったマードックに、少女は小さくかぶりを振った。
「道をあけて」
「つれないねぇ。そんな事言わずに、ちょっとオレと遊んでよ?」
目を細めてそう言うと、マードックは剣を抜いた。眼前に突きつけられた白刃に、少女が一歩後退る。笑みを浮かべたままマードックも一歩前へと踏み出す。
「オヒメサマ、お名前は?」
問いには答えず、少女は更に後ろへとさがる。少女と同じだけ歩を進めながら、薄ら笑いを浮かべてマードックは口を開く。
「人に名前を尋ねる時にはまず自分からって事かな? オレはマードック・ロズアール。それで、オヒメサマのお名前は?」
観念したかのように足を止めた少女が僅かに俯き、やがてゆっくりと口を開いた。
「リシェイン……リシェイン・フェイル・クォヴァティス」
告げられたその言葉に、マードックの目が大きく見開かれた。それからゆっくりと、くちびるが笑みの形に吊り上げられる。
【クォヴァティス】――かつて神聖帝国に完全に滅ぼされた聖王国。その名を継ぐのは今となってはただ一人。
「クォヴァティスの【
生まれてすぐに幽閉されていた【忌み姫】が挙兵したという話は聞いていた。その
学園都市の【死神】と並び、聖王国の【忌み姫】の名は戦場に
この少女が本当に【忌み姫】であるのなら、他の傭兵に渡すわけにはいかなかった。その首級を持ち帰れば、地位も金も思いのままになるのだから。
剣を握る手が汗ばむ。手のひらに浮かんだ汗を服で拭い、マードックは剣を握りなおした。
リシェインが伏せていた顔を上げた。深い紅の瞳が、真っ直ぐにマードックを捉える。波紋一つない、凪いだ水面のようなその瞳に、マードックは背筋が震えるほどの喜びを感じた。
この少女は怯えてはいない。孤立無援の状況にありながら、戦う――いや、マードックの屍を越えて往くつもりなのだ。その覚悟の強さに、知らず笑みがこぼれた。
見つめ合ったのは一瞬。弾かれたように飛び退って距離を取り、身構える。
「
胸の前で祈るように両手を重ね、目蓋を伏せたリシェインが囁く。
「――君に安らかな死が訪れん事を、
祈りのような詩のような言葉を言い終えたリシェインが顔を上げる。恐れも迷いもない紅の瞳がマードックを見据え、そのくちびるが言葉を紡ぐ。
「風よ、切り裂け」
刹那、ごう、と耳元で風が唸った。重い一撃を喰らったかのように、思い切り後ろに吹き飛ばされる。追いかけてきた鋭利な刃のような風が身体を切り刻むのを感じながら、綺麗な声だと思った。
地面に叩きつけられ、マードックは呻き声を上げた。大きく咳き込み、血の混じった唾を吐き出す。
近づいてきた軽い足音に顔を上げると、膝をついて彼を覗き込むリシェインと目が合った。
「何か、願いは?」
静かな声に、小さく笑う。あまりにも無防備な少女の姿に、何もかもがどうでもよくなった。地位も、金も、己の命すらも。だから、マードックは呻くように呟いた。
「笑ってくれや、オヒメサマ」
マードックの言葉にリシェインは戸惑ったように首を傾げ、そしてふわりと微笑んだ。想像していた通りの綺麗な笑顔に、マードックも笑みを浮かべて力なく呟く。
「もっと早く、あんたに逢えてたら、な……」
伸ばされた手がリシェインの頬をかすめ、ことりと落ちる。
――あんたと一緒に、戦場を駆けたかった。
その言葉を最期に残して。
「……さようなら、マードック・ロズアール」
短く黙祷を捧げ、リシェインが立ち上がる。
「――姫さん!」
再び駆け出した時、背後からかけられた声にリシェインは足を止めて振り向いた。
中途半端な長さの黒髪を無造作に纏めた、青年と呼んでも差し支えのない若さの男が刀を手にこちらへと駆けてくる。
「スオウ」
見知った顔に、リシェインは小さく笑みを浮かべる。
「悪い、足止めされて……大丈夫だったか?」
マードックの躯に目をやり、スオウが眉を寄せて問いかける。
「わたしは大丈夫。こんなところで立ち止まるわけにはいかないから」
「……そうだな」
リシェインの言葉に、スオウはしばらく考え込んだ後ニッと笑った。
「よし! 行くか、姫さん」
「ええ、行きましょう」
頷き合い、二人は再び戦場へと戻っていく。途中出会った兵士たちを刀で、魔法で斬り伏せて、ただひたすらに駆け抜ける。
穢れる事など怖くない、穢す事を躊躇いはしない。何を犠牲にしても、やり遂げねばならぬ事があるから。だから、唯祈る。
志半ばに倒れし者よ。どうか、君に安らかな眠りが訪れん事を――