散る間際の華の、それは届かない叫びにも似た想い

 始まりはいつも焔の中。
『逃げなさい、貴女だけでも!』
 彼女の肩を掴んで叫ぶその(ひと)の長い金褐色の髪が赤く光るのは、焔の照り返しのせいだけではなかった。髪のみならず、顔も、腕も、身に着けた衣服も、すべてが血液で赫く染まっていた。
『第一、第二騎士団が壊滅した』
 靴音を高く響かせて室内に入ってきた青年が、静かな声でそう告げた。短い砂色の髪を纏めたバンダナも、血を吸って色が変わっている。
『現在、魔法師団と第三騎士団が防衛に当たっているが、時間稼ぎにもならんだろうな』
 小さく溜息をつき、青年は額に手をやった。そのままバンダナを毟り取り、床に投げ捨てる。血で固まりかけた前髪をかき上げ、問いかけるように娘を見やる。
『確かに、城が陥ちるのも時間の問題ね』
 何かを堪えるかのように、娘はくちびるを噛み締めて床に視線を落とした。
『でも、まだ陥ちてはない。逃がす時間くらいはあるはずよ』
 娘の言葉に、彼女は違和感を覚えた。探るように娘を見つめ、不意に悟る。
『……“逃がす”? “逃げる”ではなくて?』
 問い質すと、娘は顔を上げて笑みを浮かべた。彼女が好きだった笑み。だが、その笑みにはどこか悲壮さが漂っていた。
『ええ、貴女を逃がすわ。私たちがここに残れば、きっと貴女を逃がす時間を稼げるから』
 娘の言葉に、確かめるように青年を見上げれば彼もまた頷いた。
『ダメよ、そんなの! あなたたちは、わたしに民を見捨てて逃げろと言うの!?』
『そうだ』
 静かに頷いた青年に、彼女は目を瞠る。どうしてと呟く彼女の肩を掴み、青年は諭すように言葉を続ける。
『お前さえ生きていれば、いずれ国を復興することも出来るだろう。ディユの血族、残されし最後の神子』
『……ちがう』
 だから逃げろと告げる青年の言葉に頭を振り、彼女は顔を上げた。
『違うの、そうじゃない。わたしが……最初からわたしが投降すればよかったの。そうすれば、この戦は起きなかった。……そう、今からでもわたしが降れば、彼らはそれで兵を引くかもしれない』
 虚ろに響いた彼女の声に、娘が息を呑んだ。
『何を言っているの!? それこそ意味がない! 彼らが、何故命を懸けて戦っていると思っているの? すべては貴女を守るためなのよ』
 悲鳴じみた娘の声にかぶさるように、重量を持った何かがぶつかるような音が響いた。それに続き、慌しい足音が近づいてくる。
『将軍!』
 叫びながら、まだ少年と言っても差し支えのない年齢の兵士が室内に転がり込む。
『最終防衛ライン、突破されました! 城門が破られるのも時間の問題です!』
 その言葉に、衝撃からいち早く立ち直った娘が動いた。彼女の手を掴み、壁際へと駆け寄る。
 燭台の一つを引っ張ると、重い音がして壁の一部が横に滑った。その向こうに現れたのは、奈落へと続くような長い下り階段。
『お願い、イシュア。どうか生きて……』
 祈るように囁き、娘が闇の淵へと彼女を突き落とした。そのまま数段転がり落ち、踊り場に身体を打ち付ける。呻きながら顔を上げた彼女の目に映ったのは、閉じてゆく扉。
『そんな……どうして!?』
 叫んで、階段を駆け上がった。けれど、その手が娘に届く前に彼女は再び闇へと突き落とされる。
『いいから行け! 早く!!』
 滅多に声を荒げることのない青年の怒声に、ビクリと肩が震えた。
『イシュア、私たちは貴女だけでも……いいえ、貴女だからこそ生き延びてほしいの』
『お前が神子だからとか、そんなのは関係ない。お前は、俺たちの大切な親友なんだ。だから逃げてくれ。そして生きろ、イシュア』
 閉ざされた壁の向こうから、声だけがただ届く。
『待って……お願い、ここを開けて!』
 遠ざかっていく足音に、扉を叩いて叫ぶが応えはない。
『開けてよ、ねぇ……』
 振り上げた拳が力なく扉にあたり、そのままずるずると滑り落ちる。
『わたしだって、みんなに……二人に生きていてほしいのに……』
 涙と共に零れ落ちた呟きが、聞く者もなく闇の中に溶けて消えた。


 どれだけの間、そうやって泣いていたのだろうか。やがて、彼女は手の甲で涙を拭って顔を上げた。
『行かなくちゃ……』
 ぽつりと呟いて立ち上がる。右手で壁を伝いながら、ゆっくりと階段を下りる。
 隠し通路を通って城を出た後、どうやって逃げたのかは憶えてはいない。
 ――逃げなくちゃ。
 強迫観念にも似た、その言葉だけを頼りに走り続けた。昼も夜もなく、ただひたすらに走って、走って。
 耳の奥で、祈る声が木霊する。
 ――お願いだから……貴女だけでも逃げて……
 ――お前は、俺たちの大切な親友なんだ……
 託されたのだ、と誰かの声がそう告げた。お前は彼らの命を貰ったのだから、その分まで生きなければならない。彼らの願いを叶えなければならない、と。
「逃げなくちゃ……逃げて、生きるの……」
 かすれた声で呟いた時、張り出した木の根に足を取られた。思わず悲鳴を上げて手を伸ばす。
 よろめいて、それでもどうにか木の幹に抱きつくようにして膝をついた。大きく息をつくのとほぼ同時に、ガサリと藪をかき分ける音が響く。ビクリと肩を震わせ、弾かれたように音の出所へと振り返る。
 首飾りに加工した呪石を引き千切り、右腕を前へと伸ばす。放たれた追っ手か、それとも近辺を根城とする野盗か、あるいはただの通りすがりの旅人か。何にせよ、捕まるわけにはいかないのだ。たとえ自分とは無関係の人間だとしても、必要ならば消さねばならない。
 心臓の鼓動が早まり、呼吸が乱れる。呪石を握り締めた左手を胸の前に翳し、伸ばした右手で空中に魔術文字を刻む。
「――盟約に従い、我が声に応えよ」
 呟く声に反応し、空に刻まれた文字が明滅する。
「黄泉の淵より来たれ、死を司る存在(もの)よ。我、汝に伏して(こいねが)う。汝、我が呼びかけに応え、立ち塞がる者に絶対の恐怖を与えたまえ……!」
 タイミングを計り、足音が最も近づいたその時に魔力を開放する。
 茂みをかき分けて現れた人影に向かい、闇が凝固して姿を成した死神が鈍色の鎌を振り下ろす。
 自分目掛けて襲ってきた兇器に、青年が驚きの声を上げた。地面を転がるようにして、ギリギリのところでかわす。切り払われた淡い金髪が一房、ハラリと散った。
 続けて振るわれる鎌を避けながら、青年が腰の剣へと手を伸ばす。死神が鎌を振り上げたその刹那、低い姿勢で懐に飛び込むと、伸び上がるようにして剣を振った。
 ――グ……ウゥ……
 不気味な呻き声を残し、闇が風に流れて散る。
 青年が深く息をつき、剣を鞘に納めながら振り返った。薄い灰色の瞳が彼女を捉え、驚いたように瞠られる。
「あ……」
 その瞳に気圧されるように、彼女は一歩後退る。背を向けて逃げようとした時、ぐらりと視界が揺れた。
 ――逃げなくちゃ。
 うわ言のように呟いた自分の声を最後に、彼女は意識を手放した。





 焔がすべてを緋く染め上げる。火の粉が、まるで舞い散る花びらのように辺りを飛び交う。
『イシュア、私たちは貴女だけでも……いいえ、貴女だからこそ生き延びてほしいの』
 金褐色の髪を高く結い上げた娘が、囁くように呟いてふわりと微笑む。
『お前は、俺たちの大切な親友なんだ……だから逃げてくれ。そして生きろ、イシュア』
 砂色の髪の青年が、祈るような眼差しで告げる。
 待ってと叫びながら手を伸ばす。けれど、その手が触れる前に、彼らはゆらりと焔の中に消えた。


「――イシュアさん」

 遠慮がちな呼びかけに、イシュアは目を開いた。眼前に立つ淡い金髪の青年を見上げる。
 一瞬自分がどこにいるのかわからなかったが、すぐに思い出した。ここは天空の国スィエル。その名が示すとおり、空に浮かんだ島の上にある王国だ。そして、目の前の彼はこの国の女王に忠誠を誓った騎士。気を失った自分を助けてくれたという彼の名前は、確か……
「……ナロンさん」
 名前を呼ぶと、彼はにこりと微笑んだ。
「何か、思い出せましたか?」
「いえ……特に何も」
 問いかけに小さく頭を振ってそう答えると、ナロンも顔を曇らせた。
「そうですか……名前以外の総てを忘れてしまうなんて、何かよほど辛いことがあったんでしょうね」
 気遣うようなナロンの言葉に、イシュアはそっと目を伏せる。
「何かわからないかと貴女の持ち物を調べてみたのですが、詳しいことは何も……」
 すまなそうにそう告げるナロンに、イシュアはかすかに笑みを浮かべた。
「いいえ、気にしないでください」
 そう告げて、ふとイシュアは視線を空へと彷徨わせた。
「ディユ……」
「【ディユ】?」
 どこか遠くを見つめるイシュアに、ナロンは眉を寄せて聞き返す。
「【ディユの血族】……わたしは、そう呼ばれたことが、ある……」
 ぼんやりと呟いたイシュアの言葉にナロンはしばし考え込み、やがて口を開いた。
「大陸のどこかに、そんな名前の古き神を奉ずる一族があると聞いたことがありますが……貴方はその末裔なのでしょうか」
 ナロンの言葉に、イシュアはゆっくりとまばたきした。ぼんやりとしていたその瞳に、意志の光が戻る。
「それは、本当ですか?」
「ええ。ですが、我々も詳しく知っているわけではありません。――探しに行かれるつもりですか?」
「はい。それが、わたしが何者なのかを知る手がかりだと言うのなら」
 強く頷いたイシュアに、ナロンはそっと溜息をついた。
「わかりました。ですが、これだけは憶えていてくださいね、イシュアさん」
 真っ直ぐにイシュアを見つめ、一言一言言葉を紡ぐ。
「貴方が自分の記憶を求めて旅に出ると言うのなら、私たちは止めません。ですが、もし疲れたのならここに……スィエルに戻ってきていいんですよ。私たちは、いつだって貴方を受け入れますから」
 そう告げたナロンに、イシュアはゆっくりと頷いた。


 城に戻っていくナロンの背中を見送り、イシュアは再び目蓋を閉ざした。
 眼裏に先程の夢の名残が浮かぶ。金褐色の髪の娘と、砂色の髪の青年。彼女を助けようとした優しい人たち。
 ――貴方は、誰……?
 問いかけに答える声は、ない。

 けして返るはずのない答え。わかっていて、それでも繰り返す。――貴方は、誰?

 ――神様。
 祈るように指を絡ませ、イシュアはその場に跪く。
「たったひとつでいいのです。他の何も望まないから、どうかこの願いを叶えてください」
 ――あの人たちの、名前を。わたしを親友と呼び、助けるために命を(なげう)ってくれた彼らの名前を教えてほしいのです。


 たったひとつ、このささやかで傲慢な願いを、どうか叶えて――
元ネタは某ネトゲ、と言ってしまってよいものか。
イシュアの設定は某ネトゲから。
もう色んなイミで混沌としすぎていて何が何やら。

作者:宵月