鮮赤のメシア 六章

 休憩を終え、再び探索を開始するために準備をしていた時だった。
「一旦戻る?」
 焚き火の後始末をしていた手を止め、アルヴィーンが驚いたように声を上げる。
「それは一度坑道を出るという意味か?」
 意外な内容に問い返すと、ディーは首を横に振った。
「いえ、そうではなくて。昨日、銀狼の群れと遭遇した場所に、です」
「……死骸の確認か?」
 他に思い当たることもなかったのでそう問いかけると、ディーは気になることがあるのだとうなずいた。
 あの光景は見て楽しいものではないが、よほど気にかかることがあるのだろう。一人ででも戻ると言いたげな様子のディーに、アルヴィーンは引き返すことを了承したのだった。


 辺り一面に獣の死骸が広がるその光景は陰惨極まりなかった。自分がやったこととは言え、破壊されたそれらは見るに忍びない。
 思わず視線をそらしたアルヴィーンとは対照的に、ディーは平然と死骸の中へと踏み込んだ。一頭ずつその死骸を(あらた)めていく。
 死骸から一歩離れた場所からその様子を見ながら、アルヴィーンは問いかけた。
「結局何が気になっていたんだ?」
「昨日の群れの中に、リーダー格の個体がいなかったように思ったので」
 ディーの言葉に、そういえばとアルヴィーンは思い当たる。群れのリーダーは他の個体よりも毛並みの色がひときわ鮮やかだ。銀狼という名前の由来ともなったあの特徴的な銀色の毛皮は暗闇の中でも目立つが、昨日は見かけなかったように思う。
 覚悟を決めると、アルヴィーンも死骸が転がる中へと踏み入った。


「全部手下の死体だったな」
 二人で手分けしたおかげで、さほど時間をかけずに検分は済んだ。しかし隅から隅まで確認しても、リーダーと思しき個体は見つからなかった。すべて青灰色の毛皮の、一般の銀狼だ。
「ええ、厄介ですね」
 リーダーが健在ということは、まだ群れが残っているということを意味する。さすがに昨日と同じ規模ということはないだろうが、用心するに越したことはなかった。
 視線を見交わしてうなずくと、二人は今度こそ探索を再開した。


 何度目かの小休止を挟んだあとだった。不意に足を止めたアルヴィーンに、訝しげな顔をしてディーが振り返る。
「どうかしましたか?」
 ディーの問いかけに曖昧にうなずいたアルヴィーンは、荷物から地図を取り出しながら答えた。
「このあたりに分岐路なんてあったかと思ってな」
 その言葉に、ディーは記憶した旧坑道内部の地図を脳裏に思い描く。時折行き止まりとなる別れ道がある以外、基本的には一本道のはずだった。
「分岐なんてなかったと思いますが」
 そう言いながらアルヴィーンの隣に並び、地図を覗き込む。今までの道筋を指でなぞって示し、現在地と思われる場所でディーは指を止めた。やはり分岐路なんて存在しない。
「それじゃあ、アレは?」
 アルヴィーンがそう言って指差したのは、正面に続く道とは別に、右手に口を開けた横穴だった。人一人がどうにか通れるくらいの大きさだ。
「崩落でできたか……あるいは、新たに掘り進めた道かもしれません」
 旧坑道と呼ばれてはいるものの、完全に使われなくなったわけではないとダニエルから聞いている。地図も最新というわけではないので、記載されていない道という可能性は大いにあった。
「なるほど。調べてみる価値はあるな」
 坑道などで異形が発生した場合、崩落が起きたり掘り進めた先で異形の巣と繋がってしまったということがほとんどだ。植物型の場合は特にこのケースが多い。
 互いに視線を交わしてうなずき合うと、二人は横穴へと歩を進めた。


 しばらく道なりに進んだところで、またアルヴィーンが足を止めた。おかしくないかと問いかける。
「崩落でできたにしては人が通ったような形跡があるし、坑道を広げたにしては採掘の跡がない」
 アルヴィーンの訴えに、周囲を見渡しながらディーもうなずいて同意を示す。たしかに、坑道にしては妙にきれいすぎる気がした。何らかの理由で道を広げはしたものの実際には採掘を行わなかったという可能性も考えられたが、この先に何かがあると考えた方が自然だろう。
「坑道を封鎖して、本部からの応援を待つべきなんだろうがなぁ……」
 前髪をかき上げながらつぶやくと、アルヴィーンは問いかけるようにディーを見やった。
「本来ならそうするべきでしょうね」
 そう言ってディーは(かぶり)を振る。この先が外に繋がっている可能性もあった。もしそうであるなら、封鎖したところで何の意味もない。
「最終的に封鎖するにしろ、奥まで確認するべきでしょうね」
「結局そうなるよなぁ……」
 面倒くさいとぼやき、アルヴィーンは盛大にため息をついた。
「確認ならばわたしがしますので、あなたは戻っていただいてもかまいませんよ」
 しれっとそんなことを言い放ったディーに、彼は再び嘆息する。
「そういうわけにもいかないだろ」
 この先が異形の巣となっている可能性もあるのだ。一人で行かせるわけにはいかない。
 結局、休憩を挟んでからこの先の探索を行うということで落ち着いた。


 交代で行っていた焚き火の番は、アルヴィーンの順番だった。燃料を手で(もてあそ)びながら、彼は地面に横たわるディーに視線を向ける。
「まだ起きているか?」
 寝ている可能性も考慮してそっと声をかけると、彼女は目を開けてこちらに顔を向けた。
「そこまでするのは、何でだ?」
「……どういう意味です?」
 とぼけているのか、それとも問われている意味を測りかねているのか、わずかに考え込む様子を見せたあとにディーはそう問い返した。
「討伐士をやめるつもりでいたんだろう? それなのに、何でわざわざ自分とは関係のない街の異形討伐を引き受けた? 金のためか?」
 問いかけながら、そういうわけではないだろうとアルヴィーンは察していた。たぶん、彼女は金銭のためにこの依頼を請け負ったのではない。
「それがヨハンの教えだからですよ」
 上体を起こし、ディーは答えた。勝てない相手ならば一度退いてもかまわない、だが戦いそのものから逃げてはならないのだと。
「討伐士が異形との戦いを放棄するということは、異形の被害にさらされている人々を見捨てることとなります。だから、わたしはこの依頼を引き受けました」
 まるでそれが当たり前であるかのように、気負うことなく自然体で語ったディーを見てアルヴィーンはかすかに笑った。
「その考えをすべての討伐士が実践できたならば、異形の被害はここまでひどくはならなかったんだろうがな」
 皮肉げなつぶやきに、ディーはためらいながらもうなずいた。
「ヨハンに師事した者でさえ、その教えを忠実に守れている者は少ないですから。他の討伐士たちならば、尚のこと難しいでしょうね」
 その言葉にアルヴィーンはまた笑った。低く囁く。
「ヨハン・シュタルクにとって、あんては自慢の弟子だっただろうな」
「それは……どうでしょうね?」
 小さく(かぶり)を振り、ディーは自嘲するようにため息をつく。
「わたしが戦う理由はヨハンへの恩を返すためというのもありますが、実際は私怨(しえん)にすぎませんよ」
 幼い頃、彼女は異形に襲われてすべてを失った。ヨハンに助けられなかったならば、きっと自分も死んでいたのだろうと思う。
 不意に耳元で声が聞こえた気がした。ごめんね、と泣きながら謝る男の声が。


 そこは少女が生まれてからずっと育ってきた場所だった。
 辺境の小さな村。お世辞にも豊かとは言えなかったが、飢えることも凍えることもなく日々を暮らしていくことはできた。そこに暮らす人々は皆優しくて、少女はその小さな村が大好きだった。
 だが、その村はもうない。異形によって壊された。少女の目の前に広がるのは、破壊の爪痕も生々しく残るかつて村だったものだ。
 付近の森に異形が住み着いたことに、村の住民たちは気づいていた。しかし、討伐士協会に討伐を依頼するためには、莫大な額の金が必要となる。村中からかき集めたとしても、そんなものは到底用意できそうになかった。
 だから彼らはただ祈った。何事もなく日々が過ぎていきますようにと。
 しかし村人たちの祈りは届かず、物騒な隣人はその牙を剥いた。村人たちも当然(あらが)いはしたが、彼らが異形に敵うはずもなかった。
 村人たちが異形に殺されていくその一部始終を、少女はただ見つめていることしかできなかった。彼女を庇うように抱きかかえたまま事切れた母親の腕の中で、ずっと。
 永遠に続くかと思われた惨劇は、ヨハン・シュタルクの率いる討伐隊が現れたことによって終わりを告げた。彼らによって異形は討伐され、そうして折り重なった死体の山の中から少女は見つけ出された。
 ただ一人の生存者を抱きしめて、ヨハンは泣きながら謝り続けた。自分たちがもっと早くに来ていれば、他の人々も助けられたかもしれないのに、と。
『討伐士は平等の立場でいなくちゃいけないんだよ。助けを求めるすべての人に手を差し伸べるべきで、間違っても金銭の多寡(たか)で差別なんてしちゃいけないんだ。絶対に」
 そう言って、彼は何度も少女に謝ったのだ。他の人たちを助けられなくてごめんね、と――。


「一人でも多くの人を助けること、それがヨハンの願いでした。だから彼に命を救われた私は、彼の意志を引き継がなければならないんです。でも……」
 どこまで彼の教えを守れているのかはわからない、そう自嘲気味にディーはつぶやいた。
「別にいいんじゃないのか?」
「……え?」
「たとえ戦う理由が私怨だったとしても、彼の言葉を忘れていないのならそれで充分なんじゃないか?」
 アルヴィーンの言葉に、ディーは迷うように瞳をさまよわせた。ためらいがちに口を開く。
「そう……でしょうか?」
 本当にそれでいいのだろうかとつぶやいて(かぶり)を振る。
 難しい顔で考え込んでしまったディーの隣に移動すると、アルヴィーンは彼女の頭に手を乗せた。宥めるように、ぽんぽんと軽く叩く。
「立ち入ったことを聞いて悪かったな」
「いえ、気にしないでください」
 感情の窺えない瞳で首を横に振ったディーに、そうかと答える。彼女の頭を一度撫でてから手を離すと、アルヴィーンは元の場所へと戻った。
「声をかけて悪かった。適当なところで起こすから、休んでくれ」
 そう告げたアルヴィーンの視線は炎へと向けられていた。
 炎に照らされたその横顔を見つめ、小さくおやすみなさいとつぶやくとディーは再び横になった。


 再度探索を開始し、辿り着いた結論は【やはりおかしい】ということだった。崩落でできたにしては人の手が入った形跡があり、かと言って坑道にしてはあまりにも手つかずすぎた。この先に何かがあると考えて、まず間違いはないだろう。
 心構えも新たに進んでいくと、前方が明るくなっていることに気がついた。ここからでは距離がありすぎて、それが自然光が入り込んでいるのか、それとも人工的なものなのか判別がつかない。
「まさかとは思うが、自然崩落でできた道なのか……?」
「どうでしょうね。可能性としてはあり得ますが」
 軽口を叩きつつも、二人は警戒を緩めない。
 そうして辿り着いたのは、部屋のように整えられた広い空間だった。天井部分からは光石を利用した照明設備が光を投げかけて空間を白く照らし出し、壁際には一面大小様々な本棚が、部屋の中央に長机とイスが置かれている。
 奥へと向かうとそこにも部屋があった。最初の部屋と違い、こちらにはガラスでできた大きな器具がいくつも並んでいる。しかし破損して原型を留めていないものがほとんどで、それらの用途はわからない。
「これはまた……あからさまに怪しいな」
 室内を見渡し、アルヴィーンがどこか感心したようにつぶやいた。
 散らばるガラスを踏み越えながら部屋を見て回っていたディーがそれにうなずく。怪我をしないように注意しながら、彼女は器具の一つへと手を伸ばした。
「恐らくですが……これらは協会本部の研究室にあったものと同じですね」
 零されたつぶやきを拾い、アルヴィーンは驚いたように目を瞠った。
「研究室に入ったことがあるのか?」
 討伐士協会の本部には、異形を研究するための施設が存在する。しかしそこに立ち入ることができるのは研究班に籍をおく者のみで、一般の討伐士は近寄ることさえ許されていない。
 あまり大きな声で言えたことではないのですが、と前置きしながらディーはうなずいた。
「ヨハンが研究班に在籍していましたから、その関係で一度だけ」
 用途などの詳細はわからないが、これらに見覚えはあると答える。
「となると、ここは協会の施設なのか?」
「わたしが以前に見たのは、異形の生体サンプルを研究する施設でした。ですから、その可能性は低いと思います」
 討伐士協会では、過去に異形の生態を解明するために生きたまま異形を捕らえて研究していたことがある。しかし実験体の脱走によって大勢の死傷者が発生したことにより、生体サンプルを用いた研究をすることは禁じられた。現在サンプルとして研究に用いられているのは、異形の死骸のみである。
 そう説明されたアルヴィーンは眉を寄せた。これが協会のものでないのなら、一体誰が何の目的で用意したというのか。
「討伐士――それも研究班に籍を置く者が、協会に隠れて用意したと考えるのが自然でしょうね」
 ためらいがちに答え、ディーは言葉を続ける。恐らく、今までに発生した異形はこの施設で研究していたものだろう、と。
「秘密裏に用意された異形の研究施設、ねぇ……。目的は密売と考えて、まず間違いないだろうな」
 (さげす)むような目つきでもう一度周囲を見やり、アルヴィーンが冷ややかに告げた。武力として、あるいは自尊心を満たすための飾りとして、【他と違うもの】を欲しがる悪趣味な人間は案外多いものだ、と。
「施設の所有者やその用途は、ここで考えていたところでどうなるわけでもない。俺たちがすべきことは、協会本部に提出するための証拠を探すことだ」
 (かぶり)を振ってアルヴィーンがそう言った。何かしらの証拠がなければ、本部に報告することもできない。
 しばらく手分けして探してみたものの、思うような成果は上がらなかった。
 ため息をついて手にしていた本を棚へと戻すと、アルヴィーンは周囲へと目をやった。最初に部屋を見たときから、何か違和感があった。
「……なぁ、この部屋妙に荒れていないか?」
 すべて割れていたガラス器具は少々不自然な気がした。まるでこの場所で何かがあったかのようだ。
 アルヴィーンの言葉に読んでいた書類の束から顔を上げると、ディーも室内を見渡した。
「放棄されてかなり経つか、あるいはすでに協会が踏み込んだ後なのかもしれませんね」
「ミロディ支部がか?」
 意外そうな問いかけにディーはうなずく。
「元から確信があって踏み込んだのか、それとも異形討伐の際に偶然見つけたのかは定かではありませんが……ヨハンのことです、何か気づいていたのかもしれません」
「踏み込んだにしては、痕跡がなさすぎる気もするんだよなぁ……」
 違和感の正体はそれだった。誰かが踏み込んだような痕跡はある。だがそれだけなのだ。この場所で戦闘が起こったにしては、異形、あるいは討伐士の死体が残っていないのが不自然だった。仮に返り討ちに遭って異形に喰われたのだとしても、血痕や持ち込んだ荷物くらい残っていてしかるべきではなかろうか。
 本棚を離れると、アルヴィーンはゆっくりと室内を歩き出した。ディーが一瞬そちらを見やり、けれども何も言わずにまた手にした書類へと視線を戻す。残された資料の確認を優先したのだろう。
 ゆっくりとした足取りで歩きながら周囲へと視線を投げ、時折身をかがめては物陰を覗き込む――そんなことを繰り返していた時だった。ふと視界の端で何かが光った気がして、アルヴィーンはそちらへと顔を向けた。本棚の陰に何かがあるようだったが、手を伸ばしたところで到底届く位置ではない。アルヴィーンはその場に膝をつくと、注意深くハルバードの石突の方を差し入れてその何かを引っ張り出す。拾い上げてみると、それは古びた指輪だった。
「どうかしましたか?」
 しゃがみこんだまま微動だにしないアルヴィーンを訝しんだのか、ディーが声をかけた。
「ああ、こんなものを見つけたんだが」
 そう言って立ち上がると、アルヴィーンは指輪を手のひらに乗せて差し出した。それを見た途端、ディーが顔色を変えた。瞳が落ち着きなく宙を泳ぐ。
「……どうかしたのか?」
 彼女らしくなく、妙にうろたえた様子にアルヴィーンは首を傾げる。
「その指輪、見せていただいてもかまいませんか?」
 すがるようなその様子に驚きながら、わかったとうなずく。ディーは震える手で指輪を受け取ると、それを己の目の前にかざした。
 しばらく()めつ(すが)めつ眺めていたが、やがてため息と共につぶやく。
「……これはヨハンのものです」
「間違いないのか?」
 アルヴィーンが問いかけると、彼女は小さく、だがしっかりとうなずいた。祈るように指輪を包み込んだ両手を胸元に引き寄せる。
 顔を伏せて小さく肩を震わせるディーを見下ろし、アルヴィーンはためらった。これを彼女に尋ねるのは、少々酷かもしれない。
「……この施設が、ヨハン・シュタルクのものだったという可能性はないか?」
 逡巡(しゅんじゅん)の末、結局彼はその問いを口にした。ディーが大きく(かぶり)を振る。
「彼に限って、そんなことはあり得ません」
 その否定に彼女自身の願望が混ざっている可能性もあったが、アルヴィーンはそのことに気づかないふりをしてうなずいた。
 互いに言葉にはしなかったが、ミロディ支部の討伐士たちがここに踏み込んで全滅したのだろうと確信していた。
 しばらく黙って立ち尽くしていたが、やがてアルヴィーンが小さくため息をついた。
「もう一方の通路を確認しよう」
 その言葉に、ディーはうつむいたまま僅かにうなずいた。指輪を握りしめた両手を額に押しつけ、それからそっと手を開いてアルヴィーンへと差し出す。
「いや、それはあんたが持っているといい」
 殉職した討伐士の荷物は協会に提出する決まりとなっていたが、アルヴィーンはそう告げた。恐らくこの指輪はヨハン・シュタルクの形見となるだろう。ディーが持っていることを彼も望むのではないかと思えた。
 窺うようにアルヴィーンを見つめていたものの、やがてディーはうなずいた。指輪を荷物の中に納め、大切そうに鞄の上から撫でる。
 その様子にアルヴィーンが目を細めた時、奥の方からかすかな物音がした。弾かれたように二人が顔を上げる。
「何だ……?」
 警戒する二人の耳がガラスを踏みにじる音を捉えた。暗がりから飛びかかってきた影をアルヴィーンが打ち払う。
 その何かは空中で身をひるがえすと軽やかに着地した。光を反射し、銀色の毛並みが鮮やかに輝く。
 二人の様子を窺うように身を低くする獣を見て、ディーが小さく声を上げた。
「銀狼……!」
 それは二人がその存在を警戒していた、群れを率いるリーダーだった。一般的な銀狼よりも二回り以上大きく、その瞳には獣らしからざる知性の輝きがあった。見る限りその一頭しかいないようだったが、群れを率いている可能性は否定できない。
 警戒する二人の前で、銀狼がふるりとその身を震わせた。首のあたりが不自然に盛り上がり、まるで(たてがみ)のように植物の(つる)が広がる。
 ゆらゆらと誘うように揺れる蔓の真ん中から大輪の花が咲いた。幾重にも重なった白い花弁はまるで淑女のドレスのようだが、点々と散らばる鮮やかな赤色が血痕にも見えてどこか不気味だ。その姿に、二人は嫌というほど見覚えがあった。
「おいおいおい、寄生型のメシュニア・アイビーだと!?」
 ぎり、と噛み締めた歯の隙間から呻くような囁きが漏れる。
 銀狼が背負っているのは、今回の討伐対象の異形だった。
 植物型の異形の中には他の動物に寄生する種も存在するが、メシュニア・アイビーがそんな習性を持つとは聞いたことがない。
「見てくれだけという可能性もありますよ」
 軽口を叩くかのように発された言葉だが、ディーの声音は硬かった。
 もしも銀狼が寄生されているとすれば、常と行動パターンが変わっている可能性がある。また仮に寄生されていないにしても、それは二種の異形と同時に交戦することを意味する。どちらにしても厄介なことに変わりはなかった。
 小さく息を吸うと、ディーは剣を抜いた。一気に踏み込んで剣を振るう。
 鋭い一閃を紙一重でかわし、銀狼が距離を取った。切り落とされた蔓の一部が見る間にその質量を増し、メシュニア・アイビーを背負った銀狼がもう一体現れた。
「自己の複製って……そりゃメシュニア・アイビーの特性だろ」
 勘弁してくれとアルヴィーンが呻く。
「恐らく、ここで行っていたのは新種の異形を創り出すことだったのでしょうね」
 これのように、と眼前の異形を示してディーが告げる。
「とにかく、今はこれをどうにかするのが先決でしょう」
「それはそうだが……下手に攻撃すれば増殖するようなヤツを相手に、一体どうやって戦う気だ?」
 問題はそれだった。こんな厄介な相手はさっさと倒してしまいたいところだが、斬れば増えるのである。両者共に刃物を武器とする以上、打つ手はないように思えた。
「植物型はしぶといからなぁ……焼き払えればよかったんだが」
 植物型の異形に共通する特性として、自己の複製が挙げられる。時間こそかかるものの、目に見えないような小さな欠片からでも連中は己の複製体を作り上げるのだ。際限なく増殖するのを防ぐため、また確実に処理するためにも植物型に対しては火を用いるのが定石(じょうせき)とされていた。だがこんな閉所で爆弾などを使えば、自分たちも巻き込まれることは目に見えている。もっとも、身のこなしが軽やかなことで有名な銀狼に同化しているのだから、仮に爆弾が使えたとしてもおとなしく爆破されてはくれないだろう。
「どちらが本体かにもよりますが、銀狼の頭部を破壊すればある程度の時間は稼げると思います。その間に確実にとどめを刺すしかないでしょう」
 引き抜いたナイフを左手に構えると、複製体は任せますとディーが告げた。アルヴィーンの返事を待たずに飛び出す。
 止める間もなく本体へと斬りかかったディーに舌打ちし、アルヴィーンは複製体へと向き直った。低く唸りながらこちらを威嚇(いかく)する異形にハルバードを向け、油断なく構える。
 一声吼えて異形が地面を蹴った。飛びかかってきたのを柄を用いて払い、刃を返して振り下ろす。首筋を斬り裂かれた異形は、高く声を上げて地面に倒れ伏した。
 植物型ほど複製の精度は高くないのか、本体に比べると複製体の能力は劣っているようだった。とは言え、束になってかかってこられると厄介だろう。
 念のためにと死骸の頭部を切断すると、アルヴィーンは本体と交戦しているディーへと視線を向けた。そちらの状況を確認し、思わず嘆息する。また複製体が増えていた。
「これは先に本体をどうにかした方がいいんじゃないか?」
 複製体をいなしながら彼女の隣に並ぶと、そう声をかける。それにうなずき、ディーは異形に視線を向けたまま気をつけるようにと忠告した。
「この異形は妙に知恵が回ります。こちらが攻撃の気配を見せれば即座に回避しますし、その反応速度も良すぎます」
「なるほど、そのへんも改造されてるってわけだ」
 ふむとうなずき、アルヴィーンは異形を観察した。複製体の動きといい、ディーの話といい、本体は銀狼の方だと考えて間違いはないだろう。
「となると……どちらかが異形を引きつけている間に、もう一方が一撃で仕留めるしか方法はないな」
「では、囮はわたしが引き受けましょう」
 迷いなく答えたディーを横目で見やり、アルヴィーンはため息をついた。各々の戦い方を考えれば、それが適任だと思われた。
「わかった」
 アルヴィーンが承諾すると、ディーは一歩前へと踏み出した。複製体を牽制するためにナイフを打ち込み、本体へと斬りかかる。壁際にまで追い詰めると、低い姿勢から逆袈裟に斬り上げた。
 地面を蹴り、異形がディーを飛び越すようにしてその一撃を避ける。予想通りの行動を取った異形を追って振り返りながら、ディーは左手で鎖を放った。それを避けようと異形が身を捩るが、鎖は異形の足に絡みつく。ディーがすかさず鎖を引いて異形を地面に落とすと、アルヴィーンがその首筋めがけて刃を叩き込んだ。
 鎖を手放して駆け寄ると、ディーは異形の心臓部に剣を突き立てる。一度大きく体を痙攣(けいれん)させ、それきり異形は動かなくなった。
 周囲を見やれば、複製体はすでにアルヴィーンによって殲滅(せんめつ)されたあとのようだ。ほう、とディーは小さく息を吐きだす。
「どうにかなったな」
 アルヴィーンの声にうなずきながらそちらへと目を向ける。彼は延髄(えんずい)のあたりから生えた蔓ごと、異形の頭部を切断しているところだった。複製体の頭部も落として一箇所にまとめると、荷物の中から燃料を取り出して植物の部分を重点的に焼いた。
「これでさすがに再生しないだろう」
 アルヴィーンがため息混じりのつぶやきを漏らす。
「で、結局この施設はどうする?」
「本来ならば、現状を維持したまま本部に引き渡すべきなのでしょうが……今回は破壊すべきと考えます」
 一瞬考え込む様子を見せ、ディーはそう告げた。残しておくと何が起こるかわからない、と。
「ですが、最終的な判断はあなたに任せます」
 自分はもはや正規の討伐士ではない、本部から全権を委任されているアルヴィーンの決定に従うとの言葉に、彼はしばし思案した。破壊も現状維持も、どちらも正しいように思える。
 しばらく考えたものの結局答えは出ないままで、アルヴィーンは探索を優先することとした。
 異形がどこかに隠れていないか室内を隈無(くまな)く確認したあと、本来の道へと戻って先へと進む。しかし奥まで行っても何かが発見されることはなく、二人は再び研究施設のある部屋へと戻った。


 見落としがないかと再度施設内を確認していた時だった。器具の陰となった場所に妙なものを見つけてアルヴィーンは足を止めた。その場に膝をつくと光石を寄せる。
 光に浮かび上がったのは、縦横六十センチほどのドアのようなものだった。手をかけて揺すれば僅かに動くが、どう頑張ってもそれは開く気配を見せない。
「……ふむ」
 一旦そのドアから手を離してうなずく。ノブはあれど、蝶番(ちょうつがい)は見当たらない。もしや引き戸かとスライドさせてもみたがハズレだった。
「これはもう、不可抗力ということで」
 どこか楽しげにつぶやいて、アルヴィーンは荷物の中から火薬を取り出した。ドアに沿って地面に火薬を()き、導線に火をつけると少し離れた器具の後ろへと走り込む。ややあって、ドン、と鈍い音が響いた。
 煙が収まったのを見計らうともう一度ドアに近づく。手をかけると、ドアは呆気なく押し倒された。地面に散らばるガラスを靴で押し退けて手をつくと、這うようにして穴から顔を出す。
「……へぇ、ここに繋がってんのか」
 顔を出した先にはミロディの外壁が見えた。見える景色から街の南端あたりだろうと見当をつける。
 周囲には背の高い草が密集して生えており、意識的に探さなければこのドアは見つからないと思われた。恐らく、この場所を選んで抜け道を造ったのだろう。
 視線を地面に落とすと、そばにはドアを押さえていたと思しき棒が転がっていた。爆破の影響なのか、真ん中あたりから真っ二つに折れている。
 ほうほうとうなずきながらそのまま周囲を見渡していると、背後からガラスを踏みにじる音が聞こえた。
「……何をやっているんです?」
 呆れたような、戸惑ったような娘の声が降ってきて、彼は穴から頭を抜いた。四つん這いの状態のまま背後に立つディーを見上げる。
「爆破したんですか」
 アルヴィーンの手元を見やると顔をしかめ、問うでもなく彼女はそうつぶやいた。その視線を追うと、地面の一部が黒く(すす)けていた。
「ご名答。ドアがあったんだが、開かなくてな」
 そう言って、アルヴィーンはさっきまで頭を突っ込んでいた穴を示す。
「外から細工されていたようだから、ここから研究施設に出入りしていたんじゃないか?」
 言いながら立ち上がると、一歩横に避けて場所を開けた。入れ替わりにディーが膝をつき、穴から外を見やる。
「……なるほど、そう考えるのが妥当でしょうね」
 門からそれなりに離れているこの場所ならば、誰かに見咎められる可能性は低いだろう。
「で、結局どうされるおつもりです?」
 現状を維持して本部に報告するつもりなら、爆破というのはとんでもない暴挙である。ディーの声が冷ややかなのも無理からぬことだった。
「うん、どうしたもんかねぇ?」
 とぼけるようにつぶやき、アルヴィーンは視線をさまよわせた。泳いでいた視線がディーの左腕で止まる。
「包帯、ほどけてるぞ」
 先程の戦闘で結び目が緩んだのだろう、包帯がほどけて落ちかかっていた。直してやると言って手を伸ばしたアルヴィーンから逃げるようにディーが後ずさる。
 押さえようとした手が逆効果となったのだろうか、完全にほどけた包帯がはらりと宙を舞い、その下から現れたものにアルヴィーンは目を疑った。
「え……? 何で、傷が……」
 僅かに引き()れた痕があるのみで、本来あるはずの傷はそこにはなかった。
 傷跡を隠すように左腕を抱え込み、ディーが顔を伏せる。見つかったらまずいものを見られた子どものような仕草だった。
 しばらくどちらも言葉を発さず、凍りついたようにただその場に立ち尽くしていたが、やがてディーが口を開いた
「これを見なかったことにするか、あるいはわたしは死んだということにして、あなた一人で街に戻ってはいただけませんか?」
 一瞬何を言われたのかよくわからなかった。一拍置いて、アルヴィーンは言葉の意味を理解する。
「……そんなこと、できるわけないだろ」
 掠れた声でどうにかそれだけを口にする。意味がわからなかった。どうして、彼女はそんなことを言い出すのだろうか?
「理由を言え! 何で、そんなバカなことを言う!?」
 叩きつけるような叫びに、ふっとディーが笑った。
「あなたはいつもそう。見ないふりは絶対にできない」
 ディーが求めたのは同じことだった。不自然に消えた傷から目をそらすか、あるいは彼女の存在自体から目をそらすか――つまりはそういうことだ。
 どこか哀しげにも見える笑みを淡くたたえ、ディーはアルヴィーンを見つめる。
「わたしが言えた義理ではありませんが、もう少し融通を利かせたほうが周囲から睨まれずに済みますよ?」
「……あんたも、変わらないな」
 ディーを見つめ返し、アルヴィーンは感情を抑えるかのように低くつぶやいた。
「あんたはいつだってそうだ。ごく一部を除いて、他人なんて気にもかけない」
 強く拳を握りしめる。あの時も、そして今も。どうやったって、アルヴィーンは彼女の視界に映ることはできない。
「いなくなってから三年間、ずっと探していたのに……。なのに、何食わぬ顔して一人で戻るなんてできるはずがないだろう、ユーディット(、、、、、、)!」
「……気づいていたんですか」
 やっぱり、と言いたげに娘がつぶやく。
「最初はまさかと思った。けど、あまりにも共通点が多すぎる」
 言いながら、アルヴィーンは娘に手を伸ばした。最初は髪に、そして手を滑らせて頬へと。彼女は逃げる様子も見せず、されるがままになりながらアルヴィーンを見上げていた。
「髪と目の色を変えたくらいでは誤魔化せないぜ?」
 記憶の中の少女は鮮やかな赤い髪と緑の瞳をしていたが、今彼の前に立つ娘は黒髪に赤い瞳だ。けれど、それ以外の容姿は記憶の中のものと寸分違わない。
「別に変装のためにやったわけではないんですけれどもね」
 つぶやいて、彼女は胸元に落ちかかる髪に手をやった。視線を落としたまま問いかける。
「異形とは何か、知っていますか?」
 唐突な問いかけにアルヴィーンは目を瞬かせた。急に何を言い出すのだろうか。彼女の意図をつかめぬまま、アルヴィーンは口を開く。異形の定義、たしか――。
「動植物の突然変異種。生態系の種類の一つとして数えられていたが、現在では感染症の一種であるとされている――だったか?」
 アルヴィーンの言葉にうなずくと、彼女は口を開いた。教本か研究論文でも(そら)んじるかのように、淡々とした口調で語る。
「【異形化症候群】――それは一定の期間を置いて発症する、感染症の一種である。発症初期段階では外見の変容や身体能力の向上が見られる。症状が進むにつれて攻撃性が高まっていき、やがては正気を失うと考えられる。人間での発症例は未だ確認されていない」
 そこまで一息に言い切って、ただし、と付け加えた。
これらは未だ仮定にすぎない(、、、、、、、、、、、、、)
 眼差しが問いかけるようにアルヴィーンを見つめる。まさか、とつぶやいた彼に、娘はうなずいた。
「そうです、【異形化症候群】は人間にも発症します。――わたしが、そうなのだから」
「いつ……から?」
 どうにかそれだけを絞り出したアルヴィーンに、娘は小さく(かぶり)を振った。
「発症したのは三年前、いつ感染したのかはわかりません」
 両の手を開き、娘はそこに視線を落とす。
「三年前のあの日、わたしはとどめを刺すために異形を追いました。どうにか倒せはしたものの、わたしも深手を負って意識を失った。本当ならそこで死んでいたはずなのに、なぜかわたしは生きていた。その時には、もう外見はこんな風になっていたんです。協会にその事実を申告して、必要ならばわたし自身を実験体(サンプル)として提供すべきなのもわかっていました」
 だけど、と娘は言葉を詰まらせる。手の震えを隠すように強く握って、胸元へと引き寄せる。怖かった、と吐息と共に彼女は吐き出した。
「わたしは、怖くなったんです。誰にどう言われたってかまわない。だけど……!」
 ぎゅっと目をつぶり、血を吐くような声で叫ぶ。
「拒絶されるかもしれないと思った。親しい人に……あなたに避けられるかもしれないと思ったら、怖くなったんです」
 だから逃げた。名前を変え、討伐士である過去を捨てて逃げた。そんなことをすればどうなるかということを考えもせずに。
 ごめんなさいとつぶやいて、娘はアルヴィーンに背を向けた。囁く様に言葉を落とす。
「このまま去ることを、許して」
 ふらりと歩き出した娘の手を、アルヴィーンは思わず捕まえていた。驚いたように掴まれた手を見やり、ゆっくりと娘が顔を上げる。
「それとも……あなたがわたしを殺してくれるんですか?」
 薄く笑みを浮かべて自分を見上げる娘に、アルヴィーンは低く問いかける。
「そうだと言えば、そばにいられるのか?」
 アルヴィーンの言葉に、彼女は意外そうに目を瞠って首を傾げた。
「どうして、そんなことを言うんです?」
 ……どうして? それを訊くというのか? そんなもの、決まっている。
「あんたが、好きだからだよ……!」
 掴んだ手を引き寄せ、娘の体を両手で囲った。
「一目惚れだったさ。ひたむきに戦う姿に全部持っていかれた。バカな真似をしたのも、その視界に映りたいと――そばにいたいと思ったからだ!」
 強く掻き抱いて、耳元で囁く。
「また置いていかれるくらいなら、何だってするさ」
 抱きすくめられたまま、娘はアルヴィーンを見上げた。
「約束ですよ」
 ふわりと微笑んで、彼女は目を閉じる。そうして、そっと囁いた。
「いつかわたしが人でなくなるのなら、その前に殺して――」
作者:宵月