少年探偵団 1

真紅(しんく)】と【ジャスティスイエロー】の戦闘が未だかつてない引き分けという結果で強制的に終了させられた翌日。
樋口(ひぐち)直人(なおと)は前日の不完全燃焼感を拭えないまま登校した。
爽やかな陽ざしも、心地よい陽気も、吹き抜ける緑の香りの風も、何ひとつ彼を(なぐさ)めてくれるには至らず、珍しく憮然(ぶぜん)とした表情で席に着く。
普段はその語り口調の穏やかさに隠されて気付かないが、彼もまだまだ幼さを残す高校生である。
そんな彼の様子に、クラスメートたちは声をかけようにもかけられない、せいぜいおはようと朝の挨拶を交わす程度しか出来なかった。
しかし、中には空気を読んでいるのか読んでいないのか判断に迷う猛者(もさ)もいるのである。
「おっす、ご隠居。朝から何不機嫌オーラ出してんだよ」
1限目、テストか何かだっけ?
そう軽い調子で話しかけながら、直人の前の席にドサっと荷物を置いたのは黒崎(くろさき)恭二(きょうじ)である。
クラスメートの中でも特に直人と仲の良い彼は他のクラスメートが話しかけるのを躊躇(ためら)う雰囲気を(かも)し出していることを意に介した様子もなく、普段通りに話しかけた。
「…お主、昨日の【コンクエスト】について、何も思わなかったのか?」
一瞬言葉を選ぶように言いあぐねた直人だったが、ややあって当たり障りのない第三者的口調で自身が納得出来ずにいる内容を口にした。
「昨日っつーと、【真紅】と【ジャスティスイエロー】の引き分け戦の話か?」
他に【コンクエスト】と名の付くものは確実になかったと知っているはずなのに、恭二はわざわざ確認のようにそう問い返してくる。
「お主もあの戦闘をどこかで見ていたのであれば話は早いのだが、それがしはあの決着を()とはしておらぬ」
流石に口にすることはないが、当事者として納得がいかないのである。
校則にも明記されたルールなので直人が暴露することはないが、【ジャスティスイエロー】の正体は実のところ直人自身なのである。
あくまで口調は傍観者としての意見に留めてはいるものの、実際戦っていた本人だからこそ納得がいかないのだ。
「いつも通り一進一退の攻防だったな。さすが実力伯仲なだけはある、と思うがソレがどうかしたのか?」
別に【真紅】と【ジャスティスイエロー】の戦闘だったら、引き分けてもおかしくないだろ?
恭二はあっさりしたもので、昨日の戦闘結果について特に思うところが何もないようだ。
「戦闘の内容そのものもはそれがしも当然の成行きだと思っておる。それがしが申しておるのは、教師による介入の部分だ」
直人が最も納得出来ないのは、引き分けとなった経緯そのものだ。
「職員会議なんだし、仕方ないだろ」
事前に通達しておいて欲しかったとは思うが。
恭二にとっては、その程度の認識のようだ。
「…お主はある意味、幸せな人間であるな」
黒崎殿は違和感を覚えなかったのか、と直人は表情には出さずに驚いていた。
職員会議のため中止されたこと自体を根に持っているわけではない。
納得がいかないのは事前に通達がなかったからでも急遽(きゅうきょ)職員会議をねじ込まれたことでもないのだ。
「後日仕切りなおせばいいだけだろ。別にあの対戦カードがあの1回きりなワケじゃないんだしさ」
ただの観戦者の立場の気安さなのか、恭二は軽く笑ってそう言った。
言外に何をそんなに気にしているのかと呆れてすらいるようである。
「それ以前の問題で、お主は普通の一般人があの二者の戦闘に介入出来たことをまず疑問に思わぬのか?」
それも、【正義の味方部】にしろ【世界征服部】にしろ、エース級の人材を投入しての戦闘で、だ。
どちらも流れるように攻防を繰り返し、常にどちらが勝ってもおかしくない、むしろ引き分けてもおかしくないくらいの実力伯仲の相手。
あの2人の本気の戦闘に介入出来るとすれば、それは【正義の味方部】のリーダーである【ジャスティスレッド】あるいは【世界征服部】の【山吹(やまぶき)】くらいのものだと思っている。
なおかつ、当事者しか知らない事情を加味すれば、身体能力を大きく向上させる強化スーツを身に(まと)っているのに、どうしてただの人間が介入出来るのだと思わずにはいられない。
強化スーツを纏っているだけで、ぶっちゃけると目で追うのが精一杯の動きになるはずだ。
この表現は変かもしれないが、ただの教師に戦闘に介入されるというのが1番納得のいかない点だった。
「つまり、ご隠居は瑞貴(みずき)ちゃんが2人の戦闘を止めたのがオカシイと言いたいわけか?」
目を丸くして大げさに驚きを表現した恭二が不思議そうに問い返してくる。
その発想はなかった、とでも思っているのかもしれない。
恭二はそれをおかしいことだと認識していなかったようで、むしろおかしいと感じている直人の感性がおかしいとでも言いたげな視線を向けた。
「お主は不思議に思わなかったのか?観戦していた生徒たちの間を抜け、肉の壁と化している戦闘員による包囲網を抜け、さらに戦闘中の二者に気配も悟らせず近づいたということに疑問を持たなかったのか?」
よもやその事実に気付かなかったわけではあるまい。
おかしいと思わぬのか、と直人は改めてそう問いかけた。
誰もが実力を評価する【ジャスティスイエロー】と【真紅】の2人だ。
そのどちらにも気付かせずに近づいたスキルだけでなく、高速で繰り出される攻防の合間を縫って正確に的確に止めたという事実も驚きに値する。
しかもあの教師はそんな芸当をしておいて微塵(みじん)も感情の動きを感じさせなかった。
止められて良かったと安堵するような様子もなく、むしろ当然の結果のように余裕すら感じさせる態度だったようにすら見えたのだ。
「あー…俺はその感想は浮かばなかったけど…。そうか、確かに言われてみればそうだよな」
言われてようやく納得出来たとでも言うべきか、恭二は微妙な苦笑を浮かべて頷いた。
そして、しょうがないなといったような表情で何かを言おうとしたが、ちょうどそこでHR開始のチャイムが鳴った。
チャイムと同時に副担任の教師が教室に入って来て、恭二は続きは後でと小声で言って慌てて前を向く。
未だ机の上に乗せたままの鞄を慌てて机の横にかけていた。
「じゃ、出席確認。今日も全員出頭してんな、OK」
実に軽い調子で副担任がいつものように出席確認をする。
担任はと言えば、1限目から授業のコマが埋まっているらしく既にグラウンドにいるはずだ。
欠席者や遅刻者でもいない限り、毎回ざっと教室を見渡してソレで終わりだ。
因みに担任が出席を確認しても大差ないレベルの適当っぷりである。
その後、大抵は伝達事項がある。
「あー…今日は伝達事項ないんだよなぁ…。もう、このまま1限始めるかなぁ」
そう言うと副担任は出席簿と一緒に持ってきたらしい教科書とノートを示す。
えぇー、先生マジ?などと教室中からクレームの嵐が飛んでいるが、副担任である数学教師浅井(あさい)道長(みちなが)は全く気にした様子も見せずに授業を始める気のようだ。
名前は何というか日本史の授業で習いそうな名前なのだが、彼はバリバリの理系人間であった。
ブーイングをしている生徒たちも実は慣れたもので、ふざけんなと言いながらも素直に教科書やノートを机の上に広げている。
理系クラスではその名の通り理数系の授業が充実しており、充実しすぎで通常の授業のコマだけではやや追いつかないくらいの量があった。
それに加えて副担任の趣味は高等数学なのである。
毎回授業の終わり5分を利用して、某有名大学の入試にでも使われてそうな数学の派生問題を出していくのでますます時間が足らないのだ。
「じゃ、授業始めるぞー」
その宣言と共に1限目数学の授業が始まった。
高速に次々と例題が黒板に書きだされ、次々に解かれていく。
最適解、解法、解説。
つらつらと語られていく数学の世界についていけない生徒はいない。
流石理系クラスと評するべきか、腐ってもエリート進学校の名を冠している学校の生徒だからと言うべきかは迷うところだが、何にせよ本日のノルマが終了する頃にはチャイム5分前だったのだから驚きだ。
「それじゃ、今日の問題は…そうだな、2問出しておこうか」
浅井はそう言うと既に生徒が書き写し終えた黒板の内容をさっと消し去る。
そして新たに問題を書き始めた。
まず円を描き、その中心点を点Aとした。
そこから上と左に直線を引くと、円の外周と交わるまで伸ばす。
そこからそれぞれ円の外周に向かって直角となる位置で線を引くと、線の開始位置を点B、点Dと書いた。
無作為に引かれたわけではなく、それぞれ引かれた線は円の外周の1点で丁度交わり、その交点を点Cとした。
その時点で円の中、左上側に四角形ABCDが出来上がる。
引かれた線はいずれも真っ直ぐで、直線同士が交わるところの角は当然90度だ。
角BADも90度、角ABCも90度、四角形の角の和は360度と決まっているのだから、他の角のおのずと知れるというものだ。
フリーハンドで書かれているから実際は多少のズレがあるのだが、直角であることを示す記号が書かれているのだから90度として見なければならない。
そこまで書くと、浅井はさらに点Aから外周に向かって左に伸びる直線と外周の交点を点Eとした。
そして更には点Bと点Dを結ぶ線までを書き足す。
「じゃあ問題その1な」
線AEに対する線BDの長さを求めよ、と図の横に走り書きする。
便宜上線AEの長さはLとする、このLを用いて線BDの長さを考えるように。
1問目はコレで終了なのか、今度は少し横に移動してまたもや何かを書き始める。
3本の真っ直ぐな棒を書いたかと思えば、3本のうち1番左の棒にまるで団子でも刺しているのかのような楕円形の物体を描く。
その物体は下から順に大中小と大きさを調整されており、何となく団子の兄弟を連想させないでもない。
そのまま左端の棒の上から右端の棒目掛けて矢印を引く。
「問題その2は、コレだ」
左の棒から右の棒まで楕円形の物体をそのまま移動させよ。
ただし1回の試行に対し物体は1つしか動かせず、また1番上の物しか動かせない。
物体は必ず大きい物の上に小さい物しか載せられない。
何回の試行で左から右へそのままの形で物体を移動させられるかを求めよ。
応用編、楕円形の物体の数が5個に増えた場合と10個に増えた場合の試行回数も求めよ。
浅井がそこまで書き終えた時、ちょうどチャイムが鳴った。
「じゃ、解けたヤツはノートに書いとけよ。内申点に加算するから」
飄々(ひょうひょう)と言うと、浅井は号令も聞かずに教室を後にした。
「むむ…」
教室は急いで問題をノートに書き写す生徒たちがペンを走らせる音に包まれた。
廊下からは休み時間に突入したことで明るい笑い声が聞こえてくるが、このクラスからは誰1人として教室を出ていく者はいない。
副担任からの挑戦を受け、一様に受けて立とうじゃないかという顔で黒板やノートを睨んでいる。
当然直人もその1人である。
理系の部活動である科学部の副部長として、何としてでも解いてやるという意気込みだ。
直人はノートに問題を書き写すと、首を捻った。
便宜上Lと銘打たれた線分AEの長さは円の半径だ。
ソレは分かるが…と黒板を睨んだ。
その横の問題は実際数えるだけなのでさほど難しくないと踏んでいる。
楕円形の物体の数が多くなると確かに数えるのは大変だが、それでも数えればいい。
「あ、やべ。古典の辞書借りてこなきゃ」
そんな中、解けたのか解けてないのか不明だが目の前の席の恭二が席を立った。
そういえば次の教科は古典である。
理系クラスなので古典が得意とは言い切れない生徒たちが普段なら予習に()てる時間だ。
バタバタと隣のクラスに辞書を借りるために向かっていった恭二を見送ると、直人は再び黒板に視線を戻した。
とはいえ、休み時間はそんなに長くない。
考えながらも次の授業の準備をしていると、あっという間に思える短さでチャイムが鳴った。
「あー間に合った」
良かった良かったと暢気(のんき)に言いながら教科書やノートを並べている恭二に、後ろから解けたのか?と問いかければ当然解けていないと返ってきた。
取りあえず恭二が机の上に広げっぱなしのノートに向かったところで、2限目の教科を担当する教師が姿を見せた。
「…何コレ」
次の授業を担当する教師が教室に入ってきた途端に口にしたのはそんな呟きだ。
教科書と古語辞書、それにノートではなくタブレット端末を抱えて教室に姿を見せたのは、昨日から直人が疑惑の目を向けている忍足(おしたり)瑞貴(みずき)その人である。
「あ、瑞貴ちゃん5分だけ待って、書き写したら消すから」
そう言ったのは、本日の日直でもある恭二だった。
彼は辞書を借りるために教室を出て行っていたため、まだ問題を書き写していなかったらしい。
「もしかして、前の時間って浅井先生?」
問題の筆跡から判断したのか、そもそも問題そのものから判断したのか忍足が黒板を眺めてそう問いかけてくる。
その表情は呆れているのか面白がっているのか微妙に判断出来ない。
「そうっすよー。あの先生、毎回こういう問題出すんで…」
解けないっつーの、と愚痴(ぐち)を零しながら前の方の席に座っていた男子生徒が苦笑気味にそう言った。
その意見にクラスの半分以上が同意の声を上げたことに、忍足は僅かに驚いたようだ。
「なるほど…」
小さく呟くと、忍足は持っていた教材類を教卓の上に置いて黒板に書かれた問題に目を向ける。
軽く首を傾げたのが見えたので、どうやら書かれた内容を把握しようとしているらしい。
「瑞貴ちゃんも一緒に考えよ?」
その様子に、何を思ったのか前の方に座っていた女子生徒が声をかけている。
彼女は確か演劇部の部員で、顧問でもある忍足とはそこそこに仲が良いと直人は記憶していた。
「え?解いちゃっていいの?」
くるりと女子生徒を振り返ると、忍足先生は目を瞬かせてそう問いかけている。
教師が解いちゃマズイとでも言いたげだが、クラスからはそもそも解けるのかという疑惑の目が向けられた。
「先生、文系の人間だろー?」
クラスの雰囲気を代表して問いかけたのは、誰の声だったのだろうか。
解けるものなら解いてみろという一種の挑戦的な目が向けられる。
その声に忍足は不思議そうな表情を浮かべたあと、黒板に向き直るとチョークを手に取った。
問題1の隣に、線分AE、Lの長さと線分BDの長さは同じ、と書き込む。
そのまま問題2の方へと移動すると、少し首を傾げただけで3枚の時は試行7回と書き込んだ。
どちらも流れるような自然な様子で、迷いなく書かれたのでさすがに生徒たちは驚きに息を飲む。
どういうことだろうとでも言いたげに、教室の中が僅かにざわめいた。
「え…」
まるで(あらかじ)め答えを知っていたかのようなスムーズな回答に、教室中から困惑の視線が向けられる。
「瑞貴ちゃん、答え知ってたの?」
演劇部の女子生徒が驚きの声を上げた。
いくら教師だからといって、理系の自分たちが苦労している問題をほとんど考えるコトもなく文系の教師に解答されるというのは納得がいかない。
それは何も彼女だけの感想ではなく、クラスの大半が思っていることのようだ。
「そもそも、その答、合ってるのか?」
からかうような口調で男子生徒が声をかける。
確かに解答を書かれても、ソレが合っているという確証はない。
直人も野次(やじ)を飛ばすことはしなかったが同じ心境で黒板と忍足を交互に見つめていた。
「僕としては早く授業に移りたいんだけど、仕方ないか…」
やれやれと肩を(すく)めると、忍足は再び問題1の方へと移動すると、チョークを持ち替えた。
白いチョークから赤いチョークへと持ち替えたかと思えば、いきなり図形に手を加えたのである。
点Cから点Aへ向けてまっすぐ線が引かれる。
円の中に現れた四角形ABCDが4分割され三角形が4つ組み合わさっているように錯覚する図が出来上がった。
「まず大前提なんだけど、四角形の対角線の長さは同じ。これは全員わかるよね?」
くるりと振り返ったかと思えば、いきなりそんな確認を始める。
「L…ええと、線分AEは円の半径になるのも図で分かると思うんだけど、今僕が引いた線、要するに線分ACも同様に円の半径になる。見たらわかるよね?もうコレが答だと思うけど、一応説明しておくと、正方形の対角線の長さはイコールなんだから、線分BDは線分ACと同じ長さになって、つまり円の半径と同じ」
わかった?と軽く首を傾げてクラスを見渡した。
線が1本増えるだけで、難しいと思えた問題がただのナゾナゾだったのかと思うくらいの簡単な問題へと変貌(へんぼう)を遂げる。
確かに言われてみればなんてことはない、簡単な問題だ。
恐らく浅井も頭の体操くらいの気持ちで出した問題なのだろう。
「…ぉ、ぉぅ」
呻くように恭二が声を上げたのが聞こえる。
説明されてしまえば何てことない問題なのだが、畑違いのはずの教師にあっさり説明されたのは、理系として少し悔しいのかもしれない。
それは直人も全くの同意見だった。
認めたくないが実に解りやすい解説である。
それに加えて忍足は補助線を引かずにあっさりと答えを導き出したのかと思うと何やら釈然としない。
あの赤いチョークで引かれた線は、生徒たちに説明するためだけにわざわざ引かれたものだというのは誰の目にも明らかである。
「こういう説明ってあんまり得意じゃないんだけど…こっちも説明する?」
教壇の上で忍足が問題2を指した。
「いや、そっちは数えたら分かるから」
さすがに大丈夫、と未だ驚きの余韻を残したままの恭二がそう応える。
それはクラスの大多数の意見と合致したのか、何人かが頷いたのが見えた。
「…え、コレ、数える気なの…?」
ソレに困惑の表情を見せたのは、教壇に立つ忍足だった。
「数えられるよな?」
むしろ忍足の困惑の意味が分からないらしい恭二が、直人を振り返る。
「時間はかかるやもしれぬが、数えられると思うぞ」
まさしく自身も数えようとしていた直人はそう応えた。
「…3枚…5枚までなら、まぁ、数えられないこともない、かなぁ…」
僕なら6枚に増えたあたりで数えたくないけど、と忍足は小さくため息を零す。
その様子に、直人はノートの上にラインマーカーやシャープペンシルなどを並べて、試しに3段の図と同じものを作ると、動かしてみた。
大きい物の上にしか載せられない、ということは、1枚目を右に、2枚目を真ん中に、再び1枚目を真ん中に、3枚目を1番右に、1枚目を左に、2枚目を右に、1枚目を右に、と数え、確かに7回と頷く。
今度はそれを4段に増やし、1枚目を右に、2枚目を真ん中に、1枚目を真ん中に、とやったらそこで間違いに気づいた。
偶数の場合は1枚目を真ん中から始めないといけないようだ。
1枚目を真ん中に、2枚目を右に、1枚目を右に、3枚目を真ん中に、1枚目を左に、2枚目を真ん中に、1枚目を真ん中に、4枚目をようやく右に…。
ここまでやって、何となく数えたくないと言った忍足の気持ちが分かってしまった。
1番下の段を移動させるだけで、既に試行は7回である。
同じように何人か直人のようにして数えだした生徒がいたようだ。
あぁ、何回目かわかんなくなった、という悲痛な悲鳴があがる。
「因みに5枚で31回、10枚で1023回なんだけど、数えるの?」
その悲鳴に忍足は再び肩を竦めるとあっさりと解答を口にした。
「…1023回…」
それは途方もない、と直人は思わず呻く。
確かに4枚に増えた時点でも軽く考えたくない試行回数になりそうだった手元を見る。
「…瑞貴ちゃん、それ、暗算したのか…?」
あまりにもあっさりと驚きの試行回数を口にした忍足に、恭二が恐る恐るそう問いかける。
いくらなんでも初見でこんな簡単に答えられたのでは理系の面目丸つぶれだが、それ以前に1023という数字はどこから出て来たのだろうかと疑問が浮かぶ。
「計算は出来るけど、説明ってあんまり得意じゃないんだよね…」
そう言うと、忍足はくるりと黒板に向き直り、解答の横にさらに文字を書き足し始めた。
楕円形の物体は小さい方から便宜上1~番号を振ってあると仮定。
楕円形の物体の総数をn、動かせる物体は必ず1番上の物だけなので最後の物体を動かす前には1~(n-1)番までの物体が移動していること。
n番の物体を移す手数を仮にanとする。
手順1(n-1)個の物体を左から真ん中に移す。
手順2n番の物体を左から右に移す。
手順3(n-1)個の物体を真ん中から左に移す。
その後に実際の計算式の証明をさらっと書き加えた。
「よってn個の物体を移し終えるのに必要な試行回数は2のn乗マイナス1回となります」
例えば9個なら、2の9乗引く1で511回、という風に。
わかった?と何故か困惑するような微かに不安そうな様子で生徒たちを振り返る。
長い計算式の証明を書き終え、最終的にはコンパクトかつ分かりやすい式を導き出した後、忍足は補足とばかりに実例を挙げて説明を終えた。
いくら何でも暗記している内容とは思えず、生徒は目を丸くするしかない。
式を導き出したことに驚けばいいのか、累乗計算を暗算であっさりと計算している点に驚けばいいのか、最早何から驚けばいいのかというレベルで悩むしかなかった。
「えっと、ソレじゃそろそろ授業初めていいかな。これ、消していい?」
思わぬ出来事に目を丸くして固まっている生徒たちに、忍足はそう言って黒板を指す。
生徒たちははっと我に返ったように急いで黒板の内容をノートに書き写した。
書き写したからといって理解出来るのとは少し違うがとりあえず書き写すのが先決だ。
クラス中が洗脳されたかのように同じ行動を取るなか、ますますもってあの御仁は何者なのかと直人の疑惑は膨れ上がるばかりだった。
お蔭でその後に続けて行われた古典の授業の内容はさっぱり頭に入って来なかったのだが、機械的にノートだけは取っていたので恐らくテストに支障はないだろう。
これもまた反発心を持っている今だから悔しいと思うのだが、忍足の授業を受けきっちりノートを取ってさえいればテストで全く困らない程度に理解を深めることが出来るのだ。
解りやすい、この一言に尽きる。
授業開始時間がズレたのにも関わらず、今日も時間通りきっちりとその日のノルマを時間内に全部詰め込み終わるのと同時に2限目終了のチャイムが鳴り響いた。
驚くべきことに時間がズレた分駆け足となったハズなのに無理やり詰め込まれた感じがしないというのが恐ろしい。
授業が終わり、忍足が教室を出て行った途端に直人は前の席の恭二を捕まえた。
「お主、アレでもあの教師が一般人だと思えるのか?」
「そもそも俺は瑞貴ちゃんが一般人だと思うなんて一言も言ってないぞ」
身を乗り出した直人に、恭二はあっさりとそう応じた。
「…何…?」
それは一体どういうことかと直人は訝しむように首を捻る。
「瑞貴ちゃんについては、色んなウワサがあるからな。全部信じてるワケじゃないけど、結構色々言われてるぞ、あの人」
実はT大学でも受かったんじゃないかとまで言われてるんだぞ。
勢い余って身を乗り出している直人を(なだ)めるように、恭二はそう言った。
軽く締め上げられているような体勢なのに、そっちは気にした様子もない。
「…お主、それらのウワサの出所とやらと内容は知っておるか?」
直人のその問いかけに、恭二はまぁ少しならと頷いた。
「ふむ、では善は急げと言うからな、さっそく真偽を確かめに行こうではないか」
まるで正体を暴いてやるとでも言いたげに息巻く直人に、恭二は目を丸くした後面白そうだと口の端に笑みを浮かべる。
「そいじゃ最初のウワサからいくか」
そう言って恭二は立ち上がると、直人に向き直った。
「まずな、目の当たりにした後だから納得するが、瑞貴ちゃん元々理系クラスの人らしいぞ?」
因みにウワサの出所は副担任の浅井先生だ。
そう続けられた恭二の言葉に、直人は机の中から数学のノートを引っ張り出してまずは数学科準備室へと向かうことにした。
その後を、面白がる様子を隠そうともしない恭二が追いかける。
休み時間はそんなに長くはない。
流石に廊下を走ったりはしないが、2人はそれこそ競歩の勢いで目的地を目指した。
製作者:月森彩葉