少年探偵団 7

条件を承諾した後、2人が案内されたのは、研究室から出て隣の部屋だ。
一見何の変哲もない普通の狭い部屋だが、壁の一部がマジックミラーになっていて、高宮の研究室を覗ける造りになっている。
さらにどうやら防音ではないらしく、研究室でのやりとりが聞こえてくるというのが特徴だった。
試しに逆の声は届くのか、と問いかけてみれば、それは聞こえないと教えられる。
すぐに準備が整うからソコで待ってろと言われ、2人はその部屋に取り残された。
「…どうしてこうなったのだろうか」
2人だけしかいなくなった途端、直人が心底本気でそう呟く。
「そりゃ同感だ…」
恭二も疲れ切った様子でそう呻く。
「大体、正体を教えてやるって言われたけど、ここで見てれば何かわかるのかよ…」
不貞腐(ふてくさ)れたように言いながら、恭二は隣の部屋を睨んだ。
直人と恭二が持ちかけられた提案は、瑞貴の裏の顔を教えてやろう、だった。
その代りに知ったら大人しく納得して帰ることと、今日調べたことを含めて吹聴しないことが条件だという。
条件の理由は、あまり知れ渡ると教師としてやり辛いからだと高宮は説明した。
「しかしまあ、納得のいく光景が本当に見られるのであれば、ある意味で安い物ではないか?」
実際1日駆けずり回って果ては大学部の三郷キャンパスまでやってきたのだ。
そこまでして結局何の成果も得られませんでしたというのはとても虚しい。
直人は自分たちを慰める意味も込めてそう言った。
そうやって隣の部屋を見守ること、恐らく数分。
研究室の中に、見覚えのある人影が3人ばかり姿を現した。
姿を見せたのは、白衣を身に纏ったままの新田赤也と黒島拓海、そして何故か忍足瑞貴だった。
3人はそれぞれ何やら荷物を抱えて現れた。
大きな紙袋を幾つも持った新田と黒島に対し、忍足は黒いさほど大きくもないケースだけを手にしている。
「なんで僕がここに呼ばれたんですか。高宮教授、説明してもらえるんですよね?」
学校では絶対に見るコトの出来ない、不機嫌を全開にした忍足の様子に思わず目を瞬かせてマジックミラー越しの隣の部屋を見てしまう。
大人しそう、儚げ、少女めいた…そういう形容詞が似合うはずの普段の様子とあまりにも違う。
もし学校であんな表情をされたら、恐らくクラス中が凍り付く。
そんなことを考えた直人がチラリと隣の恭二に視線を向ければ、恭二は雰囲気に飲まれたのか視線を隣の部屋に向けたまま完全に固まっていた。
「おう、瑞貴、ようやく来たか~。でも、俺様のコトはお師匠様って呼べって何度も…」
「高宮教授?ふざけないでください。僕は仕事中なんですが」
笑顔で話しかけた高宮の言葉を遮って、忍足がきっぱりとした口調で切り捨てる。
そのまま冷たい目で高宮を睨み付けたが、睨まれた方は全く気にしていないようだった。
「それはいいから、とりあえずソレはソファの上な。で、オマエらも荷物は床でいいぞ」
仕事中だと主張する忍足の言葉を完全に無視し、高宮はそれぞれが持っている荷物を置くようにと指示を出した。
その言葉に渋々といった様子で忍足は黒いケースをそっとソファの上に置く。
そこ、言われた通りにするのか、と思わず乾いた笑みが零れる。
「…すげぇ迫力だなぁ…」
美人って睨むと怖えなぁと恭二のどこか場違いな呟きが聞こえてきた。
ソファの上にケースを置く際表情を和らげた忍足に、どうやら呪縛が解けたようだ。
「大丈夫だって、理事長の許可は取ってきたから。そいつらが」
なぁ?と高宮は新田と黒島に同意を求める。
「おうバッチリだぜ」
「ちゃんと許可は貰ったぞ」
さすがに無許可で教師を連れ出せないからな、と新田と黒島は大きく頷く。
「そういう問題じゃないでしょ。だから、僕は仕事中なんですって」
チラリと仲が良いハズの2人に冷たい視線を向けた後、人の話をちゃんと聞けとでも言うように、忍足は再び高宮を睨み付ける。
「チッ。しょーがねーなぁ。オマエら、とりあえずコイツ作っちゃって」
もう、無理やりでも何でもいいから、と睨まれたはずの高宮は意に介した様子もなくそう言った。
その言葉を受け、新田と黒崎がラジャーと声を揃えたかと思うと、いきなり忍足に近づく。
正確には羽交い絞めにでもするつもりなのか、襲い掛かろうとした、というべきだろう。
どの直後、ドサっという重い物が落ちたような音が響く。
「…今の、見えたか…?」
隣の部屋での出来事に、恭二が息を飲んだ。
「いや、見えなかった…」
何とか恭二にそれだけを返し、直人は何度も目を瞬かせる。
マジックミラーの壁の向こうで、一体何が起こったのか。
「おい瑞貴、研究室は破壊すんなよ」
「じゃあけしかけないでください」
軽い調子で笑う高宮と、冷たく言い放つ忍足。
「痛てぇなぁ、もう」
「悪いのは俺たちじゃなくて、高宮教授だろ」
そして、何故か床の上に投げ出された新田と黒崎。
見えなかったが、結果から何が起こったのか推測することは出来る。
「…今の、アレ、瑞貴ちゃんがやったんだよな…」
どうやら恭二も同じ結論に達しているようだ。
「恐らく、な…」
なるほど、この技量ならは昨日の【ジャスティスイエロー】と【真紅】の戦闘をあっさり止めた芸当にも納得せざるを得ない。
直人は自分が動きすら追いきれなかった一瞬の出来事にただ驚くしか出来なかった。
「まぁ、ここで引き下がる俺様と思うなよ?」
しょうがない、と高宮はゆっくりと忍足に近づく。
そして驚くほどゆっくりと手を伸ばすと、ぐいっと強引に引き寄せた。
手を引いたとかではなく、何故か腰に手を回し、抱き寄せるようにして至近距離まで呼び寄せると、何事か小さく囁いたようだ。
流石にそんな小さな囁き声は隣の部屋までは届かない。
不機嫌そうだった忍足は、軽く目を瞠った後何度か瞬きを繰り返してから不思議そうな表情で高宮を見上げた。
「…なぁ、アレ」
「言うな…」
恐らく180に届くだろうという長身の高宮が相手では、たとえ元々が華奢な忍足でなくとも倒錯的な雰囲気になったに違いない。
いや、そうではなく。
あの教授は何故あんな手段を…。
しかもアレなら大人しく捕まるわけ…?
どういうコトだと直人と恭二は不可解と顔に書いて視線を交わす。
何事か囁かれた忍足は、何故か大人しくされるままになったままだ。
いつの間にか高宮を睨んでいたはずの瞳は、静かな色を湛えている。
その様子に、高宮は満足そうに口の端を釣り上げた。
緩慢な動作で片手を持ち上げると、そのまま忍足の瞳を覆い隠してしまう。
イイコだ、と唇がゆっくり動く。
聞こえるはずがないのに、低く艶のある囁きが聞こえた気がした。
それで用は済んだのか、高宮は顔の前にかざしていた手を放してそっと忍足の肩を叩く。
何故かその動作はひどくゆっくりに感じられ、隠れて見ているはずの直人は居心地の悪さを感じた。
そこへいつの間に立ち上がったのか新田が近づいて、まるで高宮から攫うように忍足を連れて部屋の奥へ消えていく。
こちらの言葉が隣の研究室に届くことはないと知っていても無意識に息を潜め身を縮める。
見てはいけない光景を見ているような、どこか背徳的な気持ちになって、これが現実ではなく夢を見ているような錯覚に囚われた。
紛れもない現実だと、頭ではわかっているのに感情が納得しない。
規則正しく早鐘を打つ音が煩いと思ってみれば、それは目の前の光景に知らず飲み込まれていた自分自身の心臓の音だった。
当然心音など聞こえるわけもなく、それもただの錯覚だ。
「じゃ、準備すっかー」
パンと大きく手を打ち鳴らし、高宮が何やら合図を送る。
その合図に黒島が部屋の設営を始めた。
それから、今まで部屋のどこに隠れていたのか梓が顔を覗かせる。
彼女は何やら大きなモニターを背の高い机に設置して、恐らくデスクトップパソコンだろう機器を手早く接続していく。
その机を中心にするような位置に黒島が【コンクエスト】で【特殊報道部】が仕様しているようなカメラを設置し、音響用のマイクを固定していた。
ふと気づけば背の高い机には繊細なレース編みのテーブルクロスまでかかっている。
一体何をしているのかはわからないが、何等かの舞台設営であることだけは確かだ。
「高宮教授、ここで撮影したら背景が本棚なんで背景作りますよー」
それで構わないのかと黒島が問いかけていた。
概ね設営は終わったのか、彼はカメラのファインダーを覗きながら角度の微調整を行っているようだ。
「設営、まだやることあるかー?」
そんな中、奥へ引っ込んだはずの新田が1人だけ戻ってくる。
一緒に姿を消した忍足はまだ戻ってくる様子はないが、しばらくしたら出てくるのだろうかと直人は軽く首を傾げた。
「なぁ、ご隠居、先輩たちは何をしてるんだ…?」
マジックミラー越しの隣の部屋を眺めていた恭二がそう問いかけてくるが、直人もさぁとしか答えられない。
何が起こっているのかさっぱり分からないが、何かの撮影をしようということだけは理解していた。
「赤也、背景作ってくれ」
新田にそう声をかけたのは、未だカメラのファインダーと設営された机周辺を交互に見ている黒島だ。
「おうよ。でも初の公式コラボをこんな場所でって勿体なくね?」
黒島に言われた通り、カメラに映りそうな範囲に立った新田は床に置いてある大きな紙袋から何やら白い布を取り出す。
バサっと布が大きくはためく音が聞こえ、しばらくは擦れ合うような音だけが研究室に響いていた。
布は光沢のある純白の紗のようだ。
空気を孕み、光を弾いている。
「えぇ、先輩っ!そんなキラキラした背景じゃ画面に光入って見えませんよっ」
そこへ、研究室の奥からゲームのコントローラーのような物やCDのケースのようなものがごちゃ混ぜに入った箱を抱えて詩音が姿を見せた。
彼女は先ほど着替えた和服姿のままだ。
箱からコントローラーやCDケースだけを取り出すと、机の上に乗せる。
「安心しろや、コレに黒のレース重ねるから」
大丈夫、画面は見えると請け負った赤也は、カメラに写り込む範囲すべてに紗の幕を張り終え、再び紙袋から黒い物を取り出した。
彼の言葉の通り、紗が半分ほどは隠れそうな長さのレースのカーテンにしか見えないものが取り付けられていく。
舞台設営が出来てくると、研究室だった場所が机周辺だけどこか別の部屋のように見える。
紗の幕が光を弾くせいで、うっかりその裏にあるのが本棚だということを忘れさせ、窓のような錯覚を与えていた。
「だいたい出来たなー?じゃ、弟子4号、指慣らしでもしとけ」
全体を見渡し、高宮は満足そうに頷くと詩音に向けてそう笑う。
「ぶっつけ本番じゃないんですね、了解です」
設営された机の前に立ち、画面が見える場所で詩音は何故か指を握ったり開いたり、と手の感覚でも確かめるように動かしている。
「詩音がノーミスだったら後でジュース奢ってあげよう」
その隣に来ると、梓はそう言って笑顔を浮かべた。
まあ頑張れと言いながら、モニターの電源を入れ、設置したパソコンの電源を入れ、何やら準備を始める。
「お嬢ちゃん、仮面忘れてるぞ?」
くるりと何やら白い物を弄び、黒島が笑顔を向けた。
「黒たん先輩、練習から仮面有りなんですかー?うぅん、鬼畜ですね」
そう軽口をたたきながらも詩音は彼の手から白い物を受け取ってそれを被る。
くるりと優雅に回った和服姿の少女の顔には、白い狐の面。
その瞬間、何やら妙な既視感を覚え直人は首を傾げた。
何やらつい最近、似たようなものを見た覚えがある。
「な…紫苑!?」
直人の疑問は、すぐ隣の恭二の驚愕の声で解決した。
そうだ、先ほど動画で見たではないか。
動画の中で優雅に琴を奏でていた狐面の少女が、マジックミラー越しの隣の部屋にいる。
「…まさか、今からやるのって、難易度ゲームに挑戦してみた動画の撮影なのか…」
動画に詳しいらしい恭二が、驚愕の中に喜色を滲ませた声を上げた。
「ソレは一体どういうことか?」
あの狐面の少女は、琴の奏者ではないのか?という疑問を込めて直人は恭二に問いかける。
「あ、いや…。元々は琴でいろんな曲を演奏するだけだったんだが」
と恭二が説明を始めた。
流石に名前を言い当てたりオススメ動画を色々選べたりする程度に精通しているだけはある、と感心する直人に恭二が説明したのは彼女の動画での来歴だ。
そもそもは和琴で様々な曲を奏でる動画だけの投稿だったのが、去年の暮あたりから日本舞踊で自分の奏でた曲に合わせて踊る動画が増えた。
その次には、コレが彼女、紫苑のファンが恐らく全員驚いたことだろうが、難易度の高いシューティングゲームのプレイ動画を投稿し始めたという。
その動画は必ずリアルタイムでプレイしている紫苑も映し出し、ちゃんと本人がプレイしているのが確認できる上、いつも通り和服に狐面という出で立ちなのだそうだ。
「つまり、黒崎殿が言うには、今からここで彼女が何か難しいゲームをプレイするということなのか?」
説明を聞き終えた直人は何やら腑に落ちないといった様子で問いかける。
「おう。いつもは和室なのに、今日はここなんだな。ちょっと楽しみ」
他に考えられないといった様子で、好奇心を全開にした表情で恭二が頷く。
「黒崎殿よ、お主大事なことを忘れてはいないか?」
それがしたちは、確か忍足先生殿の正体を教えてもらう約束でここにいるはずだ、と直人はしみじみした口調で告げた。
和服美少女が一体どんなゲームプレイを見せてくれるのか全く興味がないと言えば嘘になってしまうが、そもそもここでこうやって隠れて眺めているのは全く別の理由のはずだ。
「…あ」
そんな直人の指摘に状況を思い出したらしい恭二は忘れていたという表情を浮かべた。
恭二に対し、やれやれと嘆息した直人は再び視線を研究室へと向ける。
自然と、狐面姿の紫苑がプレイしているゲームの画面が目に入った。
「…は?」
画面の中の光景が信じられず、直人は間抜けな声を上げる。
画面中が、色とりどりのオブジェクトに埋め尽くされていた。
このゲームは見たことがある。
鬼畜難易度、最高難易度をプレイできる人間は、人間やめましたというレッテルが貼られる超密度の弾幕シューティングゲーム。
その名も西方幻想凶。
凶は決して誤字ではない。
そして、目の前でリアルタイムにプレイされている画面は、間違いなく最高難易度。
要するに、人間やめました、という難易度なのだ。
何せ弾幕に埋もれて自機を見つけるだけで一苦労、一瞬でも見失ったら即死というレベルの弾数。
さらには鬼だと呟きたくなる程に嫌らしい動きをする弾幕のアルゴリズム。
追尾、速度変化、拡散、縮小、分裂…それらを複合的に組み合わせ、画面中を埋め尽くす弾幕。
嘘だろう、アレはデモ映像か何かだ、とでも言いたいが、間違いなくプレイしているのが見えた。
「…な…な…何だとぉぉぉーっっ!!!?…むがっ!」
画面に魅入っていた直人の耳に、すぐ隣の恭二の絶叫が響く。
思わず条件反射でその口を塞いでしまった。
「お主、さすがにその音量では隣に聞こえはしまいか…」
あの技術に驚くのはわかるが、と直人は淡々と言った。
あまりにも驚きすぎて、直人の驚きメーターは振り切れてしまったので僅かに冷静さを取り戻している。
「いや、そっちじゃねーよ。ご隠居、アレ」
直人の手を振りほどくと、恭二は大きく首を左右に振って別の方向を指差した。
恭二が指差した方向は、研究室の奥。
「…な…なー…!!!???」
恭二同様に盛大に叫び声をあげかけた直人だったが、既に驚きのピークを過ぎた恭二によってあっさりと口を塞がれた。
「な?驚くだろ?」
叫びが収まったと見るや、恭二が引き攣った笑みでそう問いかける。
こくこく、と直人は何度も大きく頷いた。
彼らが見た光景は一見すると何でもない光景でしかない。
重要なことに気付きさえしなければ。
「確か、あれは彩夢殿、であったな?」
直人は記憶を辿り、確認するように恭二に問いかける。
間違いなく先ほど動画でみた人物だ。
「…ああ、間違いなく、な…」
答える恭二の声は、当然ながら引き攣っていた。
彼らの視線の先には、淑やかそうで可憐な印象の少女の域を出たかどうかくらいの年齢の綺麗な女性と、彼女の左右に控えているように見える白衣姿の青年2人の姿。
女性の服装が淡い藍のふわりとした柔らかいシフォン素材のロングのワンピースであったことと、まるでエスコートするような位置にいる2人の青年の服装がどちらも白衣という統一性のせいで、まるで姫君と騎士たちのような整合性を感じさせるが、醸し出される雰囲気は全くでもっと気安いものだった。
困惑したような微妙な表情を浮かべた彩夢に、面白がる様子を一切隠そうとせず気さくな様子で絡む新田と黒島の姿である。
そうか、知り合いだったのか、と安易に考えてはいけない。
初めから知り合いだったのだ、間違いなく。
それもかなり親しい部類で。
「相変わらず見事な化けっぷりだよなぁ、お前。可愛い可愛い」
「元々小さいもんなぁ、瑞貴。…似合ってるぞ?」
「…赤也も、拓海も、面白がってるだけだよね…ソレ」
可笑しそうに笑って彩夢の肩に手を乗せた新田と、わざと身を屈めて覗きこんで一瞬だけ真顔になった黒島。
肩に乗せられた手を鬱陶しそうに払いのけ、軽く嘆息する彩夢。
とても親しい間柄であるのが一目でわかる光景である。
「…あの御仁は…。どうみても女性でしかないが…」
もう本当に、あの人は一体なんなのだろうか。
動画では気付けなかったが、直人は彩夢を知っていた。
当然恭二もだ。
「…全く気付かなかったぜ…瑞貴ちゃん…」
いやもう性別詐称出来るのは知ってたし、違和感ないのも知ってたけど。
でもさすがにソレは気付かなかった。
呻くように恭二が茫然と呟く。
どこからどう見ても動画の彩夢は女性にしか見えなかったし、こうやって目の前で見てもやっぱり女性にしか見えない。
しかしながら、その面影は間違いなく知っている人物のものだ。
「さてと、それじゃ準備してもらおうか、彩夢」
ニヤニヤと楽しそうで人の悪い笑みを浮かべた高宮が、ソファに置いてあったケースを持って彩夢に近づいた。
「…嫌です…」
ケースを受け取りながら、彩夢は上目づかいで高宮を軽く睨む。
睨んでいる相手も睨まれている相手も同じで、先ほど似たような構図を見たはずの直人だったが、改めてその別人ぶりに驚いた。
「そんなこと言ったって、もういつでも弾けるようにしてあるだろ?わかってるんだぜ?」
6限目に楽器出してただろ?ネタは挙がってんだぜ?と高宮はからかうような口調でそう言って彩夢の肩をぽんと叩く。
「…そうですけど…」
どうして知ってるんですか、須王先生…と不思議そうな表情で問いかける彩夢は、やはりどこからどう見ても女性にしか見えないのである。
そこで直人はある事実に気付いた。
「…声まで違わなくないか…」
気付いた事実を確認するべく、隣の恭二を小突く。
元々男性の割には忍足の声は高めで透き通ってはいるが、性別を誤る程ではない。
しかし、隣の部屋から聞こえてくる声は、間違いなく女性の声なのである。
「ああ…出来るのは知ってたけどな…すげえな、瑞貴ちゃん」
恭二はどうやらその事実について、情報は知っていたようだ。
直人ほど驚きはなかったのか、驚くというより感心している様子だった。
「俺様の情報収集は完璧よ?」
「6限目の時間に高等部校舎内でバイオリンの音色が確認されてますからねー」
「確か6限目は芸術選択は絶対配置されないハズですもんねー?」
笑顔のままそう言った高宮の言葉に被せるように、ディスプレイの近くにいた梓と狐面を頭の方へずらした紫苑が口々にそう言った。
彼女たちは一瞬チラリとマジックミラーという壁越しにいる直人と恭二の方へ意味ありげな視線を向けて微笑む。
「さすがに我々が卒業してからこんな短期間でその不文律が変わったとは思えませんし」
にっこり、と梓が笑顔で補足し、紫苑は大きく頷いてから狐面を被りなおした。
その言葉に、彩夢は諦めたようにケースを手近な机に乗せると、留め金を外す。
丁寧な所作で取り出されたのは、見間違う余地もなくバイオリンだった。
「アマ?ステラ?」
それ、どっち?と興味深そうに新田が覗きこむ。
「…何なの、その妙な略称…」
こっちは師匠の作、と言いながら彩夢は手早く演奏の準備を整えたようだった。
「師匠のっつーとアマの方かー。今日は何弾くんだ?」
興味深そうに覗き込みながら新田が彩夢の顔を覗きこむ。
「何って…。…何だろう」
当然のように演目を答えようとした彩夢だったが、どうやら本人も何を演奏させられるのかを知らないらしい。
軽く首を傾げて考える素振りを見せた。
「コラボだからゲーム曲だろうな」
その問いに答えたのは、少し離れたところにいる黒島だ。
彼はいつの間にか設置されたカメラの前に移動していたようだ。
早く来いと手招きをしている。
その手に呼ばれるように、彩夢は設営された舞台の方へと向かっていった。
製作者:月森彩葉