異世界召喚されずに乙女ゲーに組み込まれたようです 1

―――夢。
夢を見ている。
小高い丘の上の、小さな公園。
周囲をぐるりとクスノキやマテバシイなどの背の高い木やクチナシやツツジのような低い木などで囲まれた、まるで日常から切り取られたような空間。
雑草のないきちんと整備された敷地に、遊具はブランコに滑り台に鉄棒といった、本当に小さな小さな公園だった。
まだ幼い子供にとっては、周囲を木々に囲まれている所為で、見上げる空と出入り口の石階段くらいしか開けた視界は存在しない。
夢だ、と確実に言い切れるのは、それが遠い日の記憶の追体験なのだとすぐに理解出来たからだった。
自分の意識は、公園を中空から見下ろしている。
それだけでも普通の光景ではないのに、幼い頃の自分の姿をその公園に見つける事が出来るのだから、明らかにこれは夢だ。
もし夢でないのなら、臨死体験だとか、とにかく普通では有り得ない光景だろう。
明るく無邪気な笑顔、幼く怖い物を知らないような好奇心。
身の丈よりも高い鉄棒に届かず何度も飛び上がったり、ブランコによじ登ったり、そして落ちて思い切り頭をぶつけたり。
そんな無知さは、もう何年も前に失ってしまった。
まだ幼い、童女というより幼女というべき自分自身、あの頃はまだ、本当に何も知らなくて、そして何も怖れていなかったと思う。
未知に触れ、世界の境界すら曖昧で、そして喪うという言葉の意味も知らなかった頃。
失ってしまったもう1人の自分だ、と感じた。
弾けるような笑い声。
ぱたぱたと駆けて行く先には、優しくも厳しかった兄と。
それから…。
「はい、小さなさっちゃん。これ、あげるよぉ」
朗らかな、優しい笑顔で花冠を差し出してくれた、『おねえちゃん』と呼んでいた誰か。
ふわりと蕾が綻ぶように笑う顔が、大好きだった。
「わぁ…ありがとぉ…」
幼い頃の自分は、花冠ひとつであんなに幸せそうに笑えたのかと思うと、ただの夢なのに複雑な気持ちになる。
今の自分なら、たとえ目を瞑っていたって、花冠を作る事など造作もないし、もっと言えば一風変わったモデルガンの目隠し分解から再構築だって出来てしまう。
幼い頃の記憶。
まだ世界を何も知らなかった子供の頃。
柔らかい風に乗って、花びらが空へ舞い上がるのを必死で追いかけて手を伸ばしていた、小さな公園。
けれど、この公園の場所は、実は覚えていない。
現実に存在した公園なのか、それともこの光景すら幼い頃の夢だったのか。
もし、幼い頃の夢だとするのなら、どうして繰り返し繰り返し、夢の中で誰かに遊んで貰っていたのだろう。
「時間だよ」
不意に、記憶にない声が夢の中に割り込んで来た。
聴いた事のない、柔らかく透明感のある、青年の声。
もっとも、記憶にないというのは、ただ単に忘れていたというだけの事。
こうして繰り返し追体験のように見る幼い頃の夢は、確実に幼い頃の体験を客観的に見ているだけだと、何度も何度も繰り返し見る度にもう知っている。
その意味も理由も解らないけれど、何度も見続ける幼い頃の夢。
その繰り返しの中で、初めて聴く声だ。
ガサリと音を立てて、何故か茂みの奥から声の主が姿を見せた。
「…あぶらあげ…?」
幼い自分の感想は、今の自分の感想とも通じるものがある。
茂みの中から姿を見せたのは、褐色の肌に黄金の髪と瞳を持った、何て言うかとにかく『油揚げ』という表現に似合う色彩の青年だったからだ。
「ソレ、オレのコト…?」
青年が何とも言えない困惑の表情で幼い自分の前に屈みこむ。
「もうそんな時間かぁ。仕方ないなぁ…。それじゃ、またね?さっちゃん」
そう言って、『おねえちゃん』は一度、幼い自分の頭をふわりと撫でると、ひらひらと手を振ってどこかへ消えて行った。
「…えっと、離して貰える?」
『油揚げ』の青年が困惑した声を上げる。
それはそうだ、幼い手が、しっかりと服の裾を掴んでいるのだから。無理に引き剥がして泣かせるよりは、平和的に解放して貰う方が良いだろう。
「…きれい」
幼い自分が、じっと青年の顔を見上げ、小さく呟いた。
確かに、『油揚げ』ではあるが、色彩は綺麗だ。
それに、とても整った顔立ちをしている。
色彩の所為でやや軽薄で遊んでいるような印象を与えはするが、差し引いても充分整った外見と言って差し支えない。
「…アリガト」
青年は面食らったように目を丸くした後、ほんの少しだけ照れた。その表情は、嬉しそうにも見え、同時にどこか寂し気にも見えて、知らない光景なのに胸が詰まるように感じるから不思議だ。
「あぶらあげに、これ、あげる…!」
幼い自分が、ごそごそと服のポケットを漁っている。
一体、幼い自分はこの『油揚げ』に何を渡したのだろう。
そもそもこの外見を目にするのが初めて…忘れていただけだけれど、とにかく記憶にないから初めてと言うしかないのだし、こんな遣り取りが過去に存在した事も、当然何も覚えていないのだ。
幼い自分が差し出したのは、あろうことか『御神体』の1つだった。
一体何時(いつ)の時代に造られたのか定かではないくらい古めかしい、現代に見かける綺麗な円形の鈴とは異なって(いびつ)な楕円形を描く、鈍い黄金色の鈴。
まだ金属を薄くする技術すら無かったのでは?と思うくらい、その1つ1つが重い、神楽鈴の原型だろうかと思えるような代物。
余りにも古い所為(せい)で、鈴なりになっている沢山の鈴のうち、幾つかはすぐに外れてしまうのだ。
御守りの代わりに、とその1つを常に持たされていた筈なのだが、幼い自分はその重要性を何も理解していなかったらしい。
いや、今でも正しく理解出来ているかは怪しいのだが。
『おねえちゃん』に渡したとばかり思っていた、行方不明の鈴は、どうやらこの見た事もない『油揚げ』の手に渡っているようだ。
「…オレ…?」
押し付けるようにして無理やり受け取らされた『油揚げ』は、その鈴の意味が解ったのかそれともあまりの古めかしさに引いたのか、とても困った顔をしている。
鈴を受け取った『油揚げ』が、鈴をそうっと持ち上げ、チリ…と音を鳴らした。
困惑、戸惑い、遠慮といった表情に、僅かな喜色と、哀愁を混ぜた顔で『油揚げ』は微笑む。
「…アリガト。そのうち、ちゃんと返すね」
鈴を押し付けた幼い自分は、何とも言えない満足そうな顔で笑っている。
その笑顔に絆されたのか、諦めたのか、『油揚げ』は今の時点は取りあえず受け取っておく事を選んだようだった。
「ソレじゃ…ホントはオレの姿は見られちゃいけないし…」
―――だから、忘れて。
優しく包み込むような声で『油揚げ』はそう言った。
声は優しく、温かいのに、その表情は何故だか今にも泣きだしそうに見える。
リィィィィン…と、高く澄んだ音が、小さな公園に響いた。
まるで鳴弦のような、響きが外へ外へと広がって行くような感覚。
聞こえない筈の音が聞こえる錯覚。
忘れているように、暗示を掛けられたのだろうと、無意識のうちに悟っていた。
けれど、一体何故、今になってこんな夢を見たのだろう。
ゆらゆらと夢と現実の境界が曖昧になっていく感覚のなか、波間を漂うような意識の中でそう思いながら、遠く全く別の音を聞いた気がした。

…キーンコーン…カーン…
授業終了を告げる鐘の音が私立志貴ヶ丘(しきがおか)学園の高等部敷地内に響き渡る。それは2年4組の教室も例外なく、授業終了の合図で教科担任の数学教師、浅井(あさい)道長(みちなが)はいつも通りのボーナス課題を書き終え、号令も待たずに教室を出て行った。2年生の教室ともなれば、制服は臙脂と紺の2色のハズだが、この1学期もほぼ終わりという中途半端な時期に編入生を迎え入れた所為で1人だけチャコールグレーの制服のままだ。柔らかいふわふわした髪の、可愛らしい顔立ちの女子生徒だが、編入生だというのに授業態度ははっきり言ってお世辞にも良いとは言えない。机に突っ伏すようにして、穏やかな寝息を立てている。その編入生の名は、佐倉(さくら)唯音(いおん)。唯音と書いて『いおん』と読む、キラキラネームだと自ら言い放ち、両親の仕事の都合で、現在親戚の経営するシェアハウスで暮らしていると編入してきた日に自己紹介をしていた。
「佐倉さん…もしもーし、そろそろ、起きませんかー」
寝ている編入生に声を掛け、一応起こす努力を試みたのは、隣の席の男子生徒だった。紺の制服の、顔の造りとしては整っているけれど、淡々とした口調と少しも動かない表情の所為で、やる気の無さそうな印象を与える生徒だった。西山(にしやま)小太郎(こたろう)という、クラスの中でもその無表情さでやや目立つながら、面倒見の良さで仲の良い友人たちから慕われている生徒だ。
「…あと5分…」
寝惚けた様子のまま、唯音はぼんやりと呟いてから、ぱちりと目を開けた。それなりに近い距離に小太郎の能面のように無表情な相貌を見つけ、大きく目を瞬かせる。
「あと5分寝るのは構いませんが、次は移動教室ですよ」
無表情のままそう言って、小太郎は正面の黒板横に張り出された大きな時間割表を指した。彼の差す先には、確かに6時間目「体育」と書かれている。正しくは移動教室ではないのだが、そこは小太郎らしいズレっぷりと思えば、愛嬌の範疇だ。
「うぅ…体育館移動かぁ…。マットとか跳び箱とか、好きじゃないよぉ…。あ、西山君、男子はグラウンドで何するのー?」
眠そうに小さく目を擦りながら、唯音は未だ覚醒しきっていないらしい様子でぼんやりと起こしてくれたクラスメイトに問いかける。
「俺たち男子は、サッカーやるらしいです。俺は(じじい)なので動きたくありません」
無表情のまま、小太郎は淡々とそう語る。あまりにも無表情で抑揚のない話し方の所為で、爺と(うそぶ)く様子が彼なりの冗談なのか真剣なのか、聞く人間を戸惑わせる調子は何時もの事だ。
「高校生がお爺さんだったら大学生とか社会人はどうなるのさぁ…。ミイラ?化石?…ん、ありがとー、起きるぅ…」
あはは、と軽く笑い飛ばし、唯音はひとつ大きく伸びをして、立ち上がる。早く更衣室に移動してジャージに着替えなければ、次の授業に遅れてしまうからだ。流石に寝起きで廊下を全力疾走は遠慮したい所だった。
「それじゃ、無事に起きてくれたみたいなので、俺も行きますね」
いやあ、俺で起こせて良かった、などとのんびりとした口調で言いながら、小太郎も席を立つ。教室を見渡せば、既に半数くらいが出て行ったらしく、疎らだった。
「起こしてくれて、ありがとね」
唯音は重ねてそう言うと、教室後ろのロッカーに入れてあるジャージや体育館シューズを取る為に、席を離れる。その耳に、廊下を思い切り走りながら近づいてくる軽い足音が2人分、届いた。廊下に響く足音くらいは日常的に耳にするが、あまりにも勢いが良すぎる所為で自然と耳につく。
「ハル、だから、廊下は走るなと言っている…!」
「アヤだって走ってるだろ!それに走らないと間に合わない!」
足音に合わせて、口調はともかく可愛らしい女子生徒の声が近づいてくる。
足音は勢いよく近づいてくると、この2年4組の教室の前で、ピタリと止まった。
「こたさん!英語の辞書貸してくださいっ!」
更衣室へ向かう誰かが開けっ放しのドアの前で、1年生を表す緑色の校章を付けた対照的な雰囲気の女子生徒2人の片割れが開口一番、大きな声でそう叫ぶ。
明るく元気いっぱいを絵に描いたような、陽性の可愛らしさを醸し出す少女だったが、少々元気が良すぎるのでは、と思わなくもない。その女子生徒の名前は、的場(まとば)陽菜(はるな)と言って、編入したての唯音が所属を決めた部活の後輩にあたる生徒だった。
「ハル…先輩を付けろ、先輩を」
その横で、大人しそうな文学少女という雰囲気の女子生徒が呆れ交じりに深々と溜息を零している。こちらは新垣(にいがき)綾香(あやか)といい、陽菜といつも一緒にいる一見仲が良さそうに見えないがとても仲の良い女子生徒だ。こちらも同じく、唯音にとっては加入した部活動の後輩にあたる。
「あれ?はるとあや、どうかした?廊下は走っちゃ駄目だって教わってるんじゃ?」
後輩に対してまで丁寧な口調では話さないのか、幾分か砕けた口調で小太郎がそう応じた。小太郎にとってもこの2人の女子生徒は部活動の後輩で、中々に親密と言えるくらいに仲が良い方だ。
「ええと、英語の辞書貸してください!」
どうかしたも何も、という表情を一瞬だけ浮かべたが、言っても仕方ないとばかりに陽菜はドア付近で叫んだ内容を再び口にする。
「…はる…。俺が辞書なんて持ってると思う?」
淡々と、あくまでも淡々と小太郎は言った。英語の授業で、小太郎は1度も辞書を机に出した事がない。(あらかじ)め単語の意味を全て調べてきているのか、それとも英語がとても得意なのか、とにかく小太郎は辞書を引かない。それは、クラスメイト達にとって周知の事実だった。
「えぇー…!持ってないんですか!?」
「ほら、言った通りだろ?小太郎先輩が辞書なんて持っている訳ない」
盛大に嘆く陽菜の隣で、言わんこっちゃないとでも言いたげに綾香が見た事かと大きく頷いてみせる。
「だって俺、辞書引かないし、重いし」
持っている訳がない、と小太郎は肩を竦めた。不必要な物をわざわざ学校に持ってくるなんて、労力がかさむだけだと、実に若者らしくない意見である。
「あはは、それじゃ、優しいお姉さんが貸してあげよう」
成り行きで一部始終を目の当たりにした唯音は、同じ部活動の後輩という他よりは少し親密な後輩たちに苦笑しながら、ジャージ等を取り出すついでに自身のロッカーから英和と和英の辞書を取り出す。こちらはこちらで、全く使っている形跡がない真新しい辞書だった。
「本当ですか!唯音さん!ありがとうございます!」
消沈した様子から一転し、明るい笑顔を浮かべる陽菜に、唯音は大きく頷いて2冊の辞書を差し出す。
「すみません、唯音さん。この馬鹿には後でジュースでも奢らせますので」
何故か恐縮した様子で、綾香まで隣で頭を下げる様子に、唯音は微笑ましいと小さく笑った。
「あはは、要らない要らない。あ、でも部活帰りに、駅前のカフェには寄ってみたいなぁ、唯音お姉さんがご馳走してあげるから、付き合ってくれない?」
部活動初日、先輩と呼ばれるのが苦手だと言った唯音の希望に沿って、名前で呼んでくれている可愛い後輩2人に唯音は殊更(ことさら)にっこりと笑って、ひらひらと手を振る。
「あ、はい!奢っていただくのは申し訳ないので遠慮しますが、お付き合いは喜んで!」
「ご一緒して良ろしいのならば。それでは、後でまた部活動の時に。失礼します」
陽菜、綾香ぞれぞれに了承の意を伝え、慌てて(きびす)を返し再び廊下を駆けていく。辞書を借りて、今から6時間目開始までの短い時間で何とか単語の意味を調べるなどの予習をする算段なのだろう。
「…うーん、可愛いなぁ。和むなぁ」
その後ろ姿をのんびりと見送りながら、唯音は1つしか年が変わらないとは思えない、柔らかな笑みを浮かべる。
「…佐倉さん、和んでると授業に遅れますよ。俺はもう行きます」
編入してまだ1ヶ月に満たないとはいえ、同じ部活動の気安さなのか、小太郎はそう言ってすいっと横をすり抜けて行く。表情は相変わらずだが、その瞳は優しい色を湛えていた。
「あ。そうだった、次、体育だ」
そう言って、ジャージの入ったトートバックと体育館シューズの入った袋を抱え直し、唯音も教室を後にする。いつの間にか、他の生徒は教室を出て行ったらしく、彼女たちが最後だった。
1階の生徒昇降口横に設置された更衣室まで行き、唯音は手早くジャージに着替えていく。1学期も半ば終わり、いくら志貴ヶ丘学園が山の中腹にあるとはいえ汗ばむ季節であるのにも関わらず、長袖のジャージを着用し、肌の露出を極力抑えて唯音は更衣室を後にした。体育館シューズを袋ごと下げて歩きながら、制服のポケットに入れていた赤い組紐で器用に髪を左側にまとめ、紐が見えないように大きなシュシュをその上から重ねた。
「あ、イオちゃーん、置いて行ってごめんねー?小太郎君が起こしてたから、大丈夫かと思ってー」
体育館に姿を見せると、クラスメイトの女子生徒が人懐っこい笑みで近づいてくる。唯音は特に気にした様子もそれに手を挙げて応じ、笑顔を見せた。
「寝てた私が悪いしー。…まだ眠いよ、私…」
ふわぁ、と小さく欠伸をすると、唯音は再び眠そうに目を擦る。
「こらこら、目は擦っちゃ駄目だよ、視力落ちるって。今日は見学?参加?」
近くに寄って来た別の女子生徒は、苦笑交じりにそう言って目を擦る唯音の手を取った。
「サボり常習犯みたいに言わないでよぅ。ちゃんと参加するよぉ…」
あはは、と乾いた笑いを浮かべ、唯音は授業に参加の意思表明を見せる。つい先ほどまで机に突っ伏して寝ていたのは、この際横に置いておくとして、と唯音はこっそり心中で溜息を零した。いくらエリート進学校であっても、授業内容は今更だと言えるくらい唯音にとって簡単すぎる内容なのだ。体育にしたって、別に苦手ではない。ただ、それをあまり公にしたくない事情があるので、得意ではない風を装っているだけである。
そのまま他愛のない会話を交わし、惰性で6時間目を乗り切った後、唯音はそのまま部活動に参加すべく教室を後にした。同じ部活動のハズの小太郎は、今日は用事があると言って、先に帰ってしまったので、1人で部室として使っている教室に向かう。
「あ、唯音さん!」
教室には、先に1年生の陽菜と綾香が来ていたようで、教室を覗き込むなり陽菜が明るい声を上げた。
「お茶、淹れましたが」
部活動は、民俗学研究同好会と言う(おおよ)そ高校生らしくないジャンルなので、在籍人数はたった数名しかいない。そんなわけで、部費というものも存在しないのだが、何故か色々と持ち寄っているため、お茶や食器の類、果てはお茶請けなどは潤っている。主に管理をしているのは綾香なので、お茶を淹れるのは(もっぱ)ら綾香の仕事のようになっていた。柔らかい香りの湯気を立てるカップを差し出し、綾香は微かに笑ってみせる。
「わぁ、ありがとぉ…って、誰だぁ、もう」
笑顔で頷いてカップを受け取った唯音だったが、制服のスカートのポケットに入れていたスマートフォンが鳴動した所為で慌てて引っ張り出して、通知の内容を確認する。授業中は鳴動しないようにしてあるが、放課後は音は鳴らずとも振動するようにしてある所為で、嫌でも気付くのだ。
画面を見れば、同じシェアハウスで暮らしている相手からの着信を告げていて、唯音は思わず目を丸くした。こんな時間に、絶対に連絡をしてこないハズの名前だった所為で、思わず2回、しっかりと画面を見直す。
「…もしもし?神ちゃん?……まだ学校だよ?部活中」
後輩たちにジェスチャーで謝罪の意を表し、唯音は通話ボタンを押した。非常識な時間に電話を掛けて来た相手に対し、非難を込めてそう言う。
『ちょっとトラブルなんだって!悪いんだけど、帰ってきてくんない?』
近くに居る人間にまで声が届く程の音量で、電話の向こうから明るく快活そうな青年の声か響く。何となく軽そうな印象を与えるが、親しみやすい声だった。
「えぇ…。学校から家、結構遠いし。それに、せっかく、可愛い女の子がお茶淹れてくれたのにぃ」
見た目の幼い印象の通りに、唯音は電話の向こうの相手に見えないのにも関わらず、頬を膨らませて不満そうに言う。
『そう言うと思ってさぁ?もう、迎え、そっちに行ってるよ~?具体的に、智信(とものぶ)がね~!』
電話の向こうで、明るく笑い飛ばす声が響く。まるで断られるのは初めから解っていたとでも言いたげな口調と、面白がるような様子から、随分と気安い間柄なのだと知れた。
「はぁ!?え、本気で!?」
明るく告げられた言葉に、唯音は後輩の前だという事も忘れた様子で、目を丸くして叫ぶと、慌てて教室の窓から正門の方を見る。引き離されたスマートフォンのスピーカーから、明るく笑う声が響き、そして唯音が勢いよく押した終話ボタンの操作音と共に掻き消えた。
代わりに、(やかま)しいクラクションの音が正門の前から鳴り響く。純白の車体のスポーツカー、左ハンドルの、言わずと知れた外国産の名車がチラリと姿を覗かせている。
「…すごい、フェラーリだ」
知識はあったのか、窓から唯音を倣って外を見ていた陽菜が、茫然と呟いた。
「…この坂を、あの低い車高で…?」
眉根を寄せ、不可解だとばかりに綾香も呟く。私立志貴ヶ丘学園は、山の中腹に位置している。つまり、正門に辿り着くには、元々はケーブルカーが走っていた程の急勾配の坂を登らなければならないのだが、それを車高の低いスポーツカーで登ってきたとなれば相当な運転技術を習得しているのは明らかだ。そもそも、そんな車で登って来なければ良いというのは、今更なので敢えて3人共考えようとはしなかった。
「何であんな目立つ…っ!…2人共、ごめんねっ!」
頭を抱えそうになりながら、唯音は何とか後輩2人に謝罪だけを伝えると、淹れて貰ったお茶を勢いよく飲み干して、そのまま鞄を引っ掴むようにして部室と化した教室を飛び出す。ぱたぱたと軽い足音を廊下に響かせながら、廊下を駆け抜け、一目散に昇降口を目指し、校門前まで走って行った。息を切らせスカートを(ひるがえ)し、遠巻きに注目を集めている車の隣まで何とか辿り着くと、何度か深く呼吸を繰り返し息を整える。
「あ、やっと来たね~?迎えに来たよ~?お嬢ちゃん」
スモークガラスになっている運転席の窓が開き、中から年代を間違っているとしか思えない白いスーツの青年が顔を覗かせた。サングラスといい白いスーツといい、フェラーリとは合っているし、サングラス越しとはいえ、俗にいう甘いマスクという表現に相応しい外見をしている。座っているので正確ではないが、それなりに身長もあるだろうということは想像に難くなかった。
「…なんでそんな目立つ車で来るのぉ!バカでしょ…絶対!」
喚きながらも、これ以上目立ちたくないと唯音はそそくさと車の助手席に乗り込んだ。目立ってしまっているという羞恥の所為か、心無しか頬を朱に染めている。明日、何を言われるだろう、と思うと今から憂鬱なのだろう。
「学校にこの車で迎えに来るなんて、信じられなぁい…」
助手席に乗り込むなり、ぼやくと唯音はやれやれと盛大にため息を零してシートに深く沈み込む。
「仕方ないでしょ。どうしてもってお嬢ちゃんが必要って言われたんだからねぇ」
憮然とした表情の唯音に、運転席の伊達男は困ったように眉根を寄せて柔らかく微笑んだ。
「…はぁい、解ったよぉ」
軽く視線だけで応じると、唯音はそのままシートに凭れかかり、目を閉じる。
その様子を見守ってから、青年はゆっくりと車を発進させ、見た目通りの軽快な走りで、急勾配の坂を下りってその先の目的の場所へと向かっていった。
製作者:月森彩葉