異世界召喚されずに乙女ゲーに組み込まれたようです 11

「―――夢?」
「ドウ考えてもチガウ」
仕事だと、学校帰りに連れていかれた先は何てことはない小川だった。遊歩道として作られた土手から水面近くまで降りた岸辺に唯音と奏多は立っている。唯音は目の前の光景に首を傾げつつもう何度目になるのか解らない言葉を呟き、その度に奏多は律儀に応えていた。少々緊迫感に欠ける遣り取りではあるが、唯音と奏多はそれなりに逼迫した状況に陥っており、この会話は一種の現実逃避と言い換えてもいいだろう。
「やっぱり、僕らじゃ入れそうにないです…!どうしましょう!」
「やはりここは師に連絡を入れるべきでしょうか」
「奏多、唯音さん、俺にも視えないですが、もしかしなくても相当面白可笑しい事になってませんか?」
唯音と奏多から少し離れ、土手の上で成り行きを見守るしかない陽菜、綾香、小太郎の3人は多少の温度差はあれど、一様に川辺にいる2人を案じるような表情を浮かべていた。何とか土手から下に降りようと何度目かの試行に失敗した陽菜、その様子にいよいよこれは自分たちの手には負えそうにないと制服のポケットからスマートフォンを取り出した綾香、そして最後に詳細な光景が視えていないからこそ、まだ暢気そうに見える小太郎がそれぞれ見えない壁に阻まれながらも唯音と奏多に声を掛けている。
「ゎぁ、水面がモグラ叩きみたい~」
小太郎と同じく視えない者の気楽さ故か、唯音はボコボコと盛り上がっては弾ける、まるでマグマのような水面にどこか楽しそうな表情を浮かべた。
「だから、あんまり水に近づかないでってば!オレの力は水と相性悪いって教えたでしょ」
好奇心に負けて手を伸ばそうとする唯音を留めるように、奏多が慌ててその手を引く。唯音の眼には、ただ不自然に水が沸騰しているようにボコボコと泡立っているように見えているだけだが、奏多の眼には川に棲む闇が瘴気のようなものを撒き散らかしている不気味な光景がしっかりと映っている。泡が弾ける度、瘴気のように吐き出された闇の粒子が少しずつ寄り集まって小さな子鬼のサイズの意志を持った闇が生み出されているのだ。恐らく、何らかの原因で雨水が川に流れ込むように自然と溜まった闇が成長し、明確な悪意を持って存在している。はっきり言って、一気に片付けてしまいたいと思う不気味でグロテスクでシュールな光景なのだ。
「タワシちゃんの力?」
抵抗する事なく奏多に手を引かれた唯音は、どんどん広がって行く瘴気に気付いてもいないのか、何の影響も受けずにきょとんと首を傾げた。この場を囲ったのは、闇であって奏多や小太郎たち帝都観光の武装案内人という謎の肩書を持つ闇との戦闘要員ではない。正しくは下見と場を囲うのを目的として、川辺に唯音と奏多が降りた直後、他の3人の侵入を拒むように透明な幕のようなもので周囲を覆われてしまったという経緯だ。結果的に、闇と共に囲いの内側にいる唯音や奏多は、当然ながら闇の瘴気を直に浴びている事になる。
耐性の無い人間ならば、既に何らかの悪影響が出ているくらい、大量の負の気配に(さら)されているというのに、唯音は本来訴えるべき不調や霊障にまるで悩まされている様子が無かった。
「オレの力は火だから水は相性悪いの!あんまり近づかないで。護りきれないと困るし」
初戦で偶然とはいえ闇から庇われるような体勢で唯音を危険に晒してしまった奏多は、もうそんな事は起こさないようにと表情を険しくする。いくら平気そうに見えたって、闇からの影響を全く受けないなんて有り得ないのだ。
「ふぇ?タワシちゃんカピバラじゃん!カピバラって温泉大好き、泳ぎも上手な生物なんだよ!?なのに水が苦手とか詐欺だよね!?」
唯音は心底驚いたように、食って掛かるように奏多に詰め寄ると、誰もが予想していなかった言葉で詰問を始める。言っている事はあながち間違ってはいないのだが、そもそも根本から問題をはき違えている事を果たして唯音自身が理解しているのか怪しいところだ。
「チョット!オレが普段カピバラだからってソレ偏見!!っていうか、オレ、ホントはカピバラじゃナイんだけど!だからタワシって呼ばないで!」
売り言葉に買い言葉の勢いで、奏多は迫ってくる唯音にそう言い返す。奏多には奏多なりの事情があってカピバラの姿になっているだけで、本性はもっと別の姿なのだと主張し、ついでとばかりに不遇すぎる呼び名に抗議も付け加える事も忘れない。
「いやカピバラだったし!手触りタワシだったし!温泉タワシの柚子さん可愛いよ!?」
確かに目の前で転じた姿はカピバラだったと、唯音は出逢いを思い出してそう言い放った。カピバラ弁当を作った張本人がまさかのカピバラで、共食いかとツッコミを入れたのは記憶に新しい方だ。怒涛の展開で、気持ち的にはかなり前の出来事に思えるが、日数的には僅か数日前の話である。
「ゆいね、混ざってる!温泉タワシじゃなくて温泉カピバラ!」
奏多がムキになってそう言い返した瞬間、完全に外野と化した3人の心はひとつだった。3人は心の中で「そうじゃない」と盛大にツッコミを入れたのだが、外であまり騒ぐと中の闇を刺激しかねない為、何とか叫ぶのだけは堪え、代わりに盛大にため息を零す。
「…どうしましょう。ツッコミが不在です」
唯音さん、かなさん、論点はソコじゃないです、それから状況考えてください…と頭を抱えながら陽菜が深刻なツッコミ不足だと透明な壁に手を付いた。
「やはり、師に連絡を入れた方が良さそうだな。…はる、普段はボケ要員の癖にそれは言うな」
片手でスマートフォンを操作しながら、綾香は傍らの自分の相棒である陽菜に一応彼女もボケ側だと主張する。綾香の眼から見て、川岸で漫才のような低レベルな口論を繰り広げている新米コンビの能力は限りなく未知数なのだが、いかんせん本来の目的である闇討伐を完全に忘れている様子に、流石に(まず)いと感じて師と呼び慕う相手に連絡を入れた。恐らく目の前の危機感の足りない新米コンビは、既に闇討伐の事など頭の隅に追い遣ったに違いないと勝手に決めつける以外、もはや選択肢は残されていないようだ。
「あぁ!おふたり共!危ないですっ!」
低レベルかつ状況にそぐわない言い合いをしている唯音と奏多の遣り取りを眺めてツッコミ不足を嘆いていたお蔭か、陽菜は2人のすぐ近くで川の水が大きく盛り上がったのに即座に気付く事が出来た。
「ふぇ?」
「ゆいね、下がって」
陽菜の叫びにも似た声に、唯音はきょとんと首を傾げて土手の上を振り返る。迫ってくる水に、奏多が僅かに焦ったような声音で警告を発しながら、庇うように唯音を抱き込んだ。
「…わぁ、ずぶ濡れ決定~」
迫りくる水は最初に奏多を襲うだろうが、それでもその腕の中に抱きしめられる形で収まっている唯音だって余波どころではなく濡れるだろう。やはり危機感の感じられない唯音の声が土手の3人に届く頃には、膨れ上がった水が唯音と奏多を覆い尽くそうとした瞬間だった。
「うわ、どうしよう!」
まさか目の前で帝都観光の同僚兼先輩である奏多と、学校の先輩兼帝都観光のバイト仲間になったばかりの唯音が闇色の水に飲みこまれるとは思っていなかったようで、陽菜は今更どうしようもないにも関わらず慌てて声を上げる。
「…まったく。先が思いやられますね」
やれやれと無表情かつ淡々と、小太郎が川の水を被った兄弟とクラスメイトに視線を向けた。小太郎の眼には、闇色の水ではなく透明な川の水に見えるので中の様子は窺えるのだが、水は意思を持っているかのように2人を包み飲み込もうとしているように見える。このままでは窒息してしまうのではと思うくらいで、水というよりはスライムのようだ。
どうにか助けたいと思うが、目に見えない障壁が邪魔をして近づく事が出来ない。このままでは意志のある水で溺れさせられてしまうと、土手の上から見守っていた3人は思わず顔を見合わせた。慌てていてもどうしようもないのに、他に何も出来る事がないと蒼白になった3人が顔を見合わせ、スライムと化した水から視線が逸れる。
不意にコポッ…水の中で空気の泡が弾ける音が、聞こえた。
次いで、ジュワっという蒸発するような音に、3人は再び視線を川に戻す。
「…え」
小さな驚きの声は、一体誰の物だったのだろうか。
「あーぁ、ずぶ濡れぇ。まだ水浴びには早いよねぇ」
「乾かせばイイじゃん。オレそっちは得意だし」
気付けば、水も滴る…という状態で唯音と奏多が何事も無かったかのように川岸に立っていた。全身ずぶ濡れなので、先程の光景が見間違いだったというわけではない。よくよく見れば、唯音は制服のネクタイを完全に外し、シャツのボタンを幾つか開けている。首筋には真新しい噛み痕が残っており、僅かに血も滲(にじ)んでいた。恐らく、水に飲まれたあの状況下で、咄嗟に血を与えたのだろう。
「乾かすから目、閉じて。チョット動かないでね」
本当に何事も無かったかのように、奏多はそう言うと1度深く息を吸った。くるくると木の葉が舞うように、つむじ風のような円を描いて淡い橙の炎が渦巻く。炎は唯音と奏多を包み込むようにくるくると踊って、そして消えていった。
「もうイイよ」
言われた通りに目を閉じていた唯音に、奏多は完了だと声を掛ける。
「…ぅゎ、便利。乾燥機代わりにしたら電気代浮きそう…」
目を閉じていても、何か温かいモノに包まれた自覚はあったのか、唯音は完全に乾ききった衣服を確認すると、そう言った。
「…オレ、チョット便利な電化製品扱い…?」
褒められているのか(けな)されているのか判別つかず、奏多は拗ねたように口を尖らせる。すぐに危機は脱したとはいえ、2人共闇に囚われたというのに、なんとも締まらない会話だった。
「まだ終わってないですよ」
何が起こったのか理解が出来ず、固まったまま2人のやりとりを見ている陽菜と綾香を尻目に、小太郎はやれやれといった様子で一応の忠告を投げかける。今、対峙している闇は、水の中に本体があるのだ。言ってしまえば蛸の足を1本切り落とした所で、まだ7本も残っているし、そもそも本体は全くの無傷だろう。
「…チョット、コレ本体焼き切る前に川干上がるんじゃナイ?」
餌である血を貰ったからなのか、奏多は己の力を行使して川の中に潜む本体目掛けて炎を放ったが、闇の本体ともいえる塊はすいすいと水の中を泳ぐように移動してしまって、周囲の水が蒸発するだけだった。まさか干上がらせる訳にも行かないと、途方に暮れたように土手の上の小太郎に言葉を向ける。
「…確かにそうですね。これは黒(にい)や修治さんか、せめて(ふう)(にい)でも連れてこないと難しいですね。俺も奏多も囲うのは不得手ですし…。それに、奏多、カピバラですし」
状況を(かんが)みて、小太郎は確かに川を干上がらせるのは無理があるだろうと冷静に判断する。いくら奏多の力が炎の形で発現するからと言って、小さな池ならともかく流れている川を全て干上がらせるなんて不可能だろう。
「…スキでカピバラじゃナイんだけど」
カピバラであることを強調された奏多はと言えば、僅かに拗ねたように土手の上の小太郎を見上げる。並んで立てば奏多の方が背は高いが、さすがに土手で補正されて完全に見上げる形になっていた。
「ちょっとタワシちゃん、カピバラをディスらないでよ、カピバラのくせに」
奏多の隣で、唯音が不満そうに頬を膨らませる。ゆるきゃらのカピバラシリーズ、温泉カピバラの柚子さん推しとしては、カピバラをディスるのは見過ごせないらしい。
「アノネ…ディスってるんじゃナイから。オレ、そもそもカピバラじゃナイんだってば」
諭すように奏多は傍らの唯音の肩に両手を置いて、視線を合わせる。別にカピバラが嫌いというわけでもないし、ディスっているわけでもない。ただ、帝都観光の面々からすれば、奏多がカピバラである事が(すなわ)ち本領を発揮しきれない状態だと知っているというだけだった。勿論唯音はそんな裏事情など知りもしない為、事ある毎にカピバラ云々という言葉を聞かされ、ディスっていると勘違いしてしまうのも仕方のない話ではある。
「違うっていうなら違う生物に転じて見せてよぅ。どこからどう見てもカピバラだったでしょ」
やや真面目な表情で諭す奏多に、唯音は半眼になり、腕を組んだ。出来るものならやってみろと挑発するように奏多を真正面から見上げる。
「…ぐ」
本来の姿に戻れないからカピバラなわけで、目の前で別の何かに転じろと言われても奏多には実行することが出来ない。細かい事情を何処まで伝えればいいのだろうと、奏多は一瞬だけ陽菜に視線を向けた。陽菜もまた、唯音と同じように奏多の兄弟にあたる人外と契約をしている。もっとも普段の陽菜の相棒は綾香なので、一緒に行動する事は滅多にないのだが、まだ幼いと思う少女を前に奏多は何故カピバラなのかを明かしていいのか悩んだのだ。
「カピバラの話はこの際、置いておいてください。1度撤収して体勢を整えましょう」
埒が明かないとでも思ったのか、小太郎は建設的な提案を土手の下の2人に向けた。またいつ襲い掛かってくるかもわからない闇の側でこんなくだらない事を話しているより、本格的に対処の方法を考え直して出直した方が良いというのは誰の目にも明らかだ。
「撤収しようにも、そもそもこの透明な壁が消えなければおふたりは上がって来られないのでは?」
そこへ、冷静な綾香の声が静かに重要な事実を告げる。そもそも手数の多さを誇る綾香と、直接的な破壊力の高い陽菜が攻撃に参加できれば、もう少しマシな結果になるはずなのだ。それなのに彼女たちが見学を貫くしかないのは、様子見と本来援護担当だった奏多と唯音が川岸に隔離されると言う事故に起因している。
「じゃあ、僕たちが急いで先輩か黒さん探して来ましょう!それまで何とかおふたりはその水を(しの)いでください!急ぎますから」
言うが早いか、陽菜は誰の返事も待たずに駆けだした。確かに最も確実かつ建設的ではあるのだが、果たして援軍が到着するまでこの新米コンビが耐えうるのかという懸念もある。
「はる!おい、待て!師にはメールをだな…っ!」
かなり序盤に、これは駄目だと諦めの境地で綾香は既に援軍を請う旨のメールを送っており、返事待ちという状態だ。下手に動いたら入れ違いも有り得ると、慌てて陽菜を追いかけた。
「…綾香では、陽菜に追いつけないと思うので俺も追いかけます。頑張って(しの)ぎつつ、暇だったら奏多が本当は何なのか、聞いてみたらどうでしょう」
小太郎はあくまでも事務連絡のようにそう告げ、脱兎の如く制服のスカートを(ひるがえ)して駆けて行った後輩コンビを追いかけていく。綾香では追いつけないからという理由で追った割には、あまり急いでいるようには見えなかった。
「…そして誰もいなくなった…?」
さてこの状況どうしてくれようと唯音は相変わらず危機感のない口調でボソリと呟く。
「…ソレはマズイと思う」
誰もいなくなるということは、つまり自分たちが闇に取り込まれるという事で…と真面目に考えた奏多は、成行きで主にしてしまった唯音に困った様な視線を向ける。首だけを土手の向こう、3人が消えて行った方へ向けている唯音を見つめながら、こんな状況でも動じない相手に言い様の無い違和感を覚えていた。
「…さて、タワシちゃん。話して貰いましょうか」
完全に3人の姿が消えた後、唯音は真っ直ぐに奏多に向き直るとそう告げ、安心させるようにふわりと柔らかい笑みを見せる。
「…ナニを」
存外優しい少女に、真実を告げたく無くて、奏多は何を求められているのか解らないふりで首を傾げようとして、失敗した。真っ直ぐ、射抜くように向けられた視線は、一切の誤魔化しを見抜いてしまいそうに感じられる。
「タワシちゃんの本当の姿って、なぁに?」
まるで答は知っているのだと言わんばかりに、唯音は静かに問いかけた。初めて見せるのではないかという落ち着いた雰囲気は、奏多に先日の初戦の時に祓詞(はらえことば)を唱えていた姿を思い起こさせる。
「…オレのホントウの姿は…」
奏多は逡巡するように視線を彷徨(さまよ)わせた後、意を決したように(くら)い光を瞳に宿して1度小さく首を振った。
「…サイゴかも知れないし、見せてアゲル」
契約を交わしたその日に言った、寿命が残っていないという言葉は真実だ。奏多には、もう本来の姿で本領を発揮するだけの生命力は残っていない。だから仮の姿で、惰性のように生を繋いでいただけだ。僅かに残っていた未練はこの相手なら仕えても構わないと思った幼子の行く末だけで、けれど再会出来るとは思ってもいない。だから、もう、構わないのだと、奏多は静かに瞳を閉じて、ポン…と頼りない音と共に本来の姿に戻って見せた。
「……ぇ」
唯音の目の前に現れたのは、美しいけれど()せた毛並の、しなやかな体躯をした狐。ふさふさ、ふわふわとは言い難い尻尾が9本生えた、まるで幼い頃の夢の中で見た沢山の鳥居の向こうで出逢ったあの狐のような姿だった。けれど、唯音が思わず小さく戸惑いの声を上げた理由は、もっと別。上目遣いに見上げてくる狐の首元に揺れる、赤い組紐で結ばれた小さな楕円形の鈴。
「オレ、チョット不注意で呪われてるから。だから、契約ダケじゃ寿命あんまり変わらないし」
言い訳のように言って、九尾に転じた奏多はそっと視線を逸らした。1度、死にかけた奏多を救った幼い少女を護る為に、禁忌を犯した奏多は、結果としてその身に呪いを受ける事となったのだが、詳細は誰にも教えていない。ただ、刻一刻と失われて消えていく命そのものは他の兄弟の目にも明らかで、本契約を結んで信頼関係を築いて時間を掛ければ確かに(なが)らえるかもしれないが、新しく契約したばかりではそれも難しいだろうと理解していた。
「…油揚げ?」
沈痛な面持ちで視線を逸らした奏多とは対照的に、唯音は見覚えがあり過ぎる首元の鈴に、目を瞬かせてポツリと呟く。まさか夢の中で立てた仮説がそのまま正解だったのだろうかと、頭の中でぐるぐると考える。とっくに死んでしまったと思っていた、つい最近まで記憶から完全に消えていた存在。まさか…という期待に、声に僅かに喜色が滲む。
「…普通、ソコは稲荷って言うトコ………。……へ?」
律儀に呼び直しを要求した奏多だったが、不思議そうにつぶらな瞳を丸く丸く見開いて視線を唯音に戻す。何だろう、すごく既視感(デジャヴ)…と思いながらまじまじと見上げた。
「もふもふだぁ…」
茫然と無意識に呟きながら、唯音は地面に膝を付いてそのまま九尾と化した奏多の首にゆっくりと抱き着く。生命力が残っていないという本人の言の通り、手触りは最高とは言えないものだったが、確かにふかふかの毛並を感じる事が出来る。1度強く抱きしめた後、唯音はぐいっと九尾の肩辺りに両手を置いて、正面からその顔を見た。
「……そっかぁ…生きてたんだぁ…」
感無量とはまさにこの事だろう。夢で見る度焦がれた、金色の光。唯音は、そのまま心底嬉しそうに微笑むと、突然の事に固まって動けない奏多にゆっくりと顔を近づけた。
10センチ…5センチ…と近づき、ついには1センチ、ゼロ距離。
牙の覗く獣らしい口に、唯音はそっと己の唇を触れさせた。感じるのはあくまでも毛の感触でしかないのだが、何だか無性に嬉しくなって再び思い切り抱き着いていく。
「…チョ…!?い、イマ…!ナニ!?」
ようやく金縛状態が解けたのか、奏多は前身の毛を逆立て、尻尾も耳もピンと真っ直ぐに伸ばして混乱したような悲鳴に近い声をあげる。
「………ねぇ、もふもふ。いいこと教えてあげるから、私と取引しない?」
全身で驚きを(あら)わにした奏多にくすくすと笑いながら、唯音は懐かしいと感じる耳に片手を添え、まるで睦言を囁くように唇を寄せた。
「……ナニ…?」
あまりの急展開について来れていないのか、奏多は戸惑いを前面に押し出しながらも、素直に首を傾げる。抱き着いたまま離れない唯音に、不思議な心地よさを感じたからかもしれない。何故だか、話を聞いても良いという気持ちになっていた。
「…コレ、なぁ~んだ」
可笑しそうにくすくすと笑ったまま、唯音は制服のスカートのポケットから小さなモノを取り出して手のひらの上に乗せて見せる。ころんと転がるようなソレは、小さな楕円形の鈴に、赤い組紐が結び付けられていた。
「……ソレ……」
「私の御守りっぽいもの。…交換しよっか」
目が零れ落ちるんじゃないだろうかと言うくらい驚愕に目を見開く奏多に、唯音は心底楽しそうに笑う。真っ直ぐに手を伸ばし、奏多の首に鈴を揺らしている縦結びのままの組紐に指をかけた。
「…コレ、オレのタカラモノ…」
1番大事な、想い出。大切な存在。仮契約しか結ばなかったけれど、その成長を見守って助けたいと願った幼い少女がくれたモノ。だから、何よりも大切な宝物なのだと、奏多は言った。するりと組紐が(ほど)かれるのを、奏多は抵抗せずに受け入れる。
「こっちはずぅっと私が持ってた方。だから、きっともふもふの寿命伸ばしてくれるよ」
まるで祈りのようにそう言って、唯音は自身が持っていた方の全く同じ鈴を奏多の首にそっと結びつける。同じ組紐、同じ鈴。けれど、違う片割れ。奏多の首に揺れる契約の証は、今度は綺麗な蝶々結びだった。
「……結ぶの、上手くなったね」
再び首元に揺れる鈴に、奏多は九尾姿でも解るくらい照れたような笑みを浮かべる。嬉しいと全身で言っているような、柔らかい空気を(まと)っていた。
「この年で縦結びはちょっとどうよ」
可笑しそうに笑って、唯音は奏多の首元から外した方の組紐と鈴を、器用に結い上げた髪に飾って見せる。片側だけ軽く編んだ髪に、楕円形の鈴がチリ…と揺れた。
「…取引、応じてくれるよね?」
唯音は立ち上がると、にっこりと笑顔を張り付けて奏多を見下ろす。たまたまなのだが逆光になったせいで、なんだか黒いオーラが視えたような気がした。
「内容による…」
本当は。この少女が言うならば、きっと自分は何でも叶えてしまうんだろう。そんな風に思いながら、奏多はなけなしの強気でそう言った。断る予定は今のところない。けれど、何故だかこういう反応を求められているような気がした。奏多の記憶に残る、あの幼い少女は、いつも突拍子もない事を言って奏多を驚かせていたから。何度正しても、油揚げと呼び、何度危ないと諭しても飛びついて来て離れず、そしてそんな邂逅が記憶から消されてしまうとどれ程言い聞かせても、嬉しそうに笑っていた幼い子供。もし、その感情に無理やり名前を付けるなら、それは初恋という言葉に出来るかもしれない。それくらい大切で尊い時間をくれた相手。どうして気付かなかったのだろう。可愛いと感じた笑顔は、成長しても何も変わっていなかったというのに。
「……一言でまとめたら、共犯者?」
ニンマリと悪戯を思いついた子供のように笑って、唯音はチョイチョイを奏多に立ち上がるよう促した。正しくは、人型と取れという事だろう。この仕草は何度も見た事があるのだ。その時は、奏多が抱き上げなければ内緒話は出来なかったのだが…。
「…物騒な予感しかしない」
そう言いながらも、奏多は楽しそうだと表情が緩むのを押さえられない。ポンっと小気味の良い音を立てて、目の前の少女がまだ幼かった頃、1番好んだ姿を選ぶ。尻尾と耳は、そのまま。それ以外は、人の姿。人目に付くと問題だが、幸いな事に帝都観光に闇討伐の仕事が舞い込んでくる程度には人が近づきたくない場所にいる。
「…むぅ、やっぱり届かないままかぁ」
半妖の姿になった奏多に、唯音は少し屈めと要求した。幼い頃は抱き上げて貰ったが、今でも屈んで貰わなければ内緒話は出来ない。ましてや、耳は頭の上なのだ。
「ハイハイ」
もう15年以上逢っていなかったのに、知らないうちにこんなに姿形は変わっているというのに、奏多はまるで昨日も公園で逢っていたかのような感覚で苦笑してしまう。
「…あのね…」
幼い頃と変わらない仕草で奏多の耳元に両手で筒を作って話し始めた内容は、文字通り共犯者になって欲しいと言うもの。可笑しそうに話す唯音の言葉を聞くにつれ、奏多は面白いくらいに表情を変えた。最初はギョッとしたような驚いた表情で、次に心底困惑した表情で、そして最後には共犯者らしい悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あはっ!ソレ、面白い!任せて、オレそーいうの得意だし!」
内容を全て聞き終えた末に、奏多の答は完全な同意と肯定。2人して人の悪い笑みを浮かべ、ニンマリと笑う様は、確かにお似合いの主従という表現がピッタリだ。
「それじゃ、改めてヨロシクね?」
幼い事よりはだいぶ近くなったものの、昔のように唯音は奏多を見上げる。きらきらと光を弾く金色、陽だまりを思わせる優しい色。焦がれた色を見上げ、唯音はふわりと笑う。
「…奏楽」
言祝(ことほ)ぐように紡がれる、唯一の音。
ふわりと空気が舞い上がるような錯覚。
帝都観光の執務室で起こったものとは比べものにならない程の、(ほとばし)るような光の奔流(ほんりゅう)
淡い橙色の、優しい狐火がくるくると踊るように2人を包む。
はらり…と、何処からか季節外れの銀杏(イチョウ)の葉が舞い落ちた。  
製作者:月森彩葉
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