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第1楽章#ハジメテの再会

「今日からこのクラスで一緒に勉強をすることになった佐伯(さえき)君よ。みんな、仲良くね?」
4月9日、遅咲きの桜も散り始めた頃、私立志貴ヶ丘(しきがおか)学園高等部では始業式を終えた生徒たちが各々クラス分けの表に従って自分が1年を過ごす教室へと移動した。
南校舎3階に教室が並ぶ3年生ともなれば、コース選択の関係で教室の中にあるのは殆どが2年生の頃と変わらない顔ぶれとなっているのは当然だろう。
強いて違いを挙げれば、今年度から新たに施行された校則の関係でブレザーやベストの色が変わったことくらいである。
規定通り臙脂、紺、そして白という3色のブレザー姿は見慣れるまでは目に(うるさ)いと感じるかもしれない。
2年生の頃から理系のクラスは1本化されるので変わるのはそれくらいだろうと高を括っていた3年4組の生徒たちは担任が現れるまで前年度の終業式までと変わらない様子で談笑に興じていた。
しかし担任の広瀬(ひろせ)瑠衣(るい)が教室の扉を開けるなり言い放った言葉に、談笑に興じていた生徒たちは教室の入口を一斉に振り返る。
振り返った先には、おおよそ教師には見えない少女めいた外見にレースやフリルで彩られた膝丈のワンピース姿で顔を覗かせた担任の姿と、見たことのない、そこそこ長身に分類されるどこか気難しそうな印象のチャコールグレーのブレザーに身を包んだ男子生徒の姿があった。
全校朝礼を兼ねた始業式では転校生など紹介されなかったし、3年生になってからの転校生というのも実に珍しい。
にこやかで朗らかな広瀬とは対照的に、その男子生徒はどういった表情をしていいのかわからないのか少しばかり不機嫌そうに見える。
正確には編入生と呼ぶべきだろうが、この際呼び名などどうでもよく、談笑に興じていた生徒たちは好奇心や興味の色を浮かべて入口に立つ男子生徒に視線を向けていた。
「ご両親が仕事の都合で海外へ行くことになったとかで、寮のあるうちの高校に来たみたいよ」
そう説明しながら教壇のところまで歩くと、広瀬は可愛らしい顔に笑顔を浮かべてそう説明する。
入口のところに立ち尽くしていた1人の見慣れない男子生徒に向かって手招きをすると、黒板の前に立たせた。
「自己紹介してくれるかしら」
教壇の上から広瀬は男子生徒に向かって笑顔を向ける。
その言葉に、男子生徒は不機嫌そうだった表情を一転させ、人の良さそうな温和な笑顔を浮かべてクラスメイトたちへと向き直った。
「佐伯十夜(とおや)です。前の学校は普通科ではなくて音楽科の学校でした。1年間よろしくお願いします」
表情と朗らかな声の割には淡々とした口調で、どこか事務的に名乗りぺこりと小さく頭を下げる。
薄っぺらい訳ではないのだが、親しみやすそうな笑顔に柔らかい声と、事務的な名乗りは何となくミスマッチだ。
「じゃあ佐伯君の席は、あそこの空いてるトコね。…それから委員長は…」
自己紹介を終えた十夜に最後列の1つ空いている席を示し、移動するのを確認すると広瀬は改めて教室を見渡した。
「広瀬先生、進級した直後、当然クラス委員などまだ決まってはいないのだが?」
控えめな挙手と共に、冷やかにも聞こえる調子で発言をしたのは銀縁眼鏡に紺のブレザー姿の、見るからにクールな優等生を絵に描いたような少年だ。
知的かつ神経質そうな表情と落ち着き払った声、僅かに顰められた眉は冷たそうな印象を与えるのだが、不思議と嫌味っぽさや不快感はない。
むしろ絵に描いたようなクールな委員長という雰囲気は、その少年にとてもよく似合っていて、魅力と評するほうが適切に感じられる。
「あら、日下(くさか)くん。そうよねぇ。もう、せっかくだから今決めてしまいましょうか」
生徒の言葉に、広瀬は困ったように笑うと、あっさりとそう言うとポンと手を打った。
「そういうワケだから…そうね、テスト開始までの30分後までに決めておいてちょうだい。先生、その頃に戻ってくるわ」
そしてそう言い置くと可愛らしい笑顔を残して広瀬はさっさと教室を後にする。
教室を出る際、ひらひらと手を振って生徒たちに笑顔だけを残して行ったが、見た目が可愛らしいから似合うと言えなくもないが、担任教師の態度としては少し不適切かもしれない。
そんな担任の様子に面食らっている様子を見せたのは転校生の十夜だけで、他の生徒は呆れ半分諦め半分といった表情を浮かべていた。
この顔ぶれでの生活が初日の十夜と違い、このクラスは全員が2年生の頃からのクラスメイトであり、3年生ともなれば教師の性格や扱い方もそれなりに把握して当然というものだろう。
つまり、あの行動が担任である広瀬の通常運転ということだ。
「それじゃ広瀬台風が戻ってくる前にとっとと決めようぜ?どうする?くじ引きか?」
面白がるような様子を隠そうともせず、1人の男子生徒が立ち上がる。
臙脂色のブレザーに身を包んだ彼は、精悍な顔立ちに子供っぽい笑顔を乗せた人懐っこそうな印象の生徒だった。
彼の言葉が合図になったのか、教室内が(にわ)かにざわつき始める。
最初は、席の近い生徒同士の、誰が委員長になるんだろうというような小さな囁き声だったのだが、自然と広がって教室中のいたるところで言葉が交わされ始めた。
3年生ともなれば受験を控え、わざわざクラスの委員などに立候補したい人間も少ないだろう。
押し付け合うでもなく、けれど積極的に請け負おうという生徒もいない状況では、話し合いの形にすらならず次第にただの談笑へと変化していった。
その中に混ざることも出来ず、ただ様子を眺めていた十夜の感想はくだらないの一言。
柔和に見える表情を張り付けたまま、これから1年を過ごすことになるクラスを観察していた十夜だが、考えていることは表情とは裏腹に呆れや軽蔑が滲んでいる。
地域有数のエリート進学校の名を冠していても、所詮は子供の集まりか。
これが、十夜がこのクラスに抱いた第一印象だった。
近くの生徒同士で言葉を交わすだけではなく、ついには席を立つ生徒も現れ、委員長を決めるはずの会話は仲の良い人間同士の気の置けない会話へと変化していく。
はっきり言ってこれでは小学生と変わらないのではないか、というのが十夜の感想だ。
特に、最初に決めようと言いだした活発そうな少年を中心とした数人に視線を向けた時、十夜は真剣にこの学園へ編入したことをさっそく後悔した。
決めようと言い出した当の本人である彼が、自ら席を立って他の生徒の席まで移動して行くのが見えたのだ。
その途中に彼と同じ臙脂色のブレザー姿の男子生徒の肩を叩き席を立たせ、最初にクラス委員など決まっていないと発言をした紺色のブレザーの男子生徒を引き摺るようにして2人を連れて行ったのにも呆れたが、それ以上に呆れたのは彼らが向かった窓際2列目の席で白いブレザーを身に纏う少年が机に突っ伏していたところだった。
広瀬が委員長を決めるようにと早めに切り上げて出て行ったが、戻ってくればいきなりの学力テストだと聞いている。
それなのに勉強するでもなく、委員長を決めるでもなく、堂々と寝ているというのはどういう了見なのか。
委員長を決めることにも、実力テストにも、無関係だという主張なのであれば、クラスの一員としてだいぶ問題である。
そこであまりの幼稚さに眉間の奥に微かな痛みを錯覚した十夜は小さく頭を振って思考を切り替えた。
勿論一種の現実逃避なのだが、このまま小学生レベルの談笑を観察していても、精神力を浪費させるだけで何の意味もないので、少しでも建設的な内容を考えようと思ったのだ。
今更のように、何故この学園のブレザーは4色もあるのかと首を捻る。
十夜自身が身に纏うチャコールグレーのブレザーに、臙脂色、紺色、そして白色の4色だ。
別に男女の差でもなければ選択科目の差でもなさそうで、均等に分かれているわけでもない。
教室内を見渡せばチャコールグレーは十夜ただ1人だし、白も堂々と寝ようとしていた生徒だけだ。
一体何の差なのか、別に知らなくとも日常生活に支障があるようにも思えないが、十夜は興味も沸かないが、他に時間を潰せる脳内の使用方法がないので仕方なく考えた。
そうやって無為な時間をやり過ごすうちにすぐに10分が経過する。
どうせこのまま担任が戻ってくるまで決まらないんだろうな、と十夜は冷めた気持ちで教室を眺めていた。
まるで小学生の学級会のレベルだと馬鹿にしながら、彼らは戻ってきた担任にどんな小言を貰うのだろうかと意地悪く考える。
「なぁ、もうクジでイイと思わねー?」
最初に提案した男子生徒の声が教室に響く。
ハリのある声は真っ直ぐで、窓もドアも閉まった教室ではとてもよく通った。
「部活動や委員会の関係で出来ない人間が当たったらどうする気だ」
そんな彼を横から小突いて冷静な意見を述べたのは、彼と同じ臙脂色のブレザー姿の男子生徒だ。
艶のあるどこか甘く低い声は、喧騒の中からでも思わず拾ってしまうような芯の強さがあり、聴くつもりはなくとも教室中に広がる。
「だって早く決めないと広瀬台風戻ってくるだろ?」
「クジで決めて出来ない生徒が当選した場合、余計時間かかるだろうが」
喧々囂々(けんけんがくがく)とまではいかないが、仲の良い間柄だろう彼らは仲良く言い争いを始めていた。
なまじどちらもよく通る声だけあって、何時しか教室からは談笑が消え、生徒たちは彼らの言動に注目しているようだ。
「おい、赤也(あかや)拓海(たくみ)も、落ち着け。どっちの意見も一理ある」
その間に入って仲裁役のようになっているのは連れだって歩いて行った紺色のブレザーに眼鏡の彼だ。
冷たく硬質な声は、言い争いをエキサイトさせ始めた2人を黙らせるだけの威力があったらしく、言い合っていた2人は同時に口を(つぐ)んで発言者に視線を向けた。
ほぼ自分の頭上でそんなやりとりをされているのに、白いブレザー姿の少年は我関せずといった様子で机の上に頬杖をついている。
流石に突っ伏して寝ていないだけマシとも言えるが、どこまでも無関係を貫いているように見えて、成行きを眺めていた十夜はますます呆れるしかない。
「もう、こうなったらこのクラスの最終兵器投入しかないな」
問答の末、明るい声で宣言するなり、臙脂色のブレザーの少年は完全に我関せずを決め込んでいた白いブレザーの少年の腕を取った。
腕を引かれるのに合わせて、少年はゆっくりと身体の向きを変え教室の中央の方へと向き直る。
何となしにそちらへ視線を向けていた十夜の目に、軽く振り向いた少年の姿が映った。
ブレザーの白に負けないのではないかと思うくらい色素の薄い肌に、長めの真っ直ぐな髪、それに私服だったら一瞬性別を迷ったかもしれない少女めいた整った容貌をしている。
眼鏡の奥から覗く黒目がちの大きな瞳を、ぱちりと瞬かせると困惑の表情を浮かべ、その少年は腕を引いた生徒を見上げている。
一言で言い表すなら深窓の令嬢をそのまま少年に変えただけという、男子高校生には本来似つかわしくない儚げなという形容詞がとてもよく似合う。
堂々と机に突っ伏して寝ようとしていたくらいなので、もう少し違ったイメージを勝手に抱いていた十夜は視線の先ので困惑の表情を浮かべている大人しげな少年に僅かな違和感を覚えていた。
「なんか、イイ方法ない?」
あまりにも収拾がつかなくなった教室内を見渡し、臙脂色のブレザーの少年はわざとらしく肩を竦めて見せるとニカっと笑ってそう問いかける。
「…クラスの構成は変わってないんだから、2年の時と同じでイイんじゃないの?」
困惑の表情のまま、そう紡がれた声は涼やかで別に大きな声を出したわけでもないのに教室内に浸透した。
その言葉にクラス中が声の主を振り仰いだが、視線が集中したことに気付いていないのか動じた様子はなく、正面に立つ臙脂色のブレザーに向けてではなく近くにいた紺色のブレザーの方に視線を向けると、軽く首を傾げている。
十夜の位置からは声は聞こえないが、恐らくダメなのかとでも問いかけたのだろう。
「その手があったかっ!」
大きな声を上げて手を打ったのは、最初からずっと明るい臙脂色のブレザーの少年だ。
少年らしい活き活きとした表情に適度に日に焼けた健康的な肌、それに緩められたネクタイは快活そうなその少年の魅力を底上げしているように見えた。
ブレザーの袖やボタンを止めずに緩められた首元から覗く僅かな部分だけで無駄なく鍛えられているのがわかる。
髪は本気で運動をするのには少し邪魔かもしれないという微妙な長さだ。
改めて観察してみるとしっかりした体格とそこそこの高身長に、子供っぽいがかっこいいという表現が似合う顔立ちで、恐らく女子生徒には一定以上のファンがいてもおかしくないと思われる外見をしていた。
「赤也の言う、くじ引きよりはよっぽど理に適ってるよな」
その横でもう1人の臙脂色のブレザーが大きく頷くと、まともな提案をした白のブレザーの少年の頭を軽く撫でるようにして髪を梳いている。
まるで子供か彼女にするようなその仕草に、手を払われて苦笑するその少年ももう1人の臙脂色に負けないくらい鍛えられた身体つきをしていて、こちらは大人っぽい甘いマスクというべきか同じように女子生徒が放っておかないだろう外見をしていた。
種類で言えば、下級生から素敵な先輩と絶大な支持を集めそうな外見をしていると言えばいいだろうか。
「赤也も拓海も初めから瑞貴(みずき)に丸投げする気だったように見えるがな…」
呆れたように肩を竦めたのは、幾度となく臙脂色2人の仲裁をやっていた紺色の彼だ。
切れ長の目の一見気位の高そうな印象を与える外見の彼は、見るからに委員長といった外見をしている。
秀才肌というか学者肌というかそういう人種特有の潔癖性が現れていて、当然浮かべている表情も人当りの良い笑顔とは程遠いが、やはり最初の印象通り嫌味さは感じさせない。
観察をしていた十夜の感想からすれば、委員長風の眼鏡の少年が1番関わる相手を選ぶタイプに見え、まだ気が合いそうだと思われるタイプだった。
「異論ないなら、祐一(ゆういち)が委員長やってよ。慣れてるだろうし」
座ったままなので見上げるような姿勢で去年同様でと提案した本人がダメ押しとばかりに言葉を重ねる。
「よかろう。請け負おう」
見るからに委員長の外見をした彼は大きく頷いて、引き受ける旨を了承して見せた。
クラスの注目が集まっていたせいか、軽い拍手が起こる。
そこまでの流れをただ観察していた十夜は、とりあえず表面だけでも健全な学園生活を送るべく簡単に情報を整理した。
最初の煩い、いや明るいムードメーカーの臙脂色は赤也という名前らしい。
それから同じ臙脂色の女子にモテそうなのが拓海で、白の大人しそうなヤツが瑞貴、紺色の委員長が祐一。
苗字でなく名前で呼び合っているところから察すれば、恐らく彼ら4人は仲が良いのだろう。
最終的にはクラス全員を記憶しなければならないが、最低限クラス委員長とその周辺さえ記憶してしまえば学校生活に支障はないと、十夜は図らずも初日の目的をこれで達成してしまったことに内心で小さく笑みを浮かべた。
「女子、副委員長さ、のばらちゃんでOK?」
くるりと女子の集団を振り向いて、赤也が言葉を投げる。
一応疑問の形は取っているが、それでいいだろう、というようなあたかも決定事項を話しているように聞こえるから不思議だ。
「あ、うん。誰も言わなかったら私がやるつもりだったから」
言葉を向けられたのは、長い髪の真面目そうな印象の女子生徒だった。
可愛いと言うよりは美人という形容の似合う大人びた雰囲気の少女で、紺色のブレザーを纏っている。
彼女の特徴と言えば、真面目そうな表情と、長い髪を留める大きなカチューシャだろうか。
校則違反ではないのかと疑問に思うほど、鮮やかな青い色のカチューシャは今日かぎりの物でなければ彼女を見分けるのに役立つだろう。
十夜は頭の中で女子の副委員長の名前はのばらと追加で記憶した。
女子生徒を苗字でなく名前で記憶するのは微妙な心境ではあるが、少しでも早くクラスの主要人物の名前は覚えてしまいたいところなので仕方がない。
記憶力には自信があったので、十夜はこの調子ならばすぐにクラス中を覚えて当たり障りのない情報を付加できるという手ごたえを感じていた。
「じゃあ委員長と副委員長、決定だな。みんな、拍手」
言葉と共に手を打ち鳴らしたのは拓海で、その言葉につられるように委員長副委員長に決定した一対の男女以外の生徒がパチパチと手を叩く。
申し訳程度に手を叩くフリをしながら十夜は再びこのクラスは小学生の集まりと大差ないな、という感想を抱いていた。
しかし時計に目を向ければ話し合いのために時間を設けられてから15分を僅かに過ぎたところで、結果論としては時間内に決定したことに十夜は僅かばかりの驚きを覚える。
始めの予想では担任が戻ってくるまでに収拾がつくと思っていなかったからだ。
そんな風に十夜が考えていると、教室の扉がガラリと開いた。
「みんな、委員長は決まったわよね?そろそろテストの準備するわよ~」
かさ高いプリントの山を抱えて顔を覗かせたのは担任の広瀬である。
彼女はプリント類を教壇の上にドサっと置くと、のんびりとした様子でクラスを見渡した。
クラス委員は当然決まっているものと決めてかかっているのは、彼女の性格なのかクラスの統率を信頼しているからなのかは十夜には判断出来ないが、決まっていないとは微塵も思っていないようだ。
広瀬が教室に姿を見せたことで、それまで思い思いに席を立って友人たちと談笑していた生徒たちが次々に自分の席へと戻っていく。
「委員長は俺で、副委員長は桐原(きりはら)女史に」
席に戻りながら祐一は必要最低限の決定事項を広瀬に伝えた。
「あら、去年と同じなのね」
その内容に広瀬は訳知り顔で笑みを浮かべると手振りで早く席に着くように示す。
「全員自分の席に戻ったわね?机には筆記用具以外置かないこと」
テスト前のお決まりの台詞を告げ、彼女は黒板を振り返るとチョークを手に取った。
ふわふわの服が似合う彼女はお世辞にも背が高いとは言えない小柄な身長で、本来ならば黒板の上部には届かないだろうというくらいなのだが、足元にはそれで歩けるのかと疑問に思ってしまうほど踵や底に厚みがあるストラップシューズを履いている。
それで身長に補正がかかっているせいか、全長で見れば充分黒板の上部にも手が届く高さになっているようで、彼女は黒板の中央に学力テストと大きく書いた。
その下には10時30分から12時、括弧を付けて数学、英語、国語と続ける。
「3年生のみんなはもう慣れてるでしょうけど、いつも通り3教科よ。まとめて配るから全部で90分あるけど時間配分には気を付けてね」
語尾にハートマークや音符でも付きそうな朗らかな口調で広瀬はテストの概要を説明した。
時刻を確認すれば開始までにまだ10分もある。
それでも十夜が小学生並と称した生徒たちは一切の私語を止め、大人しく筆記用具だけを机に並べていた。
十夜自身もその流れに逆らうことをせず、鞄から筆記用具を取り出すと机の上に置き、準備を整える。
テスト開始の5分前になると、広瀬が問題を裏返したままプリントを配り始めた。
「時間が来るまで表向けちゃ駄目よ~」
朗らかな声が教室に注意を促す。
問題用紙は3枚、解答用紙は大きな1枚という変則的なテストだ。
時計の長針が文字盤の6を指すのと同時に、静まり返った教室にチャイムの音が響く。
「それじゃ、始めてちょうだい」
緊張感の欠片もない声で広瀬が宣言するのと同時に生徒たちが一斉にプリントをひっくり返す。
新学年始まって初日の、学力テスト。
編入のための試験の難易度からさほど難しいとは思っていなかった十夜は他の生徒たちと比べて余裕の様子で問題用紙をひっくり返した。
最も得意とする数学を後回しにし、とりあえず国語から解こうと暢気に問題を読み始めた十夜だったが、問題文を読み進めていくうちに真剣な様子へと表情が引き締まる。
ただの簡単な学力テストだろうと甘く見ていたが、流石というか当然というか有名進学校の名は伊達ではないと思わせる手応え以上の難易度の問題が並んでいた。
現国は気を抜いたままでは解けないような読解問題ばかりで、加点のためのサービス問題である漢字や読みを書かせるような問題は一切なく、今まで読んだこともないような物語から登場人物の心情を(おもんぱか)ってみたり関係する文章を抜粋したりという問題がひたすら続く。
古典はといえば現代語訳させる問題や一部分を抜粋しただけで物語の名称と作者名を選び出すような問題と総合的な知識を求める問題で、あまり得意とは言えない十夜は記憶を総動員しながらなんとか解答を導き出すという苦戦を強いられた。
続いて取り掛かった英語はといえば、恐らく何かの物語の原書をそのまま転載したであろう文章が並んでいて、習っていないはずの単語の意味だけはサービスなのか別欄に記載されている。
日本語訳を求めるだけの単純な問題ではなく、一文を現在形から過去完了形に書き換えるように指定された問題や、長文を要約した内容に最も適した文章を選べなど出題者の性格の悪さが伺える問題が並んでいた。
これはもう高校の学力テストと言うよりは模試や検定試験のような内容だと問題を追いながら十夜は呻く。
国語と英語を解き終え、数学に取り掛かろうと時計を見れば既に60分が経過している。
得意ではない教科を先に選んだとはいえ、時間配分ちょうどであることに十夜自身驚いていた。
自身の学力にそれなりの自負がある十夜は、こんな問題では生徒たちは当然苦戦しているだろうと他の生徒の様子を伺うようにこっそりと視線を巡らせば、暢気にシャープペンシルを手先でくるくると弄びながら今にも鼻歌でも歌い出しそうな様子の赤也の姿が目に入る。
あまり考えている素振りもなく一定のリズムで答えを書いているような赤也の様子に、テストの内容が余裕というよりは適当に埋めているのではないかと勘繰ってしまう。
他はどうだろうとこっそり視線を巡らせば難しい表情で問題を熟読している様子の祐一の姿が見え、彼は真面目に問題を解いているんだなと納得と同時に安心する。
その後ろの席では拓海が淡々とした様子でリズム良く解答を書いているのが見えた。
あまり苦戦しているようにも見えないので、もしかすると彼らの春休みの宿題に関わる問題なのかもしれないと勝手に考えもしたが、他に視界に映った生徒は頭を抱えていたり真剣に首を捻っていたりするのでそうとも言い切れない。
しかしこの難易度の問題で投げ出さず真剣に向き合うのはさすが名高い進学校だな、という感想を抱きかけた十夜は視界の隅に映った人物に即座に前言撤回を強いられた。
窓際の席で机に突っ伏し暢気に寝ている生徒を見つけたからだ。
こんな短時間で全問解けるわけもなく、解くのを放棄したとしか思えない様子で寝ている後ろ姿に十夜は真剣に呆れていた。
クラスで唯一白いブレザー姿というだけでなく初っ端から堂々と寝ようとしていたという不真面目さが十夜の記憶にはしっかりと残っている。
どこの学校にもそういう生徒はいるものだ、と心中でため息を零した十夜はそこでようやく視線を机の上の問題用紙に戻す。
残りは1番得意な数学なのでそんなに手こずらないだろうと問題を解き始める。
図形の証明はどこの大学入試問題だと頬が引き攣ったが、それ以外は関数や連立方程式、微分積分などの計算が多かったが、他の教科よりは簡単だと感じるのは恐らく解が1つしか存在しないという安心感からだろう。
止まることなく淀みなく解答を書き終え、十夜がシャープペンシルを置いた時、テストの時間は残り5分だった。
思いのほか手こずったという感想を抱いた十夜は、面白いさすが進学校と挑戦的な気持ちでテストを終える。
チャイムと同時に解答は前に送られる形で回収された。
「はい、全員提出したわね?それじゃ終わりのHR始めるわよ~」
生徒たちから解答用紙を回収し終わった広瀬がパンと手を叩く。
新学年新学期初日は始業式と学力テストで全日程終了だ。
「明日は時間割配ったり教科書配ったり色々あるから、みんなちゃんと学校には来てちょうだいね?」
片目を閉じて可愛らしくウィンクをすると広瀬はそう告げる。
「それと、最後になって悪いけど佐伯くん、わからないコトがあれば委員長の日下くんに聞いてちょうだい。日下くん、よろしく頼むわよ」
注意事項などを一通り話し終えた広瀬は、締め括りとばかりにそう言って教室内を見渡した。
「特になければ今日はココまで。じゃ、後は好きに帰っていいわよ~」
広瀬のその言葉に、クラス委員長に起立と声をかける。
全員が立ち上がると、礼という号令がかかった。
それに満足そうな笑みを浮かべると広瀬は回収した答案用紙を手にさっさと教室を出て行ってしまう。
気の早い生徒は既に帰り支度を終えていたのか、鞄を手に教室を後にする姿がいくつかあった。
教室を出ていく生徒たちに混ざって席を立った祐一が、広瀬の言葉を実行するためか十夜の席に近づいてきた。
「佐伯くん、クラス委員長を拝命した日下祐一だ、よろしく」
辛うじて笑顔の部類に含んでもいいだろうというような表情で、祐一は十夜に話しかけると握手を求めるように片手を差し出した。
「よろしく」
初対面なのに鬱陶しいと感じた十夜ではあるが流石に初日から、それもクラス委員を相手に波風を立てるわけにもいかず、表情を変えずにそう応じて軽く手を握る。
「早速だが、校内の案内は必要か?それとも必要に応じてその都度教えた方がいいか?」
どこか冷めたような目をしてそう言う祐一はクールな委員長のテンプレのようだった。
怜悧な声といい、細い銀縁の眼鏡といい、絵に描いたような委員長ぶりに十夜は内心小さく苦笑する。
話の流れで去年から委員長をしていたというのは理解していたが、確かに適任なキャラだろうなというのが正直な感想だ。
過剰なほど構ってくる人懐っこい種類の委員長とは違って、どこか突き放すような彼の物言いや雰囲気は十夜にとって心地よく感じられた。
「一気に聞いても不要な物もあるだろうし、都度聞くことにさせてもらっていいかな。君のことは日下君て呼べばいいかい?」
微かな笑みを浮かべ、十夜は言葉を返す。
2年生まで通っていた学校では、十夜は常に周囲を魅了する存在として君臨してきたという自覚があるので、当然相手に良い印象を与える笑顔を作るなど造作もない。
心の内でどう考えていようとも、それを欠片も匂わさずにイイ人を演じるのは十夜の得意とする処世術の1つだ。
「それで構わん。何かあったら遠慮なく聞いてくれ」
十夜の人の良さそうな笑顔に何かを感じた様子もなく、祐一はあっさりとそう言って手を解く。
「お、委員長、早速転入生と仲良し?楽しそうじゃん」
そこへやってきたのは赤也で、背後から祐一に肩を組むように近づいたかと思えば楽しそうな口調でそう言った。
「オレ、新田(にった)赤也。よろしく。…えっと?」
最初の紹介を聞いていなかったのか、自己紹介をして明るく笑顔を向けた赤也だったが途中で困ったように表情を変えて首を傾げる。
「佐伯。佐伯十夜。よろしく、新田君」
祐一に向けた笑顔のまま、十夜は改めてそう言ってやった。
内心では名前くらい1度聞けば覚えろよと思ってはいたが、そんな様子はおくびにも出さない。
「よろしく、十夜。オレのコトは赤也って名前で呼んでくれてイイから」
挨拶を交わしただけで友人にでもなったつもりなのか、赤也はニカっと笑ってそう言った。
「佐伯、これがクラス1の問題児だ。関わらない方がよかろう」
祐一はふっと小馬鹿にするような笑みを浮かべると、肩に回された手を払いのけてそう笑う。
「おい、オレのドコが問題児なんだよ、明るく元気なムードメーカーくらい言えよ」
本当に仲が良いのだろう、赤也は祐一の酷評を気にした様子もなく軽く不満そうな様子を浮かべて友人を小突いている。
「いや、お前は間違いなくトラブルメーカーの方だろ?」
何時の間に近くへやってきていたのか、そう言って苦笑したのは拓海だった。
「佐伯、俺は黒島(くろしま)拓海だ。大抵委員長とつるんでいるうちの一人だから、よろしくな」
間接的に関わる可能性が高いだろうと言外に匂わせ、拓海は十夜に向き直ると形式通り自己紹介をする。
初心(うぶ)な女子生徒なら頬を染めてしまいかねない笑顔を浮かべてはいるが、生憎それを向けられたのは十夜で、十夜はその程度の笑顔に心が揺れることなどない人種だった。
「…拓海もたいがいトラブルメーカーではないか?赤也とセットでな」
呆れるような声でそう告げたのは祐一である。
十夜から見れば、赤也1人が暴走しがちに見えるキャラクターなのだが、祐一の感想からすればどうやら赤也と拓海はセットでより賑やかになる組み合わせなのだろう。
そういえばクラス委員を決める際も、2人が仲良く言い争った末に祐一が仲裁していたのを思い出す。
彼らの仲睦まじい会話を微笑みの仮面で聞き流しながら、十夜は基本的に関わるのはこの3人になるのかと冷静に考えていた。
「3人は、仲がいいのかい?」
確認の意味を込めて、十夜はそう問いかける。
関わる可能性のある主要人物を確認しておく作業であると同時に、彼らにも自分と関わっていく可能性をしっかりと理解してもらおうという意図もあった。
「おう。仲良しだぞ?っと、正確にはちょっと違うな」
満面の笑顔で頷いたのは赤也だが、彼はすぐに何かに思い当たったらしくいきなり踵を返して別の生徒の方へと歩いて行く。
何なんだと赤也の行動を眺めてみれば、彼は鞄を手に帰ろうとしていた生徒の手を無理やり引っ張って戻ってくる。
連れてこられたのはこの教室に足を踏み入れてから今までの間に十夜を何度も呆れさせていた人物、瑞貴だった。
背の高い方に分類される赤也と並べば、小柄で華奢な瑞貴は服装さえ見なければ女子生徒だと言われても納得してしまうくらいで小動物的な印象を受ける。
「コイツも含めて4人で一緒に何かやってるコトが多いんだ」
赤也は強引に連れて来た瑞貴を指して、そう説明した。
「…何の話?」
いきなり連れてこられた瑞貴は会話の流れが分かっていないようで、訝しむような視線を赤也に向ける。
「委員長と愉快な仲間たちの紹介だ」
その疑問に軽い笑みで応じたのは赤也ではなく拓海の方だ。
拓海の言葉に、瑞貴はますます訳が分からないといった表情を浮かべている。
「十夜、コイツがうちのクラスの眠り姫」
面白がる様子を隠しもせず、赤也は笑顔で勝手にそう説明した。
十夜はせめて名前くらい言えよと思いながらも瑞貴を眺め、見た目の印象と実際に堂々と寝ていた様子から赤也の評した呼称に妙な納得を覚えてしまう。
「…その妙な表現止めて欲しいんだけど」
瑞貴は睨むような目を赤也に向けるが、赤也が変わらず笑顔のままなので結局諦めたように小さくため息を零した。
「これがクラスの猛獣使い兼最終兵器の忍足(おしたり)瑞貴だ。佐伯、赤也と拓海が手に負えないと感じたら、即座に瑞貴を呼ぶことを勧めておこう」
そのやり取りに小さく笑みを浮かべた後、祐一が名乗りもしない本人に代わってそう紹介する。
再び出て来た妙な表現に瑞貴は祐一にも睨むような視線を向けたが、そこでようやく何かに気付いたのか小さく声を上げて苦笑した。
「ごめん、名乗ってなかったね。忍足瑞貴です。よろしく、佐伯くん」
名乗ってないことすら失念していたらしい小動物は、女性よりは男性を魅了しそうな微笑みを十夜に向ける。
自然に浮かんだ控えめ笑顔と眼鏡の奥で見上げてくる瞳を見て、十夜はあまり自己主張をしない性格の人見知りなのだろうと勝手に分析した。
そもそも名乗らない本人に代わって友人が紹介していた点から考えても、大人しい小動物という見たままの印象で問題ないように思える。
「よろしく」
小動物の相手は苦手だと思いながらも、十夜はなるべく人当たりの良い笑顔を心がけて挨拶を返した。
クラスでは基本的にこの4人を相手すれば事足りるはずだと頭の中のメモに記録する。
「佐伯、他は別に構わないけど瑞貴だけは苗字でなく名前で呼んでやってくれ。諸般の事情で、苗字で呼んでも反応しないことが多いからな」
この中では一応まとめ役というポジションなのだろう拓海が補足とばかりにそう付け加えた。
諸般の事情はどうでもいいが、ますます面倒くさいと思いながらも十夜は了解と頷いて見せる。
「えっと今日までは4人だったから、カルト…なんだっけ?」
心底楽しそうな赤也の声が、何かを言おうとして不意に途切れた。
「…カルテットだろ?」
言いたいことをあっさり理解したらしい拓海が横からその言葉を補う。
「そう、ソレな。で、今日から十夜も入れて5人組だから…なんて言うんだ?」
拓海のアシストを受けた赤也は再び楽しそうな口調で続けようとしたものの、続く言葉が見つからなかったようで首を傾げる。
「…Quintet」
チラリと視線を向けた瑞貴が驚くほど綺麗な発音でため息交じりに赤也の求める単語を口にした。
言葉を知らないのならわざわざ口にしなければいいのにとでも思ったのだろうが、それを言う代わりに答えを言ったというところだろう。
「クインテットって言うのか。よくわかんねーけど、ソレな。仲良くやろーぜ?」
初めて聞く単語だったのか、赤也は納得しながらそう言うと真っ直ぐに十夜を見て笑顔を浮かべる。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
笑顔を張り付けたまま十夜はそう言ってみせた。
実際には慣れ合う気などさらさらないのだが、慣れない学校の上有数の進学校ともなれば足の引っ張り合いも多いだろうと考えた十夜は、取りあえず敵意を持たれずに表面だけでも溶け込むことを選んだ。
生活の主軸は放課後の音楽だが、学業だって決して疎かにしていいものだとは考えていない。
円滑な学園生活を送り、自身の音楽の幅を広げるためにも十夜はクラス委員長を含めたこの集団と行動を共にしようと決める。
必然的に目立ちかねないが、前の学校では常に1人で衆目を集めていたのだから人数が分散されるだけ楽だろうと軽い気持ちで納得した。
「では、佐伯が特に案内を必要としないならあまり邪魔をしても悪い。俺たちは早々に引き上げるとしよう」
祐一は委員長という立場があるのか一応十夜の意見を聞く体裁は取っているが、初対面という線引きは忘れていないようだ。
あくまでも知り合ったばかりの顔見知りというのか正しい間柄で、最初からいきなり友人感覚で話す赤也と違い十夜のとって有難い距離感を保ってくれていた。
「除け者にすんなよ。どうせなら、一緒にやればいいじゃん、テストの答え合わせ」
せっかく辞去の挨拶をしてさっさと帰路につこうと思った十夜だったのだが、赤也が有難迷惑な発言をしてくれる。
本気で仲間はずれは良くないと思っているのが丸わかりのため、下手に辞去を言い出しづらいのが実に腹立たしいところだ。
「普通の人は会った初日からいきなり友好を温めようなんてしないだろ。それに都合も聞くべきだ」
下手に言葉を挟めなくなった十夜に変わって、拓海がまさにその通りだという内容を代弁してくれる。
十夜本人としては、むしろさっさと帰って少しでも早く楽器を手に取りたいというのが正直な気持ちなのだ。
「そうやって最初から打ち解けようとしなきゃ、いつまで経っても転校生のままで可哀相だろ」
言い返す赤也の言葉も、一般的には正論である。
十夜のように表面だけ打ち解けて当たり障りのない学園生活を送りながら音楽に生きたいというような変わり種でなく、本当に右も左もわからない転校生であれば感激したかもしれない。
再びこの2人で妙な舌戦が始まったらどうしようかと十夜は面倒くさくなりそうな雲行きを見守った。
下手に口をはさめば火に油を注ぐことになり兼ねないと理解しているので、早く帰りたいからこそ帰りたいと言えない矛盾に苛つく。
そんな十夜を見兼ねたというワケではないだろうが、瑞貴が意見をぶつけ合う赤也と拓海の制服の裾を軽く引いて注意を引いて彼らの言葉を遮った。
「…佐伯くん、無視して帰っちゃって大丈夫だから。答え合わせに参加するなら、たぶん中庭だと思うから用事がないなら覗いてあげて」
収拾がつかないと判断したらしく、瑞貴は双方の意見の真ん中を取って十夜自身が望む通りに動きやすい選択肢を提示してくれる。
「それじゃ悪いけど今日は帰らせて貰うよ。まだ寮の荷物が片付いてないんだ」
渡りに船とはまさにこのことで、他の誰かが口をはさむ前に十夜はさっさと帰ると口にした。
偶然だろうが小動物の援護射撃に僅かに感謝する。
「それじゃ、また明日」
言うだけ言って、十夜は荷物を手に軽い会釈を残して歩き出す。
「おう、またな!」
結局、散々引き留めようとした割に赤也はあっさりと手を振った。
それに笑顔だけ向けると十夜はさっさと教室を後にする。
初日の掴みとしては決して悪くないハズだが、実に面倒そうな集団だと考えながら廊下を歩き階段を下りた。
そのまま僅かに後ろ髪引かれることすらなく、十夜は真っ直ぐに寮へと続く帰り道を辿っていく。
帰り道の途中、追い抜いていった生徒たちの中には何故か十夜と同じチャコールグレーのブレザー姿の生徒は1人もおらず、そればかりか瑞貴と同じ白のブレザー姿の生徒も見かけないことに少しばかり首を傾げる。
十夜は翌日までその疑問を覚えていることが出来たらあの騒がしい集団にでも聞いてみようとどうでも良さげに考えながら歩き、結局寮に辿り着く頃にはその疑問は完全に頭から離れていった。



寮に帰宅し自身に宛がわれた部屋の扉を閉めた途端、十夜は深く溜息を零す。
自身の音に足らないと言われる部分を埋めるためにわざわざ普通科の進学校へ編入し、是が非でも不足を埋めようと行動を開始した第1歩は概ね無事に終わったと考えて良いだろう。
少なくとも自分の好みに合うかは別としてクラスの主要人物のグループに近づけたというだけで、明日からの学園生活は格段に楽になるはずだ。
十夜は規定通りにきっちりと着こなしていた制服のネクタイを解き、胸元を緩めると鞄を床に放り出した。
どうせ入っているものは筆記用具とメモ帳だけなので、乱暴に放り投げたところで壊れるものなど何もない。
適当に靴を脱ぎ捨て、さっさと室内に上がると真っ直ぐにリビングに着いた。
学生向けの寮なのに小さなキッチンを内包したリビングと私室の2部屋もあるというのは破格の待遇だと思う。
備え付けの家具であるソファセットとテレビを一瞥し、1人用の小さなダイニングテーブルに目を向ければ、朝出しっぱなしにしたままミネラルウォーターのペットボトルが残っている。
中身の空になったソレを持ってキッチンへ向かい、これまた備え付けのゴミ箱に放り込むと冷蔵庫を開けて新しいペットボトルを取り出し、封を切った。
そのままペットボトルを片手に廊下へ戻ると、十夜は私室にあたる部屋のドアを開く。
教室を後にする時、クラスメイトには荷物を片付けるという口実を使ったが、彼の部屋は既にきちんと片付き生活出来るように整えてある。
蓋を閉めたペットボトルを学習用の机に置くと、十夜はウォーキングクローゼットへ向かい制服を脱ぎ捨ててラフな私服へと着替えてしまう。
演奏の邪魔にならないように首元の広く開いたトレーナーとジーンズのズボンに着替えてしまえば十夜は高校生というよりも大学生のような大人びた印象に変わる。
十夜の部屋は、まだ入居して僅かということもあり生活感を感じさせないほど片付いてはいるのに、何故かベッドの上とサイドテーブルだけは散らかって見えた。
何枚もの紙が床やベッド、サイドテーブルの上に散らばり、ベッドの上には黒いケースが置かれている。
ケースが独特の曲線を描いているので、その中身はバイオリンだと一目で分かってしまう。
散らかっている紙はよく見れば何枚もの楽譜で、その1枚1枚に1小節単位に1つや2つという密度でびっしりと書き込みがされていた。
十夜はその惨状をチラリと見ると、部屋の奥に置いていた譜面台を持ってきて散らばった楽譜を揃えて乗せる。
そのまますぐにケースから楽器を出して演奏を始めても良かったが、そういえば昼食がまだだと思い当たって楽器の代わりに上着を手に取ると財布と携帯をポケットに突っ込み玄関へ向かう。
そのままスニーカーをひっかけ外へ出る。
最初はコンビニで適当に買ってこようかとも思ったが、せっかく近場に飲食店があるのだし利用しない手はないと手近な飲食店を物色し、その中で手頃な価格ながら落ち着いた雰囲気のチェーンのファミリーレストランを選び足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ~、おひとり様ですか?」
にこやかな笑顔と明るい声で出迎えてくれた大学生くらいのウェイトレスに頷くと、お席へご案内しますと言って先導される。
その時、店の奥で明るい声が弾けて思わず顔を向けると、見知った顔と目が合った。
十夜の感覚では、つい先ほど別れたばかりのクラスメイトの姿があったのだ。
「あ、十夜~こっちこいよ!」
当然というかなんというか、十夜を見つけた赤也の明るい声が店内に響く。
平日昼間ともなれば客の数はそんなに多くないとはいえ、自然と注目を集めてしまって実に居心地が悪い。
席に案内をしようとしてくれたウェイトレスも、苦笑を浮かべてではお友達のところへどうぞと言って去って行ってしまった。
諦めて彼らのいる方へ向かうしかなく、十夜はコンビニで済ませればよかったと心の中で毒づきながら彼らのいる方へと歩く。
どうやら半個室のような席になっているらしく、扉は閉められるようになっていて、たまたま開いていた時にたまたま十夜が見つかったという、実に腹立たしい偶然の産物ようだ。
確かにコレなら高校生が多少騒いだところで他の客の迷惑にはならないだろう、と十夜は半個室の部屋の中に足を踏み入れた。
そこそこ広い部屋で、半円形に近いテーブルを囲んで座っていたクラスメイトたちの視線が十夜に向く。
時計回りに拓海、祐一、瑞貴、赤也と座っていて、赤也の隣と拓海の隣にはまだ各1名以上は座れそうなスペースが残っている。
「偶然だな」
十夜の姿を認めるなり、祐一が驚いたような声を上げる。
それはこちらの台詞で迷惑な偶然だと言いたいのを堪え、十夜は曖昧な笑みで会釈を返した。
「テストの答え合わせをするって言ってなかったかい?」
十夜の記憶が確かならば、中庭にいるはずと説明されたハズなのだが、何故彼らはこんな場所に現れたのだろうかと疑問を込めて言葉を投げかける。
「購買も食堂も今日は休みって言われたから仕方なくな」
流石に昼飯時に何も食べずに勉強の話はしたくなかったのか、拓海が肩を竦めて見せた。
チラリとテーブルに目を向ければ、そこには確かに今日の問題用紙と手でつまめる種類の軽食類が広げられている。
「まあ、座れって」
立ったままの十夜に、空いている場所を示しながら赤也はテーブルの上のサンドイッチに手を伸ばした。
「それじゃ、失礼」
本当ならさっさと1人で気楽な昼食を済ませたいところだが、捕まってしまった以上は諦めるかと十夜は大人しく席に着く。
流れの都合上、十夜は大人しく赤也の隣のスペースを選んだ。
「佐伯、好きな物頼んでいいぞ。今日は瑞貴のおごりだとさっき決定したからな」
席に着くなり、祐一がメニューを手渡しながらそんなことを言いだす。
「それは…」
どうしてそうなったのか知らないが、一般的にそれはイジメとかそういうやつなのかという疑問を浮かべ十夜が苦笑する。
自分には関係がないが、いくらなんでもソレはダメじゃないのか、というのが割と常識人として育ってきた十夜の心境だった。
別に自分以外の誰がドコでどんな扱いを受けようが知ったことではないが、あまり褒められた行為とは言えない。
しかし十夜の見る限りそういう関係には見えなかったしむしろそういう輩は排除しそうな印象だったので少しだけ意外にも感じていた。
「厳選な賭けの結果だから、気にするな。正確にはテストの成績の問題だ」
その答えは拓海から告げられる。
イジメでも何でもなく単純にテストの成績だけで勝敗を決めたと拓海は言い切った。
「…毎回同じ結果だと思うのは僕だけかな」
手元の問題をさっさと片付けながら、瑞貴が小さく笑う。
その様子に、十夜は成程納得済みなのかとあっさりした感想を抱いた。
「十夜が賭けに加わったところで、さっきの結果じゃオマエの負けは変わらねーよな、絶対」
やけに自信たっぷりに言うと、赤也は瑞貴に意味ありげな笑みを向ける。
「まだ解答は公開されてないのに、よく正確な点数がわかるね」
テストの点数で賭けていたことを文脈から察した十夜は空気を壊さないように軽く話題に乗ってみせた。
恐らく全員見切りで点数の概算を出しているのだろうと勝手に想像する。
まぁ何にせよ、少なくともテスト時間の3分の1は確実に寝ていた瑞貴がまともな点数だとは思えないので赤也の評価に異を唱える気はない。
「あぁ、いや点数が分かるわけではない。各自答えに絶対の自信が持てない箇所に印をつけておくというのが最初のルールだ」
そう根本となるルールの説明をしてくれたのは、祐一。
彼は自分の問題用紙を広げると、こんな風に、と問題部分に○を付けて解答を走り書きしてある個所を見せた。
「で、答え合わせと称してその数の確認と、その問題の答えに自信がある人間による解説で概ね全員の成績が分かるというワケだ。似たり寄ったりだけどな」
祐一の説明に重ねるようにして拓海が肩を竦める。
似たり寄ったりという表現に疑問を覚えないでもないが、答え合わせというよりは復習を兼ねた勉強会に近いと状況を理解した。
「あ、瑞貴、何さっさと問題片付けてんだよ。なー、数学の最後から2つめの問題って分かったヤツいる?」
既に問題を鞄に仕舞ったらしい瑞貴に文句を言いながら、赤也が自分の問題用紙片手に周囲を見渡す。
問題用紙を家に置いてきた十夜は一瞬どんな問題だったか思い出そうとしたが、数学の後半は割と難しい問題が多かったような気がするという程度しか思い出せなかった。
「どんな問題だったかな」
覚えていないので、十夜は首を傾げて見せる。
確かにいくつかは解けないかあまりにも計算が面倒で放棄した問題があった気もするが、分かる問題であれば教えてやるくらいはしてもいいと人の良さそうな笑みの裏で考えていた。
ここで恩を売るというか一定の信頼を得ておけば明日からの学校生活がもっと楽だと考えたからだ。
「この問題だな」
そう言いながら問題用紙を見せてくれたのは、正面に近い場所に座っている拓海だ。
覗きこめば、拓海はその問題には何も書いない。
一見、さほど難しい問題には見えないのだが、そう言えば自分も解いた記憶がないと十夜は問題を考えるべく眺めた。
log10の2乗=0.3010、log10の3乗=0.4771とする、問1、3の33乗は何桁の整数か、問2、3の33乗の最高位の数字は何か、という問題だ。
「なぁ、logって授業でやったっけ、どんなんだっけ」
真面目に考えている十夜の向こうで、実際に解けなかったらしい赤也がのんびりとそんなコトを口にしている。
計算式忘れちゃって解けなかった、と軽く笑いながら言う赤也に十夜は軽く呆れてしまう。
「…別に、コレ別にlog使わなくても解ける問題だよね」
赤也の手元にある問題を覗きこむようにしてそう言ったのは、瑞貴だった。
「そうなのか!?」
その言葉に驚いて顔を上げたのは言われた赤也ではなく、祐一だ。
「素直に計算しても解けるよ、時間かかると思うけど。要するに3の33乗さえ計算すればイイんだから。この問題、たぶん浅井(あさい)先生はサービス問題のつもりだったんじゃない?」
問題を確認し終えて興味を失ったのか、瑞貴はどうでも良いことのようにあっさりとそう言い切った。
本人が解いたかどうかは別として、寝ていた割には的確な分析だと十夜は少しだけ驚く。
「…因みに、答えは何桁?」
真面目に3の33乗を計算しようとでも思ったのか、赤也がシャープペンシル片手にそう問いかける。
果たして馬鹿正直に計算できる桁数なのか、と気になったのだろう。
「俺は確か16桁って書いた気がするが」
バッサリと切り捨てるような口調で祐一がそう言った。
「…おい、そんな桁数、バカ正直に計算出来るかよ!」
がばっと顔を上げると赤也が吠える。
その言葉に十夜は確かにそうだなと苦笑してしまった。
「馬鹿正直に計算すれば問2の最高位の数字も解るし、この問題は解けると思うぞ」
からかうような口調でそう言ったのは拓海で、言外に計算方法を忘れているお前が悪いと赤也を揶揄(やゆ)しているようだ。
「くそぅ…。ええと、9、27、81、243、729、2187、6561…14683…?」
開き直ったのか赤也が計算を始めるが8乗くらいまで計算した辺りで急に計算速度が落ちる。
いくら簡単な計算でも桁数が増えればそれだけ厄介なのは当然だろう。
というか本当に馬鹿正直に計算する必要があるのだろうか、と十夜は素直な性質らしい赤也に一種の好感を覚えると同時に同じくらい呆れていた。
「頑張れ、赤也」
計算している赤也に対し、祐一が面白がるような人の悪い笑みを浮かべてエールを送っている。
誰も計算方法を教えようとしないことに冷たいと言うべきか、忘れている赤也の自業自得だから仕方ないと言うべきか、この場合は少し悩むところだった。
「真面目に計算するとたぶん5559060566555523…かな?赤也、本当に16桁計算するの?」
携帯の電卓機能で追いかけようにも桁数オーバーで計算しきれない桁数の数字を並べ、瑞貴が心底呆れたような視線を赤也に向ける。
その数字の羅列がどこから出てきたのかは知らないし合っているか確認する術もないが、記憶しているにしても計算したにしてもどちらにしても何かがおかしいと十夜は表情を引き攣らせた。
寝ていたくせに何故と疑問に感じているのは十夜だけのようで、恐らく計算式で解答を弾き出しているらしい祐一や拓海はただ苦笑しているだけだし赤也はピタリと動きを止めると謎の呻き声をあげて頭を抱えだしている。
「チクショー!!今回も負けたっ!」
雄叫びを上げて、赤也が不貞腐れたように机の上に潰れた。
その様子は見慣れた光景なのか十夜が眺める中、潰れた赤也に対して三者三様の笑顔を見せる。
どこか人を食ったような一見相手を馬鹿にしているようにも見える上から目線の笑顔を浮かべたのが祐一で、おかしくて仕方がないといった笑いを無理やりかみ殺しているような何とも言えない笑みを浮かべたのが拓海、そしてしょうがないなと困った弟を見るような柔らかい笑顔を向けていたのが瑞貴という具合に実に統一性のない個性的な集団だ。
じゃあ自分はどんな表情を作ればいいのだろうと十夜は内心考えたが、結局ただの苦笑しか思いつかずにその表情を浮かべるしかなかった。
「赤也は放っておいて、佐伯も何か頼めばどうだ?」
机に潰れたままの赤也を一瞥したあと、祐一はあっさりと話題を転換して十夜に視線を向ける。
「それとも適当に軽食を頼んで並べるからつまむか?あ、ドリンクバーを取ってくるけど、佐伯は何がいい?」
祐一に促されるままメニューに視線を落とした十夜に、拓海が矢継ぎ早に問いかけた。
何だかもう色々とどうでも良くなって、足りなければ帰りにコンビニに寄ればいいやと曖昧に考えると十夜はメニューを閉じる。
「じゃあお任せしようかな。飲み物は、自分で行くよ。1人で全員分は持てないだろう?」
トレイを使えば運べるだろうが、最初から図々しい奴という印象を持たれたくないという判断で十夜は席を立つ。
そのまま拓海と連れだって半個室を出て行けば、後ろからオレ、メロンソーダという赤也の声が追ってくる。
ドリンクバーまで行くと、拓海はすぐに飲み物を入れるのかと思いきや手近な店員を呼び止めドリンクバー1つ追加と軽食メニューを幾つかオーダーした。
その様子に、十夜は午前中学校で小学生と同レベルと評した点を僅かに改めて一部の生徒はちゃんと大人びた視野を持っているんだなという評価に変える。
人数が増えたのだからそれに合わせてオーダーしなければならないという当たり前のことなのだが、若者に低脳が増えたせいで故意に言わなかったり本当に失念していたりという光景をたまに見かけていたので、十夜はコイツは馬鹿じゃないんだなと頭の中のメモに再び書き加えておいた。
十夜はドリンクバーに視線を向け、珈琲(コーヒー)は豆を挽くところからしてくるようだったのでカプチーノを選択する。
拓海が戻ってくる前に、珈琲の抽出時間が暇だからという理由もあって唯一オーダーの分かる赤也所望のメロンソーダも入れておいた。
戻ってきた拓海がそれを見て一瞬だけ驚いたように目を丸くしていたが、すぐに親しみを込めた笑顔になってありがとうと口にする。
結局他の人には何を用意するのか分からないので見ているだけだったが、人数分の飲み物をトレイに乗せて拓海が席に戻って行く。
十夜の珈琲も一緒に乗せるかと聞かれたが、さすがにソレは自分で運ぶよと断った。
連れだって席に戻ると、当然のようにおかえりと迎えられる。
戻った時にはテーブルの上は片付けられており、空いた皿やグラスなどがひと塊になっていた。
拓海はそれぞれの前に入れて来た飲み物を並べ、手に持っていたトレイの上に纏められた空の食器を乗せていく。
手馴れているように見えるので、もしかすると飲食店でのバイト経験でもあるのかもしれない。
「そういや、せっかくだから詳しく自己紹介しない?お互いにさ」
飲み物が行き渡り、店員が追加で注文したメニューと運んできて軽くひと心地ついた頃、いきなり赤也がそんな提案を口にした。
確かに今の状態では十夜からすれば彼らの名前と外見的特徴しか知らない。
逆に彼らからすれば十夜に対して同じだけの情報しかないだろう。
「ついでに恐らく広瀬先生が教え忘れている学校の決まりなども一部教えた方がよかろうな。疑問に思ってることもあるだろうし」
名案とばかりに同意し、さらにはそんな言葉を重ねて祐一がしたり顔で頷いた。
「じゃあ言いだしっぺの法則でオレから自己紹介するな。っても名前はもう言ったから後何言えばいいんだ?」
「名前、部活動、趣味、特記事項、得意教科、くらいでいいんじゃないか?」
意気揚々と自己紹介を始めようとした赤也だったが、既に名乗っているので他に何を告げればいいだろうと首を傾げた。
そこに呆れたような目を向けて拓海がテンプレートを口にする。
概ねそれで問題ないと思うが、その特記事項っていうのは何だろうかと十夜は心の中でため息をついた。
「じゃ改めて。新田赤也、科学部部長。得意教科は当然科学。あ、そうだもう1つあったな。趣味と特記事項は正義の味方全般」
明るく笑って赤也は自己紹介を終える。
最後に追加された謎の発言に、十夜はコイツは幼稚園児か何かかと軽い頭痛を覚えた。
高校生にもなって正義の味方とか恥ずかしげもなく言える赤也に衝撃を覚えたせいで、活発そうに見えるのに運動部に所属していないという不思議な点はあっさりとスルーしてしまう。
「ほいじゃ、次、瑞貴な」
十夜を最後にすると勝手に決めたらしい赤也は反時計回りになるようにと隣の瑞貴に勝手にお鉢を回す。
「…部活動はやってないし得意な教科も特にないかな。趣味は……たぶん読書とか?」
再び名乗る必要性を感じなかったのか、瑞貴は軽く考え込むような素振りを見せて言葉を続ける。
その内容は部活動もやっていない、得意教科もない、趣味も無理やりひねり出したような解答で実に味気のない中身だ。
その自己紹介に、思わずといった様子で赤也が吹き出した。
「オマエの趣味って毎週欠かさずのアレじゃなかったのかよ」
おかしそうに笑いながら、赤也がツッコミを入れている。
「アレは趣味っていうより、ライフワークじゃないかな…もう」
アレという指示代名詞で何を言われているか察したらしい瑞貴は苦笑でそう応じて小さく肩を竦めてみせた。
その表現で納得したのか、赤也は大きく頷くと次に自己紹介をすべき相手である祐一に手を向けて発言を要求する。
「クラス委員長の日下祐一だ。部活動はコンピューター部で得意教科は生物。趣味と公言出来るものはないが、最近、友人の影響でクラシック鑑賞を始めたところだ」
淡々と、という表現が実にしっくりくる様子で祐一が自己紹介文を読み上げた。
最後のクラシック鑑賞という言葉に、十夜は少し反応してしまう。
自分に最も身近な言葉だと感じたからだ。
「次は俺か?…黒島拓海、科学部副部長で赤也のストッパーだ。得意教科は物理だろうな。趣味というか祖父が居合道場をやっていてな。拓海と気軽に呼んでくれて構わない」
拓海はそう締め括り、持ってきたジュースに手を伸ばす。
クールそうな見た目なのに彼が入れてきたのはオレンジジュースというのが割とミスマッチに見える。
「それじゃ、次。十夜な」
ごく自然な流れで赤也が隣に座る十夜に目を向けた。
そもそもコレは十夜のために企画された自己紹介だ。
この流れで無視を決め込むことも出来ず、十夜は仕方ないと1つ頷いた。
「佐伯十夜。朝も言ったけど音楽科の学校から編入してきたんだ。部活動はまだ決めてないけど、音楽関係がいいかな。得意教科は数学だよ」
他にメンバーに則って必要なコトを並べていく。
「音楽科ってことは、楽器やってんのか?」
嬉々とした様子で赤也が問いかけてくる。
軽く頷いてやると、興味津々といった目を向けられた。
「何やってるんだ?」
「さぁ?当ててみてよ」
赤也があまりにも楽しそうに訊いてきたので、十夜はからかうような声でついそう言ってしまう。
深くかかわるつもりも慣れ合うつもりもなかったのだが、明るい雰囲気に飲まれてつい言ってしまったのだ。
「んー…楽器かぁ」
「一般的なのを挙げていくと、ピアノ、トランペット、オーボエ、フルート、ホルン、あぁ、大穴でハープなんかもあるな」
「拓海、それは音楽室にある楽器適当に挙げただけではないか?」
首を傾げる赤也に、片っ端から楽器を羅列していく拓海、それにツッコミを入れる祐一と、会話が思いのほか盛り上がっていく。
さぁせいぜい考えて悩んで当てるがいいと、どこか面白がる気持ちで十夜はそのやりとりを見守った。
「音楽科っていえば、ピアノってイメージなんだけどな、オレ」
「声楽も器楽もあるし、器楽なんてそれこそオーケストラで見る楽器のオンパレードだぞ」
勝手なイメージに凝り固まって頭を抱える赤也に、どこまでも選択肢を広げていく拓海を見て、十夜は少し愉快な気持ちで彼らを眺める。
「恐らく声楽ではなかろう。オペラで耳にするような声ではないからな」
「普段からあんな声で喋るヤツ、たぶんいねーよ」
選択肢を削りにかかった祐一に、間髪入れずに赤也がツッコミを入れた。
「じゃあ片っ端から楽器の名前挙げていくからイメージに合いそうなやつを選ぶか」
どうだ?と拓海が妙な提案をしている。
イメージって何だよと軽く呆れながら観察をしていると、不意にくすりと小さく笑う声が聞こえた。
声の主に視線を向ければ、控えめな笑顔を浮かべて瑞貴が3人を交互に見ている様子が映る。
「瑞貴、オマエも一緒に考えろよ」
選択肢を出し合ってどんどん深みへ嵌って抜け出せなくなっていく赤也が話し合いに参加しない瑞貴に不満そうな声をあげた。
「え?イメージで考えるんでしょ?」
微かな笑顔を浮かべたまま、瑞貴は完全に他人事のように頑張ってと無責任な言葉を返す。
「じゃあまず、佐伯に似合いそうな楽器を挙げていこう」
結局イメージで考えることにしたらしい拓海がそう言って赤也と祐一に視線を向け、確認のために声をかける。
「イメージって言っても、オレあんまり楽器の名前知らねーぞ?あんなのとかこんなのって表現だったら出来るけどさ」
「イメージで1本に絞ったところで、正解するとも限らんがな」
赤也も祐一も、結局コレという楽器を選ぶことは出来ないらしく思いつく限りの楽器の名称を並べながらああでもない、こうでもないと言い合いを続けていた。
当然思いつく限りの楽器の名前を挙げていくだけの拓海も、これといってピンとくる楽器はないようだ。
これがまともな会議なら白熱っぷりに賛辞を呈さないでもないが、単なる楽器当てクイズでこんなに盛り上がれるとはと十夜はやはり子供っぽいという感想のまま成行きを眺める。
意見を出し合う3人を眺めていた十夜だったが、ふと会話に参加していない瑞貴に視線を向け、おやと首を傾げた。
興味がないから無関心というわけではなく、瑞貴は訳知り顔で彼らの討論を聞いているように見えるのだ。
話を聞いていないわけでもなく、次々に挙がっていく楽器の名前に小さく目を丸くしていたり困惑の表情を浮かべたりしている。
瑞貴は十夜の視線に気づいたのか、軽く目を合わせると悪戯っぽく笑ってみせた。
もしかすると瑞貴は彼らとは違ったやり方で十夜の得意とする楽器に気付いたのかもしれない、という小さな驚きを覚える。
同時に、本当に当てられる物なら当ててみればいいという挑戦的な気持ちが浮かんだ。
「そろそろ時間切れだよ。何だと思う?見事当てられたら、ここはおごってあげようか?その代り、当てられなかったら明日学校でジュースでも奢ってよ」
ヒントも出さず、意地が悪いと思わないでもないが、これくらいならただの冗談で済むだろう。
十夜は未だ結論の出る様子のない彼らの会話を切り上げさせるようにそう言ってにっこりと笑って見せた。
ノーヒントで当てられるものなら当ててみろと挑発的な気持ちで4人を見る。
「それはたぶん、佐伯くんに分が悪いんじゃないかな…」
十夜の自信ありげな言葉に、瑞貴は控えめに言葉を返し先刻と同じようにどこか幼い笑みを浮かべた。
その瞬間、どこがだよと赤也が瑞貴を振り返る。
「おい、明らかにオレらが不利だろ、あの条件!」
「そんなことないよ?…一目でわかる特徴あるから」
赤也に追及の目を向けられ勢いよく制服を掴まれた瑞貴だったが、気にした様子も見せず苦笑を浮かべてあっさりとそう暴露した。
その言葉に、十夜は内心かなりの衝撃を受けた。
衝撃のあまり表情が固まってしまわなかっただけ褒めて欲しいと思えるくらいの驚きだ。
「ということは、お前は最初からわかっていて俺たちの会話を聞いていたということだな?」
「瑞貴。知ってはいたが、いい度胸をしている。というか人が悪いのではないか?」
拓海と祐一が口々に責めるような言葉を投げかけ、赤也はコノヤロウと軽く笑いながら小突いている。
本当に仲が良いんだなという光景を見せられ、十夜の思考に僅かな余裕が戻った。
「…それじゃ、解答を聞こうか」
じゃれ合う様子を見ている間に平静を取り戻した十夜は、それだけ自信があるなら聞こうじゃないかと挑戦的な気持ちを思い出す。
余裕のある口調で、答えを促す。
「バイオリン」
返された答えはたった一言、事も無げに正解が告げられる。
完全な断定で紡がれた言葉は、その解答が必ず正解であるという絶対の確信があるということに他ならない。
正解を告げられた十夜は心臓が飛び出す程の驚きとはこういう気持ちなんだなと考えてしまう程、本気で驚いていた。
当てずっぽうではなく、自信を持って正解を言われるとは思ってもみなかったからだ。
「…どうしてそう思ったのかな?」
内心の衝撃を隠しながら、十夜は好奇心半分対抗心半分でそう問いかける。
当てたからには、その根拠を知りたいと思うのは当然だろう。
「首の痣。左のね」
制服をきっちり着こなしていれば見えないだろう場所を指し、瑞貴はあっさりした口調で気付いた理由を告げた。
バイオリン奏者特有の痣、演奏を重ねるごとに色濃くなっていく文字通り練習の痕。
それを一目で見抜いた眼力はもしかすると相当のものかもしれない。
「すごいね。まさかこれでバレるとは思わなかった」
今度こそ本気で感心した十夜は降参だというように諸手を挙げ、先ほどの答えが正解であることを認める。
僅かにこの学校も楽しめる場所なのかもしれない、という気持ちが首を擡げた。
「わかっていたなら最初から教えてくれてもよかろう。そうすれば俺たちは悩まなくて済んだではないか」
やれやれといった様子で祐一が眼鏡の蔓を調節し、隣の瑞貴に冷やかな視線を向ける。
目は笑っているので、恐らくいつものじゃれ合いの一種なのだろうと推測できた。
「ヴィオラと悩まなかったのか?似たような楽器だろ?」
他の弦楽器ならまだしも、この2台はどちらも同じような弾き方をする。
その事実に思い至ったのか、拓海がそう問いかけた。
確かに自信を持ってバイオリンだと言われたが、その可能性は考えなかったのかと言われれば十夜もそれは気になるところだ。
その1点だけは当て推量だったということだろうか。
「そこは何となくだけど。……ほら、バイオリンを弾ける人だとヴィオラもある程度弾けるわけだし、練習するなら前者じゃないかと思っただけだよ」
楽器を確定させた根拠について、少しだけ考えるように首を傾げると瑞貴はさらりとそう言う。
途中に妙な間があったのは、もしかすると他の根拠があったのかもしれないし、適当に言葉を選んだだけなのかもしれない。
最後の最後は適当かよと十夜はいつもなら呆れてしまうところだったが、何故か今日は愉快な気持ちになっていた。
こうやって無為な時間を過ごしてみるのも、思っていたほど悪いものではないのかもしれない。
「そういえばさ…」
話を切り上げて帰るコトと会話を続けるコトを天秤にかけ、珍しく後者に傾いた十夜はふと学校から寮までの道で疑問に思った内容を思い出し口を開いた。
「どうしてこの学園て、制服の色が4種類もあるんだい?分布も均等じゃないみたいだし、コース選択も関係なさそうだけど、一体なんの違いかな」
ただの会話のきっかけのつもりで十夜は素朴な疑問を口にする。
「あぁ、コレか。今年から施行された新しい校則の都合で、支持勢力を分けてるんだ」
十夜の問いに、自分の臙脂色のブレザーに手をかけてそう説明したのは拓海だった。
「支持勢力?4種類あるのかい?一体、何を支持するっていうのかな」
説明された内容が今一つ理解出来なかった十夜は、重ねてそう問いかける。
もしかすると重要な内容ではないのかもしれないが、明日からの学校生活に何か関わりのあることなのだろうか。
「いや、勢力は2つだ。基本的に生徒は臙脂色か紺色で支持勢力を示す決まりだ。つまり俺の支持勢力は赤也と拓海にとっては敵対勢力というわけだな」
続きを拾って説明したのは祐一で、成程、確かに彼の纏うブレザーの色は紺だ。
「それじゃあ、チャコールグレーや白って言うのは?」
勢力が2つしかないのであれば、自分のチャコールグレーや瑞貴の白は一体どういうことなのかと十夜は首を傾げて見せる。
「あー…チャコールグレーはまだ支持勢力の決まってない人間が仮に着るヤツだな。1年が入学してきたら、1か月くらいはずっとチャコールグレーのブレザー姿を見るコトが出来ると思うぜ?まぁ、最終的にはどっちを支持するかって決めなきゃなんないけどな」
だから十夜も早めに支持勢力を決めろよ、と赤也が笑って説明した。
それでいくと、白だけが謎の色になってしまう。
「僕の場合、支持勢力を公に出来ない立場だから白。佐伯くんには関係ないから気にしない方向で」
十夜の疑問が伝わったのか、最後に瑞貴がそう付け加える。
支持勢力を公に出来ないとは、ますます意味がわからない。
そもそも、何の支持勢力なんだろうかと十夜は首を捻る。
「ぁー、わかんないよなーやっぱ。ええと、オレと瑞貴が戦うじゃん?オレを応援するなら臙脂で瑞貴を応援するなら紺、みたいな?」
「赤也、校則第1条1項に抵触しかねない発言だぞ、ソレ」
無理やり選択肢を捻り出して説明を始めた赤也に、即座に拓海の指摘が飛んだ。
そして戦うってどういう意味だ、討論会でもするつもりなのか。
いや、その場合瑞貴も紺じゃないとおかしいんじゃないか、と十夜は思ったがそもそもソレ以前の疑問で止まっているので追及はしない。
「まぁ、そのうちわかるだろう、としか言えんな。詳しく説明はまかりならんと校則で明文化されてしまったからな」
仕方なかろうと祐一が肩を竦めてそう告げた。
詳しい説明が出来ないようになっている校則という単語にも疑問を覚える。
「部活動勧誘週間でも始まれば、嫌でもわかるから大丈夫」
最終的にそう言ってこの話題はここまでとでも言うようにぶった切ったのは瑞貴だった。
心配しなくても大丈夫という意味の大丈夫なのか、瑞貴は未だ疑問符の海から抜け出せない十夜に柔らかい笑顔を向ける。
「ったく、どこぞの生徒会長サマが新しい校則なんて施行するからこういうややこしいコトになるんだよ」
生徒会長に何やら個人的な恨みでもあるのか、赤也がわざとらしく盛大なため息をついた。
「…あの校則がなければ赤也たちの勢力が相変わらず不利なままだと思うが?文化祭以降、割と散々な結果だったろう?」
不満たらたらな赤也を宥めるでもなく祐一はからかうような口調でそう言う。
その言葉に、赤也がますます不満そうな表情を浮かべた。
「意味不明な会話だと佐伯が困るだろうから、そこまでにしとけ。それより、たぶん広瀬台風が説明し忘れただろうことを教えておく方が大事だ」
十夜にとってはわけのわからない内容で会話をしていた赤也と祐一を尻目に、拓海が建設的な提案を口にする。
「うちの高校は全生徒が必ず部活動か委員会に所属しなければならない。たぶん説明されていないと思うが、1年に混ざって部活動勧誘週間に色々回ることを勧める」
拓海は重要事項とでも言いたげにそう説明した。
「どうしても既存の部活動でやりたいものがなければ同好会の申請も出来るっぽいけどな」
横から立ち直ったらしい赤也がひょいっと口を挟む。
「部活動か委員会か、強制なのかい…」
それはまた珍しい、と十夜は苦笑した。
一応部活動には所属するつもりではあったが、全校生徒に強制とは珍しいのではないだろうか。
「校則で明記されているからな。少なくとも今年の生徒会でその校則に手が加えられる可能性は、恐らくなかろう」
十夜の疑問に、祐一があっさりと終止符を打った。
校則で決まっている上に変わる予定も見込みもないと言われれば大人しく部活動を考えるしかない。
「あとは特殊な教室は鍵がかかってて、学生証ないと入れなかったりするから忘れてくんなよ?」
例えば各特別教室の準備室なんかは、部活動で関係してる生徒くらいしか入れない。
解りやすい場所で言えば、放送室や暗室、コンピュータールーム、それに生徒会室なんかも含まれる。
赤也は思いつく限りの教室を挙げていき、他に何かあったかなと首を傾げた。
どこも基本的に自分には関係のなさそうな教室ばかりだったので、十夜は深く考えずにとりあえず学生証と生徒手帳はセットにしてブレザーのポケットにでも放り込んだままにしておこうと結論付ける。
最悪忘れてもクラスメイトに頼めば必要な場所を開けてくれるかもしれないが、彼らとはそこまで仲が良いわけでもなく、忘れたので開けて欲しいなどと恥ずかしい真似もしたくない。
その後他にいくつかの注意事項の説明を受けてそれぞれに愉快な掛け合いの会話を聞いてから、ふと時計を見れば時刻は14時になろうかというところだった。
さすがにいい時間だと誰もが思ったのだろう、その場はこれで解散となる。
長時間の拘束からようやく解放されると思う反面、知識面で助かった以上に少し楽しかったと感じている自分に驚きながら十夜は帰路につく。
寮までの短い距離を歩きながら、帰ったら何の曲から弾こうかと頭を切り替えた。
因みに祐一は十夜と一緒に店を出て別れたが、他の3人は少しだけ別の用事があると言って残ったようだ。
徒歩15分程度の距離を歩き、寮に戻ると十夜はさっさと部屋へ向かった。
手を洗うついでに、ふと鏡を見れば確かに首のあたりにくっきりと痣が残っている。
これでは指摘されるのも仕方がないと自嘲気味に笑って十夜は自室へと引っ込む。
部屋を後にした時のまま、譜面台には楽譜が揃えられベッドの上には自分の相棒でもある楽器が置かれていた。
ケースを開け、中がらバイオリンを取り出す。
寮が防音であることを良いことに早朝も弾いていたため、緩めていた弓を張りなおせばいつでも音が出せる状態だ。
相棒を構え、集中するために深く空気を吸い込むと、ゆっくりと弓を弦に当てる。
お互いが惹きあうように自然に触れた場所から、音が紡がれ出す。
そこからはもう、流れる水のように曲を奏でるだけだった。
まるで濁流のような激しい音だと評されることが多い十夜の音は空気を震わせ、部屋中に広がる。
奏でる曲は、パガニーニのカプリース24番。
クワジ・プレスト、僅か16小節の主題があらゆる技巧の為に展開される超難易度の楽曲。
独奏曲の中でも最高難易度、超絶技巧を必要とすると言われる難関中の難関曲は、既に旋律は完全に記憶されるほど弾き続けている曲の1つだ。
1度として満足の出来る演奏が出来た試しがなく、ただの技術面ならばギリギリ弾きこなせそうなものなのに旋律を追うだけで必死で、表現の部分まで手が回らない。
手を慣らす前に弾くような曲ではないのだが、数多く弾けば弾くだけ上手くなれそうな気がしていつも弾いてしまう。
そしてやっぱり満足のいく演奏が出来ないまま精根尽き果てて結局違う曲でお茶を濁すというのがここ数か月ずっと続いている。
これが弾きこなせるようになれば、次は悪魔のトリルに手を出したいと思っているのに、まだまだ全然辿り着けそうにない。
重音やピッツィカートが多様され、旋律を追うだけでも必死になる曲に5分強の拷問のようにも感じる曲だが、世の演奏家が必ず通る道だろう。
それに無伴奏曲なので1人でも練習がしやすいというのもこの曲ばかりを奏でている理由かもしれない。
本当にあらゆる形に変わりながらもどこまで行っても途切れることのない水のような演奏が出来れば、と心の底から思う。
せせらぎ、濁流、静かな水面、氷河、温水、激しい波に静かな波、空から降る雨に、雪。
どこまでいっても水は水なのに、あらゆる顔を見せるソレに近い演奏が出来ればどれだけいいか。
過去にたった1度だけ聴いた、自分の夢をバイオリニストに決定してしまった虹のように色鮮やかな音色を思い出し、十夜は深く溜息をつく。
技術的に言えば、幼い日に聴いたその演奏よりも今の自分の演奏の方が当然ながら圧倒的に上なのだが、表現力という面に於いては齢10に満たない子供だったその奏者に及ばないのだ。
拙い技術ながらも時に激しく、時に優しく、そして何よりも弾き手の気持ちが込められた、聞いているだけで楽しくなれるような音色。
思い出が美化されるというのはよくある話だが、十夜はその記憶が美化だけではないとはっきり思い出せるのだった。
もっとも、思い出せるのは幼い子供が華やぐ庭先で曲を奏でている映像と、その音色だけで、その子供に纏わる他のエピソードは全く記憶に残っていないのだが。
この日、十夜は日が傾き楽譜がオレンジ色に染まり出すまで演奏を続けた。
弾き続けた曲は1曲だけではないが、こんなに長時間続けて弾き続けたのは久しぶりのことだ。
それは新しい学園生活への前向きな展望からだったのかそれとも全く逆の感情だったのか、日が翳り出すまで無心で弾いていた十夜自身も何故こんなに長時間集中できたのか不思議に感じるものだった。
製作者:月森彩葉