タイトル1

第2楽章#アタリマエの非日常

十夜が志貴ヶ丘学園高等部3年4組に編入してからちょうど1週間半が経過した水曜日。
まだ1週間半と言うべきか、もう1週間半と言うべきなのかは正直迷うところだ。
その1週間半の間に、入学式や新入生歓迎会という名のオリエンテーションがあり、始業式の日に行われた学力テストの返却があり目まぐるしい速度で新学年のスタートダッシュが行われ、ようやく今日から半日授業ではなく全日授業へと移行した。
重ねて今日から部活動勧誘週間が始まるということで、同好会を含めれば星の数ほどあるかもしれないと言われる部活動の勧誘ポスターが所狭しと掲示された廊下は昇降口から既に目に煩い光景へと変化している。
昇降口で靴を履きかえるなり回れ右をして帰宅したくなってしまう色とりどりの光景を何とか耐えた十夜は、編入してからの1週間半で何度も繰り返し思ったこの学校本当にエリート校と名高い進学校なんだろうかという疑問を飲み込んだ。
数えるのも馬鹿らしいと思うほど掲示された勧誘ポスターにチラリと視線を向ければ、驚くべきことに全て生徒会認証済みの印が押印されていて、誰かは知らないがこんなくだらないコトにかなりの時間を割かなければいけない生徒会役員にこっそり同情した。
同じチャコールグレーのブレザー姿の1年生の後ろ姿を横目に、十夜は階段を登って3階の教室に辿り着くとまだ殆どの席に人影がないのを見て小さく嘆息する。
教室内にいた数人が十夜の姿を認めておはようと声をかけてきたのにおはようと返して教室に足を踏み入れた。
予鈴まであと10分もないというのに、未だかなりの人数が登校していないというのは3年目ともなれば緊張感も当然なく、チャイムギリギリに滑り込んでも気にならないということだろうか。
再び本当にここは名高い進学校なのかと思わないでもなかったが、1週間以上経過したこともあってこの状況にはそろそろ慣れてきたのが少し悲しい。
十夜は自分の席に向かうと鞄を机の横にかけ、一緒に持ってきていた楽器を後ろの個人用のロッカーに仕舞う。
個人用のロッカーは学生証で開閉出来る鍵のかかるもので、奥行きもあるので色々な物が入れられて便利だと感じていた。
国語、漢字、古典、英語の辞書に加えてジャージと体育館シューズを仕舞ってもまだまだ余裕があるロッカースペースは、元々はどういう意図で作られたのだろうか。
冬の防寒具を入れても、まだ余裕がありそうに見える。
最初は学校に楽器を持ってくることにセキュリティーの面で抵抗を覚えたのだが、完全に自分しか開閉出来ないロッカーと知ってからは逆に練習のために持ってこようと決めてしまえるくらい安心感のあるものだった。
暇なので予習でもしようかと机に向かった十夜は、そこであることに気付く。
いつも以上に人気のない教室だが、教室にいる人数よりも数多く机には鞄が置かれていた。
机の上に無造作に放置されているかきちんと机の横にかけられているという差はあれど、そこそこの人数の鞄が教室にある。
流石に鞄を置いたまま帰宅する生徒はいないだろうから、つまりは彼らはこの学園の敷地内にいながら教室にはいないということなのだろう。
何となくそんな教室内を眺めながら、十夜は鞄の中から教科書やノート、筆記用具などを取り出した。
1限目の予習でもして時間を潰そうと、数Ⅲの教科書だけを出してその他はすべて机の中に仕舞う。
教科書を開きかけたところで、祐一が教室に入ってきたのが目に留まった。
「おはよう」
たまたまそっちを見ていた十夜と目が合った祐一は軽く手を挙げる。
「おはよう」
形式的な朝の挨拶を交わし、祐一が自分の席に鞄を置いて腰を下ろすのを見届けた十夜は教科書に視線を向けた。
予鈴までもう5分程度だが、まだ教室に人影はあまりない。
十夜が手元の教科書に集中し始めて数分、教室内にチャイムの音が鳴り響いた。
予鈴が鳴ったと言うのに教室内は相変わらず疎らな人影しかない。
一体何人くらい遅刻してくるだろうかと考えた十夜だったが、予鈴から本鈴までのわずがな時間の間にクラス全員が登校してきたり教室に戻ってきたりで結局ちゃんと揃ってしまった。
数名は廊下は走らないという不文律を盛大に無視して駆け込んできたが、一体この学園内のどこにいたというのだろうか。
「それじゃ、朝のHR始めるわよ~」
いつも通り朗らかな声で教室に入ってきた担任の広瀬の姿を見て、祐一が起立と号令をかける。
礼、着席と続けば広瀬が出席簿を開いて教室を見渡した。
「今日も全員来てるわね~。ええ、今日から部活動勧誘週間が始まります。3年生ともなれば各部の部長をしていたりで忙しくなると思うけど、しっかり頑張ってね。あと、佐伯君も今月中にどこかの部の入部届出してちょうだいね」
広瀬はあっさりとそう規定事項のように言葉を並べる。
この学校では必ず部活動か委員会に籍を置かねばならないなどという説明を担任から受けた覚えのない十夜は、編入初日の放課後に受けた説明がなければここでどういうことかと声を上げたに違いなかった。
有難迷惑9割の時間だったが、結果的に1割分くらいはこうやって役に立っていると言えるだろう。
「今日の連絡事項は以上よ。みんな、新入生獲得競争、頑張ってねっ」
それ以外の伝達事項はなかったのか、広瀬はそう言ってさっさと教室を出て行ってしまった。
いきなりきていきなり去っていく担任を評して広瀬台風と赤也や拓海が呼んでいるが、正にその通りだと思う。
最初の数日はHR終了の号令すらないのかと驚きもしたのだが、さすがに5日目あたりからこのクラスではコレが当たり前の光景なんだと納得した。
今日も対して代わり映えのしない1日が始まるんだろうと1限目の準備をしながら十夜は考える。
部活動勧誘週間が始まったから、放課後は活気づくかもしれないが授業の時間は普段と何も変わらないだろうなというのが正直な感想だ。
1限目のチャイムと同時に、数学教師の浅井(あさい)道長(みちなが)が教室に入ってくるのも毎度のことで、出席の確認も号令もなくいきなり授業が開始されるのもこれまたいつものことだった。
他にも普段と変わらない光景がある。
例えば、初日と変わらず堂々と授業をボイコットして寝ている生徒だとか。
十夜は視界の端に、今日も普通に1限目から寝て過ごすらしい瑞貴の姿を認めてやれやれとため息をついた。
どうやら2年生の頃からこうであったらしくクラスでは完全に黙認されているのか、起こそうという生徒はいないらしい。
本当に進学校かと言いたくなるし、寝ていて授業やテストは大丈夫なのかと気にならなくもない。
それ以前によく進級出来たものだと感心すらしてしまうが、それでいいのかと苦言を呈す以前に教師すら起こそうとしないという驚きの結果なのだから最早十夜の知ったことではなかった。
そんなワケで3年4組34人中、恐らく授業を受けている人数は間違いなく33人以下だろうと断言出来るこの微妙な状況に早くも慣れてしまった十夜は、自分は真面目な生徒でいようと最初に掲げた目標に忠実に授業を受ける。
1限目の担当の浅井はこのクラスの副担任らしい。
最初の授業の時、編入生である十夜のことを考えてなのかわざわざ自己紹介をしてくれた教師のうちの1人で、モデルのような長身といい明るく染められた縮れたような長めの髪といい、カジュアルなグレーのシャツとストレッチパンツ姿といい、教師というよりデザイナーか何かを彷彿させる印象だ。
当然ネクタイなどしておらず、オマケのように肩に担いでいたカジュアルなジャケットは教卓の上に放置されている。
一見軽薄そうな外見だというのに、彼の教える数学は本当に高度で洗練されているのだから奥が深いように思えた。
「よし、ソレじゃ今日はちょっと難易度高いオマケ置いていくぞ?」
授業終了の5分前、彼はいつものようにそう言うと1度クラスを振り返る。
寝ている生徒を除く全員の注目が集まったのを確認すると、浅井はニヤリと笑った。
黒板に向き直り、浅井が書きつけた内容はといえば、問1、1+1=2を証明せよ。
たった1文、コレだけである。
因みに今日の授業の内容とは欠片もかすらない問題で、浅井が言うにはこのオマケ問題を解けば内申点に加算してやるという自称サービス問題ということらしい。
一見簡単そうに見える問題だからといって、簡単だとは限らないのが浅井の置き土産だ。
初日に出された問題は、後で聞けばどこぞの大学入試問題なのだそうだ。
十夜は機械的にノートへと浅井の書いた内容を書き写すと、さてどう料理しようかと首を捻った。
授業中よりも余程真剣な様子で黒板やノートを睨む生徒たちに満足したのか、浅井は号令も聞かず終了のチャイムすら待たずに教室を出て行ってしまう。
この学校、割と自由人な教師が多いんだな、というのは担任副担任を筆頭に十夜が抱いた感想だった。
そんなことを考えながら再び机の上に開いたままのノートに視線を落とし、浅井からの置き土産である数式の証明に思考を戻す。
さて、これは一体どう解けばいいのやら。
せめてヒントくらい出してくれたらいいのに、と十夜がノートを睨んでいると授業終了を告げるチャイムが鳴った。
時間割に目を向ければ、次の教科は古典。
別に得意でもないが苦手でもない教科だと、十夜はロッカーに入れてある古典の辞書と国語便覧を取りに席を立った。
教室内では十夜と同じように辞書などをロッカーから取り出す生徒の姿がちらほらと見える。
「なー、瑞貴、起きろって」
教室内に明るく響いたのは、赤也の声だった。
移動教室でもない限り彼が瑞貴を起こすのは珍しい光景ではないだろうかと、十夜はこの1週間半を思い返して首を傾げる。
肩を揺さぶるようにして無理やり起こした赤也の手を煩そうに払いのけると、瑞貴はゆっくりと机から顔を上げた。
その横顔をチラリと見た十夜は、眼鏡をかけたまま寝ていて邪魔じゃないのかと疑問に思う。
「…何?」
一応時間割に目を向けた瑞貴は移動教室ではないことを確認でもしたのだろう、起こされた理由がわからないといった様子で首を傾げている。
「1+1=2って証明出来ると思う?」
赤也は暢気な声でそう言って、浅井が書き残した問題の残る黒板を指した。
「…出来るんじゃない?」
問われた瑞貴は端から考える気がないのか、問題を一瞥しただけでさらっとそう応える。
「オマエ、考えてねーだろ」
赤也が苦笑を浮かべて瑞貴を小突けば、瑞貴は当然だとでも言いたげに赤也を見上げた。
考えろよと満面の笑みで赤也は回答を迫っている。
「…もう、1+1が2とは限らないけど1+1を2にするって習いましたって書いておけばいいんじゃない」
それでも結局考える気はないのだろう。
瑞貴のそんな声が聞こえた数人の生徒がおかしそうに吹き出している。
十夜もうっかり笑ってしまいそうになって、慌てて表情筋に力を込めた。
「ちょっとは真面目に考えろよ」
その回答に不満だったのか、赤也が口を尖らせる。
「…大いに真面目だと思うけど?」
瑞貴がそう言った瞬間、クラスから再び微かな笑い声が漏れた。
一瞬的外れな回答をした相手を馬鹿にする笑い声かと思わなくもないが、その笑いに含まれていたのは純粋に愉快だという感情だけで、嘲るような空気は欠片もない。
むしろ、成程そういう回答も有りか、と面白がるような雰囲気が教室を包んでいだ。
瑞貴は周囲で上がった笑い声に目を向けると、小さく嘆息した。
「…出題者の意図に沿った解答したいなら、コレじゃダメだからね」
自分で回答しておいてあっさりとその解答を否定すると、瑞貴は少しだけ考え込むように視線を床に向ける。
しばらく視線を彷徨わせた後、ペアノの公理とだけ小さく呟いた。
「最初からそっちを言えっての」
半眼になった赤也はそう言って深く溜息を零す。
それでようやく満足したらしい赤也は、瑞貴を解放すると自分の席へと戻って行った。
解放された方はと言えば、再び何事もなかったかのようにのんびりと机の上に伏せる。
次の授業も真面目に受ける気はないらしい。
そんな光景をすっかり見慣れてしまった十夜は、その姿に呆れこそすれ何かを言う気にはなれなくなっている。
落第もクラスの連帯責任だと言われるのならば話は別だが、どうせ困るのは本人ばかりと肩を竦めた。
チャイムが鳴り、古典担当の堀之内(ほりのうち)幸広(ゆきひろ)が教室に姿を現す。
見た目は穏やかそうな壮年の男性なのだが、彼の言動はサブカルチャーに染まりきっていてたまに理解が出来ない。
委員長である祐一の起立という号令が教室に響いた。
生徒たちが席に着くと、堀之内はのんびりと教室を見渡し、「授業をはじめます」と宣言してから教科書を開く。
「では、今日は論語やりますお」
独特の話し方で教科書を捲り、授業が開始された。
そうして文字通り詰め込めるだけ詰め込むという授業が怒涛の勢いで進む。
日本の古典文学からでなくいきなり漢文から始まる1学期というのも妙な気がしないでもないのだが、とにかく凄まじい勢いでノートに漢字が連なって行った。
この教師の授業の1番良いところは、予習で日本語訳をしてこなくてもいいという点だろうか。
授業中に必ず日本語訳にする時の注意点などを付け加えてくれるので、その場で訳せばいいのだから楽だ。
そして2限目を終えた時には、まだ1日のノルマのうち3分の1しか終わっていないのかと呻きたくなるくらい精根尽き果てたといった様子で白くなっている生徒の姿が散見された。
理系クラスだからなのか、堀之内の怒涛の授業速度のせいなのか、燃え尽きている生徒の気持ちもわからなくはない。
50分の授業が体感30分くらいの短さに感じ、けれどもノートを見れば軽く90分くらいの内容がびっしりと書かれているのだからそれも仕方のないことだろうか。
大きく伸びをして時間割を確認すれば、次は楽勝の教科でほっと息をついた。
3限目は編入してきてから初めての選択芸術の授業で、どうせ普通科高校の音楽の授業など児戯にも等しいだろうと思いながら十夜は教科書を引っ張り出す。
因みに初回芸術授業の今日は、どういう事情か知らないが4限目も芸術に振り替えられてまさかの2時限ぶっ通し授業らしい。
教科書はつい数週間前まで通っていた学校で使用していたような専門的で分厚いものではなく薄い一般教養程度の知識を詰め込んだだけのものだし、別冊で楽譜や楽典、資料集がついているわけでもない。
教材がたったコレだけで一体どんな音楽を学ぶのだろうか。
筆記用具と音楽の教科書だけを取り出した十夜は、そういえば音楽室はどこだろうかと首を傾げた。
始めて行く場所のはずなので、まだお節介気味なクラスメイトたちから聞いていない場所である。
編入初日から絡んできたクラスメイトたちの中で誰か音楽を選択している人間がいれば一緒に行こうと声をかけてくるだろうとは思うが、誰もいない場合は場所だけでも教えてもらわなければ問題だ。
「佐伯、次は教室移動だ。当然選択は音楽だな?」
既に教師が教室にいないため流れ解散となり、騒がしくなった教室の中を十夜の席までやってくると祐一がそう声をかけてくる。
十夜は顔を上げると、笑顔を浮かべて先ほど取り出した教科書を示して見せた。
「では、音楽室までのガイドを叩き起こしてくるから少し待っていろ」
教科を確認し終えた祐一がどうするのかと十夜が眺めていれば、彼は迷いなく瑞貴の席に行くと軽く揺さぶってから何か話しかけたようだ。
2、3言交わした後、瑞貴は机の中から薄い教科書を取り出すと祐一に背を向けて十夜の方へと向かってきた。
「…音楽室、こっちだから」
一切の前置きなく必要最低限だけを口にすると、瑞貴は十夜を手招く。
準備は出来ている、というより持っていく物は教科書以外何もないのだろうか。
教科書だけを手に筆記用具すら持たずに行こうとする瑞貴を見て、十夜は何も要らないのかと首を傾げる。
「あ…」
ふと足を止め、瑞貴は何かを思い出したかのように十夜を振り返った。
「…連れてきてるなら彼女と一緒に行った方がいいと思うよ」
そんな言葉を投げかけられ、十夜は一瞬何を言われているのか分からず目を瞬かせる。
学校に彼女連れとか、連れていくとか、いきなり何を言い出すんだろうか。
表情を変えずに淡々と告げた声の抑揚のなさが内容にそぐわないような気もする。
言われた言葉を反芻していた十夜は、こいつ頭大丈夫かと思わず顔を覗きこむ。
「次って音楽の授業のはずだろう?」
寝惚けているのだろうかと十夜は微かな笑みを作って首を傾げてみせた。
言外に何を言っているんだと問いかければ、今度は逆に瑞貴が小さく笑う。
「自己紹介代わりにパフォーマンスさせられるから」
だから、楽器は持って行った方がいい。
瑞貴はあっさりとそう告げて、教室の後ろに並ぶロッカーを指した。
何故知っているのかはわからないが、どうやら瑞貴は十夜が楽器を持ち込んでいることを知っていたらしい。
言われるままにロッカーの方を振り返れば、他にもロッカーの中からケースを取り出している生徒が目について十夜は目を丸くした。
シルエットから察するなら、小型の金管楽器と思われるケースを取り出したのは、クラスの副委員長になったハズの女子生徒だ。
たしか、のばらという名前だったと記憶している。
「成程ね…」
そこまできて、十夜はようやく先ほどの場にそぐわない発言を完全に理解した。
彼女というのは要するに愛器のことを言っていたのだろう。
確かに音楽家の中には自分の相棒を恋人という表現で呼ぶ人間も少なくはない。
納得した十夜はひとつ頷くとロッカーに向かい、片付けて置いた楽器を取り出す。
その様子を見守っていた瑞貴は、十夜が戻ってくると何も言わずにさっさと教室を出て行った。
十夜がその後を追って教室を出れば、わざわざ立ち止まって待っていたらしい瑞貴は再び歩き出す。
廊下をまっすぐ突き当りまで進んでいけば、案内されるまでもない距離で音楽室に辿り着いた。
音楽室はただの広い教室かという予想に反し、まるで音楽サロンのような高い天井と防音と音響効果を兼ね備えた素材の壁に、足元は音を吸収する浅い絨毯張りになっている。
音楽科の学校の教室と比べれば見劣りするものの、音を奏でる場所としては最低限の体裁が整えられていた。
音楽室の机は教室にあるような個人用の机ではなく、簡単に撤去出来る折り畳み式の長机にパイプ椅子という簡易なセットが並んでいる。
入口側には五線譜の書かれた大きな黒板とグランドピアノが鎮座しており、奥にはドラムセットやティンパニなどの大型の楽器に保護シートがかけられただけで置かれていた。
恐らく準備室に入りきらない楽器や吹奏楽部で使用するパーカッションのうち移動が困難な楽器を出したままにしているのだろう。
教室のどこに座ればいいのかもわからず音楽室の入口で立ち尽くしたままの十夜の横を、準備室から楽器ケースを引っ張り出してきたらしい生徒たちが通り過ぎていく。
それはギターだったりベースだったりと中身が解りやすい形状をしていたり、吹奏楽で使用する管楽器の何かだろうという程度しかわからない楽器だったり様々だ。
何も持っていない生徒たちがおよそ全体の半分くらいで、残りの生徒たちは教科書以外の何かをその手に持っていた。
「あらぁ~ニューフェイス?」
音楽室の奥から現れた妙齢の女性が、十夜の姿を目にするなり上から下までをじっと観察し始める。
片足に体重を乗せ腕を組みながら観察をする姿は、まるで舞台役者のようにやたらと姿勢がよく、声はよく通るソプラノ。
「あなたが理事長の話していた編入生ね~?今日はみんなに自己紹介を兼ねて演奏してもらうことになってるんだけど、知ってたみたいね~」
上から下までを観察した女性教師は十夜が持つ楽器ケースを目にした途端、苦笑した。
「せっかくドッキリで何かしてもらおうと思ったのに、残念ねぇ」
練習してきた?と興味津々の様子で首を傾げている。
「…残念ながら、そんな情報はつい数分前に知ったところなので」
楽器はただの偶然だと十夜も曖昧な笑みでそう返す。
「あらぁ、ソレは良かったわぁ~。私の授業のモットーはコモドでスピリトーゾな音楽だから、よろしくね?」
まるで歌うようにそう言うと、教師は笑顔を残して音楽室の中へと戻って行った。
とりあえず立ったままもどうかと思った十夜が室内に視線を戻せば、さっさと後ろの方の席に陣取っていた瑞貴と目が合う。
瑞貴は小さく首を傾げた後、片手で十夜を手招いた。
呼ばれるままに歩いて行けば、席は適当だからどこでもいいと告げられる。
どうしていいのかわからず立ち尽くしていたのを見抜いていたのだろう。
だったら最初からそう言ってくれたらいいのにと内心で舌打ちした十夜だったが、ありがとうと笑顔を作り、そのままその隣に腰を下ろす。
「自己紹介代わりのパフォーマンスって、君は何をするつもりなんだい?」
見たところ何の楽器も手にしていない上に、他のクラスメイトと打ち合わせをしている様子もない瑞貴に十夜は好奇心から小さく問いかける。
「…何しよう…」
十夜に問いを向けられた瑞貴は困ったような微かな笑みを浮かべて考えてなかったと零す。
「事前に知っていたんじゃないのかい」
思わず呆れたような声で十夜は呟いてしまった。
「思い出したの、さっき教室を出る時だから」
どうしようかなと瑞貴は微かな笑みのまま首を傾げる。
あまり困っているようにも見えないが、ここまで何も考えていない奴だったのかといっそ呆れを通り越して十夜は感心してしまった。
そこへチャイムの音は響き渡る。
教室で聞くよりも大きな音に聞こえるのは音楽室の音響効果のせいだろう。
「はぁ~ぃ、授業はじめま~す。初めましての子もいるから、自己紹介するわね~。私は米倉(よねくら)ことは、専門は声楽よ~」
ただ話しているだけなのにまるでミュージカルのような声で米倉はそう言いながら音楽室の扉を閉める。
「今日は皆さんに自己紹介を兼ねたパフォーマンスをしてもらいま~す。ふふ、楽しみねぇ。先着順、希望者から順番でいいわよ~。ソロでもデュオでもトリオでもカルテットでもこの際何でもいいから、音楽に関わる何かをしてちょうだいね~。あ、でも、不参加だけは禁止だから、ソコよろしくね?」
長い台詞なのに途切れさせることなく言い切ると、米倉は実に楽しそうに音楽室内を見渡した。
「いきなりぶっつけ本番は可哀相だから、前半40分はみんな好きなように練習してていいわよぅ~。それじゃ、開始ね、アドリビトゥム~」
ソレだけ言うと、米倉は何事もなかったかのように音楽準備室へ姿を消してしまう。
この学校本当に自由人な教師が多すぎだろうと十夜は表情を引き攣らせた。
丸投げされた生徒たちがどうするのかと思えば、彼らはこの状況に慣れているのか、そうそうに友人たちに声をかけいくつかのグループに分かれ始める。
音楽室の後ろの方に移動したギターやベースを持った生徒とスティックを持った生徒はといえば、ドラムセットにかかったカバーを外し位置の調整をし始めた。
恐らく吹奏楽部なんだろうと思われる女子の一団はケースから楽器を取り出して、音楽室の前の方に集まり出し、何の楽器も持っていない男子数人はどうするのかと思いきやどこからかオーディオデッキを持ってきて曲に合わせて体を動かし始める。
何が起こっているのか、完全に取り残された十夜は隣で座ったままのんびりと音楽室内を眺めている瑞貴に視線を向けた。
「佐伯くんも、音出しておいた方がいいと思うよ」
視線を向けられた瑞貴はチラリと十夜のバイオリンケースに視線を向けてそう言うだけだ。
「そっちは何もしないの?不参加、禁止なんだろう?」
既に席に大人しく座っているのは十夜と瑞貴の2人だけである。
十夜は自分は最悪何か適当に弾けばいいが、一体瑞貴はどうするつもりだろうと他人事ながら問いかけた。
無関係な他人を気にするなんて自分らしくないと自嘲気味に考えたが、どうやら十夜は自分自身で考えている以上に大人しいクラスメイトを気かけているようだ。
正直自分でもどうかしていると思わなくもないのだが、瑞貴はどことなく放っておけない危なっかしい雰囲気に見える。
恐らくそれは十夜だけが感じていることではなくて、普段から一緒に行動をしている集団共通の意見だろうと1週間程度の付き合いで感じていた。
「適当にどうにかする…」
そう呟いた瑞貴の表情はまるで焦っているようでもなく、最初からどうにかすることを諦めているようにも見えて、十夜は小さく笑ってしまう。
そんな2人を他所に、大きく3つに分かれたグループのそれぞれの方向性が見えて来た。
吹奏楽器を構えた集団は、フルート、オーボエ、ホルン、トランペット、トロンボーン、ファゴット、それに引っ張ってきたティンパニの7人で構成された簡易な吹奏楽バンドになっている。
チューニング中なのだろう、控えめに音を出しているが何の曲を演奏するのかはさっぱりわからない。
ドラムの前に集合した男子5人組は、ドラム、ギター2本、ベースに恐らくボーカルを加えた軽音楽の様相だ。
オーディオデッキを抱えた集団は総勢8人の男女混同チームになっていて、どうやらアップテンポな曲に合わせて踊るらしい。
要するに、十夜と瑞貴以外は既に何をするのかを決めて、それぞれ発表前の準備に勤しんでいるという状況だ。
さすがに色々な音が入り乱れて、賑やかを通り越して煩い。
十夜はその騒音具合に軽く引き攣りながら、諦めたように楽器のケースの留め具を外した。
こうなったら、弾いてやる。
どうせなら難しい曲を。
聴いた人間が驚くような曲を。
さぁ、何にしようか。
とりあえず曲を決める以前に音を出しておかなければと十夜は曲を考えながら機械的にバイオリンを取り出し、状態を確認する。
これならすぐに音が出せると十夜は笑みを浮かべた。
「あらぁ~みんな、ちゃんと練習してるじゃない~」
準備室から戻ってきた米倉がとても楽しそうに笑いながら音楽室を歩く。
一体準備室に何の用だったのかは不明だが、彼女は手に分厚い紙束を持って戻ってきた。
くるくると足取り軽く歩くその様子は、やはりミュージカルのように見えてしまって十夜は思わずその動きを視線で追いかける。
「チューニングするなら、ピアノの音出してもいいわよぅ?」
十夜の前までやってくると、米倉は軽く首を傾げて笑いかけて来た。
「いえ、大丈夫ですよ」
そもそもまだ何を弾くかも決めていない。
「何ならソコでサボってる瑞貴くんをアシスタントに連れて行ってもいいわよぅ?必要ないなら、先生がアシスタントに使っちゃうけど~」
明るい口調でそう言うと、米倉は持っていた紙束で瑞貴を突いた。
「何の手伝いですか…?」
いきなりアシスタント宣言をされた瑞貴は、紙束に視線を向けて控えめに問いかける。
何となく嫌がっているというよりは恐れているといった様子に見えるのは、気のせいだろうか。
「そんなの決まってるじゃない~。暇そうだし、はい、コレ~」
米倉は何を当然のことをとでも言いげな様子で分厚い紙束を瑞貴に押し付け、中身を見るように促した。
「…見間違いじゃなければ、吹奏楽用の楽譜ですよね」
紙束を開くなり、瑞貴は瞬時に閉じて米倉へと押し戻すと席を立つ。
そのまま米倉の横を通り過ぎていく。
「あら、どこに行くの?」
目を丸くした米倉は、驚いたように声をかける。
「何もしていないと押し付けられそうなので適当に時間潰します」
それだけ言うと、瑞貴は振り返らずに歩いて行ってしまう。
まさか教室を出ていく気ではという十夜の心配を他所に、瑞貴が向かったのはピアノの前だった。
そのままピアノの蓋を開けると、椅子を引いて軽く腰掛ける。
弾けるんだろうかという好奇心と一体どんな曲を弾くんだろうかという好奇心で、十夜はじっとその様子を見守った。
けれど、指が鍵盤の上に乗ることはない。
「…もぅ、結局何もしないんじゃない」
呆れるように笑った米倉に同意として頷いた十夜だったが、よく考えれば自分もまだ何もしていないコトに気付いて話を振られる前にそそくさと移動する。
ピアノの前に知り合いがいるなら好都合というやつだ。
チューニングをするふりをしながら、奏でる曲を決めよう。
十夜がピアノの側に立つと、瑞貴がおや?と顔を上げたかと思えば手を伸ばしてソの鍵盤に指を滑らせた。
ピアノの調律が正確かどうかはさておき、調弦をする際最初に合わせる音だ。
やはり音楽の知識はあったのかと驚きながら十夜は素直にその音に合わせて弓を滑らせた。
微調整を加えながら音を合わせ始めると、一定の間隔で鍵盤が叩かれる。
これで大丈夫だというところまで十夜が音を合わせ終えれば、瑞貴はあっさりと鍵盤から手を離してみせた。
完了だと言う空気が伝わったのだろうかと十夜はぼんやり考えながら、手早く残りの3弦の調整を始める。
一度自分の音の世界に没頭してしまえば、完全に周囲の喧騒が聞こえなくなる。
「それじゃ、お待ちかね発表タイムよぉ~」
練習のために充てられた時間が経過しきったところで、音楽室中に響き渡る様々な音に負けない声に現実へと引き戻された。
「ソレじゃ、最初はどのチームからやってもらおうかしらね~」
朗らかに笑いながら米倉は音楽室内を見渡す。
最初に白羽の矢がたったのは、吹奏楽の集団。
彼女たちは呼吸を計るかのように目配せしあうと、大きく息を吸った。
いきなりの大音量に思わず目を剥く。
ツァラトゥストラはかく語りき、誰もが聞いたことのあるフレーズが流れ出した。
ほんの短い1フレーズだけだったが音楽室の空気が変わったのは言うまでもない。
度胆をぬくという意味では選曲は正しい。
ただし、この人数では少々物足りないと思ってしまわないでもないが。
僅か数十秒の演奏だったが、充分だろう。
もちろん十夜が先月まで通っていた音楽科の学校での演奏とは技術的に比べ物にならないが、音の親和という意味ならこちらが上ではないだろうか。
ちょうどそこでチャイムが鳴ったので、米倉はあっさりと休憩を告げた。
その声に、音楽室を出ていく生徒の姿もある。
さっさと発表を終えた生徒たちも楽器を片付け始め、準備室に消えていく生徒もいて一気に静まり返った音楽室に残った生徒がチラチラと十夜に視線を向けていた。
視線を向けられても十夜にサービスをしてやる気はない。
自分がパフォーマンスをさせられる番になったら、せいぜいヤツラのド肝を抜いてやるさと人の悪い笑みを浮かべる。
4限目のチャイムが鳴り、音楽室から姿を消していた生徒たちが戻ってくると、後半の部が始まった。
ダンスを披露したチームは、寄せ集めのチームに見えないくらい洗練されて慣れた動きを見せたし、軽音チームはと言えばそのままライブハウスで演奏出来そうだ。
クラシックとはかけ離れているが、思っていたよりレベルは低くない。
「次は、どっちがやるのかしら~?それとも、一緒にやるの~?」
そして米倉は最後に残った2人を交互に見た。
正直十夜としては自分のことよりも、自分の音合わせを瞬間的に手伝っただけの瑞貴の方が気にならないでもない。
「佐伯くん、何弾くか決めてる?」
そんな十夜の制服を軽く引くと、瑞貴は小声でそう訊いてきた。
その表情は何故かどこか楽しそうに見える。
「何故かな?」
訊かれる理由が分からず、十夜は首を傾げて問いかけられた理由を訪ねた。
何を考えているんだろうか。
「四季の冬なんてどう?」
微かな笑みで瑞貴は十夜を覗きこむ。
その瞳が、弾けるよねと挑戦的に問いかけているように見えて十夜は目を瞬かせる。
「ヴィヴァルディの?」
そう訊き返せば、首肯で応えられた。
成程、悪くない。
いいだろう、弾いてやる。
挑発されたわけではないのだが、十夜は心の内で、挑発的にそう呟いた。
別に目の前の相手が自分の得意な曲だと知っていたワケではないのだろうが、何となくその選曲が気に入ったのだ。
十夜は自信ありげな笑みを浮かべると、バイオリンを持ち上げ構えた。
「じゃあ、その曲にするよ」
弾いていいのかと瑞貴に視線を向けた次の瞬間、ピアノの鍵盤の上を指が踊る。
一般的なコンサートやクラシックのCDで流れるその曲のテンポ通りに弾かれたのは、バイオリンのための伴奏だった。
面白い。
そう感じた十夜は、演奏を始めた。
一般的なテンポ通りで弾いても速い曲なのだが、僅かにテンポを速めて弾いてみれば、驚くことにピアノがあっさりとその速度に合される。
弾きやすいというのが十夜の正直な感想だった。
それも、個人レッスンの時に先生が弾いてくれるピアノよりもよっぽど弾きやすい。
一体どうするだろうかと意地の悪い笑みを浮かべテンポを変えながら弾いてもちゃんとついてくる。
後半に差し掛かる頃には、十夜は何も考えず、ただ弾きたいまま伸びやかに曲を弾いていた。
演奏を終えて楽器をおろし、音楽室から拍手が起こってようやく我に返る。
いつの間にか演奏にのめり込んでいたことに驚いてピアノを振り返れば、ピアノの蓋をおろした瑞貴と視線が合う。
「あらまぁ、さすが音楽系の学校から来ただけあるわねぇ、すごいわ~」
十夜の耳に朗らかな米倉の声が届く。
確かに得意な曲ではあったし、賞賛されるだけの技量だという自負もある十夜だが、ここまで集中して弾けたのは、伴奏の技術があってこそだということも理解していた。
伴奏に特化しているだけかもしれないが、ただの一般高校生にしておくには惜しいだけの技量に疑問を覚える。
少なくとも、十夜の通っていた音楽科の高校のピアノ専攻の生徒の中では、上の部類に入るのではないだろうか。
「他にも何か弾いてくれるかしら~」
感心しきったような米倉の声が、うっかり思考の海に沈みそうになっていた十夜の意識を引っ張り上げる。
それに笑顔で応えながら、十夜は浮かんだ疑問を一旦棚上げすることに決めた。
結局、4限目の後半は、十夜のリサイタルと化してしまったが、ある意味いい練習になったのかもしれない。
妙な充実感に包まれて午前中の授業を終えた十夜は、そのままの気持ちで午後の授業も突っ走る。
5限目の物理、6限目の数Cの授業は、ノートはきちんと取っているものの正直あまり頭に残らなかった。
そしてようやく放課後がやってきた。
部活動の関係か慌ただしく教室を出ていく生徒が多く、1日で1番慌ただしく感じる。
HRが終わってまだ5分と経過していないというのに既に校舎内はざわざわと騒がしい喧騒に包まれ始めていた。
進学校として名を馳せていても、こういうところは所詮普通科の高校なのだなと十夜は2年生の頃まで通っていた音楽科の学校と比べて口の端を上げる。
常に誰かと比べられ、常に勝者でなければ蔑まれ、強い者に(おもね)るようにして生きるか自らが強者にならなけれなならないという完全な実力主義の上に狭き門を争うのが芸術家の卵たちというのも実に悲しい話だが、真実そういう世界で生きて来た十夜にとってこの学園の風潮ははっきり言って幼稚に感じた。
狭き門の中でもほんの一握りしか成功を掴むことが出来ない芸術家の卵だけが集まる学園は確かに切磋琢磨し常に蹴落とすべき好敵手がいるという点から見れば良い環境であると言えるが、もっと大らかにあらゆる分野を目指す生徒が集まっている空間というのも悪くないのかもしれないと少しだけ思う。
鞄に教科書その他を仕舞い込み、代わりに持ち込んだ楽譜を取り出した十夜は視線を上げて教室を見渡した。
既にかなりの人数が教室に居らず、クラスの賑やか代表である赤也とその相方的存在の拓海の姿もない。
そう言えば彼らは科学部の部長、副部長と言っていたような気がするので、恐らく勧誘のために早々に教室を出て行ったのだろう。
科学部なんてマイナーかつ暗いイメージの部活に新入生が興味を惹かれるとは思わなかったが、そこは彼らの手腕次第だ。
そこでふと他にも意外な生徒の姿がないコトに気付いて、十夜は思わず教室を見渡した。
移動教室の時も誰かが起こすまで寝ている瑞貴の姿が既に教室から消えている。
部活動はやっていないと言っていたはずだが、一体どこに行ったのやら。
それとも騒がしくなる前にさっさと帰ったのだろうか。
「佐伯、誰かを探しているのか?」
珍しく周囲を見回していたせいか、まだ教室に残っていたらしい祐一が声をかけてきた。
「ああ、探してるわけじゃないさ。ただ、いつものんびり寝てる人間が随分と早く教室から消えたなと思っただけだよ」
十夜は軽く笑みを浮かべると、窓際の席を指差す。
それだけで合点がいったのか、祐一は、あぁと声を上げると小さく笑う。
「瑞貴なら、今日からしばらく多忙のはずだから、まぁ仕方なかろうな」
そう言って祐一は苦笑を浮かべる。
「本人の申告では、部活動はやっていないはずだっただろう?」
今日から忙しいという言葉に当てはまるのは部活動関係者だけだ。
十夜は初日に交わした自己紹介の内容を思い出し、そう首を傾げる。
「ある意味自縄自縛というやつでな。いずれ目にする機会もあるかもしれんぞ」
祐一の答えはいまいち噛みあわないものだったが、どうやら何か忙しい用事があるらしい。
「ふぅん?まぁ、俺も部活動を決めないといけないみたいだから、少し居残るよ」
そっちは?と問いかければ、祐一からはこれから部活動だと返ってくる。
それじゃあ頑張ってという風に片手を上げれば、また明日と言葉が返ってきた。
そうして教室を出ていく祐一を見送ると、十夜は鞄から出した楽譜の束を手にロッカーへ向かい、昼に仕舞い直した楽器を取り出す。
人があまり来なさそうな場所と言えば、屋上と中庭だろうか。
流石に教室で楽器を取り出す気にはなれず、十夜は階段を下りて中庭に向かった。
予想通り、中庭には誰もいない。
中庭で部活動の勧誘など行われるわけもなく、関係者は各種特別教室やグラウンド、武道場などに散って行ったのだろう。
適当なベンチに腰を下ろし、楽譜を置くとそれが飛ばないように楽器ケースを乗せた。
留め具を外して、まずは弓を取り出す。
張りを調節し、松脂(まつやに)の具合を確かめた。
このままならすぐに音を出しても大丈夫だろう。
状態の良さに軽く笑みを浮かべ、バイオリンを取り出した。
中庭を抜ける風が微かに弦を揺らし静かな調べを奏でる。
学校を包む喧騒が遠く聞こえ、まるで明るいカーニバルの楽曲のようだと錯覚した。
ならば、とチューニングを兼ねて弾くのはエルガーの愛の挨拶。
有名な楽曲なので音が届くところにいる生徒の中には聞いたことがある生徒もいるかもしれない。
ピアノによる伴奏がないのが少し寂しいし、伸びやかで繊細な音というのは目下練習中の課題分野でもあるのだが、それでもその辺の素人と一緒にしてもらっては困る。
とはいえ、新学期が始まる直前に偶然聴いたあの音色とは比べるべくもないのだが。
自嘲気味に考えながらも、あの時の音を目標に丁寧に音を紡いだ。
ほんの少しくらいは天上の音楽に近づけただろうか。
およそ3分半の演奏を終えて十夜が息をついた時、頭上からパチパチという手を叩く音が聞こえて来て、十夜は驚いて思わず腰を浮かせた。
聴いていた人間がいたのかと音の方を振り仰いだ十夜の視線の先は2階の渡り廊下で、柔らかな笑みを浮かべた少女が手を叩いているのが見える。
少女の姿を目にした十夜は、その少女の姿に目を瞬かせた。
渡り廊下の淵に腰をかけ外側に足を投げ出して中庭を見ている様子は、宙に浮いているように見えなくもない。
顔立ちは文句のつけようのない完璧な美少女で、浮かべているのは令嬢を思わせる柔らかくしっとりとした微笑みだ。
左右で高く結われた長い髪は真っ直ぐで、華奢ながらも弱さは感じられない。
もし告白でもされたらうっかり勢いで頷いてしまうかもしれないと思うほど、人を惹きこむ魅力を具えたその容貌は一種の芸術と言っても過言ではないだろう。
けれど彼女が普通の生徒に見えたならば、たとえ危なっかしい場所に座っていたとしても十夜は目を瞬かせてまじまじと上から下までを確認することはなかったかもしれない。
彼女の恰好は驚くほど奇抜なもので、十夜は演劇部だろうかと首を捻る。
少女は僅かに青みがかった薄い紫色の、軍服を思わせる詰襟制服姿に近い衣装に身を包んでいた。
上着は後ろ側だけ長い燕尾服のような丈になっていて、前は腰の飾りベルトのすぐ下までの丈という変わった造りで、その下にはひだの細かい膝上丈のプリーツスカート。
そして黒のタイツにほぼ黒に近い光沢のある焦げ茶色の編み上げブーツ、更には頭の上に衣装と同色の軍帽まで被っている。
極め付けは腰に佩いた細い剣と、懸章に階級章を思わせる飾り紐といった具合だ。
一体何の扮装かと思うが、演目を知らないので何とも言えず、十夜はただ見上げるしかなかった。
「エルガーですね」
ふわりと振ってきた声は、涼やかで澄んだ声は少女の外見にとても似合っている。
耳に心地よい声が天上の音楽のようにも感じられるほど十夜は正気を失っていた。
そこで少女は笑みを深くすると、どこからか取り出した仮面を被る。
顔の上部が隠れるファントムマスクは精緻な細工がされているようで、十夜は自分まで何かの舞台の登場人物になったかのような錯覚に思わず目を瞬かせた。
少女のいる場所が場所なので、本当ならば危ないと叫んだかもしれない。
けれど落ち着き払った様子に、彼女のいる場所が危険な場所だということを思い出せないまま十夜は視線を奪われていた。
そんな十夜の見ている前で、少女がすっと何もない中空に向かって真っすぐ手を伸ばす。
その瞬間、中庭に全身タイツ姿の謎の集団が現れた。
彼らは謎の奇声を発しながら、次々に陣を組むように中庭を囲み始める。
何が何だかわからないが、演劇部のパフォーマンスか何かだろうか。
それならばこんな人気のない場所でなく体育館の舞台でやるべきだと思うのだが。
いきなりの出来事に左右を見渡し、これはどういう事かと十夜の思考が現実に追いつく前に、バサリと布を翻す音が響く。
音の方を見れば、空から少女が降ってきた。
正確には、先ほどの少女が渡り廊下から中庭へと飛び降りたのだ。
着地の衝撃を感じさせず、ふわりと舞い降りた少女はゆっくりとした足取りで中庭の中央に進むと周囲をそっと見渡した。
「それでは、征服を始めさせてもらいましょう」
凛とした声が中庭に響く。
声を張り上げてもいないのに、少女の声はとてもよく通った。
「これは一体…?」
十夜が控えめに疑問を口にしたその瞬間、見計らったかのような絶妙のタイミングで校内にけたたましいアラームの音が鳴り響く。
よくテレビなどで耳にする、典型的な警報の音だ。
『中庭が【世界征服部】によって征服されました!【正義の味方部】はただちに出動してください!繰り返します、中庭が【世界征服部】によって征服されました!【正義の味方部】は直ちに出動してください!なお、この放送終了と同時に出動判定が開始されます。中庭征服完了まで、残り時間あと10分です!』
明らかに校内放送のスピーカーから、切羽詰まった声が飛び込んでくる。
その放送ががなされるや否やバタバタと中庭に人影がいくつか走り込んできて、十夜は再び目を剥いた。
その人影たちはは少女と同じような顔の上半分を覆う仮面をつけていて、少女を上級士官とするならば下級士官を思わせる軍服じみた衣装に身を包み、腕には【特殊報道部】と書かれた腕章をつけている。
彼らはその手に集音マイク、報道用カメラ、レフ板などの放送用機材を手にしており、1人はテレビの報道リポーターのようにマイクを持っていた。
カメラがリポーター風の人物に向けられると同時に、マイクを持った人物が口を開く。
「こちら【特殊報道部】です。ただいま、現場となった中庭に到着しました。これより【コンクエスト】の中継を始めます!」
カメラに向かって報道番組もかくやといった迫真の台詞を叫ぶ。
「…一体コレは何なんだ…」
十夜は口調を作ることも忘れ、吐き捨てる。
ここは確か高校の中庭のはずなのだが、一体何が起こっているというのか。
聞き間違いではなければ、世界征服だの正義の味方だの幼児向け番組で聞くような単語が連呼されていた気がする。
「気になりますか?」
十夜の言葉を拾ったのは、近くにいた全身タイツの奇妙なコスプレ集団ではなく、空から降ってきた少女だった。
笑みを含んだ言葉に、からかわれているような気がして十夜はカッと血を登らせる。
「当たり前だっ!」
「すぐに終わらせますから安心してください。…もしよろしければ、1曲リクエストしてもいいですか?」
怒鳴るように言い返した十夜に気を悪くすることもなく、少女は微かに笑うと穏やかな声音でそんなことを口にする。
「…曲による」
なかなか豪胆な様子と、先ほどの演奏にたった1人拍手をくれた相手というのを思い出した十夜は憮然とした様子でそう言った。
既に普段演じているキャラとかけ離れてしまったが、幸いにも視界にクラスメイトは誰もいない。
「そうですね、ではラヴェルの亡き王女のためのパヴァーヌはいかがでしょう?」
ピアノ曲ですけどね、と小さく笑う少女は確かな音楽の知識があるのだろう。
確かにピアノ曲だが、バイオリンで弾けない曲でもない。
誰もが知るバイオリン曲を選んでこないあたり、社交辞令で演奏を依頼したわけでもなさそうだ。
「選曲の理由は?」
短く問いながら弓を構える。
「私の好きな曲だからです」
その言葉で、十夜は彼女のために1曲弾いてやることを決めた。
純粋に好きな曲だから聴きたいというのであれば、長くもない1曲くらい奏じてやろうという気になる。
それに、誰かのために弾くというのは、適度な緊張をもたらし練習には最適だ。
妙な空間に巻き込まれているが、いっそそれらを忘れるように深く息を吸い集中する。
すっと弓を弦に当てれば、外界で何があっても1曲弾ききってみせようという気持ちが勝った。
「いい音ですね」
そう告げた少女の声は実に楽しげで、本当に演奏を楽しんでいるのだと伝わってくる。
音楽科の学校で同じ言葉を聞いても、そこには嫉妬かお世辞の色しか感じ取れなかった十夜は久々に聞いた純粋な賛辞に表情を緩めると、演奏にぐっと力を込める。
強く激しい旋律ではなく、どこか哀しげで切ない旋律はこの曲を所望した少女に似合うような気がした。
「ほう、余裕の構えだな【杜若(かきつばた)】」
そこへ、冷やかな深い声が届く。
演奏に集中したまま十夜がチラリと視線を向ければ、子供向けヒーローショーに出てくるような漆黒のスーツを身に纏った人物がゆっくりと歩いてくるのが見えた。
それを見た瞬間も集中を途切れさせることなく演奏と続けられた自分を褒めたいくらいだ。
身体にフィットするスーツのせいで、その闖入者がバランスよくしなやかに鍛えられた身体をしていることが一目でわかる。
「あら、不甲斐ないリーダーではなくて貴方が来たんですね、【ジャスティスブラック】」
演奏に身を委ねるように耳を傾けていた少女だったが、闖入者の姿を目にするなりくすりと笑う。
「生憎とリーダーは所用でな。安心しろ、正義が必ず勝つと言う法則は、この【ジャスティスブラック】が身体に刻んでやる」
そう声高に宣言すると、【ジャスティスブラック】と名乗った漆黒のヒーロースーツは戦闘の構えを見せる。
「貴方がこの【杜若】に勝てるとでも?所詮、夢物語なのだとしっかり理解させてあげましょう」
先ほどまで十夜に向けていた柔らかな声音ではなく、穏やかな口調でありながら氷の冷たさを湛える声で【杜若】はそう告げると、口の端に挑戦的な笑みを乗せた。
「ほざいていろっ」
言うが早いか【ジャスティスブラック】が跳んだ。
そのまま矢の速さで飛びかかるようにして、鋭い蹴りを放つ。
その蹴りが大きな攻撃だったからなのか、舞うようにしてひらりと躱した【杜若】に、【ジャスティスブラック】は更なる追撃を見舞う。
最初の攻撃が避けられることは予測済みだったのだろう、流れるような動きでいてどこまでも鋭い攻撃が容赦なく放たれていく。
何時の間にか中庭を一望出来る場所には人だかりが出来ているようで、そこら中から歓声があがっている。
十夜はその歓声に負けないように、自分の音を見失わないように曲を奏で続けていた。
「どうした?避けるだけが精一杯か?」
挑発するような口調で【ジャスティスブラック】は言いながらも、一切攻撃の手を休めようとはしない。
まるで演武のような美しい動きだが、当たれば間違いなくかなりの痛手を受けるだろう鋭い攻撃が続いている。
「そろそろ、終わりにしましょうか。曲もあと僅かですし」
激しい攻撃に曝され、絶えず身を翻して躱し続けるという芸当を続けていた【杜若】は、それでもきちんと旋律を聞いていたらしい。
余裕すら感じさせる声で告げると、ピタリと足を止めた。
観念したのか、と誰もが思っただろうその瞬間。
十夜が曲を弾き終えるのとほぼ同時に、ドサっという重い物が地面に落ちるような音が中庭に響いた。
何が起こったのか、正確に説明出来る人間は恐らく当事者だけだろう。
気が付けば、悠然と微笑む【杜若】が、地に転がった【ジャスティスブラック】を見下ろしているという結果だけが残されていた。
立ち上がろうとする【ジャスティスブラック】に、何時の間に抜いたのか【杜若】の細剣がピタリ突き付けられる。
「…降参だ」
急所に触れるギリギリのところで止められた細剣を見て、【ジャスティスブラック】が両手を上げた。
「私の勝ちですよ」
細剣を腰の鞘に戻し、【杜若】が笑みを浮かべる。
「ひとつ貸しておいてやるさ。正義が勝つというのが、絶対のルールだからな」
負けたくせに【ジャスティスブラック】は実に堂々と立ち上がると、そう言ってくるりと踵を返す。
彼が勝者ではないのに、その後ろ姿からは地に伏せられたことなど微塵も感じさせず貫禄すら感じさせるものだった。
「ええ、期待しないで待っていてあげます」
去っていく【ジャスティスブラック】の背に【杜若】はそう言うと、最初に現れた時のように柔らかい笑顔を浮かべる。
「征服は完了です。皆さん、撤収していいですよ」
【杜若】がそう言うと、全身タイツの怪しげなコスプレ集団が一斉に敬礼するようにビシっと足を揃え奇声を発する。
それが敬礼だと言い切れないのは、その集団が決まったポーズを取ったのではなく、片手を斜め上に向ける者や胸を叩く者など個性的かつ統一性のない動きをしたからだ。
「中庭の【コンクエスト】が終了しました!【正義の味方部】の【ジャスティスブラック】と【世界征服部】の【杜若】の戦闘は【杜若】の勝利です!」
報道カメラの前に立つリポーターが大きな声でそう叫んでいるのが視界の端に映る。
最後にリポーターが以上で中継を終わりますと言った言葉と共に、【特殊報道部】という腕章を付けた軍服集団も報道機材を片付けはじめ撤収していく。
全身タイツの集団は、先ほど撤収していいと言われてから順番に中庭を出て行ったようだ。
その集団につられるようにして集まっていた野次馬たちもどこかへ去っていった。
人影がほどんと消えた後も、何故か【杜若】は中庭に残っている。
「…なあ」
十夜はワケが分からないまま、仮面の少女に声をかけた。
「はい?何でしょう?」
振り返った【杜若】は、先ほどの戦闘の余韻を微塵も感じさせない優雅な足取りで十夜に近づいてくる。
「今の、何なんだ?」
「【コンクエスト】ですよ」
すっかり素の口調のまま問いかけた十夜に、【杜若】はおかしそうに笑ってあっさりとそう告げた。
そもそもその言葉の意味すらさっぱり理解出来ない。
「…演劇部?」
「【世界征服部】です」
辛うじて思いついた可能性を口にすれば、これまたあっさりと否定された。
「…は?」
そんなふざけた名称の部があってたまるかと半眼になって相手を見れば、【杜若】はただおかしそうに笑うだけだ。
「それじゃあ、私も撤収しますね。…次にお会いした時には、ぜひ威風堂々でも弾いてください。その曲に相応しい戦いをお見せしましょう」
【杜若】は一方的にそれだけ言うと、さっさと歩き去ってしまう。
今日最初に弾いていたエルガー繋がりか、と言葉を反芻しているうちに少女の小柄な姿は視界から完全に消えていた。
「…何なんだ、この学校」
言われた言葉に唖然としてその後ろ姿を見送ってしまってから、十夜は小さく呻く。
何だかこれ以上演奏する気ものなれず、バイオリンをケースに戻すとパチリと留め具をかけた。
せっかく楽譜の解釈でもしようと中庭に足を運んだのに、とんだ目に遭ってしまったというのが正直な感想だ。
僅かに迷った後、十夜は大人しく教室へ戻るべく中庭を後にした。
もし教室に誰かが居れば、さっきの出来事は一体何だったのかと聞こうとため息を零す。
しかし十夜は教室に戻った時には、残っているのは十夜の鞄だけで教室は完全な(もぬけ)(から)
僅かに傾いた日の差し込む誰もいない教室は、何とも言えない物悲しさに包まれていた。
さっき自分で弾いた曲のせいか感傷的な気持ちになってしまって、馬鹿馬鹿しいと首を振る。
それに正直自分でも上手く弾けたとは思えない演奏だった。
ああいう種類の曲は、特に苦手だ。
いっそ死にかけるような目に遭ってみたり、大切な人と死に別れたり、そういう経験でもないと自分には到底掴めない心境に思えて仕方がない。
本物の演奏を聴いたなら、あの旋律は間違いなく落涙に値する曲のはずなのに。
ふと寮に引っ越してきた日を思い出す。
あの時、桜並木の下で曲を奏でていた人物が、亡き王女のためのパヴァーヌを弾いたなら。
きっと自分は涙を零しただろう、そんな気がする。
十夜は悔しげに下唇を噛むと鞄を引っ掴んで教室を後にした。
帰って1人集中して練習しよう。
教室を出て猛然と歩き出すと、そのまま脇目もふらずに一目散に昇降口を目指し、そのまま寮を目指す。
幸いにも顔見知りとは遭遇せずに帰宅した十夜は、あらゆる雑念を払うように1人練習に没頭した。



翌日、木曜日はどんよりとした曇り空で、今にも雨が降り出しそうな重苦しさを感じさせた。
放課後になる前に雨が降り出しそうな空模様では楽器を持って行く気にもなれない。
十夜は放課後、学校で演奏をすることは諦めて寮を出る。
学校に着いたら煩く絡んでくるクラスメイトたちに昨日の出来事を聞いてみようと決意した。
昨日は【コンクエスト】だの【正義の味方部】に【世界征服部】といった訳のわからない連中が出て来たのだが、アレは演劇部の寸劇か何かではないのだろうか。
とても可愛らしい外見ながら要領を得ない上に妙な発言ばかりだった少女を思い出す。
3年生か2年生だろうという予想はついているが、それだけだ。
十夜が教室に着いた時、天気のせいかそれとも別の理由か、今日は昨日よりも教室にいる生徒の数は少ないく声をかけられそうな相手が1人もいなかった。
それなのに昨日より早く教室に着いてしまった十夜は手持無沙汰にになって、いっそ本でも借りてこようかと席を立つ。
確か渡り廊下を行ったところに図書室があったはずだ。
予鈴が鳴るまで、まだ20分もある。
十夜は教室を出ると渡り廊下へと向かおうと、廊下を歩く。
「おい、待てよっ」
十夜が渡り廊下に差し掛かった時、教室と反対側の図書室がある側の校舎から強い口調で誰かを呼び止める声が聞こえて来た。
声の高さと口調から察するなら、教師ではなく男子生徒だろう。
「…まだ何か用ですか?今日は貴方の相手をする予定はありませんよ」
応える声は、少女のものだ。
静かな声音だが、人通りのない廊下に反響してよく響いて聞こえる。
「オマエ、ふざけてんじゃねぇぞ!」
少年の怒声が聞こえたかと思えば続けてドンと壁を叩く音が響いて、十夜は朝から修羅場か?と目を瞬かせた。
こんな時間から痴話喧嘩とは恐れ入ると思ったが、その割には必死な声音に聞こえて首を傾げる。
あまにも拗れるようなら人を呼んだ方がいいのだろうか。
「…どいてください」
「不満なら、いつもみたいに振りほどけばいいだろ?オマエなら、余裕じゃないのか」
抑えられた少女の声は静かなままで、億劫そうな苛立ちを含んでいた。
それに重ねられた少年の声は挑発するような内容とは裏腹に、どこか案じるような響きだ。
本当にコレは止めなくて大丈夫なのかと十夜は角から声の方を見て、即座に首を引っ込めた。
見間違いでなければ、あれは昨日見かけた仮装集団の一味だ。
ちょうど階段の登り口の壁を背に、昨日【杜若】と呼ばれていた少女が立っていた。
その正面には、昨日のヒーロースーツによく似た色違いのシルエットの後ろ姿があって、壁に手をついて逃げ場をなくすように追いつめるような形で立っている。
色は鮮やかな赤。
「【ジャスティスレッド】、悪ふざけがすぎますよ。いい加減、そこを退いてください」
苛立ちを露わにした少女の声が再び響いて、十夜は階段の影からこっそり様子を伺った。
「ふざけてんのはそっちだろ!【杜若】っ!」
強く叫んだ【ジャスティスレッド】の声は悲痛な響きを持っていて、一体本当に何事なのかと混乱しながら十夜は成り行きを見守る。
【ジャスティスレッド】に詰め寄られた【杜若】は、【ジャスティスレッド】から視線を逸らし小さく嘆息した。
「なぁ、何で振りほどいて、いつもみたいにオレを倒さない?」
絞り出すような静かな声音で【ジャスティスレッド】が言葉を重ねる。
無理やり激情を抑え込んでいるような、無理やりに抑えた声はどこか痛々しくすらあった。
「…今、貴方を倒したところで何の意味もありませんから」
淡々と告げられた【杜若】の声は静かで、何の感情も浮かんでいない。
「そうじゃないだろ…っ!何で…。どうしてなんだ…!いつもみたいにやってみろよ!出来ないんだろ!何でそう言ってくれないんだよ!」
【ジャスティスレッド】はドンと壁を叩きつけると、力なく【杜若】の肩に手を乗せた。
顔を覗きこむように視線の位置を合わせる姿は何とも言えない哀愁を感じさせる。
「敵対している相手に情けをかけられる覚えはないんですけれど…」
苦笑を浮かべ、【杜若】は肩に乗せられた手を鬱陶しそうに払いのけた。
「オレには、オマエが好きで戦ってるようにも平気なようにも見えないんだよっ!」
「放っておいてください。貴方には関係ありません」
どこまでも悲痛な響きで絞り出された【ジャスティスレッド】の告白は、どこまでも冷たい一切の感情の浮かばない声で【杜若】に一蹴される。
「関係なくなんてっ…」
「…私は【世界征服部】のリーダーで、貴方は【正義の味方部】のリーダー、ただそれだけの関係のはずです」
それでもなお言葉を募ろうとした【ジャスティスレッド】だったが、遮るように告げられた冷たい言葉に声を失ったようだ。
1歩下がると、グッと力を込めて拳が握られる。
凄まじい力で握っているのだろう、ヒーロースーツのグローブがギリっと音を立てたのが聞こえた。
「そうかよ…。じゃあ、オレに今倒されても文句はねぇな?」
短く舌打ちをすると【ジャスティスレッド】は脅すような地を這うような声音で宣戦布告を告げる。
その手が真っ直ぐと【杜若】に向けられた。
「ええ…。本望ですよ」
囁くような甘い声で呟くと、【杜若】は軽く目を伏せる。
【ジャスティスレッド】は手を伸ばすと彼女の細い首に触れそうなところでピタリと止めた。
何をされるのか理解していながら抵抗する様子も見せない相手に何を思ったのか、【ジャスティスレッド】はくるりと踵を返すと、そのまま何も言わずに特別教室が並ぶ廊下を歩き去る。
「…甘い人ですね」
去っていく【ジャスティスレッド】の背中に投げられた言葉は静かな廊下に吸い込まれていくような小さくて柔らかな声だった。
そこまで一部始終を見ていた十夜は我に返ると、慌てて周囲を見渡す。
隠れる場所がどこにもなく、万が一【杜若】が階段や渡り廊下の方へやってきたら覗き見ていたことがバレてしまう。
何となくさっきの1幕は見てはいけない内容だった気がして、十夜は慌てて元来た渡り廊下の方へと走り去った。
渡り廊下を駆け抜ければ、すぐに教室だ。
そこまで行ってしまえば、仮に後ろ姿を見ても誰だか判断つかないだろう。
そのまま一気に教室に駈け込めば、教室にあったクラスメイトの姿が奇異の目を向けてくる。
「おはよう、佐伯。何か必死な表情だが、どうかしたか?」
驚きを露わにした祐一がクラスメイトの視線を代表してそう問いかけてきたのを、十夜は曖昧な笑顔で何でもない誤魔化すと、思い出したようにおはようと付け加えた。
つい先ほど見た光景の衝撃が強すぎたせいで、十夜はうっかり昨日の出来事とそれに付随していそうな今朝の出来事をクラスメイトに聞きそびれたまま予鈴、本鈴となり朝のHRに突入してしまう。
そのままズルズルと聞く機会を逸し、気付けば4限目が終わり昼休みとなっていた。
購買に行く前に、話を聞いてみようと十夜は席を立つ。
「…少し、時間あるかな」
十夜が声をかけたのはクラス委員長の祐一だ。
十夜にとっては割と話しやすい雰囲気である彼ならば、妙なことを聞いても気を悪くせずに答えてくれるかもしれない。
「どうかしたのか?」
鞄を持ち上げた祐一は、僅かに驚いたような様子で十夜を振り返る。
話しかけられるとは思っていなかったのかもしれない。
「少し教えてもらいたいことがあるんだけど、いいかな」
「だったら一緒に来ないか?昼」
重ねて問いかけた十夜に少し考える素振りを見せた後、祐一は1つ頷いてそう言った。
「…俺、購買行かないといけないから」
弁当を持ってきていないことを理由に必要以上の拘束をやんわり断ろうとした十夜だったが、何故か好都合というような目を向けられる。
「購買に行く必要などない。とりあえず今日だけでも一緒に来るがいい」
そう言って祐一は十夜の腕を引っ掴み、強引に引っ張った。
そこで十夜は祐一が手にしている荷物がやたらと大きいコトに気が付く。
学校指定の通学用の鞄とは別に大きな風呂敷包みを抱えていた。
十夜が強引に手を引かれて教室を出ると、教室の出口には赤也と拓海、それに瑞貴が立っていて、連行されてきたように見える十夜に驚いたように目を丸くする。
「お、十夜も一緒か。祐一、よく連れて来たな」
明るく言ったのは赤也で、連れてこられただけの十夜を勝手に頭数に含めてしまった。
「屋上と中庭、どっちが希望だ?」
赤也のみならず拓海まで十夜を頭数に含めてしまったらしく、勝手に二者択一を迫る。
「今日の天気予報、曇りのち雨だったと思うんだけど…」
どちらも屋根のない場所だが強いて中庭がマシだろうと、廊下の窓から空を見上げて瑞貴が付け加えた。
最初に十夜を連れて来た祐一はともかく、それ以外の人間まで誰1人として十夜を解放してやろうという発言をする者はいないようだ。
「じゃあ、尚更外でイイじゃん。人、少ないだろうしさ。中庭なら校舎が壁になるから、いきなり土砂降りでもない限り濡れないって」
結局は赤也がそう結論付けたことで、4人足す十夜の5人組は中庭に向かう。
昨日十夜が謎の演劇部員のようなパフォーマンスを見た場所だ。
中庭に着くなり拓海が鞄から何かを取り出して広げる。
広げられたのはよく遠足などで見かける大判のビニールシートで、中庭の芝生の上にふわりと広がった。
「広げておくから、飲み物調達は任せたぞ」
祐一はそう言いながらいそいそと靴を脱いでビニールシートの上に風呂敷包みを乗せる。
「…適当に買ってくるね」
ビニールシートを一瞥すると瑞貴は中庭からどこかへ歩いて行く。
その後を赤也が慌てて追いかけていった。
「佐伯、まぁその辺に座れ」
立ったままビニールシートの上に風呂敷包みの中身が広がっていく様をただ眺めていた十夜に、祐一からの無慈悲な通告が飛んでくる。
いきなり校内の中庭にビニールシートなんぞを広げだすような痛い集団とは無関係を装いたいのだが、拓海にまで視線で促されてしまってはどうやら後には引けないらしい。
まるで小学生の遠足風景を彷彿とさせる状況に、十夜は新しい精神修行か何かか新手の転入生イジメかと内心呻く。
先ほどからたまに突き刺さってくる他の生徒たちの視線が痛い。
というか高校3年生にもなって、コイツらは一体何を考えているのだろうか。
そこまで考えて、時折チラチラと向けられる視線の主たちは自分も数に含んでいるんだろうなと思い至った十夜は幻痛を覚えてため息をついた。
立ったままだと余計に目立ってしまうので十夜は諦めてビニールシートの上に納まる。
「今のうちに教えておこう。購買で何かを買うならば、今だと瑞貴か祐一に頼むと少しだけ割安だ」
大人しく座った十夜に、拓海がふと思い出したようにそう言った。
どういう意味だと首を傾げてみれば、後で説明すると笑われる。
「お待たせ」
涼やかに響いたその言葉と共に、ヒヤリと冷たいものが頬に押し当てられ、十夜は驚いて勢いよく振り返った。
見上げた先には、500ミリのペットボトルを何本か抱えてそのうちの1本を片手にした瑞貴が立っている。
どこか子供っぽく見える微笑みは、驚くとわかっていてあんな行動を取ったのだと確信させるものだった。
「どれがいい?」
瑞貴はそう問いかけると、持ってきたペットボトルを十夜に見えるように示す。
言われるままに視線をペットボトルに向ければ、緑茶、紅茶、ほうじ茶、玄米茶、ジャスミン茶、烏龍茶、麦茶、ミネラルウォーター、カフェオレ、と並んでいる。
5人しかいないはずなのに、何故500ミリペットボトルが9個もあるのだろうか。
十夜は笑顔で勧めてくる小動物的な外見のクラスメイトにチラリと視線を向けた。
これだけの数を落とさずよく持ってきたなという感想と同時に、人数を考えろ馬鹿という気持ちが浮かぶ。
「あ、温かいのがいいなら他の買ってくるよ?」
十夜がすぐに選ばないのを見て、瑞貴は微かに笑って首を傾げていた。
「そうじゃなくて。君、なんで人数のおよそ倍の数を買ってきたんだ」
思わず絶句していた理由を素直に口にしながら、手近な烏龍茶を手に取ると十夜は苦笑して見せる。
「誰か飲むだろうし、佐伯くんが何が好きか知らなかったから」
瑞貴はあっさりとそう言うと、残りのペットボトルをビニールシートの中央に転がした。
そのまま空いている場所に行儀よく座る。
「赤也はどうした?」
風呂敷包みの結びを解きながら祐一が瑞貴に視線を向けた。
一緒に行ったのではなかったのか?と問いかければ瑞貴は何とも言えない曖昧な笑みを浮かべて出て行った方と反対側の中庭出入り口を指す。
指された方に目を向ければ、赤也が男子生徒数人に何やら拝み倒されているのが見えた。
見ているうちに、適当に頷きを返して男子生徒を振り切った赤也が大きなビニール袋を片手に戻ってくる。
「悪ぃ、待たせたな」
片手を眼前に掲げ謝罪を口にすると、赤也はさっさとビニールシートの上に腰を下ろした。
ビニール袋がドサリと音を立てて中庭の芝生の上に降ろされた。
「それじゃ、昼にするとしよう」
祐一はそう言って風呂敷包みの中にあったものを突く。
そこには大きな明らかに行楽用の重箱が鎮座していて、十夜は何事かと目を瞬かせる。
「祐一の弁当は旨いぞ」
まるで我が事のような口調で言った拓海は重箱の側に置かれてあったプラスチック製の皿と割り箸を勝手に配り始める。
明るい黄色の皿と割り箸を渡された十夜は成り行きに着いて行けずに眺めているしか出来なかった。
大きな重箱が出て来たことにも驚いたが、まるで花見の宴会のような光景が当たり前と化しているクラスメイトにも驚く。
先ほどの拓海の口ぶりからすれば、あの重箱は祐一が用意してきた弁当ということなのだろう。
明らかに10人分はありそうな大きさの重箱がビニールシートの上に並べられていく。
1段にはぎっしりと俵型のおにぎりが並んでいて、2段目にはから揚げを筆頭とした揚げ物が数種類、3段目にはひじき煮に金平ごぼうそれと定番のだし巻き卵が所狭しと詰められており、4段目には魚の照焼きとインゲンの胡麻和えに、小松菜のおひたしが詰められている。
完璧すぎる和食の行楽弁当というやつだろう。
凄いと思うが、明らかにこれはこの人数で消費する量を超過しているように見えるのは十夜の気のせいだろうか。
「今日は和食か~」
並べられた重箱を見て、赤也が明るい声を上げた。
「デザートにはどら焼きを作ってきている」
得意げな様子で祐一が鞄から重箱1段分くらいの大きさの包みを取り出して見せる。
恐らくそこにデザートとやらが入っているのだろう。
「それじゃ、早速。いただきますっ」
勢いよく言うと、赤也がさっそく箸を伸ばした。
「佐伯、遠慮せずに食っていいぞ。味は保証する」
そう言ったのは用意してきた本人の祐一ではなく拓海で、君が言うなと祐一に肘で突かれている。
「気にせず食べてくれ。苦手な物があれば言ってくれれば避けるしリクエストも受け付けている」
この先も当然一緒に昼食を摂ると決まっているかのような口ぶりで祐一は十夜に笑顔を向けた。
聞きたい内容があったから声をかけただけなのに、一体どうしてこんな流れになったのだろうか。
十夜は周囲から突き刺さる視線を気にも留めずに小学生の遠足のような光景を楽しんでいるクラスメイトたちにこっそりため息をついた。
「佐伯くん、どうかした?」
一向に箸をつけようとしない十夜を訝しむように瑞貴が首を傾げる。
「あ、いや…何でもないよ」
十夜は取り繕うような笑顔を浮かべると、意を決していただきますと箸を伸ばした。
今日だけだと自分に言い聞かせ、周囲から突き刺さる視線を意図的に無視する。
手近な揚げ物に手を伸ばし、思い切って口にした。
「…美味しい」
見た目こそオーソドックスなから揚げではあったが、きちんと味付けをされ冷めても衣のさっくりとした食感が失われていない。
思わず十夜から本音の感想が漏れても仕方がないくらい、プロ顔負けの出来だった。
「十夜、こっちのコレも、あとそっちのソレも旨いぞ」
箸を持ったままの手で赤也がアレやコレと指していく。
その様子に、拓海が行儀が悪いと赤也の手を叩いた。
小学生のやり取りの延長のように見えて、十夜は苦笑を浮かべると赤也の勧めに従って箸を動かす。
その様子を見てクラスメイトたちが満足げに笑みを交わしたのが見えて、十夜は理由がわからずに内心で首を捻った。
そこでふと十夜は行儀よく座ってはいるものの、一向に食事に参加する様子のない瑞貴に気付く。
割り箸を袋から出しもせず、のんびりとクラスメイトたちを眺めているだけだ。
十夜が加わったところで到底5人で消費する量を超過しているように見えるので、それが理由とは考えにくいが、何故参加しないのか分からず十夜はついまじまじと視線を向けてしまった。
別に突き刺さる視線に居心地の悪さを感じた十夜と違って、そういうのを気にしているようにも見えない。
十夜の視線に気づいた瑞貴は、どうかした?といった様子で軽く首を傾げた。
自分の行動が異常なのだと気付いていないのだろうか。
「こら、瑞貴。オマエ、何見学してんだよ」
十夜が何かを言う前に、その様子に気づいた赤也が呆れたような声をあげる。
「佐伯が加わったところで、お前のノルマは変わらんぞ」
そう言った拓海は瑞貴の手から皿を取り上げると、ニヤリと笑って勝手に皿の上に色々と乗せはじめた。
と言っても手のひらサイズの皿にはそんなにたくさんの物が乗せられるわけではないので、乗っているのは少しだけだ。
「…ノルマって」
押し戻された皿を受け取りながら瑞貴が軽く表情を引き攣らせたのは、拓海の言い回しのせいだろうか。
諦めたような様子で箸を手にしたようにも見えるので、嫌いなものでもあるのかもしれない。
「そういえば佐伯は何か聞きたいことがあったのではないのか?」
食事の手を止めることなく祐一が十夜に目を向けた。
そもそもその一言を十夜が放ったせいでこうやって一緒に中庭で遠足をする羽目になったのだ。
そのことを思い出し、十夜は1つ頷いた。
「昨日の放課後の出来事なんだけどね」
そう切り出せば、クラスメイトたちは何のことだろうと顔を見合わせる。
「中庭で、演劇部か何かの寸劇みたなのがあったんだけど、アレって何なのかな」
こんな表現で伝わるのか疑問ではあったが、十夜は昨日の出来事をどう説明して良いのかわからず端的に述べた。
昨日、空から軍服コスプレのような少女が降ってきてヒーロースーツの少年と戦っていたのだがアレは何だとストレートにはさすがに口にしたくない。
「それはもしや、【コンクエスト】のことを指しているのか?」
十夜の疑問に、祐一が眼鏡の奥で目を光らせたように見えたのは気のせいだろうか。
確かに昨日のコスプレ美少女【杜若】が十夜に告げた単語は、そんな名称だったような気がする。
恐らくと小さく頷いて見せれば、祐一は何やら難しい顔で考え込むように小さく唸った。
「昨日っつーと【ジャスティスブラック】と【杜若】の戦闘見たってコトだよな」
楽しそうな口調で赤也は言うと、大口を開けておにぎりを口に放り込んだ。
「ああ。間違いない。そう言えば、あの時演奏をしていたのは佐伯だったな」
一体どこでその光景を見ていたのか、拓海は皿の上で魚の照焼きを切り分けながら成程と頷いている。
「どうせいつものように【正義の味方部】が【世界征服部】に負けたのだろう?ということはこの中庭は【世界征服】の領土のようなものか」
可笑しそうに笑って、祐一は地面を指差した。
十夜はさっぱり会話に着いて行けないが、どうやら彼らは昨日の出来事を正確に把握しているようだ。
「その【コンクエスト】、だっけ?それって一体、何なんだい?」
【正義の味方部】?【世界征服部】?部って、そんな部活動でもあるのかい?と十夜がからかうような口調で問いかければ、妙に神妙な表情をされた。
「すごく詳しく色々と説明してやりたいんだが、校則が変わったせいでどう言えばいいのやら…」
困ったような表情を浮かべ、祐一はそう呟くと、チラリと瑞貴に視線を向ける。
「【コンクエスト】は今年から実験的に開始された志貴ヶ丘学園高等部における一種の通年行事だよ」
視線を向けられた瑞貴は空になった皿をビニールシートの上に置くと、十夜に向き直るようにしてそう説明を始める。
「簡単に言えば【世界征服部】が侵略者の役で【正義の味方部】が現地抵抗勢力ってところかな。一応生徒会が認可している正式な部活動だよ」
そう続いた説明に、十夜は思わずはぁ?と間抜けな声を上げてしまった。
「…それは、一体、どういう部活動なんだ…?」
まるで子供向け番組の説明をされているような気になって、十夜は呆れ交じりの視線をクラスメイトたちに順番に向ける。
そんな馬鹿気た中身を何とも思わないのだろうか。
「簡単に言えば陣取りゲームだな。【世界征服部】が学園内のどこかを征服しようとする。それを【正義の味方部】が阻止する。中身は、昨日見ただろう?ああやって各部の部員同士が戦って、勝った方がその場所の所有権みたいなのを得るわけだ」
軽く考え込むようにしてから、拓海が口を開く。
どうやらそれが部活動の趣旨のようだ。
「【正義の味方部】が勝ったら防衛成功、【世界征服部】が勝ったら征服成功ってカンジで中立になってるエリアや相手の所有してるエリアを取り合って、その勝敗の結果が全校生徒に影響するんだぜ?」
弁当のおかずに手を伸ばしながら赤也が楽しそうな口調でそんなことを言いだした。
「全校生徒…?」
いきなり話が壮大になったせいで、十夜は頬を引き攣らせる。
何なんだソレはと心の中で吐き捨てた。
「全校生徒は【正義の味方部】と【世界征服部】のどちらを支持するのか、選ぶわけだ。そして戦闘によって変動する学園の支配率によって、購買の値段が変わる仕組みだ。勝っている側を支持している生徒は割合に応じて安く商品を購入出来る」
さっき、拓海が説明しただろう?と祐一がふっと笑みを零す。
飲み物を調達しに行った時、確か今なら祐一か瑞貴に言えば割安だと拓海が言っていたが、そのことだろうか。
「俺が支持しているのは【世界征服部】で赤也と拓海は【正義の味方部】だからな。今は【世界征服部】が勝っているから、俺か瑞貴が買いに行く方が安いというわけだ」
軽く首を捻った十夜に祐一が種明かしとばかりに重ねて説明をしてくれた。
「…どうやって見分けているんだ?」
そんなトンデモ設定な部活動だか学園陣取りゲームだかはさて置き、購買の値段が変わるというのであれば明確に支持勢力を見分けなければならないだろう。
誰がどちらを支持しているのかなんて一体どうやって見分けているのかと十夜は首を傾げた。
「制服で分けてんだよ。十夜はまだ支持勢力がないからチャコールグレー、要するに入学したての1年と同じだな。で、オレと拓海は【正義の味方部】だから臙脂色」
自分のブレザーに親指を向けて赤也が笑顔で答えを教えてくれる。
制服の色分けの謎は、そういう事だったのかとようやく話が繋がった気がした。
「祐一が支持してるのは【世界征服部】だから紺色といった違いだ。購買ではブレザーの色で見分けている」
補足のように拓海がそう付け加え、祐一のブレザーを指す。
成程と頷きかけた十夜は、そこで4色目を思い出して瑞貴を振り返った。
先ほどの流れでは、祐一と瑞貴の支持勢力は同じということではなかっただろうか。
「…じゃあ、白は?」
その疑問を口にした瞬間、赤也と拓海が目を丸くして困ったように顔を見合わせてしまった。
「えっと、ソレはだな…」
言葉を探すように視線を彷徨わせ、赤也が情けない笑みを浮かべる。
「…そうか、俺たちには周知だったが、佐伯は知らなくて当然だな」
さてどう説明しよう、と祐一まで首を傾げてしまう。
聞いてはいけないことなのだろうかと視線で問いかければ、拓海が校則の制約がと呟いた。
「【コンクエスト】にはちょっとややこしい決まりがあってなー…。簡単に言えば、誰が【正義の味方部】だとか、運営してるのが誰だとか、そういうのは関係者だけの秘密っていうルールなんだよ」
赤也が歯切れ悪くそう口にした。
しかしそれは十夜の問いかけの答えではないということは赤也本人も解っているらしく、どう説明したものかと腕を組んで考え始めてしまう。
「佐伯くん、昨日の【コンクエスト】を見てたから知ってると思うけど、かなりの人数の生徒が関わってるでしょ?当然厳しい運営ルールが決められているワケだけども…」
言葉を失っている赤也たちに呆れたような目を向けると、瑞貴は十夜に柔らかい笑顔を見せた。
全身タイツのコスプレ集団に放送機材を抱えて現れた下級軍服集団、確かに大勢関わっていると十夜は言われた通りに昨日の記憶を辿って頷いた。
「白い制服の生徒は、ルールを設定する際に関わってるんだよ。しかも今後もルール改定とかに関わる可能性がある。だから公平を期すために表向きは中立って立場を表してるの」
実際どちらを支持しているのかは、運営の上部組織が把握しているから問題ないのだと瑞貴は笑顔のままで説明を終える。
確かにそう言われれば納得だ。
ルールに関わる人間がどちらの支持をしているのかというのが明らかになれば、いかに公平なルールを設定したとしても異議を唱える者も出てくるだろう。
その説明を聞き終えた赤也と拓海が感心したようにパチパチと小さく手を叩いている。
「【コンクエスト】に関しての総合窓口は理事長室前に設置された投書箱だから、何かあればそこによろしく」
これで説明は終了とばかりに瑞貴は笑顔で言葉を打ち切った。
「では佐伯の疑問も解消されただろうし、さっさと重箱を空にしてくれ。デザートが待っている」
祐一がそう言ったので、十夜は大人しく食事を再開した。
人数の割に多いと感じた重箱ではあったが、主に赤也を中心として消費されていく。
重箱が空に近づく頃になっても飽きの来ない味に十夜も割と遠慮することなく箸を進めた。
あまり関わるつもりがなかったのに、いつの間にかこの集団の仲間に自然と溶け込まされていることに少し驚きながらも、思ったよりも悪い気がしないのだと感じる。
和やかというよりは明るい遠足風景の中で、瑞貴だけは拓海が最初に皿に乗せただけしか食べようとしなかったのでそれとなく問いかけてみたところ、いつものことだから気にするなとあっさり返された。
そんなわけで実質4人で重箱を空にしたところに、祐一がデザートだと言って箱を開けてどら焼きを示す。
それに手を伸ばす頃には、不思議と突き刺さる視線が気にならなくなっていた。
「さてと…オレ、ちょっと行ってくるわ」
どら焼きを頬張った後、赤也は勢いよく立ち上がる。
「何処にだ?」
祐一が片眉を上げて問いかければ、中庭の一角に固まった男子生徒数人を指す。
「ちょっとだけ組手付き合って欲しいんだと。さっき頼み込まれてさ」
すぐ戻ると言い置いて、赤也はビニールシートから芝生の上に移動した。
鞄は置いたままなので宣言通りすぐに戻ってくるつもりなのだろう。
「組手?」
格闘技でもやるつもりなのか?と拓海が首を傾げる。
「あの集団、総合格闘技研究同好会のメンバーだね」
答えたのは瑞貴で、赤也が向かう先にいた生徒に目を向けていた。
「成程、では俺も行ってこよう」
面白がるような声でそう言うと、拓海も赤也を追っていく。
「よくそんなマイナーな同好会まで把握しているものだ」
感心しているのか呆れているのか判断のつかない表情で祐一は瑞貴に視線を向ける。
「まぁ、必要に駆られて仕方なく」
そう返す瑞貴の言葉を後ろに聞きながら十夜は歩き去ったクラスメイトたちの姿を目で追った。
彼らは待っていたらしい男子生徒たちと軽く言葉を交わした後、中庭の少し開けた場所に移動する。
赤也と拓海は少し距離を取って背中合わせに立つと、男子生徒たちを軽く手招く。
何を始める気なのかと眺めている先で、いきなりバトルが始まった。
2人を囲むように散った男子生徒たちが勢いよく攻撃を繰り出していき、2人はそれらを難なく捌いていく。
まるで大人と子供の喧嘩のように、手も足も出ない様子で捌かれていく男子生徒たちだが、凝りもせず何度も何度も挑みかかり、その度にあっさりと捌かれてしまう。
周囲からわっと歓声が上がっているのは、その光景を見世物だとでも感じているのかもしれない。
「赤也と拓海が我を忘れなければいいがな」
苦笑を浮かべ祐一はその光景を眺めなが重箱などを再び風呂敷に包んでいた。
「あの程度の実力じゃ、あの2人を本気にさせるのは無理じゃないかな」
面白くも無さそうに告げられた言葉と発言者に違和感を覚えて十夜が振り返れば、瑞貴はそもそもその光景に目を向けてすらいない。
意外な人物から意外な言葉を聞いた気がして十夜は思わず聞き間違いだったかと思ってしまった。
視線を戻せば彼らのバトルのようなものはますますヒートアップしていったようで、最初に2人を取り囲んでいた生徒意外も加わって乱闘の様相に様変わりしている。
本当に小学生かと思うような状況だが、2対多数となった状況に大丈夫なのかと首を傾げた。
一見集団リンチのように見えなくもない状況だが、問題にならないのだろうか。
十夜の心配を他所に、歓声は大きくなるばかりだ。
「おら、かかってこいよ!遊んでやるからさっ」
そう挑発しながら笑顔を見せる赤也に、女子生徒が黄色い悲鳴をあげた。
確かに好戦的な雰囲気で笑う赤也はかっこよく見えなくもない。
軽く浮かべる笑顔は野性的で、快活で健康的な彼の魅力を3割増しにしていると言ってもいいくらいだ。
「程々にしておけよ?」
拓海は言葉こそ赤也に呆れているようにも聞こえる内容だったが、自信ありげに口の端を上げて笑みの形にしている。
元々が涼やかな目元のクールな美形とでも言える外見なので、そういう表情をするだけでカッコイイと女子生徒が騒いでも仕方ないだろう。
そんな2人はそろそろ10人になるかという対戦相手を片っ端から倒し続け、女子生徒のみならず一部の男子生徒からも羨望の眼差しを向けられていた。
徐々に白熱していくバトルの様相に、思わずここが日常ではなくてドラマの1シーンでも収録しているような気すらしてくるが、残念ながら間違いなく現実だ。
「止めなくていいのかい…」
十夜は流石に色々とマズイと感じ、ビニールシートの上に広げたものを片付け終えた祐一の肩を叩いた。
アレではもう組手などではなく乱闘だ。
赤也や拓海が余裕そうに見えるから大丈夫だとうっかり安心してしまいそうになるが、いなされ続けている生徒たちの頭に徐々に血が上っているように見える。
最初はじゃれ合いのように見えていたが、挑みかかっていく生徒たちの目が割と本気だ。
「俺にあんな人外バトルが止められるわけがない」
祐一はあっさりとそう言うと、同意を求めるように十夜と瑞貴に交互に視線を向けた。
確かに言う通りだと納得している十夜の向こうで、瑞貴は小さく首を傾げてみせる。
「…まだ人外って程でもないよ」
そう言うと、瑞貴は興味なしとでもいう様子で転がっているミネラルウォーターのペットボトルを手に取った。
「俺には充分人外に見えるがな。…なぁ、瑞貴。それ、増えてないか?」
やれやれと肩を竦めた祐一は振り返ったついでに瑞貴の手の中を指してすっと目を細める。
何の話だろうと十夜が視線を向ければ、瑞貴の手の中には何やら複数種類の錠剤が並んでいた。
パッと見なので自信はないが、薬局で誰でも買えるようなものではなく処方箋がないと購入できない種類の物に見える。
「そうだっけ?」
自分のことなのにどうでも良さそうに言うと、瑞貴はそれらの錠剤を口の中にまとめて放り込んでついでに水を呷った。
「減らす努力をしろと」
深いため息と共に祐一はそう言うと、軽く肩を落とす。
何の薬なのだろうかと気にならないわけではないのだが、果たして聞いてもいいものなのだろうかと視線を泳がせた十夜だったが、不意に上がった女子生徒の悲鳴に勢いよく振り返る。
少し目を離した隙に、どうやら何かあったらしい。
「オレに1撃入れられるとは、大したもんだな」
ニヤリと笑う赤也は、獰猛な肉食獣の顔をしていた。
「あれはまずいな…」
祐一の呟きを裏付けるように、赤也と拓海を取り囲む集団が一瞬怯んだように見える。
「お前が攻撃を食らうとは、珍しいな。弱くなったんじゃないか?」
さも意外そうに言った拓海の冷やかな声に、何だとと赤也が吠えた。
「それはオマエの方だろ!昨日だって負けたじゃないか!」
言うが早いか、赤也は拓海へ向かって大きく拳を奮う。
「ちょうど骨のない相手ばかりで飽き飽きしてたところだ」
ニヤリと笑って攻撃を避けた拓海は応戦の構えをとった。
どちらも楽しそうな笑顔に見えるので仲違いをしたわけではないのだろうが、いきなり本気のストリートファイトが始まって、それまで彼らに攻撃を仕掛けていた生徒たちが数歩後ずさる。
さっきまでの戦闘を評して、瑞貴がまだ人外ではないと言った理由がわかったような気がした。
歓声をあげていた生徒たちもどうしたら良いのか分からないという困惑の様子へと変わる。
それ以上に困惑した十夜は助けを求めるように祐一に視線を向けてみたが、完全にどうしようもないとでも言いたげな諦めの滲むため息が返されただけだった。
そこへ先ほどまで赤也たちと乱闘を繰り広げていた男子生徒が駆けてくる。
「助けてくださいっ」
必死の形相で訴えてくる姿に十夜は軽く身を引いたが、こういう光景に慣れているのか祐一は動じた様子を見せない。
最初から止めるのを諦めているような祐一に、十夜は内心で頭を抱えた。
「…自分たちで撒いた種じゃないの?」
瑞貴も止める気はないのか、小さく首を傾げて男子生徒を覗きこんでいる。
止められるとは思わないが、いくら何でも友人として無責任じゃないのかと思わなくもない。
「そんなぁ…助けてくださいよ、会長~」
無慈悲な発言に、男子生徒は泣きだしそうな声でそう訴えた。
「瑞貴、後輩を苛めるな。それにそろそろ止めないと5限目に遅刻だ」
そう言うと、祐一は立ち上がって訴える後輩の肩に手を置いて大仰に頷いてみせる。
だったらお前が止めろよと十夜は内心思ったが、うっかり自分に依頼されても無理なのでひたすら無言を貫く。
「これに懲りたらあの2人の取り扱いは気を付けてね?」
瑞貴は小さく溜息を零すと、立ち上がって後輩らしき男子生徒に笑顔を向ける。
男子生徒が何度も大きく頷いたのを見ると、片手で殆ど減っていないミネラルウォーターのペットボトルを弄ぶようにしながら騒ぎの中心へと向かっていく。
ちょっと通してと歩いて行く瑞貴の姿を認めるなり、生徒たちは驚くくらい素直に道を開けた。
まるでモーセの十戒のような光景だと思いながら、どうするつもりなのだろうかと十夜は固唾を飲んで見守る。
「2人とも、校内での暴力行為は禁止だよ」
場違いなほど穏やかな声で瑞貴が絶賛ストリートファイトの真っ最中の2人に声をかけた。
そんなので止まるワケないだろうと脱力した十夜の考えた通り、当然戦闘は止まらない。
どうするんだという訴えを込めて祐一に視線を向けてみたが、眼鏡の奥で愉快そうに笑っているのが見えるだけだ。
絶望感に近い心境で成行きを見守る先で、瑞貴が手にしていたペットボトルの蓋を開けるのが見える。
次の瞬間、十夜はわが目を疑うほど驚いた。
一片の容赦の欠片もなく、瑞貴が戦闘中の2人目掛けてペットボトルの水をぶちまける。
「おい!濡れたらどうすんだよ!」
「さすがにそれはやり過ぎだ」
勢いよく飛びずさり、寸でのところで水を回避した赤也と拓海は口々にそう言って瑞貴を振り返った。
「…1滴もかかってないから大丈夫でしょ」
避けられたでしょ?と冷ややかにすら聞こえる声音で瑞貴は淡々と言うとくるりと踵を返す。
「オマエな…。オレと拓海じゃなかったらずぶ濡れだぞ」
脱力したような赤也の声に、成り行きを見守っていた集団が大きく頷いたのが見える。
その意見に十夜も全力で同意した。
小動物的な外見にそぐわない思い切りのいい仲裁には、驚いたというよりも肝を冷やしたという方がピッタリだ。
止めてくれと懇願した男子生徒は、騒ぎが収まってほっとした様子で胸を撫で下ろしていた。
ようやく教室に戻れると十夜が安堵した次の瞬間、涼やかな声が中庭に響き渡る。
「今から名前を読み上げる生徒は全員騒ぎを起こした罰として原稿用紙2枚分の反省文を今週中に生徒会長宛に提出すること。校則第5条1項、校内での迷惑行為を禁ずる」
声を張り上げたわけではなく、純粋によく通る声で無慈悲に言い放った瑞貴に十夜ぎょっとして目を向けた。
そのまま淀みなく6名の名前を挙げながら瑞貴は騒ぎの首謀者というより発端となった生徒たちにチラリと視線を向ける。
当然その中には仲裁を頼んできた男子生徒の姿もあった。
「それから、3年4組、新田赤也と黒島拓海はさらに1枚追加の3枚提出するように」
「ちょっと待てっ!オレたちも!?」
「俺たちは巻き込まれただけだろう」
自分たちの名前が告げられた瞬間、赤也と拓海は驚きの声を上げる。
「校則第5条2項、校内での暴力行為を禁ずる。赤也と拓海はコレに抵触してるから書いてもらうよ?」
ピシャリとした口調でそう言うと、瑞貴は反論は認めないといった様子で2人を振り返った。
「3枚ってのはなんだよ!」
なんで増えてるんだと赤也が抗議の声を上げる。
騒ぎの発端となった集団よりも処罰が重いのが納得いかないといった様子だ。
「後輩の模範になる立場なのにああいうことするからでしょ」
取り付く島もないというのはこういう状況を指すのだろう。
瑞貴はそれだけ言うと鞄を放置したままの十夜たちのところに戻ってくる。
「相変わらず容赦ないな」
おかえりと出迎える代わりに祐一はそんな言葉を投げかけた。
「最初だしね…」
これに懲りたら大人しくするでしょと瑞貴は苦笑する。
そこに追いついてきた赤也が再び減らそうぜと声をかけたのは、当然ながら黙殺された。
「教室、戻るぞ?」
祐一がそう言って腕時計を示すようなジェスチャーを見せたので、十夜は慌てて鞄を拾う。
それにつられるように、クラスメイトたちが後に続いた。
「…そう言えば、処罰って生徒が勝手に決められるものなのか?」
教室までの道のり、ふと気になって十夜はそう尋ねる。
先ほどの1幕では最終的に騒ぎを治めた瑞貴が勝手に処罰を言い渡していたはずだ。
「あぁそうか。佐伯は知らなかったな」
その言葉に祐一がひとつ頷いてニヤリと笑った。
「瑞貴は生徒会長だ」
告げられた言葉に十夜はピタリと足を止める。
何だって?と聞き返したくなるような内容だったが、恐らく聞き間違いなどではない。
どういう経緯で瑞貴が生徒会長になったのかは不明だが、授業中を寝て過ごしているような人間が生徒会長を務められるこの学校はどこまでも平和な学校なのだろう。
十夜は深く考えるコトを早々に放棄し、そう結論付けると教室へと足を向けた。
製作者:月森彩葉