Lost⇔Last=Note

第4楽章#アタリマエじゃない日常

校外学習の翌日の金曜日、前日の別れ際に言った言葉は冗談ではなかったのか瑞貴は学校に来なかった。
あまりにもタイミングが合いすぎていたので十夜は祐一を捕まえてあの小動物はサボリかと怒りを露わに問いただせば、たまにあることだと簡単に言われてしまう。
寮ですれ違いでもすれば小一時間ほど説教してやるのにと思って1日を過ごし、寮に戻ってみたところで当然ながらすれ違うようなことはなかった。
説教を週明けに先送りし、土日は遠方のバイオリンの師匠の下へ足を運ぶ。
2日間みっちり演奏をしているうちに、心の中の余計な物が削ぎ落とされ、無心で音を奏で続けているいつもの自分を取り戻す。
それでも弾き続けているうちに何度か、弾き続けていないと死んでしまうと言った友人の言葉が脳裏をよぎった。
「十夜、少し音が変わったかい?」
長年師と仰ぐ音楽大学の教授に柔らかく温かな目を向けられ、静かに問われる。
心当たりはないが悪い変化だろうか、やはり音楽科の学校ではなく普通科に通っていることが悪影響したのかと不安になれば、どうやらそれは杞憂だったようだ。
「前よりもいい音を出すようになったね」
褒められて決して悪い気はしない。
滅多に褒めてくれない師に褒められ、舞い上がってしまったほどだ。
どうやらほんの少しだけ足らないモノを埋めることに成功したらしい。
ただ、自分に全く心当たりがないというのが玉に瑕ではあるのだが。
結局、十夜は晴れ晴れとした気持ちで週明けを迎えた。
毎晩聴いているお気に入りのCDの音色が、いつもより深い音に聞こえたのは心が軽かったからだろうか。
月曜日、足取り軽く登校した十夜だったが、十夜を迎えた友人たちはやはり1人足らなかった。
火曜日、水曜日、木曜日と続きついに瑞貴が学校に来ないまま1週間が経過する。
そのうちに中間考査の時間割は発表されるし、ついにテスト前1週間期間にも突入してしまった。
そして金曜日。
十夜はついに痺れを切らし、昼休みのいつもの遠足風景に苛立ちを露わにした。
「一体いつまで来ない気なんだ!」
十夜の憤然とした問いに、しかし応えられる人物は誰もいない。
さすがに今回は長すぎるよなぁと顔を見合わせる友人たちに十夜は深々と溜息をつく。
「何なんだ、新手の引きこもりか!」
寮でも全く見かけないと息巻けば、3対の目が驚きに見開かれた。
「そら、今、寮にはいないだろ」
赤也によってすれ違いすらしない理由はあっさりと暴露される。
「寮にいるならば、いくらなんでも登校してくると思うぞ?」
アレでも一応生徒会長なんだぞと拓海に諭されれば、十夜はそれもそうかと思い直さなくもない。
「寮にいないとして、ドコで何をしてるんだ」
もうテスト直前だというのにと心の底から呆れると、十夜は念のために用意しておいたノートのコピーとテスト範囲のメモを思い浮かべる。
勉強している様子が欠片もない人間のために、最悪は少しくらい時間を割いて教えてやってもいいと思っていた矢先にコレだ。
「一応テスト範囲などを伝えに行こうと思っているが、十夜も行くか?」
どこで何をしているのか知っているらしい祐一が控えめにそう問いかけて来たので、十夜は鼻息荒く頷いて見せた。
「ああ、少しくらい説教して根性を叩き直してやる」
少なくともテストで最低限の点数は取ってもらいたい。
生徒会長という肩書に幻想を抱いている後輩たちの夢は守ってやらねばなるまいと謎の決意を込めて十夜はニヤリと笑みを浮かべる。
「…程々にしてやれ?」
十夜の権幕に軽く気圧されたように祐一が溜息をついた。
「じゃ、今日から部活もないし、放課後行くってことで」
ソレでOK?と赤也が周囲をくるりと見回す。
拓海と祐一が頷いたのを見て、十夜もしっかりと頷いて見せた。
「少し遠いけど、幸い明日は休みだしな」
帰宅が遅くなっても問題ないだろう。
拓海のその言葉に、十夜は一体瑞貴はドコにいるんだと首を傾げるばかりだった。
逸る気持ちを抑えて5限目6限目を終え、もどかしい気持ちでHRを迎えていることに十夜は内心少しだけ驚きを覚える。
自分が他人のことをこんなに気にかけているということが正直不思議でならない。
しかし、短いようで短くなかった1か月を振り返れば、驚くくらい自分の世界の中に入り込んできた相手だったと思う。
赤也や拓海、祐一とも確かに仲良くなったし、悪友だと言い合えるような会話をしている。
そういう意味では1番会話の少ない相手が瑞貴なのだが、その種類が1人だけ他と違う気がしていた。
唯一、十夜の音や音楽についての入れ込みように目を向けていてくれたように思う。
1番最初に授業中に演奏した時もそうだ。
十夜の性格に合った選曲をし、曲の途中で速度を変えてもあのピアノはどこまでもついてきた。
その時、あまりの弾きやすさに驚いた気持ちや楽しいと感じた気持ちはまだ心の中に残っている。
勝手に音楽室に侵入してバイオリンを弾いたあの日も、十夜の性格や音をピタリと当てて見せ、それを好きだと笑っていた。
賭けにも負けたし、やはり得意な曲を言い当てられもしたのはいっそ清々しいくらいだ。
そして、水族館で言われた言葉。
自分自身ですら気づいていなかったような部分まで指摘された。
今までに出逢った他の誰とも違う目で十夜のこと見ているのだと、そう感じたのは初めてのことで。
だから気になるのかもしれない。
自分にとって特別な目を持っているから。
HRが終わり、生徒たちがのんびりと教室を出ていく。
「それじゃ、行こうか」
拓海に声を掛けられ、十夜は頷いて席を立つ。
学校を出て向かう先は、最寄り駅。
電車を乗り継いで向かった先は、知らない場所だった。
「…ここは?」
目の前に広がる大きな建物を前に、十夜は目を瞬かせる。
わざわざ聞くまでもなく、その建物が何かは一目瞭然だ。
しかし、何故こんな場所に連れてこられたのか理解できなかった。
正確には理解するのを頭が拒否していると言った方がいいのかもしれない。
ガラスの自動ドアを潜っていく赤也たちの後を追って、十夜もその建物の中に足を踏み入れる。
入口には、高宮(たかみや)病院と大きな看板がかかっていた。
室内には病院特有の消毒液の匂いが漂っていて、スタッフと思われる人たちが身に纏っているのは白衣や看護師特有の服で、すれ違う中には点滴を押して歩く人もいて。
それだけで決して看板が見間違いなどではないと物語っていた。
間違いなくここは大きな総合病院だ。
まるで通いなれた道のように奥へと歩いて行く友人たちの姿に違和感を覚えながら、十夜はその後を追いかけた。
外来の受付などの窓口の横を通り抜け、総合案内のような場所も通り過ぎ、エレベーターホールへとたどり着く。
エレベーターに乗り、扉が開けばすぐそこに見えるのはナースステーションだ。
どうしてこんな場所にという単語だけが頭の中をぐるぐると回っている。
混乱した頭で友人たちの背を追い、そして彼らが足を止めた先は病室の前だった。
一応控えめにノックをし、引き戸が引かれる。
扉の向こうに見えたのは、ドラマなどで見るような病室と寸分違わない部屋。
広い個室の奥で開かれた窓の横でカーテンが揺れているのが目に入った。
「…あれ?みんなで来たの?」
中から驚いたような声が聞こえてくる。
聞き覚えのある、普段と全く変わらない声音だ。
「成行きでな」
あっさりとそう応え、祐一が中へ入って行った。
故意に見ないようにしていた真っ白なベッドの上。
上体だけを起こし布団の上に本を広げているのは、見間違いようもなく瑞貴だった。
「え…十夜まで来たの?」
入口で固まっている十夜を見るなり、瑞貴がますます驚いたといった様子で声をあげた。
軽く目を瞠る表情と意外そうな声は普段と何も変わらない。
ただ明らかに入院着だと分かる服の上に軽く羽織られただけの薄手のカーディガンが痛々しく見えるだけだ。
見れば右手からは細い管が繋がれていて、それが点滴だとすぐにわかってしまう。
普段と変わらない様子に見えるのに、違っていた。
「そこ通路だから、中に入っちゃって。その辺にイスとかあるでしょ?」
未だ入口から動けないままの十夜に瑞貴が声をかける。
「あ、あぁ…」
言われるまま中に入ると引き戸が自動で閉まった。
個室の部類ではかなり広い造りの病室は、何のために設置されてあるのかテーブルや広いソファが置かれている。
のろのろとソファの方へ近づけば、当然のようにソファに腰を下ろした祐一に座るようにと示された。
「今回、なんでこんなに長いんだ?」
窓枠にもたれかかるように立っていた拓海が軽い調子で、世間話でもするかのように瑞貴に話しかけている。
「僕が聞きたいよ…。さすがにやることなくて暇だし」
問われた方は苦笑を浮かべ、困ったように肩を竦めるだけだ。
「1週間ぶっ通しは久々だよなぁ。テストまでには帰れそう?来週、水曜からだけど」
今日が金曜日だからテストまであと実質4日だと赤也が笑う。
そこは笑うところではないと思ったのだが、十夜は結局何も言わなかった。
「さすがに間に合わなかったら卒業出来ないかな、授業態度的に」
軽く考えるような素振りで瑞貴はやはり苦笑するだけだ。
「わかってても真面目に授業を受ける気にはならんのだな…」
理由は知っているがと付け加えたものの、祐一は完全に呆れた様子で呟いた。
その時、ピーっと甲高い音が鳴って十夜はビクリと音の出所を探す。
病室で聞こえるというだけで何でもないような音がとても心臓に悪い気がした。
すぐにリノリウムをぱたぱたと足早に駆けてくる音が聞こえて、ギクリとなる。
別に目の前で何かが起こっているわけではないというのに、だ。
小さなノックの音がして引き戸が開かれると、ベテランという雰囲気の看護師の女性が病室に現れた。
「あらま、千客万来ねぇ。さて、邪魔でしょ?ソレ外すわ」
看護師は十夜たちを見て小さく笑うと、瑞貴に近づいて腕から伸びている管を指す。
「あまりにも邪魔だから引き抜こうかと…」
「ソレやったら余計に1回増えるわよ?予定ではあと夜に1回で今回は終わりにしてあげようっていうのが先生の温情なんだから」
割と本気で引き抜く気だったのではと思うような口調で言った瑞貴に、看護師は可笑しそうに笑いながら手早く点滴の管を外していく。
「それじゃお友達さんもごゆっくり。今ならまだ1階の喫茶店とか、上の食堂とか開いてるわよ?」
それだけ言うと用事は終わりとばかりに看護師は明るい笑顔だけを残してさっさと姿を消してしまう。
「…そういうワケだから、移動する?」
完全に引き戸が閉まり病室内に静寂が戻ると、どうしようと瑞貴が友人たちを見て小さく首を傾げる。
「そうだな。一応、テスト範囲くらいは教えておいてやろう」
さすがに病室で騒がしくするのもマズイとでも思ったのか、祐一が同意が同意を示した。
それに同調するように拓海も頷いて、話す場所を1階に移すことになる。
病室を抜け出してエレベーターのある場所に着くまでにすれ違った看護師をはじめとする病院関係者と瑞貴とは旧知の間柄なのか、明るく行ってらっしゃいと見送られたり人数を見て大所帯だと言われたりと何かしら声が掛けられていた。
病院という非日常のはずの空間が日常の風景であるかのような雰囲気で、十夜は理由のわからない不安に駆られ、今まで見ていた世界が瓦解するような、足元が崩れ落ちて落ちていくような錯覚に陥ったのだ。
看護師の言った喫茶店に着けば、そこは入院患者や外来患者、それに見舞客の姿がたくさんあるということを除けば駅前などでよく見かけるチェーンの珈琲ショップ。
学校行事で音楽ホールを訪れた時の時間潰しのように、それぞれ適当な飲み物を頼んで席に着いた。
あの時と何も変わらないはずなのに、何もかもが違うような気がする。
同じ顔触れで同じように他愛のない話をしているだけなのに、無性に悲しいようなやるせないような気持ちになって十夜は口を開けばその気持ちを吐露してしまいそうで何も言えずに友人たちのやり取りを見ているだけしか出来なかった。
ただ場所と服装が変わっただけで、こんなにも心が揺さぶられてしまうものなのかと長くもない人生で初めて気付く。
いつの間にか自分の中に友人たちの居場所があって、それが思っていた以上に大きな存在感となっていて、そして変わらない日常を大切に思い始めていたのだと気付いてしまった。
明るく交わされる友人たちの声をどこか遠くに聞きながら、自分の在り様の変化に驚き、けれどもその変化を肯定している自分は成長したのだろうか、それとも弱くなっただけなのだろうかと十夜は自分に問いかける。
結局、十夜は長居してもいけないからと撤収する間際まで何も言えないままだった。
別れ際にコピーしておいたノートを渡せば、渡された瑞貴だけでなく同行していた友人たちにまで驚かれてしまって、自分は友人たちにどういう人間だと思われているのだろうと憮然とする。
病院を後にする時、出口まで着いてきた瑞貴は、また来週と1週間前と同じように笑う。
十夜は来週こそ自分にとっての日常が取り戻せるようにという祈りを込めて、ちゃんとテスト勉強しろよと手を振り返して帰路についた。



週が明け少しだけ不安な気持ちで登校した十夜だったが、教室に入るなり目に入った窓際の席に瑞貴の姿を見つけて安心した。
珍しく真面目に教科書を眺めている様子を見て、今更テスト勉強を始めても手遅れではと思いながらも、投げ出そうとしていないことを何故か嬉しいと感じる。
本音を言えば、またすぐに日常が壊れてしまいそうな気持ちが少しだけあって怖いと思ってもいたのだが、結論から言えば何事もなくテストの全日程が終了した。
週を跨いで全5日の日程で行われたテストは割と難しく、授業を受けていないうえに直前の1週間を丸ごと欠席した友人の点数を少しだけ心配する。
最終日、テストを終えれば部活動が解禁だ。
十夜は友人たちに別れを告げると音楽室へ向かった。
既に数回は参加している、吹奏楽部の部活動に参加するためだ。
と言っても、未だ希望楽器も決めずに前年度から演奏をしている生徒たちの練習を見ながら何をやるかを考えているだけである。
顧問でもある音楽教師の米倉が割とおおざっぱなせいか、大らかな気質の吹奏楽部はそんな十夜を急かそうともしないし排除しようともしない。
今日は自主練習となっていたので、音楽室にはあまり生徒がいなかった。
自主練習やパート練習の時は、音楽室以外の場所を陣取って練習する生徒も多い。
特にパート練習の時間は、他の楽器に引きずられないようにということで率先して音楽室以外で練習している。
十夜は音楽室を覗くと、そこで練習を始めていたり準備をしている生徒の邪魔にならないように入るべきか外から眺めるべきかと悩んでいた。
パートさえ決まれば練習に参加できるのだが、一体自分は何をすればいいのだろうとただ悩むばかりである。
音楽室を覗きこむ事数分、不意に背後に複数の足音を聞いて十夜はくるりと廊下を振り返った。
「…またか」
思わず漏れた呟きの向こうで、全身タイツの集団が何やら廊下に集まっているのが見える。
恐らくまた【コンクエスト】が始まるのだろう。
部活動勧誘週間の期間中、週3回のペースで行われていた【コンクエスト】のうち数回は偶然にも十夜が居合わせた場所やその周辺で行われたため、何が起こるのかと身構えることはなくなった。
廊下の左右にびっしりと並んだ全身タイツの集団、聞くところによれば戦闘員と呼び名されているらしい彼らはビシリと一糸乱れぬ動きで、いつものように個性的な敬礼をしながら大きく奇声を発する。
その声に導かれるように十夜の正面に姿を見せたのは【世界征服部】のリーダーであるらしい【杜若】。
廊下にブーツの音をカツンと響かせながら教室1つ分くらいを歩いてくると、【杜若】が微笑んだのがわかった。
「それでは、今日も征服をはじめさせてもらいましょうか」
廊下という場所のせいもあって、彼女の声は凛と静かに響く。
『南校舎3階の廊下が【世界征服部】によって征服されました!【正義の味方部】はただちに出動してください!繰り返します、南校舎3階の廊下が【世界征服部】によって征服されました!【正義の味方部】は直ちに出動してください!なお、この放送終了と同時に出動判定が開始されます。南校舎3階の廊下征服完了まで、残り時間あと10分です!』
お決まりのけたたましいアラームと共に、【特殊報道部】からのアナウンスが流れる。
すぐに【特殊報道部】の中継部隊も現れ、【コンクエスト】のための舞台が整った。
いつもより【特殊報道部】の到着が早いと感じるのは、彼らもまた大半の生徒たちのようにテスト前の1週間からテスト終了までの期間、一切の活動を禁じられて鬱屈した気持ちで【コンクエスト】を待ち望んでいたからなのかもしれない。
偶然にも特等席で【コンクエスト】を観戦できる場所にいた十夜は、今日は誰が出てくるのだろうと首を傾げながら【正義の味方部】の登場を待った。
惜しむべきなのは吹奏楽部の練習を覗くつもりだったために寮に楽器を置き去りにしてしまったことだろう。
持ってきていれば、以前の以来の通りにエルガーの威風堂々を奏でることが出来たのにと、こっそり練習をしていた十夜は残念に感じていた。
【正義の味方部】の登場を待つこと数分、音楽室の側の渡り廊下から勢いよく走り込んでくる足音が廊下に響く。
「そこの一般人、危ないから下がってろっ!」
全身タイツの戦闘員たちの前に躍り出るなり、赤いヒーロースーツの正義の味方が威勢よく叫んだ。
「ようやく登場ですか?【ジャスティスレッド】」
「【杜若】、オレが征服なんてさせると思うなよっ!」
互いに気安い様子でそう言葉を交わすと、【ジャスティスレッド】は勢いよく廊下を跳んで【杜若】に肉薄すると遠心力に任せて斜めに蹴りつける。
「まるで八つ当たりのような攻撃ですね。普段の洗練された動きはどうしたんですか?」
勢いよく迫ってきた攻撃を躱した【杜若】は軽やかな足取りで距離を取ると、肩にかかった髪を無造作に払いのけ挑発するように小さく笑う。
「そっちこそ!しばらく姿を見かけなかったから、てっきり本星に引きこもったのかと思ったぜ?」
攻撃を躱した相手を追い、横薙ぎに手刀で叩きつけるような攻撃を向け【ジャスティスレッド】は再び距離を詰める。
至近距離まですぐに追い、怒涛の勢いで相手に反撃の余地すら残さずひたすら攻撃を重ねている【ジャスティスレッド】は、リーダーの名に恥じない強さの持ち主だ。
「期待に沿えず申し訳ありませんでした。そちらは、真面目に中間考査のお勉強でもしていたんですか?」
【杜若】は猛攻を躱しながらも身体の向きを調整し、決して壁に追い詰められるような位置に立たないまま挑発するように、わざと心配しているような声音で問いかけた。
「余計なお世話だっ!」
憎々しげに言い放つと【ジャスティスレッド】は思い切り鋭い蹴りを放つ。
本当にヤケクソのように放たれた蹴りは、動きが派手な分避けやすく隙も大きい。
「あら、あまり芳しくない出来だったようですね」
あっさりと攻撃を見切り【杜若】は蹴りを避けると、【ジャスティスレッド】の横をすり抜けるように攻撃の射程外まで跳んだ。
軽やかに着地する様はふわりと舞い降りる蝶のようで、観衆の目を釘付けにした。
「余裕に決まってるだろっ!」
怒鳴るように言い返し、再び攻撃に転じようと【ジャスティスレッド】は【杜若】の方を振り返る。
しかし、そこには蜂の針のように鋭い細剣の切っ先が向けられていた。
いつもながらあまりの鮮やかな手際に、一体【杜若】がいつ細剣を抜いたのかもわからない。
「答案が返却されても、その強がりが続くといいですね」
【杜若】は勝利宣言の代わりに余裕たっぷりに笑って見せる。
クソッと吐き捨てた【ジャスティスレッド】の悔しげな声は、眼前に突き付けられた細剣に対してなのか答案云々という台詞の方だったのか。
「次は絶対に負けないからなっ!」
ビシリと指を突き付け、勝負に負けたくせに堂々と言い放つ【ジャスティスレッド】だったが、今日に限っては周囲の観衆たちから同情や共感に近い笑みが向けられてイマイチ様になっていなかった。
「考査の結果の話であっても、戦闘の話であっても、どちらも期待しないでおきますね」
軽く冗談めかして笑う【杜若】は、まるで仲の良い友人をからかっているような雰囲気すら醸し出していて、いつもよりずっと親近感が沸く。
普段の静かな水面のような佇まいも惹かれるが、時折見せる普通の少女のような一面が実に愛らしいと見惚れる観衆は多かった。
「両方だ!」
そう叫ぶように宣言すると、【ジャスティスレッド】は憤然と足音を立てながら廊下を歩いて行く。
正義の味方のはずの彼の言葉が、負け惜しみを言って去っていく悪役のセオリーと重なって妙に可笑しかった。
「征服は完了です。それじゃあ、皆さん中間考査お疲れ様でした」
どこまでも余裕の笑みでそう征服完了の宣言をすると、【杜若】は勝負を見守っていた観衆たちにも柔らかい笑顔のサービスを残し去っていく。
【コンクエスト】を中継していた【特殊報道部】のリポーターが最後に付け加えるように言った、余裕の笑みが憎いですっ!という言葉は小さな笑いと共に中間考査で惨敗を期したすべての生徒の心境の代弁となっただろう。



金曜日、天気は清々しい晴れだというのに、朝から沈痛な空気が流れているのは今日が中間考査の答案が返却される日だからだろう。
十夜はそこそこの点数に達している自信があるので、特に暗い気持ちになったりしないがクラスの大多数というより学園の大多数が重苦しい空気に包まれているせいで妙な閉塞感を感じていた。
登校するなり、おはようという挨拶もそこそこに十夜は祐一に呼ばれ、鞄を机の上に放り出すと教室からすぐそこの渡り廊下に連れていかれる。
ちょうど生徒会室の前の渡り廊下には、赤也、拓海、瑞貴といういつものメンバーが揃っていた。
「テスト返却までにもう間がないから単刀直入に言うぞ?」
重々しい口調で切り出したのは祐一だ。
一体何を言い出すのかわからない十夜は、恐らく成績優秀であるはずの祐一が纏っているどんよりとした空気の理由が分からず何事だと訝しむ。
「最初に言っておかねばなるまい。俺たちは、テストの点で賭けをしている」
始業式の日にファミレスで見ただろうと確認するように祐一は話を切り出した。
確かに賭けの結果がどうだとか言いながら答え合わせのようなことをしていたのを思い出し、十夜はそういえばと小さく頷いた。
「この賭けの最重要項目は、最高得点を獲った人間が負けというルールにある。要するに一般的な賭けとは逆というわけだ。因みに賭けの報酬は基本的に安価な飲み物類などの提供か頭脳労働力の提供に留めるのが原則だ」
淡々とした口調で祐一がルールを説明していく。
ここまで聞けば、十夜にも少しだけ意図が理解出来たような気がする。
要するにこのゲームに参加するか否かを問うのが趣旨なのだろう。
「この賭けの性格の悪いトコは、賭けに勝ってテストで負けるってコトだな」
どっちにしても敗者になるルールだからなと赤也が苦笑した。
「あとは原則を曲げた罰則でも、支払う側が納得すれば割と何でもいいという割と強引な不文律で運営されてるから、怖いなら不参加を勧めておこう」
拓海が更なる追加の内容を説明し、どうする?と挑発するように笑って見せる。
「そんなに酷い内容を強要されたりするのか?」
既に心は定まっているが、十夜は念のためにそう訊いてみた。
挑発されて参加しないというのは賭けやテストの勝ち負け以前に敗者になることを意味する。
それに、正直なところ自分の点数が低いとは思っていない。
素直に自分が賭けに負けるなら勉強を教えるついでに飲み物程度奢ればいいだけの話だし、もしも自分より上がいるのであればこの先の好敵手にすればいいのだ。
「今までで1番妙だった罰ゲームが愉快と思われる食べ物を買ってくるだったと思うけど」
せいぜいその程度だよと瑞貴があっさりと言うと、赤也が思い切り吹き出した。
「あぁ、アレは確かに酷かった!明らかに人間の食べるモノの色じゃなかったし!」
「でも罰ゲーム出題側は出題側の責任があるからな…。結局、全員一致でこのお題はもうやめようと封印した」
十夜を安心させるように拓海は大きく頷いてみせたが、むしろ過去に誰がどんなものを用意したのかと逆に不安にならないでもない。
「ソレなら、参加しよう」
あくまで一般レベルで許される範囲の罰ゲームを貫くのならという注釈を付け、十夜は参加を表明する。
誰が賭けに負けたとしても、無茶な内容は避けるべきだと思う。
「それは請け負おう。俺だってまたあんな妙な物は口にしたくないからな」
話をまとめるように祐一が軽く引き攣った笑みでそう頷いた。
そこまで話した時、予鈴が鳴り響く。
「ソレじゃ教室戻ろうぜ」
赤也のその声に、全員はのんびりと教室へ戻る。
大人しく席について本鈴とHRを待ちながら、十夜は今更ながら賭けが成立するのかと小さく疑問を覚えた。
成績が似通っているならば話は早いが、あまりにも乖離していたらどうするのだろうか。
それともソレすら織り込み済みで成績優秀者が負けるルールにしたのかもしれない。
何にせよ、答案が返却されれば明らかになると十夜は開始を待った。
HRが終わると、広瀬は慌ただしく教室を出ていく。
どうやら今回のテストの問題の作成担当の1人であるらしく、解説をするためにそのテストを受けた1学年全部を順に回らなければいけないのだそうだ。
1限目開始のチャイムが鳴れば、教室に姿を見せたのは副担任の浅井だった。
「ソレじゃテストまとめて返すぞー、出席番号順に前から取りに来い」
教室に入って教壇の前に立つなり、号令をかけようとした委員長の祐一を片手で制していきなりそう言う。
名前を呼ばれて取りに行くのが一般的なテストの返却だと思っていたが、浅井はどうやらそれすら非効率的だと考えているようで、出席番号の通りに順番に席を立って生徒たちが教壇の前に並んだ。
それにしてもやはりこの学園の教師は自由人気質の人間が多い。
浅井の指示通り並び、テストの答案を受け取って席に戻る。
十夜は全員が返却されるまでの時間に、答案を受け取った友人たちの反応をチラリと伺う。
苦笑を浮かべている祐一は、恐らくそれなりの点数だろう。
無表情に肩を竦めた拓海も、恐らく悪いということはなさそうだ。
そこまでを安心感と納得と共に確認した十夜は、ニヤリと笑みを浮かべる赤也の横顔を見て、点数はわからないが本人的には満足の行く点数だったんだと解釈した。
最後に窓際の席に目を向ければ、瑞貴は答案を一瞥しただけで興味無さそうに机の上に置いている。
赤也と同じように点数の予想がつかないが、何も感じていない様子に見えた。
直前にあれだけ休んだ上に勉強など出来る環境でもなかったのだろうからと諦めているのかもしれない。
クラス全員34人が答案を受け取ったのを確認し、浅井はぐるりと教室を見渡した。
「えー、今回のテストで編入生の佐伯が学年上位5名に入った。毎回、初めて上位に名前を連ねた生徒だけこうやって発表するのがうちの慣わしだ。はい、拍手」
淡々と授業の時と何も変わらない口調でそう言い、浅井は率先して手を叩く。
それにつられるようにクラス中に拍手が巻き起こった。
十夜にしてみれば当然の結果なのだが、進学校に名を連ねている学校側からすれば編入生が成績上位者に名を連ねたことに驚いたのかもしれない。
「なお、上位5名のうち他の4名はいつもの通りこのクラスの人間だ。あぁ、今回も満点がいたし、上位者も固まっていることだし、このクラスには解説役の教師は基本回ってこないと思え。以上!」
それだけ言うと、浅井は要らぬ火の粉を被らぬうちにそそくさと教室を後にする。
逃げた、とクラスのどこかからポツリと声が上がり、諦めムードが教室に広がっていく。
教師が逃げてしまったのだから、失笑に包まれるのも仕方がないだろう。
「おい…流石にソレは怠慢じゃねーの…?」
クラス全体を代表してそう言ったのは、赤也だった。
「いつものように模範解答を配るしかなかろうな」
やれやれといった様子で肩を竦めると、祐一は席を立ってそう言う。
「今回は十夜もいるからな…まぁ、何とかなるだろう」
仕方ないと拓海も現状にため息をつきながらも状況を受け入れたらしい。
「…おい、この学校、本当にコレでいいのか!?」
丸投げして去って行った教師も教師だが、学年上位者がこのクラスに固まっているのかもしれないが、そういう問題じゃないだろと色々言いたいコトが有りすぎて十夜はもうドコから苦言を呈していいのかわからない。
「残念なことにうちのクラスは去年からこんな扱いだ」
十夜の心からの訴えに、拓海が肩を竦めてそう応える。
その言葉を裏付けるように、教室の中に十夜と同じように嘆いている生徒はいなかった。
「模範解答を作成した上で簡単に解説を付けてくるとしよう。俺たちが戻るまで自由時間にしていい」
流石はクラス委員長と言うべきか、祐一がそう言ってクラスを見渡す。
普通ならここで教室の中から否の声が上がりそうなものなのだが、クラス中が既に適応してしまっているのか異を唱える者は誰もいない。
「社会科教室あたり空いてるよなー?」
そう言いながら赤也は席を立つと、自分の答案用紙と筆記用具を手に取った。
話の流れから察すれば、恐らく模範解答は祐一を中心に作るということだろうか。
「十夜、行くぞ?瑞貴もちゃんと手伝えよ?」
拓海が十夜と瑞貴に視線を向け、ついてこいと教室の外を指す。
成程、普段からつるんでいるメンバーで作成するのかと十夜は納得し、席を立った。
自身の成績に関しては学年上位5人に入っているということが告げられていたし、率先して解答を作成しようという祐一の成績が悪いはずもないだろう。
勝手に頭数に含まれていることに、1か月前ならば異を唱えたかもしれないが、十夜にとっても既にそれは当然の流れとなっていた。
どうやら満点の生徒もいるということなので、十夜が間違った何問かもきちんと解いた生徒がいたということだろう。
この流れから推測すれば祐一なのだろうかと首を傾げながら十夜は教室の外へ移動して行った友人たちの後を追った。
渡り廊下を突っ切り、特別教室ばかりが並ぶ北校舎3階にやってくると、1番近い場所にある社会科教室の中へ入り込む。
勝手に入っていいのかと一応問いかければ、怒られたら解説を丸投げした教師が悪いと言い返すとあっさり言われてしまう。
「先生Sも相変わらずの無茶振りだよなぁ」
解説くらいしてくれたらいいのにと赤也がぼやきながら机に腰掛ける。
言葉では不条理を嘆いてみせているものの、衝撃を受けている様子はない。
「模範解答を作る前に、大人しく賭けの結果を確認し合うところからするか」
ニヤリと笑って拓海が友人たちを見回した。
賭けの結果とはつまり、全員の成績を暴露し合うということだろう。
負けの条件は1番点数が高いということで、つまりこの中では既に学年5位以内と確定している十夜も当然圏外ではない。
むしろ可能性としては割と高い方だ。
「よかろう。と、言っても結果は見えているのだがな」
やれやれと肩を竦めると、祐一は苦笑でそう頷いてみせる。
よほど自信のある点数なのかと思わなくもない言葉だが、その声音は自信に満ちているようなものよりはむしろ呆れに近くて十夜はおやと首を傾げた。
この流れならば、祐一の成績が1番良いのだろうと予想していたので、驕らない性格なのだろうかと苦笑する。
「…あぁ、ごめん。先にやってて?誰も問題用紙持ってきてないよね」
答案だけを手に集まった面子を見渡し、瑞貴が持ってくると教室を出て行った。
ご丁寧にも自分の答案用紙と筆記用具は無造作に置いたままだ。
模範解答に解説を付けるために、確かに問題用紙も必要だと十夜は納得したが、問題なんてそういえば寮に置いてきたままだと今更ながらに気が付いた。
こういう事態を想定でもしていたのか、それとも解説を真面目に聞くつもりだったのか、どちらにしろ普段のやる気のなさからは考えられない様子に十夜は小さく苦笑する。
テストが終わってから真面目に理解するというのは本末転倒だ。
「ソレじゃ、全員潔く答案を見せ合うってことで」
赤也はそう言うと、せーのと声を掛ける。
掛け声に合わせて4人が一斉に答案の点数部分を見えるように机の上に並べた。
「…やはり、賭けの結果はいつもと同じか」
ぐるりと答案を見渡した祐一は変わらず苦笑を浮かべている。
ひっくり返された答案はほとんど点差がなく、順番に1桁ずつしか差がなかった。
今答案をひっくり返した4人全員の点数が似たり寄ったりであるということはつまり、浅井の言った学年上位5名のうち4名はここにいる生徒ということだ。
点数の順に見れば、拓海、十夜、祐一、赤也となる。
祐一よりも拓海の方が成績がいいということに少しだけ驚きながらも、そういえば満点の生徒が混ざっていないことに気付いた。
このメンバーの他にもっと成績が良い人間がいるのであれば、率先して加わって然るべきではないかと思う。
どういう偏りなのかはわからないが、学年の上位5名が全部同じクラスに固まっているというのは少し異様な気もするが、副担任がそう言ったのだから同じクラスの誰かなのだろう。
「ったく、やっぱ1週間程度じゃブレねぇか…」
深く溜息をついた赤也は、置き去りにされた瑞貴の答案を手に取る。
そのままそっと捲って点数を確認し、再びため息をついた。
あまりにも哀愁漂う分行くの溜息だったので、十夜は少し心配になるが、ブレないとは一体どういう意味なのだろうか。
「…どうしたんだ?そんなに酷い点数なのか?」
溜息をつくくらいなので、余程なのだろうと十夜は控えめに問いかける。
端から賭けになっている気がしないのだが、いいのだろうか。
「まぁ、ある意味酷いだろうな。授業態度があれな上にテスト直前に1週間もいなかったからな…」
そういって小さく笑うと、拓海は赤也の手から瑞貴の答案を取り上げると赤也と同じように点数を確認し、ニヤリと笑う。
「見たいか?」
驚くなよ?と拓海は面白がるような様子で十夜にそう笑みを向ける。
「心の準備をしてから見た方が身のためだぞ、十夜」
横から声を掛けて来た祐一の表情もどこか面白がるような様子で、十夜は不可解な気持ちで首を傾げた。
「そんな前置きが必要な点数なのか?」
あの授業態度ならば予想は出来るというものだが、その予想をはるかに凌駕(りょうが)するとでも言いたいのだろうか。
もしかすると成績優秀寄りに偏り過ぎている彼らからすれば衝撃なのかもしれないが、十夜はあまり衝撃を受けるとは思わなかった。
「じゃあ、見せるとするか」
笑顔のまま拓海は手に持っていた答案用紙をひっくり返し、十夜によく見えるように置く。
「…は?」
その答案用紙を見た瞬間、十夜は思わず氏名欄を確認した。
間違いなく瑞貴が持ってきていた答案ではあるし、氏名欄にも間違いなくそう記されているが、(にわ)かには信じがたい点数が並んでいたからだ。
全ての答案用紙に記された点数は同じだった。
これで1桁だったりしたならば、むしろ驚かなかったのかもしれない。
しかし、並んでいる数字は全て3桁なのだ。
要するに全問正解、満点。
友人たちがわざわざ前置きをした理由は、十夜の予想の真逆だったのかと真剣に衝撃を受ける。
「…だよなぁ、やっぱ驚くよなぁ」
十夜の表情を見て、赤也がしみじみとそう言った。
「え?今回、何か驚くような問題あった?」
そこへタイミングよくというか悪くというか、問題用紙の束を手に瑞貴が戻ってくる。
適当に問題用紙をペラペラと捲り、変わった問題でも探しているのか小さく首を傾げていた。
「瑞貴の成績があまりにも衝撃的だったようだぞ?」
そりゃ、コレで学年首席って言われたら衝撃も受けるだろうと拓海は笑っている。
「…十夜、衝撃を受けているところ悪いがな、まさか生徒会長が見た目だけで務まるとは思うまい?」
祐一は半眼になって十夜に視線を向けた。
以前、瑞貴が生徒会長だと教えてあっただろうとため息交じりに呟かれる。
「…あの前置きをしておいてよくも抜け抜けと」
十夜はまるでドッキリを仕掛けられたような気持ちで友人たちに恨みがましい目を向けた。
「…僕が十夜が思ってたような点数だったら、間違いなくこんな作業しなくていいんだけど」
十夜の一言だけであっさりと事情を察した瑞貴は、心底面倒だとでも言いたげにそうため息を零す。
「オマエがオレらの中の教師役だろうが!だいたい、ホンキ出せば教師より教えるの上手いだろ、瑞貴」
全力で参加したくないという意思表明をした瑞貴に対し、赤也が即座にツッコミを返した。
「わかってるよ…。だから、大人しく参加してるじゃない」
苦笑を浮かべると、瑞貴は諦めたように問題用紙を友人たちに向けて差し出す。
「…珍しく起きていたと思えば、そういうことか」
十夜は普段ならばテスト返却だろうが気にせず寝てそうな瑞貴を見て、ようやく合点がいったとばかりに呟く。
「やらされるだろうなって思ってたから、今日は薬飲んでないし」
だから別に眠いと思わないと瑞貴はさらりと言って、肩を竦める。
「ちょっと待て、それは駄目だろ。寝ててもいいから薬は飲め」
打てば響く速さで即座にそう言ったのは拓海で、盛大にため息をついた。
「必要な時には叩き起こしてやるから安心しろ」
だから可及的速やかに薬を飲むようにとまるで先生のような口調で祐一は言う。
「え…別に朝くらい飲まなくても…」
友人たちの反応に、瑞貴本人が1番驚いたらしい。
深刻に言う友人たちに困ったように首を傾げていた。
「ダメに決まってんだろ。水買ってくるからちょっと待ってろ。持ってないとか言わないよな?」
言ったらさすがに怒るぞと割と本気の口調で赤也までがそう言い、ちゃんと薬を持っているのを確認するなり社会科教室を飛び出していく。
「おい、瑞貴…」
十夜は一連の流れで何となく理解は出来ていたが、確認の意味を込めて低く友人の名を呼んだ。
「何?」
小さく首を傾げたまま、瑞貴は十夜に視線を向けた。
「薬というのは、病院で処方されて用法容量を守って正しく飲めと言われているようなヤツか?決まった時間に決まった個数というヤツか?」
すっと目を細め、十夜は確認のためだけにわざと詳しい言葉を並べる。
「そうだけど。一応、朝と昼と夕方と、寝る前?」
何故そんな問いを向けられたのかわからない様子で瑞貴は不思議そうな視線を十夜に向けた。
それがどうかしたのだろうかと心底不思議そうな様子に、十夜は半眼になって瑞貴を睨む。
「貴様は馬鹿かっ!用法容量は守れ!」
朝に服用しろという指示があるなら勝手に抜かずに守れと十夜は怒鳴る。
何故こんな小学生でもわかりそうなことを学年首席に説明しないといけないのかと思うと妙に物悲しい気持ちにならないでもない。
程なくしてミネラルウォーターのペットボトルを片手に赤也が戻ってくる。
さすがに友人たち全員に厳命され、瑞貴は大人しく薬を服用することにしたらしい。
既に処方の指示でいう朝という時間でもないが、飲まないよりはマシだという見解を4人に言われてしまえば従うしかなかったのだろう。
「じゃ、各自得意な教科の模範解答作る方向で。早く終わらせて帰ろうぜ?」
ようやく作業を開始出来ると赤也は問題用紙に手を伸ばすし、ひょいっと抜き取った。
各自1教科ずつ手にすると、適当な机に陣取って解答と解説を書き込む作業を開始する。
「何で毎度飽きずに長文の穴埋め問題があるんだ?教科書丸暗記してる奴いないだろ」
拓海は手元に英語の問題用紙を置き、取りあえず長文の訳を書き連ねながら軽い口調でぼやいていた。
問題文には~という意味の1文を入れ完成させるようにと書いてあるので、正確には暗記しておく必要はないのだが、英語を苦手とする生徒からすれば教科書の英文を丸暗記していなければかなり苦痛な問題だと思う。
「逆に歴史に年号を問う問題が1つも存在しないのもどうかと思うが?」
世界史と日本史の問題を片手に祐一も呆れた様子で解説を書いているようだ。
因みに十夜が解説を書いているのは数学で、問題ごとに使用する公式を書き、途中式も略さずに丁寧に回答を記している。
途中、解答はともかく解説を記す段階になってどう書けばいいのか迷った十夜が瑞貴に尋ねたところ、授業を受けるよりも解りやすい説明をされて表情を引き攣らせる一幕があったりしながら概ね順調に模範解答作成は進んだ。
およそ30分後、全ての問題の解答と解説が書き上がった。
それをどうやって人数分作成するのかと思えば、勝手に生徒会室に押し入ってコピーしてしまうという荒業で、十夜は職権濫用だと呟く。
後で他のクラスからもその解答が欲しいと懇願されたのだが、どうやらそれもいつものことらしい。
教師に教わるよりも解りやすい上に全教科を網羅しているという事情がそうさせるのだろう。
教師が解説を放棄しなくても、いつも作っているのだと親切にも祐一が教えてくれた。
十夜が加わったことで作成人数が増え、1人あたりの負担が減ったと喜んだのは赤也だ。
当然の事のように期末もよろしくと拓海は十夜の肩を叩いて笑う。
唯一巻き込まれて可哀相だというような同情の目を向けてくれたのは瑞貴だったが、一緒にやってくれると嬉しいと言われてしまった十夜の中に次回から断る選択肢は浮かばなくなっていた。
断る代わりに、罰ゲーム考えてもいいか?とニヤリと笑って見せると、赤也と祐一がせっかくだから十夜に一任しようと乗ってくれた。
テスト返却で午前中を潰した後、午後は普段通りの授業。
授業に突入するなりいつもと変わらない風景が完全に帰ってきたが、十夜は相変わらず寝ている瑞貴を見て呆れたが、その心境が今までと少し変わっていた。
授業を終えて、十夜は今日も見学だけの部活動に顔を出す。
一生懸命練習をする吹奏楽部部員を見て、技術の(つたな)さや音の稚拙さは所詮普通科の学校の部活動程度なので仕方ないとは思いながらも、何となく苛立ちを覚えた。
「佐伯君、やりたい楽器って見つかった?」
パート練習のために音楽室を出て行こうとした女子生徒が1人、眺めているだけの十夜に気付いて声を掛けてくる。
片手にはトランペットを持って、もう片手で楽譜の乗った譜面台を持っているその女子生徒は紺のブレザーに幅広カチューシャといった出で立ちのクラスメイト、3年4組の副委員長である桐原のばらだった。
1年生の新入部員の大半が既に楽器を選択している中、未だ楽器やパートを決めない十夜を遠巻きにする吹奏楽部員が多いというのに、のばらは割と気さくに声をかけてくる。
「いや、まだなんだ…どう決めていいのかわからなくてね」
既に本性を知ってしまった友人たち5人の前以外では、十夜は以前と変わらない穏やかな仮面を被り続けていた。
「…そうだね。今までと違う楽器に手を出すって、けっこう勇気いるよね」
十夜の言葉に何か思うところがあったのか、のばらは少しだけ淋しそうな表情を浮かべたあと小さく笑う。
その時、彼女の持つ譜面台の上の楽譜がたまたま目に入って、十夜は驚きに目を丸くした。
自分の楽譜に負けないくらいビッシリと書き込みがされた、何度も何度も曲と真剣に向き合った結果を見て感嘆の声を漏らす。
「…すごいな」
思わず漏れた十夜の感想に、のばらは恥ずかしそうに笑う。
たぶん、呆れられたとでも感じたのだろう。
「私はこれくらいやらないと、演奏出来ないんだぁ。どうしても曲が掴めなくて」
恥ずかしそうに笑うのばらの言葉に、十夜は真剣に感心していた。
自分と同じ姿勢で音楽に向き合っている生徒が、ここにもいたのかと驚いたのだ。
「…俺の楽譜も、真っ黒になってるさ」
実感を込めて十夜は呟く。
数多いる多くのプロの演奏家のうち、本当の天才は一握りだ。
その一握りの天才たちは、たぶん楽譜に何も書かなくても生来の感覚だけで曲を掴み、自分のモノに出来る。
けれど努力でその域に近づき、達した人間たちは足らない感性を補うようにどこまでも研鑽(けんさん)をつみ試行錯誤を重ねていくしかない。
自分と同じ、努力によってその差を埋めようとしている少女を見て、十夜は微かに満たされたような気持ちになった。
「佐伯くんの楽譜も?…そっかぁ、安心した」
ほっと胸を撫で下ろすような様子で笑うと、のばらは自分の楽譜に目を向ける。
「大抵の子は、私の楽譜は読めないって言うから…」
少し安心した、とのばらはポツリと零した。
「放課後、俺が練習してるの見たらわかるさ、きっと。俺の楽譜も他人には読めないとよく言われる」
主にバイオリンを教えてくれている教授あたりに。
十夜は柔らかい笑みを浮かべると、軽くおどけて見せた。
「そのうち見せてね。それじゃ、私、パート練習行くね」
少しだけ楽しそうに笑うと、のばらはそう言って音楽室を出ていく。
その姿を見送りながら、十夜はそろそろ楽器なりパートなりを本格的に決めないとなと思いながら音楽室を眺める。
管楽器はどれも一筋縄ではいかないと当然知っているし、一見簡単そうに見えるパーカッションも実は相当難しいというのも知っている十夜にしてみれば、バイオリンの片手間程度で大成するような楽器は存在しないと初めから解っていた。
1時間程準備室に置いてある楽器を眺めて過ごしたところに、パート練習を終えた吹奏楽部部員が戻ってくる。
当然のように姿を見せた顧問だったが、当然そこにいるべきでない生徒までを連れて現れた。
「先生…僕、業務中なんですけど」
顧問である米倉に引きずられるようにして音楽室に連れてこられたのは、生徒会長であるはずの瑞貴である。
「先生これから会議なのよ~。悪いけどちょっとだけ代行しててちょうだい~」
生徒会に入るまではたまにやってくれてたじゃないと顧問はどこまでも明るくそう言って、瑞貴を無理やり音楽室の中に連れ込んだ。
「いきなり無関係な人間に指揮任せようとしないでください…」
心底困った様子ながら米倉を振りほどけない瑞貴を見て十夜は何をやっているんだと呆れる。
「部長、先生の代わりに会長置いて行くから、あとよろしくね~」
朗らかにそう言うと、米倉は指揮者用の大きな譜面台の前に瑞貴を放り出し音楽室から姿を消す。
「…瑞貴くん、ご愁傷様」
吹奏楽部の部長である女子生徒が、同情の視線を瑞貴に向けている。
「…同情はしてくれるのに、帰っていいとは言ってくれないんだよね…」
深く溜息をついて譜面台に置かれた楽譜に視線を向けた瑞貴に、同じ3年生の生徒たちから小さく笑いが起こった。
「瑞貴、何してるんだ…?」
一体何が始まるのかというよりも何故生徒会長が吹奏楽部に借り出されてきたのかさっぱり分からず、十夜は訝しむように声をかける。
「…30分間の顧問代行って強制的に連れてこられたんだけど…十夜、代わりにやってくれる?」
譜面台の上のオーケストラ譜を指し、瑞貴が困惑の笑みを十夜に向けた。
「顧問代行ってただの指揮者の真似ごとか?」
それなら別にメトロノームで事足りるだろうと十夜は肩を竦める。
ただ棒を振るだけなら替わってやらなくもないがと念のために付け加えてやった。
「佐伯くんも楽器やる人だっけ。じゃ、瑞貴くん1回、顧問代行見せてあげてよ。で、出来そうだったら佐伯くんにやってもらったらいいじゃん?まだ楽器決めてないんだし」
名案とばかりに手を打って、部長である女子生徒が明るく笑う。
ただの指揮者代行ではと十夜が部長を見れば、意味ありげな笑みを向けられた。
「結局、1回はやらされるんだね…」
瑞貴は諦めたように譜面台の上に置かれたタクトを手にする。
「…何をやるのか明確に説明してくれたら、代わるぞ…?」
流石に部に無関係な相手に代行を任せるのは少しばかり気が引け、十夜は控えめにそう口にした。
「…十夜、オケの経験…ないよね?」
その言葉が何を意味するのか分からないが、瑞貴は十夜に向かって上目づかいにそう問いかける。
いくら音楽科とはいえ、十夜が通っていたのは所詮高校だ。
残念ながら即席オーケストラのような授業はなかったし、部活動でも参加したことはない。
首を振ることでそれを伝えれば、瑞貴はそうだよねと小さく呟いて譜面台に向き直った。
「十夜、次からお願いね」
微かな笑顔でそう言うと、瑞貴はまっすぐに吹奏楽部の部員たちを見る。
園生(そのう)さんAの音…えっとラの音を」
瑞貴は同じクラスのオーボエを手にした女子生徒に向かってよく通る声で指示を出す。
言われた通りにオーボエが音を出し、ソレに合わせるように各パートのリーダーたちが音を合わせだした。
何を始めるのかと思えば、ただのチューニングだ。
「…チューニングならばピアノの音を使えば早いだろ…」
すぐ側にあるグランドピアノをちらりと見て、十夜が小さく呟いた。
その声が聞こえたのか、1年生の生徒が頷いたのが見える。
「普通はそうなんだけどね。オーボエの音でチューニングする理由、説明する?」
不思議そうな表情を浮かべている1年生に視線を向け、瑞貴がふわりと笑みを浮かべた。
2年生3年生の生徒はどうやらその理由を知っているのだろう、誰1人として戸惑った様子を見せた生徒はいない。
1年生が頷いたのを見て、瑞貴は1度タクトを譜面台に戻した。
「管楽器は管の長さを調節することで音を合わせるのが基本なんだけど、実はオーボエとファゴットはそれが出来ない造りになってるから、調節しようと思ったらリードやボーカルそのものに手を加えないといけない」
実際にその楽器の奏者は解るよね、と瑞貴はそれぞれのパートに笑みを向ける。
知っているという意思表示なのか、それぞれのパートのパートリーダーが頷いたのが見えた。
「だから、舞台に上がってからチューニングをする時点で音の調節しようのない楽器に合わせるしかないでしょ?」
つまりそういうコトと瑞貴は笑顔のまま説明を終える。
「…よく知ってるな…」
自分に関係する楽器以外の知識がまだまだ足りていないと十夜は思わぬ方向に知識を披露した友人に驚きの目を向けた。
瑞貴が演奏出来る楽器はピアノのはずなので、あまり関係のなさそうな知識だと思うのだが、どうやら音楽の分野において広い知識を持っているらしいと十夜は素直に感心する。
「詳しい人が教えてくれたんだよ」
十夜に向けて子供っぽい笑みを見せると、瑞貴は再び譜面台からタクトを取り上げた。
「それじゃ、各パート音合わせて」
瑞貴の涼やかな声が響き、各パートは微妙なズレを残しながらも音合わせを完了する。
十夜のように絶対音感を持っている人間からすればそのズレは気になるのだが、たかが高校の部活動のレベルにすれば気にしても仕方がないというレベルだろう。
「楽譜最初から1回通すよ?」
タクトで譜面台を叩き、拍子を取りながら瑞貴は確認するように吹奏楽部全体を見渡した。
全員の準備が整ったのが確認できると、その拍子のまま演奏開始の指示が出される。
高校生の指揮なんてただリズムを合わせるだけなので、いつでも代わってやれると思いながら眺めていたが、即座にその甘い考えは打ち消されてしまった。
タクトで譜面台を叩きずっとメトロノーム並に正確な拍子を刻みながら、瑞貴はオーケストラ譜の通りに各パートにタイミングを指示するように手を向ける。
それだけではなく、楽譜通りに正確に手の動きだけで強弱の指示まで出したのだから十夜は驚いた。
それは顧問代理として連れてこられても仕方がないと思わず納得してしまう。
1曲の演奏が終わり、最後の音がきっちり楽譜通りに止められたところで瑞貴はタクトを譜面台に戻す。
その様子に感心した十夜は何故そんなことが出来るのかと瑞貴に問いかけようと声をかけようとして、楽器を降ろした部員たちのうち、3年生や2年生といった慣れているはずの生徒たちが次の指示でも待つように瑞貴を見ているのに気付く。
「…え…ソコまで顧問代行しないとダメなの…?」
視線を向けられた瑞貴は、困ったように部員たちを見渡していた。
「会長の隠れた特技じゃない。たぶん新入部員たちが驚くから、面白いじゃない?」
楽しそうな口調でそう応えたのはやはり部長で、各パートのリーダーたちもそれに同調するように頷いて見せる。
瑞貴は本気で困っているのか十夜を振り返ったが、結局何も言わずに再び吹奏楽部の部員たちに視線を戻した。
「…それじゃあ…」
何が始まるのかと見守る十夜の前で、瑞貴は部長の言うとおり思わぬ特技を発揮する。
それは、1曲全部と通し、全パートに対するとても細かい注意点の羅列と、楽譜通りでなかった部分の指摘だった。
メモを取っていたのならまだしも、1曲の内容を丸ごと聞き取ったということには1年生だけでなく十夜も驚くしかない。
「…何なんだ、その特技は」
思わず十夜は呻くように呟くと、友人をまじまじと見つめる。
「やれって言われたから…」
仕方なくと瑞貴は小さく笑う。
細かい指示や注意点を挙げられた部員たちは無関係なはずの相手に指摘されたことなど気にした様子も見せず繰り返し指摘された箇所の練習を始めている。
「十夜、あとお願いね?」
タクトを押し付けるように十夜に渡すと、瑞貴は小さく首を傾げた。
「…吹奏楽は専門外だ」
音程が合っているか聞き分けるだけならともかく、全体を聴いてあんなことをやるなんてとてもではないが出来そうにない。
十夜の専門はバイオリンで、それもオーケストラではなくソロを主体としているのに、そんなことが出来るわけがないと軽く相手を睨み付ける。
「…僕だって専門ってワケじゃないよ…」
楽譜が読めるだけで誰でも顧問代行させられるんだからと瑞貴は小さく溜息を零す。
「貴様はちゃんと務まってるように見えるから、いいだろうが」
思わず零れ落ちた言葉が我ながら情けないと十夜は自嘲の笑みを浮かべた。
将来は音楽家になると決めているのに、何て様だと思ってしまう。
「じゃあ、コンマスにでもなった気持ちで頑張って」
十夜の楽器はバイオリンでしょと当然のように言うと、瑞貴は逃げるように音楽室を出て行った。
当然生徒会室に戻って業務をするためだろう。
「…簡単に言いやがる」
そもそも自分はオーケストラじゃなくてソリストを目指しているんだと十夜は心の中でもう1度呟く。
しかし恐らく他意もなくあっさりと向けられた言葉は、十夜の中に重く響いた。
コンマス、オーケストラのコンサートマスター。
第1バイオリンの首席にしてオーケストラを取りまとめる存在。
コンサートマスターは時に指揮者の代わりを務め、オーケストラ全体の音を指示する絶対的な存在だ。
重みを知っている十夜にしてみれば、よくそんな簡単に言ったものだと呆れるレベルだった。
ピアノ奏者である瑞貴にはその重みがわからないのだろうが、言われた十夜にしてみればたまったものではないと内心呻く。
結局すぐに戻ってきた顧問のお蔭で十夜が代行を務めることはなくその日の部活動は平和に終わったが、十夜の心は割と穏やかではなかった。
タクトを持った十夜を見た顧問の米倉にまで、生徒が指揮者を務めるのもいいわねと勧められ、いっそ吹奏楽の楽器に惹かれないならそれもどうかと検討を迫られる。
それを何とか宥め(すか)し、十夜は週明けまでに考えますと何とか逃げ切った。
土日にゆっくり指揮者の立場になることも念頭に置きながら楽器も検討することを決め、出来るなら色々な音を聞いて決めたいと考える。
そんなことを少しだけ現実逃避気味に考えながら部活動を過ごし、放課後を消費した。
寮に帰った後は日課となっているバイオリンの練習に時間を費やす。
いつものように練習に明け暮れ、楽譜に書き込みを増やしていく。
その夜、十夜はバイオリンの師匠から電話を貰った。
その内容は、明日、通常のレッスンは休みにするという内容で十夜を陰鬱な気持ちにさせたが、先生が手伝いで呼ばれている音楽祭に遊びに来いと言われて気持ちが少しだけ浮上する。
友達でも誘って気軽においでと言われたので、十夜は友人たちに暇だったらとメールを入れた。
十夜の送った誘いのメールに、全員が律儀に返信してきたのは送信からすぐだった。
当然ながら音楽祭に遊びに行くという内容を明記しておいたので、興味がなければ適当な理由で来ないと返してくるか無視だろうと軽い気持ちで送ったメールだったが、全員がそれなりにまともな内容で返信してきたのに少し驚く。
さすがに予定前日という事情のせいで、暇なので同行すると返してきたのは祐一だけで時間などの詳細は決まり次第連絡をくれたら合わせると書かれてあった。
真っ先に参加表明を露わにした祐一に遅れること数分でメールを返してきたのが拓海で、明日はバイトだから残念ながら行けないという内容が書かれている。
少し気になったので何のバイトなのかと送り返せば、スーツを着るバイトという良く分からない内容が返された。
その後すぐに赤也からもメールが届き、拓海と一緒にバイトだと書かれていて、赤也がスーツという姿が想像出来ず十夜は軽く笑う。
最後に返してきたは瑞貴で、時間次第では行けるという内容が書かれていた。
時間などの確認のために少しだけやり取りをして分かったことは、実家に呼び出されて帰宅中だということと、その関係で明日は時間帯によっては忙しいということ。
結局、全員の予定その他を確認すれば暇なのは祐一だけのようだ。
祐一本人に他に誰もこないがそれでも良いかを尋ねれば問題ないの一言で、十夜は待ち合わせ時間を決めてメールを送った。
製作者:月森彩葉