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第5楽章#運命の出逢いは突然に

翌日の昼過ぎ、祐一と近場で待ち合わせた十夜は電車に揺られながら目的地を目指していた。
目的地は県境を越えた先の大きな公園だということだと教えられていたので、近くまで行く電車に飛び乗ったのだ。
今日も十夜の服装は歩くことを前提にしたカジュアルでラフな服装で、黒の薄手のTシャツの上にさらに薄い白のTシャツを重ね、下はやはりジーパンという出で立ちだったが、バイオリンの先生と会うこともあって念のために持ってきたバイオリンケースと練習中の楽譜が入っている黒の分厚い布のトートバックを手にしている。
祐一はそろそろ汗ばむ季節になってきたというのにベージュのテーラードジャケットにVネックのグレーのTシャツ、それに下は黒のチノパンというやはり少し堅苦しく見える服装だった。
校外学習の時同様そのことを指摘すれば、そういう服しかないとあっさり返されてしまう。
「そういや祐一はクラシックとか聴くんだっけ」
電車に揺られながら十夜は視線を窓の外に向けたままそう言った。
出会ったその日に急遽行われた自己紹介の時、確かクラシック鑑賞をはじめてみたと言っていたような記憶がうっすらと残っている。
「ああ。たまたまCDを数枚貰ってな。それで聞くようになった」
眼鏡の奥で軽く笑うと、祐一はそう言って頷いて見せた。
CDを貰ったところで興味が微塵も沸かなければ聴きもしないだろう。
それでも聴いているということは、少しは興味を持っていると思っていいということだろうか。
「どんな曲のCDを聞くんだ?」
純粋な好奇心から、十夜は首を傾げる。
「どんな曲というか、貰ったCDそのままだが」
色々ごちゃ混ぜだと祐一は軽く笑った後、いくつか曲名を挙げた。
サン=サーンスの死の舞踏とか、マスネのタイスの瞑想曲なんかは十夜が良く知ってる曲名じゃないかと首を傾げる。
確かに有名なクラシックの中でも十夜にとって馴染みがないわけでもない種類の楽曲だ。
その2曲にはバイオリンのソロが存在しているということで、十夜にとってはより身近に感じている曲と言えるだろう。
「成程な。今日行く場所ではオーケストラの前でバレエを踊るって企画があるらしいぞ?」
演目はチャイコフスキーのくるみ割り人形だと十夜は聞いている。
そう言えばここ数か月、その楽曲の1stをずっと練習していたなと思い出し、教えてくれていた教授を思い浮かべながら苦笑した。
確かに教える側の教授は自分が関わっているオーケストラの楽曲を生徒に練習させる方が頭も使わずに済んで良いだろうし、同時に将来はソリストを志しているとはいえオーケストラを1度も経験しないままということはまずないという点から見ても十夜にとっても為になる練習だ。
こういうのを一石二鳥と言うのだろうと十夜は勝手に考えた。
「ソレは楽しみだが、他の奴らも来れたら良かったんだがな」
勿体ないと祐一が軽く笑う。
「赤也と拓海はバイトだと。瑞貴は用事で実家に帰っているとメールが返ってきた」
十夜は昨夜のメールでのやりとりを思い出し、肩を竦める。
「惜しいな。俺よりあいつらの方が余程クラシックに詳しいんだがな」
「…あいつらって、赤也も含むのか?」
祐一の言葉に、十夜は意外そうに眉を顰めた。
クラシックの鑑賞なんて、赤也の場合大人しく聴いていなさそうなイメージの方が強いのだがと、目で問いかければ祐一は口角を釣り上げ可笑しそうに笑う。
「普段の印象とかけ離れているがな。俺が聴いているCDを手に入れて来たのは赤也だ」
そう説明され、十夜は驚きに目を丸くする。
実に意外だった。
1番興味が無さそうに見えるのに、人は見かけによらないと十夜は苦笑する。
そんな他愛のない会話を繰り返しながら目的地付近に辿り着けば、大きな道路を挟んだ先に見える大きな自然公園が目の前に広がっていた。
風に乗って流れてくるのはトランペットの音など楽器の生音。
まず目を引いたのが、公演の奥に設置されたサーカス団のテントようなもの。
赤と白のストライプ模様に似たテントの屋根は緑の木々の間からよく目立つ。
そして大きなバルーンが周囲に浮かんでいて、まるで絵本の中のサーカスを見ているような気持ちにさせられた。
そこら中に小さなテントの屋根が見え、それは縁日で見かけるような飲食物を供する店であったり小さな催しがされているようだ。
手前に見えるテントの屋根の下ではサーカスに相応しい明るい色の大きなキャンディーが並べられているし、その奥では色とりどりの涼しげな飲み物が並んでいる。
売り子はみんなサーカス団のようなファンタジー世界の登場人物のような仮装をしており、一気にここが日本ではないような錯覚に陥った。
たくさんの風船を手に、子供たちに配っているのは間違いなくピエロだ。
「…コレは壮観だな…」
祐一が目の前の光景に、圧倒されたように茫然と呟いた。
「ああ。俺もこんなのだとは教えられていなかったから…」
驚いたと十夜も目の前の光景に呑まれてしまって他に言葉が出てこない。
しばらく2人並んで茫然と広がる幻想的な光景を眺めていたが、祐一がポツリとやはり惜しいと呟いた声で十夜は我に返った。
「惜しいって何がだ?」
隣に視線を向け、十夜は首を傾げる。
「いや、赤也あたりが喜びそうな光景だと思ってな」
見渡す限り広がるテント型の店や色とりどりの風船、それにどこからか流れてくる明るい音楽にサーカス団のような扮装をした人たち。
それらを指して祐一はどこか子供っぽい笑みを浮かべていた。
「それじゃ、行ってみるか」
十夜はそう言うと道路の向こうを指す。
祐一が頷いたのを見て、2人は横断歩道を探した。
すぐ側の大きな横断歩道を渡って、公園の入口に着くと一層色々な音が耳に届いてくる。
一際目立つ音に目を向ければ、トランペットを片手で演奏しながらもう片手でボールを投げている道化師が見えた。
大道芸なのだが、その動きは洗練されている上に音色は安定していて力強く響いている。
一体道化と演奏者のどちらが本職なのかと疑ってしまうような腕だ。
どちらを本職だと言われても納得出来てしまえるだけの確かな力量に、十夜は驚いていた。
クラシック音楽以外は軽薄な音楽だという認識は変わらないが、こんなに良い音を出せるのにクラシックをやらないなんて勿体ないという気持ちが浮かんでくる。
「ほう…。すごいな」
祐一の感嘆の声がすぐ隣から零れ落ちた。
チラリを視線を向ければ、純粋に見惚れている真っ直ぐな目が見える。
演奏されている曲は、確か有名な映画で使われていた曲だったと思う。
割と難しい曲の上、単音の旋律では味気ないのだが、それでも衆目を集めるには充分だ。
「少し近くで見ないか?」
完全に感心しきった様子で祐一が十夜を振り返る。
普段の落ち着いたクールな様子からは想像のつかない無邪気な子供のような目で見ていたので、十夜は少しだけ面食らったあと了解の意味で頷いてみせた。
近づけば、周囲の観衆に紛れて熱気に呑まれそうになってしまう。
道化師が楽しそうに演奏とジャグリングをしながら集まってきた観衆に目を向けた。
顔を白く塗り道化のメイクを施された顔は本人の表情に関係なく常に泣き顔で余計に笑いを誘う。
それなりに人だかりが出来た頃、クラウンはわざとなのか本気なのかジャグリングのボールを誤って落としてしまった。
「おぉーっと!コレは失礼!こんなに大勢の前で披露するのが初めてで、失敗失敗」
おどけて言う道化師に、周囲から笑いが巻き起こる。
「それにしても、流石に1人でBGMも担当しながらのボール投げってツライですねぇ」
小さな女の子が拾ってくれたボールを笑顔で受け取り、わざとらしく大げさに肩を竦めて見せた。
その様子に再び笑いが巻き起こるのは、道化師が本当に哀愁を漂わせているような様子に見えたからだろうか。
十夜の隣で祐一も小さく笑ったのが聞こえる。
道化師は楽器ケースの中にボールを置くと、片手で楽器を持ったまま中からボールの代わりに小さな腹話術用の人形を取り出した。
「そうだ!ボクのまわりには、楽器を持った人がたくさんいるじゃないか!」
『そうだけど、みんなキミみたいに下手じゃないと思うよ?』
「事実だけどそんな言い方はないじゃないか!」
道化師は手の中の人形と会話をしているように器用に喋ると、楽器で人形を小突く真似をする。
『わぁ、ヒドイ、人形虐待だ!』
大げさに人形が首を振ったので、観衆からは小さくない笑いが上がった。
「いいかい?ボクが今から演奏する曲は誰もが知っている海賊映画のあの曲なんだ!」
『あぁ、彼こそが海賊、だねっ。ソレをキミの貧相な笛だけは勿体ない』
人形に向かって説明をする道化師に、盛大に嘆いて見せる人形という図は滑稽でありながら楽しげで、子供たちからも歓声があがっている。
「そんなワケで、せっかくだから楽器を持ってる人は協力してくれないかい?」
流石は音楽を主軸に据えたイベントというだけあって、十夜以外にも楽器ケースを手にしている人間は少なくなかった。
観衆の中にもちらほら見受けられるが、服装から考えて彼らも十夜のような通りすがりだろう。
『そうだね!ぜひ皆で演奏してみて欲しいな!』
人形はその言葉と共に近くに置かれてあった台の上に座らされる。
その直後、まるで小学校の図工室に置かれてある椅子のようなものを片手にもう1人クラウンが現れた。
そのクラウンは1人目の道化師とは対称的に笑顔のメイクが施されている。
「さぁ、みんな、一緒に楽しもうじゃないか!踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損って言うだろう!」
泣き顔の道化師はどこまでも楽しそうにそう言うと、トランペットを構えて最初の音を奏で始めた。
椅子のようなものを持ってきてその上に座った笑顔のクラウンは椅子の前面を少し浮かせるように座りなおすとその側面を叩き始める。
椅子とは思えない軽快なドラムのような音に、観衆がわっと声を上げた。
笑顔のクラウンが座っているのは、カホンというれっきとした楽器だと音を聞いて十夜は思い出す。
「ほらほら、どんどん参加しておくれよ!」
トランペットを吹いている方はさすがに喋れないが、代わりにカホンを叩いているクラウンが観衆に呼びかける。
その声に呼応するかのように、楽器を持たないただの観衆たちは楽器ケースを持っている通りすがりたちに期待の目を向けた。
1人また1人とトロンボーンを手にした男性やフルートを手にした女性などが次々と演奏の輪に加わり出して、一層賑やかになっていく。
楽器が増えるたびに音の密度は増し、完成された演奏になってくる。
どんどん元の曲の重厚さに近づいていき、観衆はますます盛り上がりを見せていく。
重なり合わさった音はどれもただの素人に出せるような音ではなく、当然こんな場所に楽器を持ち込んでいるだけはあると思わせるだけの洗練された音だった。
その音が聞こえたのか、いつの間にかチューバやファゴットも増え、更にはチェロまで増えている。
「十夜は参加せんのか?」
小さな声で祐一がそう問いかけてくる声は参加を期待しているような面白がる響きが含まれていて、十夜は言葉に詰まった。
何故なら十夜はクラシック以外一切演奏をしたことがないという事情から、どれだけ期待されてもこの曲を奏でることが出来ない。
それに、クラシック以外を演奏することで自分の音楽が壊れてしまうような気がして、どうも足踏みをしてしまうのだ。
「ほら、ソコのバイオリンのお兄さんもどうだい?」
明るく楽しそうな声がカホンのクラウンから投げかけられる。
確かにこの合奏にバイオリンの旋律が加わるだけでより一層深い味わいになるのは誰にだってわかることだ。
こんな状況で弾けないとも言いだしたくないが、このままでは輪の中に無理やり引きずり込まれないと十夜は焦っていた。
「…俺は…」
この曲は弾けないんだと言うしかないだろうか。
そう声を発そうと、唇を噛んで意を決する。
言ってしまえば雰囲気が壊れてしまいそうで、自分にとってはただの軽薄で薄っぺらい音楽でも聴いている人にとっては難しく重厚なクラシックよりも親しめるはずの音楽を壊してしまうような無粋な真似はしたくなくて十夜は葛藤していた。
「…私でもいいですか?」
その言葉と共に、輪の中に躍り出たのは十夜とたいして年の変わらなさそうな少女。
涼やかな声と柔らかい話し方の通り、育ちの良さそうな上品な印象を湛えた美少女がバイオリンを片手に可愛らしい笑みを浮かべていた。
ふわりと空気を孕む上品なラベンダー色のワンピースに長い髪という、見るからにお嬢様という印象の少女が演奏の輪の中に加わろうとした瞬間、面白がるような空気が聴衆を包んだ。
演奏されている曲は力強く伸びやかな曲で、少女の大人しげな外見や服装とはそぐわない。
ヒュウっと吹かれた口笛の音に、少女はふわりと微笑むとバイオリンを構える。
そして、弦に吸い寄せられるように弓が滑った瞬間。
思わず息を飲んだ聴衆は1人や2人ではなかった。
奏でられる音は曲に沿った力強い旋律で、音量としては金管楽器に劣るはずのバイオリンの音色なのに全く負けていない。
十夜もその音を耳にした瞬間、これは本物だと驚きに目を丸くしたくらいだ。
見た目はどこまでも優雅で繊細な少女なのに、紡がれる音はその見た目の印象に通りに優雅でありながら雄大で力強い旋律だった。
それだけでなく、気負うことも力むこともなくどこまでも自然体で楽しげに弾いているのが何よりも印象的に見える。
楽器が増えたことでいつの間にかトランペットを降ろした泣き顔の道化師が曲に合わせてパントマイムをし始め、彼は道化でありながら海賊になった。
そんな道化師の動きに合わせるように踊るようにして音を奏でる少女はとても楽しそうで、いつしか十夜は釘づけになっている。
演奏を終え、道化師やクラウン、飛び入りで参加した通りすがりたちが楽器を降ろすと、それぞれに即席セッションを組んだ相手に惜しみのない拍手や賞賛の目を向け合っていた。
観客となっていた人だかりからも大きな喝采が沸く。
飛び入りの参加者たちはそれぞれに適当に挨拶を交わすと何事もなかったかのように人だかりを抜けて行った。
十夜はつい自身の目を釘付けにした少女の姿を目で追う。
そんな十夜の様子に気づいた祐一も、同じようにその少女を目で追った。
少女が惜しみなく拍手を送る観衆の中を抜けると、そこにはダークスーツに黒の手袋といった明らかに普通ではない恰好の、ギリギリ少年の域を出て青年に見える2人が立っている。
1人はシャツの胸元を開けネクタイもしていない上にジャケットのボタンも留めていないというラフな姿の青年で、せいぜい大学生くらいの外見をしていた。
表情と服装次第ではまだ少年にしか見えないような、そんな外見。
もう1人は完璧にきちっと固くスーツを着こなし、真っ黒なサングラスをかけているので目元は見えないが全体的に涼しげな様子の同じく大学生くらいの雰囲気だ。
「…おい、何考えてんだ、オマエ」
少女の姿を認めるなり、ラフな服装の方の青年が怒っているのか呆れているのか判断のつかないような様子で話しかけた。
そう言いながら少女に向かってバイオリンのケースを差し出したところを見るまでもなく、間違いなく同行者なのだろう。
少女はそのケースを受け取ると、持っていたバイオリンを慣れた様子でケースに片付けた。
「いきなり人ごみの中に入ってくとか、ホント、何考えてんだよ、あやめ」
盛大なため息をつくと、青年はしょうがないなとでも言いたげな親しみを込めた笑みを浮かべる。
やってしまったものは仕方ないとでも思っているのかもしれない。
「お嬢様、ああいう軽率な行動は慎んでください?でないと護衛の意味がありません」
サングラスをかけた方の青年が諭すような口調で少女を覗きこむ。
「…はい、ごめんなさい」
2人それぞれに遠回しに怒られた少女はといえば、小さく笑って謝罪を口にした。
謝ってはいるがあまり悪びれた様子はない。
「普段なら全然イイけどさ。今日はダメだろ?色んな意味で」
ボタンを留めていないスーツの上着を翻すと、青年はそう言って少女をエスコートするように手を取る。
軽い口調の中にも相手を案じる優しい響きが感じられる声音に、自然と微笑ましい気持ちが芽生えた。
どこか親近感の沸く青年だと十夜は遠巻きにそのやりとりを見守る。
「じゃ、オレ、飲み物でも買ってくるから。大人しく待ってろよ?」
サングラス姿の青年に少女を引き渡すようにすると、くるりと振り返って十夜たちの方へと向かってきたスーツ姿の青年が間近に来た時、偶然にも目が合ってしまう。
おや?と驚きの表情を浮かべたその顔に、十夜は見覚えがあった。
「…赤也?」
その呟きは、十夜のすぐ側の祐一からもたらされる。
驚くべきことに、スーツをラフに着こなした場馴れした雰囲気に見える青年は、友人だった。
「あれ?オマエら、何してんの?」
普段と変わらない表情で、首を傾げるその姿は間違いなく赤也なのだが、服装に大きな違和感を覚える。
それ以前にこの場所にいることに驚いた。
確か、バイトだと言っていたはずなのだが。
「ソレは俺の台詞だ。貴様、バイトだと言ってなかったか?」
「今バイト中だって。ちょうどいいや、どっかで飲み物とか売ってる場所しらね?」
十夜の問いかけに笑顔を見せると、赤也はそう訪ねてくる。
「先程、入口の近くに色とりどりのジュースを置いているテントがあったぞ」
服装や言動を追及することなく、祐一があっさりとそう応え、テントがあった方を指した。
「サンキュー!あ、せっかくだし、奢るぞ?経費だから」
その代りちょっと付き合えと赤也が楽しそうな口調で言う。
「経費って何だ…」
思わず呻いた十夜だったが、付き合うことに異論はない。
というか、別に決まった行動予定があるわけではないし、少しだけ先ほど見かけた少女のことが気になっているというのも事実だった。
嫋やかな見た目からは想像も出来ないような、舞台の上に立つソリストと変わらないどころかその辺の駆け出し演奏家よりも余程洗練された音を生み出した少女。
自然体のままそんな音を奏でられる人間は少ないし、その上あの外見年齢であれば恐らく十夜とさほど変わらないはずだ。
それなのにまるで老獪な賢者のような深い音色と同時に瑞々しい音色を紡ぎ出した少女に、十夜は嫉妬に近い気持ちを抱かなかったと言えば嘘になる。
しかしそれ以上に、何故それだけ弾けるのにクラシックではないのかという気持ちの方が強かった。
「経費は経費、今、バイト中だから全部依頼主持ちなんだって!」
カラリと笑う赤也の言葉に適当にそうかと相槌を打ちながら十夜は先ほどの少女のことを考える。
「赤也、バイトはたしかシークレットサービスであったな」
店に向かう途中、祐一が思い出したようにそう言い服装を見て納得していた。
「おう。今日は一応あやめのエスコートが仕事だ」
仕事中だから一応スーツなんだと応える赤也はどこまでも楽しそうだ。
「拓海は一緒ではないのか?同じバイトだと聞いていたはずだが」
「何言ってんだ?さっき、一緒にいたろ?」
あぁアイツがサングラスだからわかんないのか。
首を傾げた祐一に赤也は可笑しそうにそう言う。
つまりもう1人いたスーツ姿の青年も、友人ということらしい。
そんな会話を交わしながら飲み物を打っている店に着くと、色とりどりのメニューに目を丸くした。
名目はトロピカルドリンクということだったが、一体何が入っているのか分からない鮮やかな色ばかりだ。
無難そうな物を頼むのかと思いきや、赤也は何故か何が入っているのか気になるような緑色や青色、果てはグラデーションという変わったドリンクばかりを注文する。
それでいいのかという目を向けた十夜は、自分は無難に恐らくオレンジ系だろうと思われる色の物を選択した。
祐一が選んだものは白い色で、予想ではココナッツだがその詳細は不明だ。
それを手に、元来た場所へと戻っていく赤也に十夜と祐一は何となくついて行った。
大きなサーカスのテントまで続く公園の中心の道から少し逸れただけで喧騒はだいぶ遠ざかる。
元々は自然公園なので景観を楽しんだり足を休めるためのベンチが置かれた木陰に、赤也の連れたちの姿があった。
大人しくベンチに腰掛けた少女とその傍に立って控えているスーツの青年は絵になる。
「お待たせ!」
明るい声でそう言いながら近づいて行く赤也の姿を少し後ろから眺めていた十夜は、今さらながら着いてきて良かったのかと疑問に思った。
「奇遇だな」
十夜と祐一の姿を認めるなり、サングラスを外したスーツ姿の青年が口の端を軽く持ち上げニヤリと笑う。
サングラスさえ外してしまえば、そこには良く知った顔があった。
「…それはこちらの台詞だ、拓海」
赤也にも同じことを言ったような気がすると思いながら、十夜は憮然と言い返す。
そもそもバイトだからと誘いを断ってきた相手とこんな場所で遭遇するなんて、まったくの予想外だ。
そのやり取りに、少女が小さく笑った声が聞こえてそちらに目を向ける。
「…ごめんなさい、あまりにも仲が良さそうでしたから」
くすくすと可愛らしく笑った後、少女は笑ってしまったことへの言訳のように小さく付け加えた。
「あ、そうだ。紹介しないとな」
得体のしれない飲み物を配っていた赤也が、ふと思い出したように十夜たちを振り返る。
「十夜、祐一。コイツがオレらの雇い主な」
「正確には、雇い主ではなくて護衛対象だ」
カラリと笑う赤也に、すぐさま拓海から訂正が入った。
その2人を柔らかな笑顔で見つめていた少女だったが、十夜と祐一の方を向くとベンチから立ち上がる。
「こんにちは。岡崎(おかざき)あやめです」
どうぞよろしくと綺麗な微笑みを浮かべ、小さくお辞儀をする姿は本当に箱入りの令嬢を思わせた。
笑顔を向けられた十夜と祐一は思わず顔を見合わせ、どちらともなく小さな声で挨拶を返す。
クラスの女子生徒のような普通の少女であれば気後れすることもなかったのかもしれないが、触れたら壊れてしまいそうな繊細な見た目と恐らく殆ど外に出ていないのではと思わせる程白い肌のせいで庇護欲は生まれても軽く接するという選択肢は生まれない。
「お嬢様、大人しく座ってていただけませんか」
拓海は赤也と違って仕事中は普段より堅苦しい態度のようだが、丁寧な言葉の中に相手を本気で案じている響きが含まれている。
大人しくと言われたあやめは苦笑すると、言われた通りにベンチの上にふわりと座った。
「もう少しご自分の状況を考えてくださいね」
溜息交じりに諭すように言う拓海の声は優しげで、まるで本職の執事か何かのようだ。
見たところ何かあるというわけでは無さそうだが、あやめには身を案じられる理由があるのかもしれない。
「あやめ、ホントに大丈夫か?」
その側に近づいて、覗きこむように屈んだ赤也が心配そうに問いかけると、軽く頬にかかった髪を払う。
「大丈夫ですよ」
少し困ったように笑ってあやめは赤也を見上げた。
赤也の様子に、そこまで心配しなくてもとでも言いたげだ。
「ぁー…あんま顔色良くないぞ?」
本当に大丈夫なのかと苦笑し、赤也は肩を竦める。
「赤也と拓海は、要するにその、彼女の…岡崎嬢のSP…なのか?」
いまいち流れについていけていないらしい祐一が控えめにそう問いかけた。
「あやめでいいですよ?赤也と拓海の2人は私の護衛というよりもお目付け役でしょうか」
祐一の問いに答えたのはあやめで、左右に控える形に立っていた赤也と拓海を見て軽く微笑んだ。
「俺たちは最近もっぱら、あやめの専属みたいなものでな。まぁ、基本的にただの話し相手と大差ないがな」
拓海はそう言うと、あやめの頭の上に軽く手を乗せる。
完全に近しい間柄でもないと出来ないような行為に、十夜は目を瞬かせた。
「普段ならぶっちゃけ見てる必要もあんまないんだけど、今日は別だ。頼むからあんま無茶すんなよ?」
冗談めかし、何かあったら依頼主にオレらが絞められると赤也は笑う。
「そんな無茶なことしてないです」
拗ねたように言い返すあやめの様子は、赤也や拓海を身近に感じているのだとわかるような年齢よりも僅かに幼く見える表情だ。
「具合が悪い状態で雑踏の中に飛び込んでの演奏は感心しませんよ?」
冷やかにも聞こえるような口調で拓海がやれやれと呆れた視線をあやめに向ける。
その言葉に、あやめは言い返さない代わりに聞こえなかったフリを決め込んだのか、困ったような笑顔を浮かべたまま拓海の方を見ようともしない。
成程、必要以上に友人たちが過保護に見えたのは、そういう理由だったのかと十夜はチラリとあやめに視線を向けた。
確かに言われてみれば病的に白い肌は、具合が悪いせいなのかもしれない。
「あ、十夜!オマエさ、あやめに礼言っといた方がイイんじゃね?」
不意にからかうような口調で赤也が十夜を振り返った。
「どういう意味だ?」
初対面の少女相手に、一体何をと十夜は赤也に視線を向け、片眉だけを器用に顰める。
「え?オマエが困ってたから代わりにコイツが弾いてくれたんだぞ?」
気付かなかったのか?と赤也は驚いたように目を瞬かせた。
「赤也…あやめが黙っているのにお前がバラしてどうするんだ」
それに拓海の呆れたような声が飛んでくる。
十夜はその言葉に、驚いたようにあやめを正面からまっすぐに見た。
視線を向けられたあやめは少しだけ困惑の表情を浮かべている。
「俺が輪に加わらなかったから、代わりに加わったということか?」
他に考えようもなく、十夜は見知らぬ相手にそんな気遣いをさせていたのかと目を瞠った。
うっかり普段人前で作っている温和な仮面も被り忘れる程の衝撃だ。
十夜が困っていたというのは、隣にいた祐一すら気づかなかったはずなのに、通りかかっただけのあやめに何故それがわかったのだろうか。
それに、何故たまたま見かけただけの十夜を助けてくれたのだろう。
確かに困っていたし、あのタイミングで彼女が飛び込んでくれなければ場の空気を壊しかねなかったと正直に思っているが、だからといって何故という気持ちで十夜はあやめを見つめた。
「差し出がましかったですか?もしかして、あの曲をご存じないのかと思ったものですから…」
恐らく問いかけられなければ言うつもりはなかったのだろう、小さく首を傾げて十夜を窺うあやめの表情はどこか不安げな様子で、余計な世話だと怒鳴られるのを恐れているようなそんな弱さを感じさせる。
「いや、助かった。あの曲は知らなかったんだ」
正直にそう言わなければ、せっかく助けてくれた少女を傷つけてしまうと十夜は自分のプライドを曲げてそう言った。
普段の十夜なら、恐らく余計なことをと言ったに違いない。
それに反して素直にそう言えたのは、不安そうに揺れる瞳をみたせいか、それとも友人たちもいる前で虚勢を張っても仕方ないという気持ちが勝ったのか。
重ねて十夜があやめに礼を言おうと思った瞬間、ポケットの中で携帯電話が激しく鳴動した。
「悪い」
一言断って慌てて携帯電話を取り出せば、そこに表示されている人物の名前を見て十夜は目を剥く。
「先生?どうしたんですか?」
確か今日はこの公園でのビックイベントの指導やらに借り出されていて、その結果レッスンが無くなったはずだ。
一体何だろうと十夜は電話越しの恩師の言葉を待つ。
『あぁ、十夜、悪いんだが、至急オケに加わってくれないか。1stが1プルト足らなくてどうしようもないんだ』
電話から聞こえてきた声に、十夜は真剣にわが耳を疑った。
「俺は1度もオケに参加したコトないんですが」
聞き間違いだろうかという希望を込め、そう問い返す。
『苦肉の策だ。詳しい話をしに行く、今どこにいる』
電話の向こうで渋い声を聞き、十夜は簡単に居場所を説明した。
その直後、わかったとも何も言われず一方的に電話が切られる。
「…何の電話だったんだ?」
十夜があまりにも悲壮な表情をしていたせいか、祐一が控えめに問いかけてきた。
「…オケが1プルト足らないって…」
茫然と十夜が呟く。
祐一や赤也、拓海は当然ながら言葉の意味がわからなかったのか首を傾げたが、あやめだけはそれは…と口元に手を当てて驚きを露わにしていた。
「…俺が…オケ…?」
そんな、まさか、と十夜は話についてこれない周囲を置き去りに悲壮感漂う表情で呟く。
「1プルトということは、つまり2名足らないということですね…」
それは大変とあやめが同情の眼差しを十夜に向けた。
「あぁ、十夜!良かった、君が楽器を持ってきてくれていて」
急ぎ足でこちらに向かってきたのは、恰幅のいい初老の男性。
服装こそ普通のどこにでもいる定年前後の男性だが、彼はれっきとした音大の教授で、十夜の音楽の師、名を九条(くじょう)(いつき)という。
十夜を見つけるなり、安堵の声をあげる。
「いえ、先生、いくらなんでも無茶ですって」
確かに練習していたのはオケの楽譜ではあるが、誰かと合わせたことなど1度もない十夜は慌てて首を振った。
「背に腹は代えられない、今から急遽リハーサルの時間にするから、悪いが参加してくれ」
それにこれもいい機会じゃないかと九条は畳み掛けるようにそう続ける。
「でも、足らないの1プルトですよね!?もう1人はどうするんです」
いい機会かもしれないが、それでもいきなりオーケストラの舞台をそれも初演当日に踏むなんて無理だと十夜は全力で固辞に姿勢を示す。
「それは先ほど知り合いに頼んでみた。とある有名なオーケストラのスポンサーをしている青年でな、誰か1stを弾ける人間がいないかと連絡してみたところだ」
九条のその言葉に、十夜はだったら2人共ソコから頼んでくれと呻く。
「九条さん」
そこへ、艶のあるテノールが響いた。
新たに現れた人物に、思わず目を向ける。
そこに立っていたのは、人目を集める麗しの青年実業家といった雰囲気のスーツの男性だ。
「おお、誰か捕まったかね?」
その青年の姿を見るなり、九条は縋るようにそう問いかける。
文脈でそのスーツの青年がオーケストラのスポンサーなのだと把握した十夜も祈るような気持ちで青年を仰ぐ。
九条が有名なオーケストラと言うからには、相当なレベルのオーケストラの関係者なのだろう。
「それが、生憎と私の知っているオケでは、今日の楽曲を弾いたことのある人間はいなくてね」
さてどうしたものかと青年は困ったように表情を曇らせる。
その青年の登場に、視界の隅で何故か赤也と拓海が顔を見合わせていた。
「あぁぁぁぁ…どうすればいいんだ…」
真剣に嘆く様子の九条に、十夜は力になりたいと思うがこればかりは自分が頑張りますと言えるものでもない。
「ところで九条さんの秘蔵っ子は、こちらの彼ですか?」
青年は柔らかく魅力的な笑みを浮かべると、十夜に視線を向ける。
「ああ。佐伯十夜、うちの秘蔵っ子だ」
九条は青年の問いにそう肯定の言葉を発すると、自信ありげな笑みを浮かべてみせた。
名前を聞いた瞬間、僅かに青年が驚いたように目を瞠る。
「それじゃあ、彼が急遽オケに加わるんですね」
そこまで恩師に買われていたとは知らなかった十夜は純粋に嬉しい気持ちになったが、続く青年の言葉に思いっきり表情を引き攣らせる。
「え、いや…俺…」
だから、いきなり初体験オーケストラが初日とか勘弁してくれと十夜は懇願するように九条を見た。
「うむ、十夜、よろしく頼むぞ」
普段の練習を思い出せば大丈夫だと九条は勝手に太鼓判を押す。
「…俺、オケのボウイングなんて知りませんが」
好きなように弾けばいいというものではない。
オーケストラではパート全体で決まった通りに弓を動かす。
それを間違った状態で弾く人間が混ざっていたら、音の統一性が消えてしまうということくらい当然わかる。
「それは大丈夫だ、普段のレッスンで教えている通りだからね」
だから安心しなさいと九条は大きく頷いた。
全然安心出来ないが、もう逃げられ無さそうだと十夜は腹を括るしかないかと諦念を滲ませながら引き攣った笑いを浮かべる。
「…これは私もうちの秘蔵っ子を出すしかないかな」
九条と十夜のやり取りを楽しげに見ていた青年は、小さく笑うとそんなことを口にする。
「おや?オケに心当たりはないのではなかったのかね?」
目を丸くしながらも期待するような視線で九条が青年を見た。
「ええまぁ、本当ならうちの秘蔵っ子は出したくなかったのでね」
状況が許すならばと青年は九条に苦笑を向ける。
その表情は、本当に出来るならば言いたくないとでもいうような様子で、十夜はどういうことだろうと首を傾げるしかない。
「岡崎くんも人が悪い。心当たりがあるのなら、言ってくれ」
時間がないんだと九条は切羽詰まった様子で青年を仰ぎ見た。
その言葉の中に、つい先ほど耳にしたフレーズが混ざっていたような気がして十夜は目を瞬かせる。
「仕方ないね…。…あやめ、来なさい」
青年は深く溜息をつくと、それまで完全に外野を決め込んでいた集団へ視線を向け、まっすぐにあやめを見た。
「…はい、お兄様」
呼ばれた方は、従順に返事をし座っていたベンチからすっと立ち上がると青年の側に歩み寄る。
並んでいてもあまり似ているとは思わないが、言葉の通りなら兄妹という関係なのだろう。
もしくはとても近しい縁者だろうか。
「出来れば休ませてやりたかったんだけどね。こういう事情だ。あやめ、弾けるね?」
青年はあやめの頬にそっと手を添えると、自分の方を向かせてそう問いかけた。
優しい声音と沈痛な面持ちから、彼が本当は彼女に演奏をさせたくないのだと伝わってくる。
「はい、承りました」
しかしあやめは柔らかく微笑むと、そう言って瞳を伏せた。
手を添えられているので頷くことが出来ない代わりの意思表示だろう。
「…九条さん、この子をお貸ししましょう。…その代わり、1つ約束してもらいたい」
九条の方に視線を向け、青年が厳しい表情を浮かべる。
「何ですかな?」
話を振られた九条はといえば、何を言われるのか全く予想できない様子で目を瞬かせていた。
「この子はあまり丈夫でなくてね。あまり無理をさせないでもらえますか?」
そう言って、青年はそっと自分の側にあやめの肩を引き寄せる。
手元から引き離したくないと言葉よりも雄弁に語るその行為に、十夜は何故か心が痛むのを感じた。
「わかりました。…ところで、その子が岡崎くんの秘蔵っ子というわけですか?」
九条は大きく頷いて請け負うと、興味を惹かれたのかあやめに視線を向ける。
十夜と年の変わらなさそうな大人しげで儚げな少女がまさかというような探るような目を向けていた。
「ええ。この子はあやめと言います。佐伯くんと言ったね?同じくらいの年だろうから、あやめのことをよろしくね」
青年は自信ありげに九条にあやめを紹介し、十夜に視線を向けて柔らかく微笑んだ。
「あ、はい」
思わず返事をしてしまってから、十夜はこれでもう完全に後に引けなくなったと心中でため息を零す。
「じゃあ十夜、そのお嬢さんと一緒に先にテントに向かいなさい。それと、十夜の友人には急なことで申し訳ない。岡崎くんたちと一緒に後でテントまで来てくれ、いい席で観てもらえるよう取り計らおう」
九条は慌ただしく指示を出し、服装から祐一が十夜の連れだと判断したのかそう言った。
「そうだ、九条さん、ここだけの話をお教えしましょう」
くれぐれも内密に、と言いながら青年が面白がるような笑みを浮かべ、九条に近づくとその耳元に唇を寄せて何事か小さく囁く。
離れていた十夜には何を言ったのかわからなかったが、九条の瞳が驚きに大きく見開かれたのが見える。
「…そんな…」
驚愕に彩られた声で呻くように呟くと、九条は一瞬だけあやめに視線を向けた。
「あやめ、新田君たちとは後で一緒に合流できるようにしておこう。それと佐伯くんのお友達も私が責任をもってエスコートさせてもらうからご心配なく」
青年は笑顔でそう言うと、ひらひらと手を振って十夜たちを見送る。
テントへ向かえと言われたので、十夜は視線であやめに行こうと促した。
歩き出した十夜の背後に、いいのか!?と食って掛かる赤也の声が届いて気にならないと言えば嘘になるが、急遽演奏をしないといけないという事態なのでそれどころではない。
少しでも早くにオーケストラと合流し、音を合わせなければいけないのだ。
十夜は大人しく後ろをついてくるあやめを振り返り、少しだけ心配になった。
そもそも彼女は今日の演目の曲を知っているのだろうか。
彼女の演奏は先ほど聴いた映画の曲だけだが、そういう曲ばかりを練習しているならバレエ楽曲とはいえクラシックなど弾けるのかと疑問に思う。
他にも、確かに彼女の奏でる音は本物だと思うが演奏家にはそれ以外にも大切な物がある。
長時間の演奏に耐えるだけの体力も必要だし、周囲との協調性も必要だ。
十夜自身、前者には自信があるが後者に関してはさっぱり自信がない。
それに、赤也や拓海があやめをとても心配していたのを思い出す。
「…具合、悪いんじゃないのか?」
大丈夫なのかと十夜は控えめに問いかけた。
つい声をかけてしまったのは、無言のまま歩いているのも居心地が悪かったからかもしれない。
「演奏が出来ないほどではありませんから」
柔らかな笑顔でそう言うが、日の当たる場所で見てもあやめ顔色はあまりいいとは言い難かった。
「…弾けるのか?今日やる曲…」
曲を知っているのか、曲の長さを分かっているのか、と十夜は不安になって問いかける。
今日の演目は、休憩をはさむとはいえ2時間近くに及ぶ長丁場だ。
練習も含めれば相当な時間弾き続けることになる。
「…昨夜、一通り弾いてみましたから…」
楽譜に最低限ボウイングくらい書いてあれば何とかとあやめは不安げに表情を翳らせた。
十夜のように何度も練習を重ねたわけではないのかと十夜は頭を抱えたくなる。
「出来るだけリードする…」
十夜に言えるのは、ほぼ初見で弾くらしい彼女の負担を少しでも軽くしてやることだ。
「…ありがとうございます」
少しだけ驚いたように目を丸くした後、あやめは本当に嬉しそうに微笑みを浮かべた。
遅咲きの小さな花が綻ぶような笑顔に十夜は面食らいながらも何とか気にするなとだけ返す。
テントの前に着くと、さて九条はまだ来ていないが、どうすればいいのだろうかと十夜は首を傾げた。
入口と思しき場所は当然ながら閉まっている。
「あ、もしかして、九条先生の言ってた弟子って君か?」
くるりとテント周辺を覗きこむように首を巡らせていた十夜に、1人の青年が近づいてきた。
彼は十夜の持つバイオリンケースを見るなりそう破顔する。
「ええと…」
弟子に間違いはないが、ここは素直に頷いていいのだろうか。
「良かった、悪いけどあんまり練習させてやれないんだわ、至急こっち来てくれるか」
そう言うと、青年は十夜を手招いた。
「あ、そういや、もう1人どっかから連れてくるって言ってたのは、もしかしてあのお嬢ちゃん?」
十夜の後ろにいたあやめに視線を向け、青年は十夜に問いかける。
「そうらしいです。えっと、先生の知り合いのところの秘蔵っ子らしいんですが」
十夜は聞きかじった内容を並べ、他に言いようがないのでそう説明した。
「へぇ。岡崎さんに頼むって九条先生が言ってたから、てっきり男の子連れてくると思ってたんだけどな」
まぁいいや、弾けるなら何でもと青年はニカっと笑い、2人を手招く。
裏口というか搬入口からテントの中に入るように指示され、青年の後をついて中に入って行った。
楽屋のような場所があり、そこから直接舞台に行くように言われたのでそのまま進んでいくと、オーケストラの楽器の音が響いてくる。
「おい、みんな、連れて来たぞ…!」
青年が声を張り上げ注目を集めると、途端に楽団員全員の視線が十夜たちに突き刺さった。
「あの九条先生の弟子ったって、まだ子供だろ?弾けるのか?」
いっそ1プルトないままでも他で調節すればいいんじゃないのかと否定的な声があがる。
実は十夜自身も全くその通りだと思わないでもない。
ここの楽団員に自分の腕が劣るとは微塵も思わないが、いくら演奏家としての腕があってもオーケストラで弾くのは無謀なのだ。
大事なのは協調性。
「時間もない、取りあえず、その2人に弾いて貰って判断すべきだ」
別の場所からそんな声があがり、まるで晒し者のような気持ちを味わった十夜は無意識に楽団員たちの視線からあやめを庇うように立っていた。
いきなりのオーケストラ参加に加え、悪意に曝されたりすれば大人しそうな少女が耐えられるわけがないと思ったのが大きな理由だし、それ以外にも彼女の兄らしき青年によろしくと言われているからだ。
言ってみれば、今、この少女を守れるは自分だけだという気合だけで自分を奮い立たせたようなものだった。
「じゃ、2人、ここに座って。チューニングしたら、最初の曲から少し弾いてみてくれ」
どのくらい弾けるか知りたいからなと2人を案内してくれた青年が指示を出す。
「わかりました」
示された席は第1バイオリンの末席、十夜は少しでも一緒に演奏する少女を庇うように客席に近い席に座る。
ケースからバイオリンを取り出し、感触を確かめるようにすっと弓を引いた。
大丈夫だ、音は出せる。
そう安堵する十夜の横で、あやめも同じように楽器を取り出した。
「…あの…すみません、オーボエのAの音をいただけますか?」
十夜のようにすぐに音を出すのではなく、あやめは控えめにそう言うとまっすぐにオーボエの奏者を見る。
あやめが視線を向けた先に座っていたのは、オーボエの首席奏者だ。
その様子に何人かが驚いたように目を瞠った後、面白がるような視線をあやめに向けた。
オーボエによって鳴らされた音に、あやめはそっと目を伏せると弓を引く。
音を重ねるように弾き、少しだけ弦を調節して手早く音を合わせたのを見て、十夜は慌てて自分のバイオリンの音もそれに合わせた。
オーケストラで演奏する時には、基本となる音に合わせなければいけないという基本的なことを失念していた自分を恥じる。
幸いにも殆ど手間取ることなく、音を合わせ終わった。
「弾いてみてくれ」
青年の声に促され、十夜は演奏を始める。
その途端、感嘆と落胆のため息が等しく漏れた。
「確かにいい腕にいい音だが…」
「コレはソロの音だな…カバーしきれるか?」
近いところでバイオリンの奏者たちからそんな言葉が交わされる。
言われるまでもなく自覚のある十夜はぐっと唇を噛んだ。
十夜の音と腕に感嘆し落胆した楽団員たちは、未だ弾こうとしないあやめに視線を向ける。
弾けないのか?と(あざけ)るような空気が生まれそうになった瞬間、あやめが十夜の旋律に合わせるように音を重ねた。
あやめの音が加わっただけなのに、十夜の個性的な色が一気に薄れ少しだけ個性の残る美しいユニゾンが響く。
十夜は一瞬で変わった音色に驚きを隠せずチラリと隣を窺った。
あやめの音に個性がないわけでもなければ、技術が足らないわけでもない。
むしろ柔らかく繊細でありながら優雅で瑞々しいという誰もが目を瞠るような美しい個性を放っている。
しかし同時に完全に人と合わせてお互いの音を高めながら融合させるというかなり高度な技術を習得しているようで、彼女は恐らくソリストとしてもオーケストラとしてもどこまでも優秀だと言えるような人材だろう。
十夜の音に柔らかく重ねられた彼女の音はまるでそっと寄り添うような柔らかさと柔軟さを持っていながら、決して弱さのない音。
「…これは…」
落胆や嘲りが驚愕と羨望に代わり、練習中の楽団を包み込んだ。
十夜の音だけでは技術的には高くても強く激しい旋律であったためにオーケストラには完全に不向きであったが、同じ強さで奏でられた包み込むようなあやめの音と合わさることで末席のプルトでは勿体ないと思わせる程の音色に仕上がっている。
楽団員たちも驚いたが、何より十夜自身が驚いていた。
自分の奏でる音と競演でありながら協演出来る音が存在するとはという驚きと、その相乗効果で自分の音がこんなにも力強く激しくそして麗しく響く音だったのかという新しい発見もある。
1曲を完全に弾ききって十夜が弓を降ろせば、その隣であやめもそっと楽器を降ろす。
その瞬間、楽団員たちから拍手が巻き起こった。
つまりそれは2人を認めたということだ。
そのままぶっ通しで1時間に及ぶリハーサルを兼ねた練習が行われた。
本当ならば全曲をきっちりとやりたいところだが時間がないというのが実態のようだ。
本番を控え、今回のオーケストラの正装に着替えるようにと十夜とあやめはそれぞれ衣装を渡され、少しばかりの休憩の時間を貰った。
同じ短い時間で他の楽団員たちも正装に着替えるのだろう。
1時間の練習で十夜は嫌という程あやめの実力を思い知っていた。
ほぼ初見、ボウイングの指定に至っては初めてだというのに戸惑うことなく指揮者の指示にどこまでも忠実で、それでも足らない指示を出しているコンサートマスターにすら視線を向けている様子すら見かけた時には、十夜はもしやプロなのかと真剣に思ったくらいだ。
しかしどう見ても十夜と同年代か少し下にしか見えないその外見で、プロのオーケストラの楽団員というのはさすがにあり得ないだろうと思い直す。
休憩時間と言われたので、十夜は貰ったペットボトルの水を2つ手に舞台の裏手に向かった。
1時間の練習の間に打ち解けた楽団員たちに誘われたが、さすがに楽屋は居心地が悪い。
どうやらそれはあやめも同じだったようで、十夜が舞台裏に移動した時にこっそりついてきていた。
そこにあやめを待たせたまま、十夜は2人分の水を貰って来たというわけだ。
「これ、水」
十夜は端的にそう言うと、あやめに水の入ったペットボトルを差し出した。
「…ありがとうございます」
小さな声でそう言うと、あやめは十夜から水を受け取ってそのまま楽器ケースの隣に置く。
さすがに1時間にも渡る練習で消耗しているように見え、十夜はすぐ近くに座り込むと大丈夫かと問いかけた。
自分が庇うつもりでいたのだが、演奏が始まると彼女の音にカバーされていると感じることが多くて、負担をかけていたのではないかと思う。
十夜が覗きこめば、あやめは少しだけ顔をあげて小さく微笑んだ。
その表情が弱弱しく見えて、十夜はどうしていいかわからなくなった。
つい最近まで他人を心配するなんていう感情を持ち合わせていなかった十夜は、こういう時にどうすべきかという経験不足過ぎる自分を呪った後、少し考えてあやめに渡したペットボトルを拾い上げて封を切る。
「飲んどけよ、ここから先が長いんだから」
優しく言おうとしたはずが、まるで怒っているような口調になってしまって十夜は自分はどうかしていると思わずにはいられない。
あやめは十夜を見上げた後、少しだけ迷うような様子を見せたが、結局言われた通りに封の切られた水を受け取ると中身を口にした。
それだけで十夜は少し安心し、同時にそんな自分にまた驚く。
「あの…最後までちゃんともたせますから…」
あやめは十夜に大丈夫だと小さく笑みを見せる。
その笑顔が見知った誰かに似ているような錯覚に、十夜は手を伸ばしそうになった。
「おい、そこの2人、さっさと着替えろよ?」
楽屋から出て来た青年が2人の姿を認めるなりそう声をかけてくる。
最初に案内してくれたあの青年が実はこのオーケストラのコンマスであったというのは驚きだ。
何せ1番最初から好意的とはいかないまでも排斥するような態度を見せなかったのは彼だけで、それは自信の表れなのか性格なのかは結局判断できなかった。
ただ音楽に対する姿勢は十夜が好ましいと思えるほど貪欲で厳しく、自分にとっては有難いもので身近だったが、あやめにとってはどうだろうと少しだけ不安も覚えたのだ。
十夜とあやめは青年の言葉に顔を見合わせると、大人しく押し付けるようにして貸し出された正装、白の上衣に黒の下衣という出で立ちに着替える。
元々フォーマルに近い服装だったあやめはともかく、完全にカジュアルな服装だった十夜は靴まで貸し出されてしまって、慣れない靴はとても歩きにくい。
準備が整い、開演まであと僅かとなって舞台の上手下手でそれぞれ分かれて待機する直前に、青年が楽団とオマケ2人を見渡した。
「今回はいきなりのトラブルだったのに、急遽助けに来てくれた2人にまずうちの団員は感謝しよう。特に、九条先生の弟子の佐伯くんはソリストとして育てられてるからオケの経験なんて皆無のはずなのに、頑張ってくれている。九条先生はこんなこともあろうかとオケの楽譜もやらせておいたなんて笑っていたけど、実際にはこんな事態は想定していなかったはずだ」
コンマスである青年が信頼を込めた目を十夜に向ける。
今まで他の演奏家からこういう目を向けられた経験のない十夜は、新鮮な気持ちでそれを受け止めていた。
「それから岡崎ちゃんにもだ。佐伯くんよりも人の音に合わせ慣れているような感じがあるから安心して見ていられる。その年で個性的な音じゃないのは驚きだけどな」
そして青年はあやめにも笑顔を向ける。
十夜に向ける信頼の視線よりも幾分か柔らかく、信頼というよりは見守っているような視線に見えた。
彼の中では、たぶんあやめが十夜の音をカバーしているという事実に気付いていないのだろう。
本来、信頼を向けるべきは彼女の方だと十夜は軽く俯いた。
人の音に合わせ慣れていると青年が評したように、彼女は自分の持つ個性を上手に隠したり、十夜のように自分の音を殺して楽団の音に乗せるということが出来ないような相手の音と同じ強さで覆うことでカバーするというような技術的にかなり高度なことをやっている。
彼女本来の音は、たぶんソリスト向きのはず。
青年の言葉に、楽団が団結したのが見えた。
そのまま上手と下手に分かれてスタンバイをする。
「…あまり、無理はするなよ」
十夜に出来る精一杯の優しさは、そっと声をかけることだけだった。
あやめが十夜にしてくれたような、音をカバーすることなんて到底出来ない。
無理をするなという言葉をかけながら、恐らくただ演奏するよりも余程無理を重ねさせている自覚があるだけに十夜は唇を噛む。
普段はソロばかりなので自分の音を悪いと思うことなどないが、師に指摘された足らないものというのはもしかするとこういう柔軟性なのかもしれない。
それを思うと、当然のように音の種類を変えられるあやめが一体どれほど練習を積んだのか、才能には勝てないのかと悔しい気持ちも生まれる。
合わせやすいというよりも自然に自分の音に合わせてくれるという弾きやすさを、そういえば最近どこかで味わったような気がした。
「私、貴方の音が好きですよ」
不意にあやめが十夜にだけ聞こえる音量で小さく呟く。
視線はまっすぐに舞台へ向いたままだが、間違いなく十夜に向けての言葉だった。
その言葉に妙な既視感を覚えた十夜だったが、直後に青年の合図があって舞台の上へと足を踏み出す。
特設の舞台は広く、2段になっていて上段には楽団が、下段にはバレエ団が配置されることになっていた。
普通であれば逆なのだが、あくまでも音楽のイベントだからとこういう形になったそうだ。
舞台の上はどこまでも眩しく、そこから見える客席は光の洪水の中に霞んで見えた。
そういえばコンクール以外で舞台の上に上がるのは初めてで、審査員ではなくて観客に音を聞かせるのも初めてなのだと十夜はようやく気付く。
その緊張と高揚に呑まれそうになった十夜だったが、すぐ隣の席で静謐(せいひつ)な佇まいとでも言うべき当然のようにオーケストラに加わっているあやめを見て少しだけ感情を落ち着かせた。
自分を鼓舞するように、やってやると楽譜を睨む。
観客を絶対に魅了してやるといっそ傲慢な気持ちで口角を釣り上げると、十夜は指揮者の登壇と演奏の合図を待った。
大きな割れるような拍手の音が響き渡った時には、集中は最高潮に達していて、指揮者が振り上げた手に合わせて弓を引いた瞬間、十夜は理性を手放し感性のみで曲の世界に落ちていく。
これが舞台の上なのかと自分を満たして包み込む高揚感に、ただ酔うように自分の最高の音でもって楽器を謳わせる。
演目の開始と共に、十夜からは完全に一切の雑念が失われ、残ったのはただ演奏を成功させること、観客を魅了してやるという強い気持ちだけだった。
そのままの気持ちで最後まで走り切った時には、拍手と喝采に包まれて達成感と充実感だけが残る。
恍惚として迎えた終劇の瞬間、ほんの一瞬のストップモーションのように感じた最後の1音、刹那の静寂の後に降り注ぐ雷鳴のような拍手。
その熱に浮かされたまま光りの向こうに霞む客席に目を向ければ、観客の顔など見えないはずなのに幸せそうな嬉しそうな喜色だけに染まった表情が見える気がした。
自分だけに向けられているわけではないと理解していても、鳴りやまない拍手の音に浸っていると観衆に演奏を肯定された気持ちになって、それがこんなにも興奮するものなのだと初めて思い知らされる。
オーケストラであってもソリストであっても、舞台に上がった人間が誰しも体験するその境地は十夜にとっては初めての体験で、全身に奮えが走った。
舞台の照明が落とされ、撤収の合図が出されて十夜はようやく我に返ると、流れに逆らわないように楽団員たちと一緒に舞台袖に引っ込んだ。
それでも冷めやらぬ興奮に、十夜は自分の手を見つめた。
微かな震えが残るのは、長時間の演奏を終えたからではなく、達成感と高揚感がまだ残り続けているからだ。
同じように達成感に包まれている楽団員たちは、成功だと喜びを交わしあっている。
即席で加わった程度の十夜ではその輪に加わるコトは出来ないが、彼らとは少しだけ違うけれども似た気持ちでその光景を見つめていた。
その空間の中に、十夜は不協和音にも似た静けさを湛える姿を見つける。
喜びを交わしあう楽団員たちや、達成感に包まれる奏者たちの中にあって、ただ1人その熱に呑まれていない少女の姿はこの空間の中ではむしろ異質に感じられた。
少し離れた場所から柔らかな表情で楽団員や十夜を見つめているあやめは、同じように演奏していた1人のはずなのに欠片も達成感や高揚の余韻を残すこともなく湖面のように静かな瞳をしている。
「…楽しかったですか?」
十夜の視線に気づくと、あやめは仄かな笑みでそう問いかけた。
まるで舞台袖で見ていただけのような落ち着いた様子と穏やかな声で尋ねられ、十夜は違和感を覚えながらもしっかりと頷く。
確かに、楽しかった。
むしろそんな薄っぺらい言葉では足らない程の、実際に舞台の上に立つまで想像すらしていなかった境地を知った今は一言でいうなら狂躁状態に近い。
「…ああ。そっちは楽しくなかったのか?」
熱気に呑まれることもなく、十夜のように余韻に包まれるでもないあやめを見て、十夜は小さく問いかけた。
「楽しかったです」
そう応えたあやめの表情は、落ち着いているものの暗いわけではない。
その言葉が偽りではないことは、澄んだ目を見ればわかる。
それなのに表情に翳が見えた気がして、無性に不安になった。
「2人とも、お疲れ様」
近づいて声を掛けて来たのは、楽団のコンマスだ。
彼の表情にも高揚や達成感の余韻が色濃く残っていた。
「お疲れ様です」
十夜は自分の割には素直な笑顔だと思うくらいに明るい表情で青年に応える。
「この後、打ち上げをする予定なんだ。良ければ参加して貰いたいが、2人とも高校生だっけ?一応、九条先生に聞いてみるけど、とりあえず、時間をかなり取らせちゃったからさ。良かったら、今からでも外を回ってみるといい」
完全に打ち解けた様子で青年は明るく言った。
元々はこのイベントの客という立場で訪れた十夜たちを引っ張り出して申し訳ないと思うところもあったのだろう、後片付けなどは無視していいと笑う。
その言葉に、十夜は少しだけ申し訳ないと思いながらも手伝えることもないので大人しく着替えて外に出ることにした。
十夜の後に着いてくるようにあやめも外に出て来たので、何だか自分たちが本物のプルトのような錯覚に陥る。
外に出ると、驚くことに友人たちが勢ぞろいしていた。
つまり、十夜と一緒に公園にやってきた祐一の姿と、恐らくあやめを迎えに来たのだろう赤也と拓海の姿が揃っている。
「お疲れさん」
赤也が十夜たちの姿を認めるなり、笑顔でそう出迎えた。
まだスーツ姿なので、やはり仕事中なのだろう。
演奏家として舞台に上がり、終わった後に友人に出迎えられるというのは十夜にとって初めての経験で、思わず面食らってしまった。
音楽科の高校時代にコンクールを終えた後でクラスメイトに出迎えられたことはあったが、あの時のクラスメイトは友人ではなくライバルたちだ。
誰かが失敗をすれば慰めるフリをして喜ぶような集団だったし、十夜は学年どころが学校で1番の実力者という立場から妬みや嫉みを一心に受ける瞬間でしかなかった。
ただの労いの言葉を友人に向けられるという初めての出来事に、今日は初めてが多いなと十夜は微かな笑みを浮かべる。
「…本当に、お疲れ様でした。オーケストラ、初めてですよね」
友人たちだけでなく、背後からもそう声が掛けられた。
振り返ればあやめにも労いの視線を向けられる。
同じくらいの年齢で同じ楽器の奏者というのは、今までは全てただのライバルという関係で、こんな風に柔らかい感情を向けられたことはない。
そこへ砂利を踏むような音が聞こえ、視線を向ければ九条とどこぞのオーケストラのスポンサーらしい青年が姿を見せる。
「十夜、はじめてのオーケストラはどうだったかね」
九条は全体の出来栄えに満足しているのか、ホクホクとした笑顔を浮かべて十夜を見ていた。
「あの…」
何と言えばいいのかわからず、十夜は口ごもる。
思ったことをそのまま全部言えば、恐らく意味の通じない、子供のような感想になってしまう。
「…あやめ、どうしてあんな無茶な弾き方をしたんだい」
九条の後からやってきた青年が、厳しい表情を浮かべてあやめの方へと近づいて行った。
声音に怒気が微塵も含まれていないので、怒っているのではなく心配しているのだろう。
「それは…」
あやめは理由を口にする代わりに視線を逸らす。
その言葉を向けられるのは予想出来ていたのか、言い返したりはしない。
「今日は何を言っても聞かないから、そのつもりでいなさい」
それだけ言うと、青年は軽々とあやめを横抱きに抱き上げる。
いきなり抱き上げられた方はと言えば、驚いたように目を丸くしているだけで特に抵抗をするつもりはないらしい。
「じゃあ九条さん、私はこれで。この子も連れて帰りますから」
にっこりと柔らかな笑みを浮かべ、青年は九条と十夜を交互に見る。
「そうですか?せっかくですからご一緒に打ち上げにでも参加して行って欲しかったんですがね」
九条は惜しそうにそう言うと、窺うような視線を向けた。
「それはまたいずれ機会があればご一緒させていただきます。お誘いは有難いですが、あやめの身体がもちませんからね」
柔和な笑みを浮かべてはいるものの、青年の回答は取り付く島もない。
「…お兄様、もう少しご自分の立場を考えてください…」
腕の中であやめが小さく抗議の声をあげ、困ったような表情で青年を見上げている。
九条は音楽の業界では著名な人物で、オーケストラのスポンサーという立場の人間が袖にするには大物すぎる相手だ。
「そんなものよりもお前の方が大事に決まってるだろう?」
青年があっさりと言った言葉はあまりにも潔く、聞いている方は思わず絶句してしまう。
もし言葉を向けた相手が恋人であったのなら、どこまでも舞い上がってしまうかもしれない。
しかし生憎とその言葉を向けられたのは恋人ではなく、長年一緒に育ってきた間柄の少女だった。
あやめは真剣に困惑の表情を浮かべたが、すぐに諦めたように小さく息をつく。
「それでは、失礼します。あぁ、新田君、黒島君、今日はもういいですよ。あやめのエスコートをありがとうございました。せっかくですからそのままお友達とご一緒してはどうですか?」
青年は笑顔のままそう言い置くと、誰からの返事も待たずにさっさと歩いて行ってしまう。
その様子に慌てたように抱き上げられていたあやめがその様子を見守るしか出来なかった一同に申し訳なさそうな表情を浮かべたあと、声に出さずにごめんねと呟いていた。
「…あー…アレ、あやめ、明日1日監禁されてそうだな…」
可哀相にと赤也が苦笑を浮かべる。
「今日は無茶と無理のし過ぎだと俺たちにも解るレベルだからな。明後日まで監禁が続かないことだけは祈ってやろう」
やれやれと拓海がため息交じりにそう肩を竦めた。
「…そんなに無理をしていたのか?」
赤也と拓海の様子に、首を傾げて問いかけたのは祐一で、去っていく姿を目で追いながら不思議そうな表情を浮かべている。
「んー…。朝迎えに行った時は、とてもじゃないけど演奏なんて出来るような状態じゃなかったぞ?」
赤也は少しだけ考えるような表情をした後、結局そう説明した。
「…何だと…」
その言葉に、十夜は驚愕し、目を瞠る。
明らかに無理だというような状態で、あれだけ弾けたということかと驚きを超えて戦慄した。
なんという精神力だろうか。
そして、どこまでも揺るがない絶対の技術を持っているのか。
練習から終幕までの間、そんな無理を募らせた状態で十夜の音に重ねつづけていたという事実に、きつく唇を噛みしめれば鉄の味がした。
そういえば最初に雑踏の中で短い時間演奏しただけでも赤也と拓海が本気で案じていたのを思い出す。
「十夜、得た物は大きかったようだね?」
驚愕に彩られた十夜の表情を見て、九条は実に満足そうな笑みを浮かべる。
「来週のレッスンからは別のことを教えよう」
それだけ言うと、九条は用は終わったとばかりに十夜に背を向けて歩いて行く。
友人たちの中に取り残された十夜だったが、すぐに気持ちを切り替えて遊ぼうという気持ちにはなれなかった。
ふと、今日この場にいない友人ならば十夜の気持ちを少しは理解出来ただろうかという想いが頭をよぎる。
十夜が知る中でたぶん瑞貴だけは自分の音楽が見えているのだろうと思っていたからだ。
この場所に居て欲しかったと思った自分の心の在り様と、驚くほど感傷的になっている自分に驚きながら十夜は気持ちを切り替えて友人たちにいつも通りの自分を向ける。
結局、日が沈むまで彼らはこの音楽いベントを遊びつくした。
十夜がこれまで軽薄だと敬遠し続けていたクラシック以外の音楽が、今までより少しだけ身近な物になった気がして不思議に思う。
自分の今までの人生の中で出逢った人たちのうち、もっとも自身の音楽に影響を与えたのはもしかすると今日偶然出逢った少女なのかもしれないと気付いて十夜は少しだけ面白い気持ちになった。
そして、この日の出来事をきっかけに十夜は少しだけ視野を広げる。
高校の部活動、吹奏楽部での指揮者を引き受けて色んな音に目を向けようと決意した。
製作者:月森彩葉