Lost⇔Last=Note

第7楽章#休めない夏休み

8月に突入し、十夜はバイオリンの師である九条の誘いで彼が主催する強化合宿に参加することとなった。
本来は大学で九条が教えている生徒たちのための合宿なのだが、急病によってバイオリニストが1人欠席する運びとなったためにまだ高校生とはいえ1度オーケストラで本番の舞台を踏んだ十夜にお鉢が回ってきたらしい。
行先を聞けば北海道という遠方と告げられ少し怯んだ十夜だったが、小さいながらもしっかりとした劇場を持つホテルのオーナーの厚意で練習場にその場を借りられるのだそうで、それを聞いた瞬間に十夜は参加しますと即答してしまった。
手配された飛行機に飛び乗り、海を越えて目的地を目指す。
空港から目的地付近のバスを探し、更にはそこからタクシーを使って移動すれば、予想していたよりもはるかに大きいホテルが(そび)え立っていた。
赤い山型の屋根に白地に黒の模様が入ったロッジ風の外観は、欧州の建物を思わせる洗練された美しさで、デザインした人のセンスの良さを窺わせる。
冬は雪景色に包まれることを考えれば、客室の出窓の窓枠や壁の幾何学模様の黒や屋根の赤はとても良く映えるだろうし、今のような緑の溢れる季節は壁の白い色がとても良く映えた。
ホテルの正面入口には車を停める道を挟んでイングリッシュガーデンが広がっていて、目に鮮やかな広々とした空間の向こうに恐らく劇場と思われる建物が見える。
時間があれば散策したいと思う光景に、こんな場所で練習が出来るのかと心が躍った。
ホテルのラウンジで待っているという九条からの連絡を受け、十夜は豪奢なホテルに気後れしながらも足を踏み入れる。
本州と比べてマシだと言うだけで北海道でも暑いのだが、外の暑さと打って変わって一瞬肌寒さを感じる涼しい風が通り抜けた。
キョロキョロと周囲を見回すまでもなくラウンジはすぐ見えるところにあったので、十夜は待ち合わせの師の姿を探しながらラウンジへと近づいて行く。
軽やかに響くピアノの音色は静かで涼やかな調べでありながら何の曲か知らないがジャズ風のアレンジがされていて、趣味の良さを窺わせた。
こういう場所では自動演奏が多いのだが、澄んだ音に目を向ければ純白のグランドピアノの前に座り、鍵盤に指を躍らせる白い長袖のカッターシャツに漆黒のベストというバーテンダーのような後ろ姿が見える。
まだ若いだろう小柄なシルエットに視線を向けながら、こういう場所での演奏としてはかなり上手い部類に入るのではないかと十夜は小さく笑みを浮かべた。
曲そのもののタイトルは知らないが、選曲は悪くない。
恐らく本来はジャズ調の曲ではないものを勝手にアレンジして弾いているのだろう。
あくまでもBGMに徹するという意味で、目立ち過ぎず耳障りでもないその音は、間違いなく及第点以上。
無駄な自己主張をせず、けれども緩急をつけて響く調べは軽やかでありながら繊細で、アレンジされる前の原曲はもしかすると静かな曲なのではないかという感想を抱いた。
夏らしい軽快なテンポで鳴る音色に包まれ、涼やかに響く音に特別な注意を払っている客はいない。
自然に溶け込んで染み渡るような音色は、適当なCDをかけておくよりもよっぽど雰囲気に合っていたし、注意を払えば浸れる世界観と注意を払わなければただのBGMに過ぎないという絶妙の響きを持っていた。
ちょうど曲の切れ目に十夜はラウンジのすぐ側までやってくる。
改めてピアノを弾く後ろ姿を見れば、驚くことに楽譜は置かれておらず、暗譜の上にアレンジを加えているのだと知れて少しだけ驚いた。
次の曲が始まったので、十夜は軽く耳を傾けながらも目的の人物であるバイオリンの師の姿を探す。
窓際のゆったりしたソファ席、初老の男性と彼を囲む若い大学生くらいの青年や女性の姿を見つけて十夜はゆっくりと歩み寄った。
初老の男性、つまり十夜の師である九条は、恐らく彼の大学での教え子たちに囲まれ楽しそうに談笑している。
声をかけていいのか戸惑いながらも、呼ばれた上に待たせてもいけないと十夜は九条に近づいた。
「先生、遅くなりました」
こんにちはというべき時間ではあるのだが、それを省いて十夜は九条に控えめに声を掛ける。
「おお、十夜。待っていたよ。…紹介しよう、私の教え子で、佐伯十夜だ」
九条は笑顔を浮かべ十夜を振り返った後、若い学生たちに向けて十夜を紹介した。
「…初めまして、佐伯十夜です。よろしくお願いします」
一斉に向けられたあまり好意的ではない突き刺さるような視線に、十夜は内心やはりなと思いながらも礼儀を欠かないように頭を下げる。
音楽家になるための道は険しく、その門戸は狭い。
自分の技量に絶対の自信を持っており、なおかつ道が拓けている者でもなければライバルを快く迎えようなんて思えないはずだ。
それに、十夜は彼らのような音大生ではない。
彼らからすればひよっこの高校生が教授に一目置かれているという状況からして既に面白くないのだろう。
それを理解していても、叩かれても屈しない気持ちで十夜はこの場所に立つと決めてやってきたのだから、今更そんな目を向けられても何も感じなかった。
そもそも志貴ヶ丘学園に編入する前は毎日のように向けられていた種類の視線に今更動じるわけもない。
「十夜、彼らが私が大学で教えているカルテットだ。向こうから順番に、バイオリンの百瀬(ももせ)美晴(みはる)千葉(ちば)俊彦(としひこ)、ヴィオラの三枝(さえぐさ)大和(やまと)、チェロの八尾(やお)真琴(まこと)だ」
九条はにこやかな笑みを浮かべたまま順番に自分の生徒たちを紹介した。
最初に紹介されたのは快活そうな雰囲気の女性で、左手を三角巾で釣っている。
恐らく十夜は彼女の代理で演奏すべく呼ばれたのだと瞬時に理解した。
つまり、百瀬美晴が第1バイオリンということらしい。
その隣の気の強そうな青年は、恐らく自分と同じくプライドの高いタイプだろうなと十夜は向けられる視線で判断する。
千葉俊彦、彼もバイオリンということだから、彼が第2バイオリン。
ヴィオラと紹介された青年は、おおよそクラシックの音楽家の卵とは思えない見た目をしている。
三枝大和の耳にはピアスがいくつも並び、右手には大きなシルバーのリングが見える。
本来のヴィオラとは縁の下の力持ちというか穏やかで自己主張の少ない印象なのだが、彼はその真逆なのだろうと十夜は勝手に分析した。
最後に紹介されたのはまだ少女と言っていい幼さを残した愛らしい容貌に一見穏やかそうな表情を浮かべていたが、瞳に宿る光が強すぎて見た目通りの少女ではないだろうと予想出来る。
チェロの八尾真琴、彼女も一筋縄ではいかない人物だろうと十夜は判断した。
それぞれ一応目礼は返してくるものの、言葉を発して挨拶をしようという人間は存在しない。
「そうだ、十夜、ホテルは個人個人別で部屋を用意してもらってあるが、何か不都合はあるかい?それから、全員に個人レッスンの時間も取っているから、宿題なり観光なりに充てる時間もある、安心しなさい」
まるで連絡事項を並べ立てるように九条は立て続けにそう説明する。
大事な内容はまとめて一気に、それも思いついた時に順次というのが九条の癖だ。
十夜は長年の付き合いでそれを知っているので、特に気にすることもなく問題ないですと頷いた。
「じゃあ部屋の鍵を渡そう。とりあえずバイオリン以外の荷物を置いてきなさい」
話はそれからだと九条は十夜に部屋の鍵を手渡す。
確かにバイオリン以外にも荷物を持っているので、少なくとも大きなキャリーケースだけは早く部屋に置いてしまいたい十夜としては有難い話だった。
「わかりました。荷物を置いて、戻ってきたらいいですか?」
初対面の先輩たちの手前、十夜は友人たちの前で暴かれた素顔ではなく以前の温和な仮面を被って九条に確認のために問いかける。
それで構わないと頷かれたので、失礼しますと断って荷物を置くために踵を返す。
ふと純白のグランドピアノとその奏者が気になって視線を向ければ、ホテルの客だろうか若い恐らく青年というよりは少年だろうという後ろ姿が奏者に何か話しかけているのが見えた。
曲のリクエストでもしているのだろうかと思いながら十夜は荷物を置くために足早にラウンジを後にする。
適当にホテルの従業員を捕まえるまでもなくエレベーターが見えた。
手渡された鍵に書かれた番号は6で始まっているので6階のどこかだろうと十夜がエレベーターで6階に向かう。
探すまでもなく、十夜が宿泊するらしい部屋は割とすぐに見つかったが、縦ではなく横に長いホテルなので歩く距離はそれなりに長い。
部屋の鍵を開け、中に入れば1人に宛がうには広すぎる部屋に驚いた。
広く柔らかそうなベッド、(くつろ)ぐためのソファとテーブル、大きな液晶テレビ、更に作業用のデスクとドレッサーが兼ねられたもの。
クローゼットを開ければバスローブと浴衣に近い寝間着にスリッパが用意されている。
廊下もだが部屋の中も全面絨毯張りでとても過ごしやすそうだった。
部屋の奥に足を踏み入れれば、窓から一望できる外の景色は庭園や劇場を一望出来る開放感あふれる風景が見える。
思わず近寄って窓を開け放てばふわりと夏の風が吹き抜けた。
窓を閉め、振り返って部屋を改めてみれば、テーブルの上にはメッセージカードのようなものと焼き菓子の詰め合わせの小さなバスケットが置かれていることに気付く。
メッセージカードを取り上げれば、支配人名で歓迎の文言と、冷蔵庫の飲み物はご自由にという本来ならば有料のものを無料で提供する旨が記されていて、九条のコネなのかはたまた九条の知り合いのコネなのか随分と歓迎されたものだと驚いた。
しかしいつまでも驚いてもいられないので、荷物の整理は後回しにして十夜は大きなキャリーケースをクローゼットの横に立てかけ、ラウンジに戻ろうと鍵と財布と携帯をポケットに仕舞い、バイオリンケースを手に部屋を後にする。
ラウンジに舞い戻れば相変わらず軽やかなピアノの音が響いていた。
九条は十夜の姿を認めるなり、手招いて空いている席に座るように示す。
それに目礼を返し、十夜は大人しくソファに腰を下ろせば、悪意ある視線が十夜に向けられた。
「先生、いくら先生の弟子でもその子はまだ高校生でしょ?本当にわたしの代理が務まるんですか?」
他のメンバーが心配でという建前で塗り固められた言葉が百瀬から放たれる。
どう取り繕おうと彼らは等しく十夜に良い感情は抱いておらず、遠回しに実力のなさを揶揄(やゆ)されているような言葉は百瀬以外からも向けられた。
「試しにココで何か弾いてもらえないかなぁ。一緒に演奏するのに、力量くらいは知っておきたいでしょ?」
ふわふわと砂糖菓子のような雰囲気を纏わせているものの、八尾は十夜がここで演奏して晒し者になって恥をかけばいいとでも思っているのだろう。
それにいきなりラウンジなんかで演奏しては周囲の迷惑だ。
それをわかっていて、演奏しないと言えば実力不足や度胸のなさをあげつらわれ、演奏したらしたで周囲から顰蹙(ひんしゅく)を買うなり恥をかくなりして居づらくなるのを期待している。
当然十夜にはそれが理解出来ていて、さてどうするべきかと師を仰ぐ。
音楽的な見識と造詣に於いてはかなりの人物である九条だが、わざとなのか天然なのかは不明にしてもこういう人間関係に関しては一切頓着しないところがある。
さらに豪気な性格なので、では今から劇場で、ということにはならずにここで弾けと言われるかもしれないと十夜は内心ため息を零した。
「そうだね、せっかくだからここで弾いてみなさい。人様に聞かせられないような音ではないだろう?」
十夜の危惧した通り、九条はやはりどこまでも豪気で、そしてやや大雑把な気質のようだ。
恐らく背景の一部に完全に溶け込んでいるピアノの音などは、九条にとって耳障りでなければ空気のように思えているのだろう。
どこまでも惹かれる音色には興味を示し、指導者としての感性は的確だが、耳障りな雑音でもなく特別目立つ音でもない場合は音楽に浸かりきった九条にとって大気と変わらない。
「…わかりました」
師に言われれば十夜に拒否権などない。
ケースからバイオリンを取り出し、感触を確かめる。
一応調弦してから持ってきたとは言え、少しの温度の変化や湿度であっさりと音は狂ってしまうのでこのまま弾くのは気が引けるが仕方がない。
ピアノを弾いている演奏家にも申し訳ないが、十夜は意を決して立ち上がるとバイオリンを構えて呼吸を整える。
興味半分嘲笑半分の悪意に満ちた視線を受け止めながら集中し、ピアノの音が途切れるのを待った。
曲が途切れた瞬間に、次の演奏が始まる前にと十夜は弓を引く。
奏でる曲はパッヘルベルのカノン。
情緒的な意味であまり得意ではないのだが、サロンで奏でる曲に普段十夜が練習しているような激しい曲は不向きだ。
あまり人は多くないとはいえラウンジには歓談中の数人連れ、お茶を楽しむ家族連れ、カップル、本を広げた壮年の男性など十夜たちに無関係の存在はそれなりに存在している。
そんな彼らの時間をなるべく邪魔をしないようにという最大限の配慮だ。
十夜が急にバイオリンを弾き始めたせいで、周囲の視線が集まったのを感じる。
何事だろうかという空気が伝わってくるが、こればかりはしょうがない。
後で謝らなければと思いながら演奏を投げ出す気にはなれない十夜の耳に、不意に届いたのは困惑の騒めきなどではなかった。
ピアノの柔らかい音色が、十夜のバイオリンに併せられるようにして奏でられる。
何事かと思って視線を向けていたラウンジの視線が分散されたような気がした。
即興で合わせてくるあたり、クラシックにも精通しているか普段は伴奏の仕事もしているのか、とにかくその機転には恐れ入る。
いきなりの闖入者(ちんにゅうしゃ)にも関わらず、あたかも演出のように併せられた音のお蔭で突き刺さる視線はかなり減った。
しかし、逆にすぐ近くから向けられていた視線の鋭さは増し、敵意が鋭利な刃物のように向けられる。
恥をかかせるつもりが第三者の機転によってご破算になったのが面白くないのだろう。
演奏を終えれば、周囲からは小さく拍手が巻き起こる。
どうやらただのパフォーマンスだと思われたようだ。
「…もう1曲くらい弾いてみせろよ」
面白くないと顔に書いた千葉が睨むような目でそう言った。
周囲からはこれで終わりだろうかというような視線がたまにチラリと向けられる。
「…わかりました」
半ばやけくそになって十夜は再び弓を持ち上げた。
自分にこんな場所で奏でるような静かな音は向かないというのに。
そう思いながらも十夜は今までに弾いて来た中からラウンジに合いそうな曲を急いで思い出す。
残念なことに1番最近であっても穏やかな調べの曲を奏でたのは4月の学校の中庭、しかも【杜若】によってオーダーされた亡き王女のパヴァーヌという事実にぶち当たり、諦めてその曲を奏でることにする。
ああ、自分には向いていない。
そう思いながら弾けば、またもや当然のようにピアノの音が重ねられた。
よほど精神的にゆとりのある人物なのか、面白がっているのか、ピアノの旋律は驚くくらいに十夜の個性と相性が良い音で響く。
曲調の割に激しく響く十夜の音色に合わせるように、ピアノの音色は静かで滑らかだ。
その音に心地よく音を乗せている自分に苦笑しながら、十夜はふとあることに気付いた。
先程まで無個性にBGMに徹して奏でられていた軽やかなピアノの音は、いつしか注目を集めるための音に変わっている。
成程こっちが本来の音なのかと、存外器用なピアニストにただ驚く。
もっともこんなリゾートホテルで演奏をしているくらいなのだから、そこそこ名の知れたプロなのだろう。
1曲を弾ききれば再び拍手が起こった。
完全にパフォーマンスだと認識されてしまったようで、向けられた笑顔に十夜はさてどういう表情を返せばいいのやらと首を捻りかけた瞬間、間髪入れずに響いたピアノの音色に思わずぎょっと目を剥いて慌てて弓を構え直す。
何を考えているんだと内心叫びながら、お膳立てされた音色に音を乗せた。
いきなり始まった今までと打って変わって激しい伴奏は、十夜が得意とする曲の1つ。
いつぞや音楽室でも披露することになった、冬。
夏なのに何故冬なのかと疑問に思いながらも、馴染みある伴奏と思えるくらい弾きやすい音に力強い音色を重ねた。
それにしても何故いきなり、それも冬の伴奏を始めたのだろうか。
ラウンジには似つかわしくない音なのだが。
しかし激しい音色を弾き終え、弓を降ろした時に周囲から沸き起こった拍手に、十夜は何となく納得した。
完全に見世物にしてしまったということだろう。
何も知らない客たちは、仕組まれたパフォーマンスだと疑っていないようで、最初は驚いた視線を向けていたものの、結局面白い演出だったくらいに感じているようだ。
「…これで満足ですか」
結果的に自分の得意分野を見せることが出来て十夜としては有難かったし、十夜の本来の音とも言える調べに先輩たちは目を瞬かせていたので掴みは上々と言える。
ただ彼らが驚いたのは十夜の技量ばかりではないのだろうが。
「へぇ?思ったよりは弾けるんだ?」
軽い調子で三枝が言い、九条に視線を向けた。
要するに十夜自身を評価するのではなく、指導者の腕だけを評価したということだ。
「私が目を掛けている弟子だからね、これくらいは余裕だろう。そうでもなければわざわざ呼んだりしないだろう?」
当然だという様子で笑顔を見せる九条に、いつもなら十夜は喜色を浮かべたに違いない。
指導を受けている際には注意ばかりで褒められたことなど皆無に等しいのだから、師から自分が評価される言葉を聞くのは嬉しいことだ。
けれど今日に限って言えば、悪いがかなり逆効果だった。
ますます敵意を込めて睨まれてしまって、これから先の練習が思いやられると十夜はこっそりため息をつく。
「それじゃあ、個人レッスンといこうか。十夜、今日は着いたばかりなのだから自由に過ごしなさい。明日の朝、10時から劇場で四重奏の練習に加わってもらう。楽譜は持ってきているね?」
九条はそう言って十夜が頷くのだけを確認し、学生たちを引き連れてラウンジを出て行ってしまう。
それに続いて席をたつ学生たちは、皆十夜に一瞥(いちべつ)すらくれない。
始めから数に数える気がないのだろう。
そんな彼らの後ろ姿を見送って十夜はバイオリンをケースに仕舞った。
さて、一体どうすればいいのだろう。
練習に明け暮れたいところだが、ホテルの防音性では部屋で弾くことは出来ないし、かといって他にすることもない。
いや、1つだけあった。
急遽音を合わせてくれたピアニストに礼を言うことだ。
既に何事もなかったかのように静かに音色を紡ぎ出しているが、演奏が途切れた時にでも声をかけようと十夜は決心してピアノと奏者に視線を向けた。
そこで、ピアノの側に立っている少年の姿を認め、まだいたのかと驚く。
十夜が部屋に荷物を置きに行く際に見かけた人影だ。
よほどピアノが好きなのかと思わないでもないが、演奏中の相手に話しかけるとは相当いい度胸だと呆れ半分に見守れば、その人影が不意にくるりと十夜の方を向いた。
ピアノの音色になど惹かれ無さそうな明るく活発そうな表情をした少年は、何故か十夜の良く知る人間にとても似ている。
前にもこんなことがあったようなと記憶を辿れば、その時の彼はそういえばスーツ姿で、普段と違いすぎて一瞬誰かわからなかったのだなと思い出した。
その人影は、十夜の姿を認めるなり来い来いと手招きをする。
まるで本当によく知る人本人のようだと思ってから、そうではなくて本人なのだと思い至って思わず叫びかけたのを寸でのところで思いとどまった。
こんなところで叫ぶわけにはいかない。
慌てて近寄ろうとすれば、ピアノのすぐ近くの席に移動し、そこでまた手招かれる。
手招かれるままに行けば、他にも見知った顔があって、思わずどういうことかと自分の頬を軽く抓ったが、残念ながら夢ではなさそうだった。
「…何故貴様らがこんな場所にいる」
叫ぶ代わりに可能な限り殺意を込めた重低音で十夜が言葉を向けた相手は、赤也と拓海と祐一という割と普段通りの顔ぶれ。
夏休みに入ってから2週間近く顔は合わせていないとはいえ懐かしいとは程遠い。
「ただの旅行に決まってんじゃん」
十夜を手招いて呼びつけた張本人の赤也がニカっと笑って悪びれずにそう言う。
「久しぶり、でもないか」
そう言って片手を挙げたのは拓海で、人の悪い笑みを浮かべている。
恐らくかなり早い段階で十夜の存在に気付いていたものの、さっきまで九条たちといたから一切干渉してこなかったのだろう。
「偶然だな」
無理やり笑いを噛み殺し無表情を装って白々しくそう言ったのは祐一だ。
偶然のはずなのに間違いなく偶然などではないと思ってしまう。
いや、本当に偶然ではないのだろうか。
そしていつものメンバーなら1人足りていないなとどうでもいいことを考えながら十夜は友人たちにかまける前にやらなければならないことを思い出し、ちょうど途切れたピアノの音に振り返った。
ピアノを弾いていたのは思っていた以上に若い、まだほんの少年。
線の細い大人しそうな風貌に、フレームのない眼鏡をかけたどこか少女めいた雰囲気の。
「貴様もかぁっ!!何をしてるんだ、こんなところでっ!!!」
自分を含めて4人いるのだから5人目もいるだろうというまるで漫画や小説のお約束のような流れで友人の姿を見つけた瞬間、今度こそ十夜は大きな声で叫んでいた。
普段とかけ離れて大人びた服装と静かな佇まいに騙されてはいけない、間違いなく目の前にいるのは十夜がよく知る人物。
要するに普段つるんでいる5人のうちの最後の1人、瑞貴であった。
叫んだ瞬間周囲から注目が集まったが、十夜の精神はそんなことに構う余裕すらない。
どこか遠くに赤也がすみません何でもないですーお騒がせしましたーと軽い口調で笑顔を振りまいている声を聞きながら、十夜は瑞貴の腕を取って無理やり立ち上がらせる。
「…何って、ただのバイトだけど」
瑞貴は何の感情も滲ませずにあっさりと告げた。
何をそんなに驚くことがあるのかとでも言いたげに不思議そうな表情で首を傾げているが、絶対にこれは面白がっているだけだと数か月の付き合いで十夜は学習したのだ。
「…バイト?」
胡乱げな視線を向け、十夜はわざと見ればわかることを問いかける。
ここでピアノを弾いていたのだから、ソレがバイトだろう。
成程こんなバイトをしているのだから、通りで人前で弾くことを躊躇しなかったわけだ。
以前音楽室で何かを弾くように迫った時に何の感慨もなく弾いてみたのはつまりそういうことだろう。
「…見ての通り、ピアノ弾いてるんだけど…1日2回か3回くらい」
どうでも良さそうにそう言うと、瑞貴は店じまいとばかりにピアノの蓋を閉めた。
ついでに鍵までかけてしまうと、鍵はそのままスラックスのポケットに放り込まれる。
「ほう…」
十夜は表情を引き攣らせながら何とかそれだけを絞り出した。
こんな場所でバイオリンを弾く羽目になった瞬間の焦燥や申し訳なさを思い出し、思い切り脱力してしまう。
弾いていたのが瑞貴なのだから、十夜の演奏にあっさり合わせたことにも最後に十夜が得意とする曲を入れたのも、何の不思議もないどころか当たり前だと言ってもいいくらいだ。
十夜本人よりももしかすると瑞貴の方が十夜の音の質の特性を知っているのではと思うくらいに、いつだって的確に見抜いてきたのだから。
始めから解っていればあんな緊張感を味わう必要もなかったのにと思うだけに、何だか悔しい。
「それで、十夜は何してるの?いきなりバイオリン弾き始めるし」
何がしたかったのかと瑞貴は呆れたような視線を十夜に向けた。
確かに瑞貴が機転を利かせていなければ、今頃十夜は間抜けな晒し者だったかもしれない。
「それはだな…」
そもそも何故この場所に現れたのかを含め、十夜は友人たちに説明した。
いい加減注目を集めてきたので、大人しく椅子に移動してからの話ではあるが、長くもなく短くもない説明を終えれば、友人たちは一応納得したらしい。
同時に逆に何故友人たちがこんな場所にいるのかと問いかければ、赤也と拓海は一応バイトなのだそうだ。
依頼主の都合上、守秘義務がどう言って詳細は教えてくれなかったが、とにかくバイトらしい。
祐一に関しては、赤也と拓海がバイトでこの場所に行くだけでなく、偶然にも十夜がこの場所に現れることまでを偶然に知ってしまった瑞貴によって巻き込まれるようにして誘われたのだそうだ。
誘われた時には既に赤也と拓海と瑞貴が結託して十夜に内緒で全員揃えてしまおうという実に子供らしいドッキリのような演出を考えていたらしく、面白そうだと二つ返事で着いてきたという。
瑞貴はといえば、建前上一応身内に連れて来られたらしいのだが、その身内が仕事でホテルと仕事に関係ある場所とを行き来しているため暇を持て余してピアノ演奏のバイトをしているという。
暇だからという理由だけで簡単にバイトが見つかるというのはいい身分だと呆れ交じりに思ったが、演奏を聴いて感心したのは事実なので納得してしまった。
十夜がこの場所に来ることを瑞貴が何故知ったのかはとりあえず置いておくとして、どうやら故意に十夜を誘わなかったのは、仲間外れにするためでなく単に驚かそうと思っただけのようだ。
そこまで聞いた十夜は、貴様らは小学生かと呆れてしまった。
「さて、ソレじゃオレたちは今から宿題に勤しむけど、十夜も一緒にやるか?」
暇なら一緒にどうだと赤也がいつも通り人懐っこい笑みでそう問いかける。
「どこでやるつもりなんだ…」
まさか人目のあるラウンジでやるつもりかと問いかければ、誰かの部屋に集まってやるのだと返された。
確かにリゾートホテルだけあって客室は広いが、5人が集まれるようなスペースはないのではないかと十夜は首を捻る。
誰かの部屋と言っているからには、全員バラバラの部屋なのだろう。
「場所だけなら提供してもいいけど、僕は不参加だからね」
友人たちを見渡してそう言うと、瑞貴は軽く肩を竦める。
「不参加?」
何故だと祐一が問えば、宿題を持ってきていないという言葉が返された。
「では、とりあえず瑞貴んとこ集合だな。20分後くらいでいいか?」
拓海が取りまとめるようにそう言ったのを合図に友人たちはバラバラと席を立つ。
暇だし客室ではバイオリンも弾けないだろうという理由で十夜も顔を出すことにして瑞貴の部屋番号を尋ねる。
そのまま自分に宛がわれた部屋に戻り、荷物の整理を兼ねて宿題を引っ張り出した。
半分以上は終わっているが、どうしてもバイオリンの練習に時間を割きたくて後回しになってしまう。
荷物の整理を終え、何となく不用心だという理由から宿題と楽器を持ち部屋を出る。
その日は何となく友人たちと時間を潰し、移動で疲れたせいで夜は早く眠ってしまった。
翌日、少し遅めに朝食を済ませ十夜は朝からの練習のために劇場へと向かう。
十夜が劇場に顔を出せば、Tシャツにジーンズ姿の服装がクラシック音楽らしくないとあげつらわれた。
別に服が演奏するわけでもないのだし、長時間の演奏は体力を使う運動のようなものなのだから動きやすさや楽さ重視でも構わないというのが十夜の考えだし、九条は本番はともかく練習中の服装など気にもしない人物だ。
本来の四重奏のメンバーは一様に白の上衣に黒の下位で統一されていて、カジュアルっぽい服ではあるがきっちりして見えた。
普段十夜が受けているレッスンのように、いきなり弾いてみるところから始まった練習の密度は濃い。
十夜から見た他の3人の奏者は最初に予想した通りの癖のある音だったが、流石は音大生という腕だった。
九条の教えを受けているというだけあって、技術はかなり高いのだと、四重奏で十夜に課せられた第1バイオリンのパートを必死に弾きながら痛感する。
十夜にとって良かったことは、私語を挟む間もない密度の濃いひたすら弾き続けるという練習風景そのもので、自身に技術向上の面から見ても、十夜をよく思わない先輩たちとの折り合いという面から見ても、話す暇がないというのは実に有難いことだった。
しかし九条が所用で席を外した瞬間、その雰囲気が一変する。
「それじゃ、わたしが先生の代わりを務めるわ」
指揮者役が必要でしょうとそれまでずっと演奏を聴くだけだった百瀬が劇場の客席から立ち上がり、舞台の上へと上がった。
そこからの練習は、筆舌に尽くしがたいほど十夜にとって屈辱的で精神的な苦痛を伴うものだったと評してもいいだろう。
どんなことがあってもこんな状況だけは友人たちには見せたくないと十夜が固く誓う程、大人気なくも敵意をむき出しにした先輩たちの嫌がらせは酷いものだった。
どれだけ楽譜に忠実に弾こうが、僅かの狂いもなく音色を響かせようが、楽譜と合っていない、音が悪い、本当に九条の弟子なのかと散々に言われる。
立場が低い上に複数が相手では、さすがに十夜に叩かれたら叩き返すという感情すらも起こさせない程徹底的に苛め抜かれてしまう。
出る杭はどれだけ打たれても出るものだと言い切るだけの打たれ強さと、たゆまぬ努力による自分への自信を強く持つ十夜だったが、志貴ヶ丘学園高等部に通い始めてから何度か揺らいだその自負が、こんなところで影響していた。
何を言われても今までなら屈さずに言い返せた十夜だったが、ただ悔しそうに唇を噛み、ついには噛み切っても何も反論が出来ない。
揺らがないはずの十夜の自信を揺らがせたのは、九条に誘われて訪れた音楽イベントで偶然協演した1人の少女の存在だった。
岡崎あやめと名乗った少女が十夜に見せつけた技術と表現力の高さは、同じ年代で1番だと自負していた十夜の自信を根底から揺るがす程で、舞台の上では始終助けられていたという自覚があるだけに一層劣等感を煽る。
彼女が裏のない笑顔で十夜の奏でる音を好きだと言ってくれなければ、歯牙にもかけられていない程に自分の演奏は取るに足らないモノなのかと思っただろう。
そんな出来事の後、打ち消すように必死に己を磨き、自分にはたゆまぬ努力と誰にも負けない情熱があるんだと、過日友人に言われた弾き続けなければ死んでしまうという言葉の通りに弾き続けた十夜は、自信を取り戻す前に更なる衝撃に晒された。
自分が焦がれた、憧れの楽団のコンサートマスターの外見年齢。
仮面に隠されていたために正確にはわからないが、身体つきや仮面から覗く造作だけでまだ若いと判断出来た。
下手をすれば、自分と大差ないのかもしれない。
その想いが十夜を奈落の底に引きずり落とすような心の(おり)となって、じわじわと苛むのだ。
その結果、今まで自分を支えていた世界が瓦解して、どこに立っているのかもわからなくなって、それでも自分の音だけは見失わないようにと必死にしがみついているだけの十夜には、何をしても、どれだけ頑張ってみても、一切の評価がなく、まるで道端の転がる石ころのように扱われる今の環境を突っぱねるだけの揺るがなさを失くしてしまっていた。
それでもなけなしのプライドと意地だけで十夜はこの場所に留まり続ける。
目指す音に、天上の音色に近づくには、自分には努力という武器しかないと解っているから、何があっても逃げないという強い気持ちだけで自分を縛り付けた。
そうすればいつか必ずミューズが微笑むはずだと信じて。
午前中に宛がわれた練習時間を終える頃には、何時間弾き続けても疲れたという感想だけで消耗など感じたことのなかった十夜が、思わず終わったことに安堵の息を漏らすくらいに精神を枯渇させていた。
昼を過ぎ、先輩たちによる鬼畜すぎる練習から解放された十夜は、時間を持て余しているという名目で外にいるという友人たちに合流すべくイングリッシュガーデンへと足を運んだ。
そんな名目を選んだのは、少しでも気を紛らわせたかったのかもしれないと自嘲気味に考える。
それに、そこへ行けば、自分の音を肯定してくれる相手が1人は存在しているから。
そう考えてしまった自分自身の弱さを苦々しく思いながら、十夜はよく手入れのされた芝生を踏んでイングリッシュガーデンを歩く。
奥の方に行けば向日葵(ひまわり)畑があるらしく、友人たちは今はそこにいるらしい。
何故そんなところにいるのかと問えば、すぐ側に自然の中に作られたアスレチック施設があるのだそうだ。
とはいえ基本的には小中学生向けの施設で、彼らは単に暇を持て余しているだけなのだろう。
わざわざこんな場所まで足を運ぶというのは、常の十夜では考えられない行動だったが、午前中の練習を終える際に告げられた無理難題を少しでも先送りにしたくてホテルの外へ出たくなったのだ。
吹っかけられた無理難題とは、曰く、劇場に置かれてあるグランドピアノの使用許可を貰ってこいという割と無茶に思えるものだった。
友人たちがいると連絡を貰った場所に足を運べば、十夜の耳に幼い子供の笑い声に混ざって無邪気に笑う赤也の声が響く。
声の方へ向かえば、本当に小中学生程度の子供を対象にしているとしか思えないながらも割と広大なアスレチックフィールドが見えた。
「…何をしてるんだ…」
視界に声の主を見つけた瞬間、十夜は練習の憂鬱さも忘れて思わず溜息を零す。
アスレチックフィールドに苦戦する幼い子供たちを先導するように、指導するように明るい笑顔を浮かべている赤也が、本来ならば太いロープを利用して登る斜めの丸太を寄せたアトラクションを駆け上っていくのが見えた。
言葉は聞こえないが、上から子供たちに実践してみろとでも言ったのか、すぐ側でその様子を眺めていた拓海には肩を竦められ、祐一には呆れた表情で無理だというジェスチャーをされているのも見える。
それでも無理やり実践させるつもりなのか、赤也が子供たちに登ってこいというような仕草を見せた。
「…いや、普通に考えて無理だろ」
十夜は聞こえないと知っていながら思わずそう呟く。
「…そうだね、無理だと思うよ?」
完全な十夜の独り言に、涼やかな声が応えて十夜は思わず声の方を向いた。
そこには、木陰に隠れたベンチの上で白い紙を何枚も手にした瑞貴が、呆れた様子で自分と同じ光景を見ている。
「いたのか…」
まさかこんな近くに友人がいるとは思わず、1人で突っ込みを入れてしまったのが恥ずかしくなって十夜は顔を背けようとして、そこで瑞貴の手にしていた白い紙が全て楽譜であることに気付く。
思わずその手元を凝視すれば、十夜の知る曲名から知らない曲名まで、真新しい楽譜がたくさん並んでいるが、ピアノ用の楽譜だけではなく十夜の見慣れたバイオリン用の楽譜やオーケストラ用のパート譜まで混ざっているコトに気付いた。
「…気になる?」
手元の楽譜を覗きこむ十夜に、瑞貴は小さな笑みを向けると数枚の楽譜を抜き出して十夜に向ける。
差し出されたそれは十夜の知らない曲名ではあったが、バイオリン用の楽譜だった。
「…何故貴様がバイオリン用の楽譜なんか持ってるんだ」
訝しみながらも、十夜は差し出された楽譜を条件反射で受け取って呆れたような目を向ける。
「さぁ?何でだろう」
曖昧な笑みで誤魔化すように笑うと、瑞貴は他の関係なさそうな楽譜をまとめて束ねてベンチの上に置く。
紙が飛んでしまわないようにと重石の代わりに小さな缶ケースが乗せられているのだが、ポケットに収まってしまう程度の小さな缶ケースでは強い風が吹けば飛んで行ってしまいそうな頼りなさを感じさせた。
そのまま、空いたスペースを指して十夜に座れば?と視線で問いかける。
「で、一体楽譜を並べて何をしていたんだ、貴様は」
手渡されたバイオリン用の楽譜を眺めながら、十夜は深く溜息をつくと、勧められるままに腰を下ろす。
気持ちの良い日差しの中、自然に囲まれながら楽譜の解釈は確かに心地よさそうだが、見る限り瑞貴はただ楽譜を眺めていただけのようで、楽曲を理解するための書き込みなどは一切していないようだった。
それどころか真新しく見える楽譜は全くの新品のように何の書き込みもなく、使い込まれた印象もない。
「たぶん、暗譜…かなぁ?ほら、バイトでピアノ弾いてるし」
問われた瑞貴は小さく首を傾げると、適当にとってつけたかのような答えを口にした。
眺めているだけで暗譜が出来るのなら、音楽家が喉から手が出る程欲しい才能ではあるだろうが、それ以前の問題で暗譜しただけでは曲の解釈など出来るハズもなく。
結局のところ何度も曲に向かい合わなければならないはずなのに、楽譜を見る限りほぼ初見で間違いのない状態で、それなのに既に興味を失ったかのように無造作に置かれている。
幼少時から音楽に親しんできた十夜から見てもそれなり以上に音楽に精通しているように見えるのに、こういった無関心そうに見える部分に時折違和感を覚えてしまう。
才能と熱意の天秤がアンバランスとでも言えば1番しっくりとした表現になるかもしれない。
「…ピアノに関係ない楽譜まで覚える気か?」
覚えるのだとすれば一体何の目的だろうと訝しみながらも、十夜は半眼になって束になった楽譜に視線を落とす。
「渡された楽譜まとめて持ってきただけだから。そのバイオリン譜は、十夜にあげるね」
深い意味はなかったのか、瑞貴は僅かな苦笑を浮かべると、十夜の手の中にある楽譜を指した。
「…何の曲だ?これは」
聞いたことのない曲名の楽譜に視線を向け、十夜は首を捻る。
バイオリン用の楽譜なので、くれるというのなら貰うし、ざっと見た限りでは激しめの曲調に見えるので向いていると言えば向いている方だろうが、少なくとも有名なクラシックの楽曲ではなさそうだ。
「ホテルの経営者から大量に渡された楽譜の中の1つだし、僕も知らない。せっかくだから、暇潰しにでも弾いてみたら?」
十夜なら初見でも充分弾けると瑞貴はどこか面白がるような表情で付け加えた。
その言葉に、曲の難易度まであっさりと理解出来る程度には造詣が深いのだと改めて思い知らされるのだが、余計に温度差というか違和感というか、そういう漠然とした滓が心の中に積もっていく。
「コレのピアノ譜はないのか?」
どうせ練習するなら一緒にやれば少しは気がまぎれるかと、普段の十夜なら思いつきもしなかったような内容が頭を過り、気付いた時には口にしていた。
「え?ピアノ譜?」
十夜の言葉に、瑞貴は驚いたように目を瞬かせる。
「いや、何でもない」
驚きを含む声で問い返された十夜は、ハッと我に返ったように慌ててそう言った。
まさか自分が他の誰かと音を重ねたいと思ったなど、気の迷いどころの話ではない。
さて何と言って話題を変えて誤魔化そうかと十夜は少しだけ焦り気味に考えた。
「そういえば、十夜はコンクールとか、出たりするの?」
十夜の内心を読んだワケではないのだろうが、瑞貴は唐突に話題を切り替える。
如何にも思いついたことをそのまま口にしましたというような、自然な流れでそう言うと、十夜を覗きこむ。
「出るだろ、そりゃ。9月に1つエントリーしてあるぞ」
話題が変わったコトにほっとしながら、十夜はまるで世間話のような自然さでそう答えた。
「そうなの?課題曲って何?」
楽譜の暗譜と言いながら眺めていただけのくせに、瑞貴は興味を持ったのか少しだけ楽しそうに見える。
「序奏とロンド・カプリチオーソ」
曲名を言ったところで果たして相手が知っているのだろうかという疑問を覚えたが、十夜はあっさりと曲名を口にした。
「サン=サーンス?…あれ?無伴奏曲じゃないんだ、課題曲」
言われた方は、どうやらあっさりと曲に思い至ったようで、不思議そうに首を傾げている。
「地味に詳しいな、貴様…。因みに2次選考の課題曲はクロイツェルの1楽章だぞ」
言い当てられたことに少しだけ驚きながらも、十夜は共通の話題として音楽のコトを楽しく話せるのが少しだけ嬉しくて苦笑交じりにそう告げた。
「え…。ヴァイオリン・ソナタ第9番…?これも無伴奏曲じゃないよね」
次に挙げた曲まで正確に把握していたらしい瑞貴も、十夜と同じように小さく苦笑する。
「主催者が変わってるとしか言いようがないな…。あんまり大きなコンクールでもないし、まぁ、たまにはそう言うのもアリだろ」
十夜は自分を納得させるようにそう言うと、1つ頷いた。
「大きなコンクールじゃないの?十夜は大きなコンクールしか出ないイメージだったから、ちょっと意外」
「主催が、ハルシネーションホールの持ち主なんだ、そのコンクール」
意外そうな表情で再び十夜を覗きこんだ瑞貴に、十夜は少し視線を逸らして照れたように呟く。
「ぁー…。もしかして、十夜、主催者がフェアリーテールの関係者だと思った?」
ホールの名前だけでピンときたのか、瑞貴が少しだけからかうような口調でそう笑う。
「悪いか!」
まさしく言い当てられた通りだった十夜は、思わず大きな声でそう言い返す。
もしかすると憧れの奏者の演奏を聴く機会があるかもしれないという下心や、逆に自分の演奏を聞いて少しでも心に留めてくれたらいいという、実に女々しい理由でエントリーしたコンクールなのだ。
「悪くないよ。頑張ってね、十夜。僕で良ければ練習とか付き合うから」
可笑しそうに笑いながら、瑞貴はそう言って十夜に柔らかな笑みを見せる。
「付き合うって、貴様に何が出来るって言うんだ」
一般人よりははるかに音楽に精通しているのは解ったが、それでもコンクールの練習の手伝いなど、何をする気なのかと十夜は照れ隠しに怒ったような口調でそう言い返す。
「え?だって無伴奏曲じゃないでしょ?ピアノ伴奏とか」
悪びれる様子もなく、瑞貴は楽しそうにそう言って、楽譜すぐ見つかるかなと視線を宙に向けた。
「…明日、朝、誰も来る前に少しだけ劇場で練習するつもりなんだが。暇なら、来るか?」
自分でそう言ってから、十夜はギョっとして思わず顔を朱に染める。
まさか自分から誰かを誘うなどと、青天の霹靂(へきれき)もいいところだと自分自身に驚く。
「え?いいの?じゃあ頑張って今日中に楽譜探してみるね」
パッと十夜を仰ぎ見た瑞貴は、どこか子供っぽい嬉しそうな笑みを見せた。
何の裏もない、純粋に喜んでいる様子に、先ほどまでの練習の荒涼とした気持ちが消えていくのを感じて、十夜は知らず目の前の友人という存在が存外自分を癒しているという事実に少しばかり驚く。
「…そんなに嬉しいか?たかが練習に付き合うだけだろ?」
あまりにも嬉しそうに笑う相手に完全に毒気を抜かれた十夜は、一体何がそんなに嬉しいのかと首を傾げた。
「好きな音を聴けるって、嬉しいことじゃない?それに、普通練習なんて人に見られたくないものでしょ?それを見てもイイって言われたら、やっぱり嬉しいよ?」
邪気のない笑顔を向け、瑞貴は当たり前のことのようにそう言って十夜を覗きこむ。
「そういうものか?」
真っ直ぐに向けられた笑顔に、むず痒いような居心地の悪さを覚えた十夜は、視線を逸らしながらそう訊いた。
空を見上げれば、高く澄んだ青空に白い雲が眩しい。
「十夜だって、好きな音って、あるでしょ?そういう音、間近で聞けたら嬉しくない?あとは、ちょっといいなって思う人の練習風景とか、気になったりしない?」
世間話のような軽い調子で瑞貴はそう言いながら、十夜と同じように空を見上げると、眩しそうに手を掲げる。
「…そうだなぁ…」
瑞貴の言葉に、十夜は果たして自分が気になる演奏家がいるだろうかと空を見上げながら考えた。
憧れのバイオリニストといえば、名前も知らないフェアリーテールのコンサートマスターだが、別に練習風景を見たいというような相手ではない。
そもそもレベルが違いすぎて、練習しているというコトすら疑念を抱くレベルに、雲の上の存在だ。
実際にフェアリーテールの演奏を目の当たりにした後だと言うのに、未だにアレが現実に存在する演奏家だとは俄かに信じられないというレベルに、憧れで同時に目標だというのに、十夜にとってフェアリーテールのコンサートマスターは自分と同じ世界の人間だと思えないのだ。
「あ…。そうだ…あやめ…だっけな。彼女の練習風景は、ちょっと見てみたいかもな…」
ふと十夜の脳裏に浮かんだのは、過日、偶然にも一緒に舞台の上で演奏することになった同じ年くらいの少女の姿だった。
もし彼女が自分と同じコンクールに出たならば、間違いなく辛酸を舐めるハメになると思える程の技術と表現力を持つ、同世代の相手。
そんな弾ける相手が、一体どんな練習をしているのか、ふと気になったのだ。
「…あやめ…?」
呟きのような十夜の言葉に、瑞貴は目を瞬かせて言葉の主に視線を向けた。
「瑞貴は…そういえば会ってないな。前に、音楽のイベントに誘っただろ?貴様は実家にいるとかで来なかったが。その時、会った相手なんだ」
その日の事を思い出しながら、十夜はそんなに前でもないのに懐かしむような笑みを浮かべる。
「…音楽のイベントって…えっと、祐一と行ったんだっけ?」
もうほとんど覚えていないのか、瑞貴は少しだけ困惑したような曖昧な笑みを浮かべると、自信なさげに話を合わせた。
「ああ。今までコンクールで会ったどの同世代よりも格段に上手くて、舞台慣れもしてるのか度胸があって…。俺がオケ向きの音なんか出せないのを、上手にカバーしてくれたんだ…」
足を引っ張り合うのが当たり前、他人の不幸は喜ぶような、そんな雰囲気の同世代ばかりのコンクールでは、あり得ない光景だったと十夜はその時のことを思い出してしみじみと思う。
もし一緒に舞台に立ったのが他の、十夜にとって2年生の頃までのライバルとかであれば、あんな風にはならずにお互いに足を引っ張り合って、オーケストラ全員に迷惑をかけていたに違いないだろう。
それなのに、岡崎あやめと名乗った少女は、同行者に心配されるような状態にありながら、最後まで自分のフォローをしながら完璧な演奏をしてみせたという事実が、十夜にとっては一種の憧れを抱くと同時に悔しくもあるものだった。
それでも心が完全に折れなかったのは、幼い日の誓いに支えられたことと、あやめが十夜の音を好きだと言ってくれたからだ。
「…十夜は、えっと…その人の演奏、好きなの?」
瑞貴は珍しく言葉を選ぶようにしながら、控えめにそう問いかけてくる。
「そう、だな…。好きっていうか、憧れる。なぁ、瑞貴、アルス・ノトリアでのフェアリーテールの演奏って、覚えてるか?」
あの時に見た、コンサートマスターの年恰好や、技量の高さを思い出し、十夜はある可能性に辿り着いていた。
どう見ても同世代と思える外見年齢、童話の姫君そのもののような儚げで嫋やかな印象。
そしてオーケストラに溶け込みながらも鮮烈な技量。
あやめの演奏を聴いたのは、音楽祭での即席演奏会での映画のテーマ曲と、一緒に演奏した組曲だけとはいえ、どこか重なる瑞々しくて優しい調べ。
「…うん、まぁ…覚えてるけど」
曖昧に笑う瑞貴は、本当に覚えているのかと言いたくなるような口調で視線を逸らす。
「…俺は、実は彼女こそが、俺の憧れたフェアリーテールのコンマスなんじゃないかと疑っているんだ」
一瞬だけ言うか言わないか迷った末に、十夜は思い至った可能性を口にした。
「えぇ!?え、何で!?どうしてそう思ったの!?」
ばっと勢いよく十夜に向き直るなり、瑞貴は大きく目を瞬かせながら、珍しく驚きを露わにした声を上げる。
取り乱しているとでも言える程、珍しく声のトーンを上げていた。
「なんで貴様が驚くんだ?まぁ、確証はないけど、何となくそう思っただけだ」
気にするなと十夜は目の前で目を瞬かせる友人の様子に苦笑する。
珍しいくらい狼狽(ろうばい)しているように見えるのは、情報非公開の楽団のコンマスかもしれないという相手を見出したことへの驚きなんだろうか。
何にせよ、目の前の友人がこんなに感情を露わにするのが珍しく、十夜はそっちの方が気になってしまった。
「…フェアリーテールのコンサートマスターに、そんな思い入れでもあるの?」
ふと気になったのか、それとも話題を変えたかったのか、瑞貴はポツリとそう呟くように尋ねる。
「最初はさ、似てる気がしたんだ」
何故話そうと思ったのか、自分でも分からないまま十夜はそう話し始めると、再び空を仰いだ。
「似てるって…さっきの、えっと、女の子?」
だったら順番が逆ではないかとでも言いたげに、瑞貴は控えめに問いを口にした。
「…いや、小さい頃たった1回だけ会った、音楽の天使」
「夢の話…?それともオペラ座の怪人の音楽の天使?」
胡乱なとまではいかないまでも、瑞貴はどこか懐かしむように言った十夜に対し、控えめに首を傾げて見せる。
「実在する人間の話だっ!…実はよく覚えてないんだけど、初めて目の前でバイオリンの音を聴いて、すごく感動して、それでバイオリニストになろうと思ったんだ…」
記憶に残る光景は、幼い天使のような子供が、倖せそうにバイオリンを奏でる姿。
それから、その時の音色が、いつまでも心に残るような、温かい気持ちをきれたこと。
その時どんな会話を交わしたのかも、そもそも話をしたのかすら覚えていないのだが、それでも記憶の中の1番深いところに残っている光景。
「…そっか…。じゃあ、その天使も、十夜がバイオリニストを目指してくれて、嬉しいだろうね」
他に言いようがなかったのか、瑞貴は小さく笑ってそう言った。
「貴様、馬鹿にしてんのか!」
瑞貴の言い様に、まるで自分が馬鹿にされてるような錯覚に陥った十夜は、自分で言ったくせに恥ずかしくなって、思わず怒鳴り返してしまう。
「え…。僕は純粋に思ったことを言っただけだよ」
馬鹿にしてるなんて心外だとでも言いたげに、瑞貴は困ったように微かに笑った。
「そういう貴様こそ、なんでピアノを弾いてるんだ?」
自分から暴露したものの、自分だけどうしてこの道を歩いているのか知られてしまった十夜は、憮然とした表情でそう訊く。
「え…僕?ピアノ…?」
問われた瑞貴は、まさかそういう質問をされると思っていなかったのか、目を丸くして十夜に視線を向ける。
「何でピアノを弾き始めたんだ?」
切欠くらいあるだろうと十夜は再びそう問いかけた。
「え…っと…。別に、ピアノは…あんまり深い意味があったワケじゃなくって…。最初からピアノを弾いてたわけでもないし…。ただ、母親がピアノの先生だったんだ。それで、兄さんもすごくピアノが上手くて…。見様見真似で練習してたら、兄さんが教えてくれたんだよ」
それだけだと、瑞貴は小さく笑って小さく肩を竦める。
見様見真似から初めてあれだけ弾けるというのはすごいが、母も兄もピアノをやっていて、自分は最初は手を出さなかったという点に少しだけ引っかかりを覚えた。
「貴様は最初からピアノを習おうと思わなかったのか?」
母が先生、兄も上手いとなれば、幼いながらも憧れるんではないだろうか。
事実、今ではホテルのラウンジで堂々と演奏しているくらいなのだから、天性の才はあるのだろう。
言葉にはしないが、十夜は目の前のつかみどころのない友人が、自分のように必死になって練習をしている様子というのは思い浮かべ辛かった。
腹立たしい話だが、努力などせずとも高みへ行けそうな人種だと、何となく思っている。
「…何でも出来る兄と比べられて、出来なかったら母さんにも兄さんにも申し訳ないでしょ?」
だから、最初からピアノの道に進む気はなかったと瑞貴は小さく笑う。
まるで独白のようだと、十夜は思った。
「…別に、気にすることないだろ…」
自分が劣等感に苛まれること以外は、とは十夜は口にしない。
「でも、どれだけ教えてもらっても僕じゃ兄さんみたいには、やっぱり弾けないし。プロ目指してるワケじゃないから、別に今のままで充分だけど」
先程と変わらない口調のまま、瑞貴は小さくそう続けた。
言葉の裏にある感情は、十夜と似ているようで、全然違うようにも感じる。
「…ピアノ、好きなんだろ?」
好きだけど、近づけない。
憧れだけが募って、空回っていく。
今、自身がそんな状態である十夜は、否定しないで欲しいという気持ちを込めて小さくそう訊いた。
素直に好きだと言ってくれたら、それでも弾き続けると言ってくれたら、自分も頑張れそうな気がしたからだ。
「ピアノは、母さんと、兄さんの音、かな。そういう意味では、守られてるみたいで、好きだけど。…でも、僕の音じゃないよ」
けれど、そうサラリとそう言った瑞貴の表情は、どこか晴れやかで。
十夜のように、足掻いたりもがいたり、そういう葛藤とは無縁の微笑みだった。
別のところに寄る辺があるのか、それとも最初から諦めているのか、それは分からない。
ただ十夜にわかるのは、自分と瑞貴がどこまでも近くて、そしてどこまでも遠いということだけだ。
結局、そこで会話が途切れてしまって、小さな子供たちと遊んでいた赤也たちが十夜の存在に気付いて大声を上げるまで、ただ無言で空を見上げているだけだった。
その日は、何となく悶々としたまま、惰性で夜の練習の時間を迎え、大学生たちの嫌味のオンパレードもどこか上の空で聞き流すほど心ここに在らずの状態だったらしい。
九条による個人レッスンの時間には、何故か弦楽四重奏の練習ではなくコンクールの指導を受けていた。
「…十夜、何か気になることでもあるのか?さっきから、全然音に身が入っていないようだが」
指導の手を止め、九条は何があったのかと十夜に問いかけるほど、十夜は始終ぼんやりとしていた。
「すみません、先生…。気になるっていうか、ちょっと自信なくして…」
あまりにも妄信的にこの道を歩いているが、本当にこれでいいのだろうか。
計らずも記憶の中の天使の棲む庭のようなイングリッシュガーデンで、音楽に通じている友人が放った言葉が、何故か重くのしかかっていた。
もし、ピアノ以外に寄る辺があってこその言葉なら、別にあの言葉は何でもないただの事実でしかない。
けれど、アレがもし自分を抑えつけての言葉なら、という考えが過って、思えば自分は今まで、同世代の誰かと比較されても常に1番で、周囲にも肯定してくれる人ばかりがいて、今更ながらにぶつかった壁も、冷静に考えれば全然高いものじゃないのかもしれないと感じていた。
「大学生と一緒になってやっているのだから、自信を無くす必要などないぞ?それどころか、負けずに1stのパートをちゃんと弾けているんだ、もっと自分に自信を持ちなさい」
一体何を馬鹿なことをとでも言いたげに九条は十夜の言葉を笑い飛ばしてしまう。
実際十夜が悩んでいたのは、そんなレベルの話ではなかったのだが、他でもない恩師に認められたという事実で少しだけ気持ちが浮上した。
「大学生たちは、十夜があまりにも上手いから、ああやって少しばかりきつく当たるのだ。だからこそもっと自信を持ちなさい。少なくとも、半年前のコンクールより、余程いい音を出すようになっている」
その言葉に、十夜はハッとして恩師を見る。
言われるまで、忘れていた。
そう言えば、自分は昼間、散々苛め抜かれて精神力を使い果たしていたはずではなかったか、と。
いつの間にか、自分の心を占めるものは、目の上のたん瘤のような先輩たちではなく、友人への躊躇いがちな気遣いのような、よくわからない感情に取って代わられていたことに気付く。
「…そうですね」
そう九条に応え、十夜は少しだけ笑った。
辛いと感じていた苛めのような環境も、いつの間にか最重要項目ではなくなっていて、既に半分忘れてしまっていたくらい、どうでもいいことだったらしい。
「雑念は去ったかね?では、通しでもう1度、アゲイン」
それだけで勝手に納得してしまったらしい九条は、残りの十夜の個人レッスンのため時間をフルに活用して、まさしく精根尽き果てるまでというレベルでひたすら練習に明け暮れさせた。
個人レッスンを終えて、十夜が明日は自主練のために早起きしようとアラームをセットし、泥のようにベッドに沈み込んだのも、仕方ないと頷けるほど、そのレッスンは苛烈を極めたのだ。
普段の十夜なら、望むところと喜ぶ密度の濃いレッスンに、いつしか悩みも忘れ、ひたすら没頭していた。
翌日。
気持ちの良い朝の陽射しの中、のろのろと劇場まで歩きながら、十夜は今日もいい天気になりそうだと空を見上げる。
前日の適当な口約束だけで、本当に友人が練習を見に来るというか、自主的に伴奏の手伝いをしにくるとはさすがに思っていない。
昨日の口ぶりだと、曲は知っているが楽譜を見たことはないようだし、本当に伴奏を手掛けるといっても、恐らくこの合宿から帰ってからだろう。
「あ、十夜。おはよう」
けれど、そんな十夜の予想に反して、驚くべきことに瑞貴は劇場の前に佇んでいた。
十夜の姿を認めるなり、いつもと変わらない仄かな笑みで出迎えると、ヒラヒラと片手に持った白い紙を翻して見せる。
「…おはよう。貴様、まさか一晩で楽譜を見つけてきたのか?」
白い紙は見慣れた五線譜で、もしやという気持ちで十夜は控えめにそう訊いた。
「うん。兄さんに、欲しいって言ったら用意してくれたんだ」
そう言って嬉しそうに笑う様子を見ていると、兄を慕っているのが何となく伝わってくる。
上手いと評していた兄に対する劣等感のようなものは一切なく、十夜は少しだけほっとした。
「…何で劇場の前にいるんだ?朝はさすがに少し肌寒いだろ。それとも開いてないのか?」
開いていないのなら、さてどこで練習しよう。
てっきり劇場は開けられたままだと思い込んでいたが、九条あたりが鍵を持っているのかもしれないと今更ながらに十夜は思い至る。
「大丈夫、鍵なら僕も持ってるから。もちろん、ピアノの鍵も」
そう言って、瑞貴は楽譜を持っていない方の手をひょいっと軽く掲げた。
指には、可愛らしい蝶のモチーフのキーホルダーがつけられた鍵が2つ揺れている。
「…一応聞くが、何故貴様が鍵を持っている」
何となく目の前の友人ならば、フロントから普通に借りてきそうだと納得してしまいそうになりながら、十夜はやや脱力気味にそう訊いた。
「え?だって、僕、このホテルのお抱え演奏家だし?」
「単にバイトでピアノを弾いてるだけだろうが」
悪びれない様子で言外に鍵を持っていて当然とでも言いたげな瑞貴に、十夜は普段と変わらない勢いで間髪入れずに突っ込んだ。
「それじゃ、さっそく弾いてみてよ。早くはじめないと、他のみんなが起きちゃうよ?」
明るい調子でそう言うと、瑞貴は何の躊躇いもなく劇場の鍵を開ける。
そう言えば、以前学校の音楽室に不法侵入した時も、恐らく生徒会長の権限の書き込まれた学生証であっさりと開錠し、怒られないと(うそぶ)いてさっさと中へ入って行ったなと十夜は呆れた。
瑞貴の言う通り、時間は限られているのだ。
いつもつるんでいる賑やか集団が起きたら、一緒に朝食をと連絡が来るに決まっている。
「俺が準備する間、貴様も適当に指を慣らすなりしておけ」
瑞貴の後に続いて、劇場の中へ足を踏み入れながら十夜は先に進む背中にそう声をかけた。
「大丈夫だよ、さっきまで弾いてたから」
楽しそうに笑いながらそう言う瑞貴の言葉に、視線を舞台の上に向ければ、あたかもコンクール会場のように移動されたグランドピアノが目に入る。
昨日、劇場で練習した時には、ピアノの位置はもっと舞台袖の方にあったはずだ。
よく見れば、鍵盤の蓋も開いているし、音が通るようにとすっかり演奏の準備を整えられた状態になっている。
「…何時に起きたんだ、貴様は」
自分でも相当早起きだという自覚のあるだけに、十夜は目の前の友人に呆れた声を向けた。
何せ十夜の知る瑞貴といえば、授業中すら寝て過ごしているような人物なのだ。
そんな瑞貴が、まさか自分より早く起きて、しかもピアノを弾いていただなんて、違和感を覚えずにはいられなかった。
「まぁまぁ。細かいコトはいいから、ほら、練習しよう」
いつになくイキイキと楽しそうな様子で、瑞貴はさっさとピアノの前に収まると十夜を舞台に手招く。
バイオリンの立ち位置である場所にも、既にちゃんと譜面台が用意されていて、十夜は準備のいいことだと思いながら手早くケースから楽器を取り出した。
「いきなり併せるのか?」
いくら何でも無茶だと思いながらも、十夜は少しくらい無茶な方がお互いイイ練習になるかもしれないと意地の悪いことを考える。
本人の申告の通りなら、十夜と違って瑞貴はピアノのプロなど全く目指していないということなので、そんなイイ練習は不要なのかもしれないが。
「大丈夫、十夜ならいきなりでも弾けるって」
どこまでも無責任に太鼓判を押すと、瑞貴は十夜が弾き始めるのを急かすように持っていた楽譜をピアノの譜面台にそっと置いた。
「俺が心配してるのは、貴様の方だ!どうせ初見だろうが!」
「えー?初見じゃないから大丈夫だよ。ちゃんと練習したから」
いつもの調子で吠える十夜に、瑞貴はやはり楽しそうに笑う。
「ほう?よく言った。だったら、お手並み拝見といくか!」
挑発的に言って、十夜は勢いよく弓を躍らせた。
自分のように時間をかけて何度も練習したプロ志望ならともかく、昨日まで楽譜すら見たことのなかったちょっと音楽に精通しているだけの一般人に対して、酷だという自覚はある。
それでも、あくまでコレは自分のための練習のはずで、だったら自分を鼓舞して限界ギリギリの練習をしなければ意味がない。
だから、十夜は最初から全力で、全開で音を奏でた。
ついてこれるものならついてこいという、挑発的で自信に満ちた音色が、劇場を満たす。
「…やっぱり、十夜の音はこうじゃないとね」
小さく嬉しそうに呟かれた瑞貴の言葉が十夜の耳に届くや否や、驚くべき正確さでピアノの伴奏が添えられる。
その正確さは、まさしく完璧にコンクールのための伴奏の録音だと言われても納得出来る楽譜の指示通りの完璧な解釈と、録音ではありえないバイオリンとの呼吸の合わせ方。
ちょっと練習したというような代物ではなく、十夜は内心ギョっとして危うく演奏を止めてしまいそうになるくらい驚いていた。
ついてこれるものなら、ではない。
むしろ自分がどこまでも追い立てられるような感覚に、十夜は驚きながらも演奏にのめり込んでいく。
同じ曲を奏でているのだから、勝ち負けなど当然あるはずもないのだが、それでも負けたくないという気持ちで思い切り弾き切る。
昨晩の精根尽き果てる練習並に、密度の濃い、数分間。
最後の音の余韻が劇場に残る中、十夜は弓を降ろすなり勢いよく友人を振り返った。
「一体貴様はどれだけ練習したんだっ!?まさか、前から弾けたのか!?」
「まさか…。兄さんに楽譜を貰って、夜に弾いてみたのが初めてだよ」
大声を上げた十夜に、瑞貴は軽く笑って左右に首を振る。
「ほぼ初見ということか!?」
それでこれだけ弾けるのなら、並の才能ではありえない。
叫ぶように、いっそ責めるような強い調子で、十夜は声を荒げる。
「…さすがに初見はないよ。練習に付き合うって言ったのに、全然弾けなかったら話にならないでしょ?」
「…だったら、何回くらい弾いてみたんだ?」
いくら何でもそれはないと苦笑する瑞貴に、十夜は毒気を抜かれて軽く脱力した。
目の前の、一見小動物風の大人し気な生き物は、いったいどれほどの才能を持っているのだろうか。
昨日の今日でまさかここまで弾けるようになっているという事実に、練習に明け暮れている自分が少しばかり可哀相に思えてきて、十夜は軽く溜息をついた。
「何回…?えぇ…数えてないから、わからないよ…。これなら、十夜の練習相手になれるかな?」
十夜の言葉に、軽く指を折り、回数を数えようとした瑞貴だったが、すぐに困ったように首を傾げて数えることを放棄する。
それから、恐る恐るといった様子で、練習相手として及第点かと顔色を窺うように十夜を覗きこんだ。
「及第点どころか、正直こっちからお願いしたいくらいだ…」
素直にそう言うのは少し悔しいが、今まで使用していた録音の伴奏や、無伴奏では絶対に至れない境地が見えそうで、十夜は視線を逸らしながらそう言った。
「…良かったぁ…」
ほっとしたように表情を和ませた瑞貴に、十夜は何故ここまでしたがるのかと少しだけ疑問に思う。
「…で、実際のところ、どれくらい練習したんだ?」
それでも、相手の笑顔を見ていたら、本人が楽しんでというか喜んでやっているようなので水を差すのもどうかと思え、十夜は再び楽器を構えながらもそう訊いた。
「ピアノを弾いた時間だけなら…3時間くらい?他に、兄さんにピアノを弾いて貰ったりしてた時間も入れたら、4時間ちょっとかなぁ…」
「はぁ!?」
同じように鍵盤に向き直りながら、事も無げに言われた言葉に、十夜は思い切り声を上げて再び振り返ったが、有無を言わせない勢いで響いた課題曲の伴奏に舌打ちしながら弓を躍らせた。
全力で自分のすべてをさらけ出す勢いでガツンと音色を響かせながらも、十夜の頭の中は友人への何とも言えない感情でいっぱいで、4時間ということは、寝てないんじゃないのかだとか、何でたかが練習に付き合うだけでそこまでの熱意を注げるのだとか、一体何がしたいんだとか、どうしてそこまでするのかとか、とにかく言いたいことを全部詰め込みながら、ひたすら曲を進めていく。
楽譜の解釈と、表現は、何度も何度も繰り返し楽譜に書き込んで、読み込んで、丸暗記出来るくらいまでそれを繰り返し、もはや楽譜の原型をとどめないくらい真っ黒になるまで読みこんでいるので、もはや無意識に出来るところまで達している。
けれど、それとは別に、感情の部分は、楽譜の解釈とは関係なく十夜の奏でる激しい音色に乗って、劇場を駆け巡っていた。
驚くべきことに、第1課題のサン=サーンスの序奏とロンド・カプリチオーソだけでなく、第2課題のベートーベンのヴァイオリン・ソナタ第9番、別名クロイツェル第1楽章のピアノ伴奏まで仕上げてきている瑞貴に、十夜は何度も叫びそうになりながら、充実した時間を過ごす。
途中、何故第2課題まで伴奏を覚えたのかと尋ねれば、第1選考を抜けるのは当然だからとあっさり返されて、友人の中で自分の評価はどれだけ高いのかと十夜は少しばかり照れながらも、当然だと胸を張ってみせた。
そのまま、密度の濃い練習は時間を忘れさせたまま続き、ようやく現実に引き戻されたのは、朝の練習のために九条に師事する大学生たちが劇場へやってきた時だった。
「…な、何を…」
劇場の鍵を九条から預かったのか、見覚えのある鍵を手に入口で固まったまま、十夜の先輩たちは劇場の舞台を凝視している。
うっかり劇場の扉を開け放ったまま演奏に没頭していたことに、今更気付いたがもう遅い。
舞台から客席を見るように立っていた十夜は、まるで固まった大学生たちと鏡合わせのように同じように固まりながら、何と言えばこの状況を打開できるだろうかと心中でため息をついた。
練習している曲が弦楽四重奏で練習中の曲ならまだしも、コンクール用の曲なだけに、何とも言い訳し辛い状況だ。
「…あ、もうピアノ片付けなきゃ…。練習始まっちゃうよね?」
膠着(こうちゃく)状態のまま互いに動けずにいる十夜と大学生たちに、場違いなほどのんびりした瑞貴の声が聞こえる。
「あなた、何なの…?」
服装も違えば、本人曰く年齢を誤魔化すための眼鏡もない状態の瑞貴を見て、昨日のラウンジのピアニストと結びつけるのは少しばかり難しいのだろう、呻くように言いながら、瑞貴を睨み付けたのは、チェロのケースを抱えた八尾だった。
「え?僕?何って十夜のクラスメイトだけど…」
質問の意図が分からなかったのか、睨まれている本人は不思議そうに首を傾げてあっさりとそう答える。
「な、何でそのクラスメイトとやらが、こんなトコでピアノ弾いてんのよ…?」
不可解だと顔面に貼り付け、八尾はさらに言い募るが、その答えは誰からももたらされなかった。
「じゃ、僕そろそろ戻るね、十夜。ピアノ使うなら使っていいから、鍵だけ後で僕に返してくれる?」
劇場の入口に現われた音大生たちを気にする様子もなく、瑞貴は十夜に向かってそれだけ言うと、キーホルダーに並ぶ鍵を押し付けるように手渡し、仄かな笑顔を残してさっさと劇場を出て行ってしまう。
音大生たちの存在など、まるで見えてもいないかのように十夜の知る普段の大人し気でありながら割と傍若無人を地で行く様子に、十夜は小さく吹き出しそうになって慌てて表情を取り繕った。
「って、おい…。楽譜くらい持って行けよ…」
大学生たちから向けられた視線に微かな居心地の悪さを感じ、意味もなくピアノを振り返った十夜の視線の先に、真新しいままの楽譜が置き去りにされているのを見つけて、やれやれと肩を竦める。
怪我の功名というか、瓢箪(ひょうたん)から駒というか、もしくは棚から牡丹餅(ぼたもち)とでもいうべきか、()しくも十夜の本気の演奏を偶然にも聴いてしまった大学生たちは、どういうわけか前日までのような露骨な嫌がらせをしてくることはなくなっていた。
もしかすると嫌がらせのようにピアノの使用許可と言ってみたものの、十夜が何の努力もせずに当たり前のように劇場の鍵とピアノの鍵を託されたのを見て、思うところでもあったのかもしれない。
けれど、ほんの少しだけ、好かれていない点では何も変わっていないのだが、大学生たちが十夜を見る目が、柔らかくなっていた。
それは、十夜の己惚(うぬぼ)れでなければ九条の直弟子の実力を、正当に評価したからなのだろう。
強化合宿と銘打たれたこの旅行も、最初は憂鬱さの方が勝っていた十夜だったが、この朝を境にして充実した楽しい合宿旅行へと変わっていた。
早朝は瑞貴と一緒にコンクールの練習に明け暮れ、朝から昼頃まで九条指導の元で弦楽四重奏の練習を重ね、昼から始まる個人レッスンの時間は、自分の時間が夜だという事情で友人たちと遊んだり、宿題に取り組み、そして夕方から夕食までの時間、今度は九条抜きの弦楽四重奏の練習でしごかれ、そして夕食後に個人レッスンを受ける。
1週間という強化合宿は、あっという間に過ぎ去って、帰路につく頃には物足りなく感じていたのだから、驚きだ。
帰り際、赤也が、旅行楽しかったなと笑ったのに、十夜は自然とそうだなと答えていた。
声には出さなかったが、友人と一緒だから、楽しかったと心の中でそっと付け加える。
当たり前のように、側で気楽に笑いあえる相手がいるというのは、こんなにも救われることなのだと、十夜は長くもない人生経験の中で初めて感じたのだった。
製作者:月森彩葉
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