スクールウォーズ 25

 体育祭が終わって一週間ほど経つと、文化祭の準備が本格的に始まった。廊下は忙しそうに駆け回る生徒の姿でにぎわい、教室からは作業の音が絶え間なく響いてくる。
 そんなある日の放課後のことだった。いつものように生徒会室のドアを開けた望美を出迎えたのは、【若苗】と【青藍】の姿であった。【コンクエスト】は当分の間行わないはずではなかったのか、と首を傾げる望美に気づいたのだろう、書類を作っていた詩織が小さく手招きする。室内に入って扉を閉め、望美は呼ばれるままに彼女の元へと行く。
「今日は文化祭のイベント戦闘の打ち合わせがあるんですよ。【コンクエスト審議会】、【正義の味方部】、【世界征服部】、【特殊報道部】による合同打ち合わせですので、お二方は着替えておられるんですよ」
「打ち合わせをするんですか?」
 詩織の言葉に、望美は不思議そうにまばたきして問い返した。彼女の疑問に答えを与えたのは恭二だった。
「文化祭のイベント戦闘は大がかりになるからな。毎年打ち合わせをすることになってるんだよ」
 ということで、理解したら着替えてくる。恭二のその言葉と共に更衣スペースへと向かって背中を押される。
「了解しました」
 そううなずくと、望美は着替えのために更衣スペースへと向かった。


 会議は一階の大会議室で行われるとのことだった。生徒会室を出て会議室へと向かっていると、途中で出くわした生徒たちがこちらを指さして互いに話し合う姿があちらこちらで見られた。ぎょっとした様子で足を止めるのはほとんどが一年生で、二年生や三年生は慣れた様子ですれ違っていく。
 大会議室につくとすでにほかのメンバーは揃っていた。長方形に並べられた長机の右手には【正義の味方部】が、入り口付近の手前には【特殊報道部】が座っていた。残る左手が【世界征服部】の席らしく、【若苗】は迷いなくそちらへと歩を進める。
「さて、これで全員が揃いましたね」
 そう言ったのは、議長席である上座に座った男だった。座席の位置から、おそらく彼が【コンクエスト審議会】のメンバーであろうことは想像に難くなかった。
「……理事長ですよね、アレ」
 声を潜め、【青藍】が隣に座る【若苗】に問いかける。【若苗】は視線を【青藍】へと向けると、小さくうなずくことでそれに答えた。
 【青藍】の戸惑いももっともだった。なぜなら、議長席に座る小笠原はなぜか仮面を付けて顔を隠していたのである。しかも見える口元はとても楽しげに笑みを刻んでいた。
「なぜに仮面……」
 そう【青藍】がつぶやけば、
「……混ざりたかったのか? 理事長」
 それに答えるように【ジャスティスグリーン】がつぶやきを漏らす。その言葉に、そうなのかもしれない、と望美も内心で同意した。
「さて、今年も文化祭の時期がやってきました。文化祭では一日目と二日目にそれぞれイベント戦闘が行われ、その内容はこの場で決められてきました」
 机の上に肘をつき、組んだ両手をあごに添えた小笠原がそう告げた。
「それぞれ今年はどのようなイベントとするつもりなのか、その案を出していただきましょう」
 うかがうような視線がぐるりと室内を巡る。それに手を挙げたのは【若苗】だった。
「はい、どうぞ。【世界征服部】」
 促す言葉に【若苗】は立ち上がる。
「我々からのイベント案は、戦闘員によるストライキだ」
 そう言って彼が語る内容は以下のものであった。
 【世界征服部】が征服宣言を出した後、戦闘員がストライキを起こす。そしてもめているその最中に【正義の味方部】が出動してくる。ストライキの理由は、自分たちはいずれ死に至る病に冒されており、こんな見知らぬ土地で死ぬかもしれないという恐怖と、死の病に冒されていないがゆえにまじめに戦ってないように見える幹部候補生たちへの不満。まじめに戦わないのなら、せめて自分たち戦闘員が本星に戻れるように交渉せよ――というものだ。
 説明を終えて席に着く【若苗】に向かって小笠原が手を叩く。
「なるほど、なかなかに興味深いイベントです」
 では次は、と促されて立ち上がったのは【特殊報道部】であった。勢い込んで彼らが訴えたイベント案は【世界征服部】が生徒を人質に取り、それを【正義の味方部】が救出するというヒーローショーのお約束であったのだが、これは小笠原によって却下された。理由は人質禁止令である。学内の人間であれば【コンクエスト】は周知されているが、文化祭では学外の人間もやってくる。彼らが人質を取る【世界征服部】を見て通報しないとは言い切れず、事実数年前には通報されかけた。そのためどのような理由であれ、人質を取ることは禁止されているのだと小笠原は語った。
「……まじめに語ればできるのに、なぜこの間の通達がアレなのか……」
 そんな【青藍】の呆れ混じりの視線が突き刺さったりもしたのだが、気づいているのかいないのか、小笠原は楽しげな笑みを崩さないままであった。
「では最後に【正義の味方部】、貴方がたの案を聞きましょうか?」
 そう促され、【ジャスティスピンク】が立ち上がる。
 彼女が語ったのは、体育館での舞台発表の合間に【コンクエスト】を行うというものであった。体育館を征服した【世界征服部】に対して戦いを挑む【正義の味方部】という、言ってしまえばいつもと大して変わらない案である。
「なるほど……それでは【世界征服部】と【正義の味方部】が持ってきた案を使うことにしましょうか。詳しいシナリオは【特殊報道部】にお願いするということでかまいませんね?」
 そうまとめた小笠原に異を唱える者は誰もおらず、そうしてその日の会議は終了したのであった。


 文化祭が近づくにつれ、生徒会はその準備に追われることとなった。体育館で行われる舞台発表のプログラムやパンフレットの作成、それから必要な資材の確保や作業状況のチェックなど、やるべき仕事は山ほどある。
 そんな中、久しぶりにクラスの出し物の準備に顔を出した望美だったが、展示の内容は意外な方向へと転がっていたのである。
「西洋風お化け屋敷、ですか?」
 生物室を借り切ってお化け屋敷を造っているとのことで、教室の中は作業する生徒たちの姿があった。
「そう。ていうか、むしろお化け役がハロウィンコスプレをするから西洋風お化け屋敷にしようってなったみたいよ?」
「衣装は広瀬先生のお手製なんだって」
 楽しみだねぇ、と笑う千恵に対し、小百合はどこか渋い顔だ。
「あの先生に任せると、どんなのが出てくるかわかったもんじゃない気がするけど……」
 ゴスロリになってなきゃいいわね、とため息混じりにつぶやく。
「なるほど、衣装の採寸のために呼ばれたというわけですね」
 生物室に顔を出すなり、被服室に行け、とまとめて放り出された理由がようやくわかって望美はうなずいた。
 被服室に向かうと、そこには広瀬と多数の生徒の姿があった。助手役なのだろう、筆記用具を手にした生徒が広瀬の横についてメモを取っている。被服室の前には採寸待ちの生徒の列ができており、望美たち三人も最後尾に並んだ。
 手慣れているのか、それとも手際がいいのか、採寸を待つ列はすぐに消化されていき、望美たちの順番がやってきた。
「はい、じゃあクラスと名前を言ってね」
 にこやかに広瀬に促されてクラスと名前を告げると、採寸するわよ、と言われた。手を肩の位置でまっすぐに伸ばした姿勢で待つことしばし。メジャーで肩幅や胸囲などを測られる。
「もういいわよ、ありがとう」
 その言葉に腕を下ろし、よろしくお願いします、と会釈する。
「かわいい衣装を作ってあげるから、楽しみにしていてね」
 満面の笑みでそう言って望美を送り出すと、広瀬は次の生徒を呼んだ。
 生物室へと戻ると、お化け役は準備に参加しなくても大丈夫だと言われた。当日はよろしく、との言葉に本当にいいのだろうかと思いながらも、生徒会の仕事も山積みであったためありがたく言葉に甘えることとする。
「それじゃあたしは部活に戻るけど、二人は?」
「私も部活に戻ろうかな」
「わたしも生徒会室に戻ります」
 仕事が残っているので、と告げると、ほどほどにがんばりなさいよ、と言われた。
「それじゃ、また明日ね」
「はい、また明日」
 手を振り合って友人たちと別れると、望美は生徒会室へと足を向けた。


 生徒会室に向かうと、【特殊報道部】からでき上がったシナリオが届けられていた。【世界征服部】が提案したストライキシナリオはほぼそのまま採用されているものの、セリフ等がシリアスに脚色されているようだった。
 大幅な修正が加わっていたのは【正義の味方部】提案のシナリオで、なぜか吹奏楽部協力の元、マーチングの最中にコンクエストを行うとのことだった。マーチングバンドにおける指揮者・ドラムメジャーは【杜若】がやること、と指示がある。
「マーチングバンドの指揮って、たしかバトントワリングの技量も必要なのではありませんでした?」
 指示書をのぞき込んだ詩織が、あらあらと口元を押さえてつぶやく。
「この『理事長室に来られたし』ってのも謎だよなぁ……」
 どいういうつもりなんだ理事長。そうつぶやきをもらして恭二も首を傾げる。
「ま、意図は不明だけど、とりあえずお呼びがかかってるなら行った方がいいんじゃない?」
 シナリオに目を通しながらそう言った薫に、よろしいのですか、と望美は聞き返す。
「うん、あの理事長のことだから、あんまり待たせるとこっちに突撃してくるよ」
 そうなると面倒くさいんだよねぇ、と眉をしかめる薫。だから先に行っておいで、と重ねて言われて、望美は生徒会室を出て理事長室へと向かったのであった。
 一階まで階段を降りる。一階南棟は主に職員関連施設が並んでおり、東側の渡り廊下の近くに理事長室は存在した。
 理事長室の扉を叩いて名乗ると、すぐに扉が開けられ小笠原が顔を出した。
「ああ、お待ちしていましたよ」
 どうぞと促され、失礼しますと断ってから室内に入る。
「そこのソファにかけてください」
 言って小笠原が示したのは応接用のソファだった。促されるままに腰を下ろすと、正面には大きなテレビが据え付けられていた。小笠原は横の戸棚から一枚のトールケースを取り出すと、中からディスクを出してそれをDVDデッキにセットする。スイッチを入れるとテレビに映像が映し出された。
 朝礼台の上に軍服めいたデザインの白の詰め襟服に身を包み、赤い懸章を斜めにかけた少年が立つ。彼が手にしているのはオーケストラなどで指揮者が持っているようなタクトだ。
 指揮者である少年がまっすぐ立って整った敬礼をした。それだけでざわついていた空気が一気に静寂に包まれる。
 敬礼を解き、指揮者がタクトを振り上げてホイッスルを高く響かせる。拍子に合わせて規則正しく鳴り響くのはスネアドラムの音だ。一定のリズムで叩かれるスネアドラムの音に合わせ、ふたたび指揮者がホイッスルの音で合図をする。
 スネアドラムのリズムに合わせて一、二、三、四と唱和する声が響いたかと思えば、そこでぐるりと映像が移動した。
 映し出されたのは入場門だった。そのことから、この映像が撮られたのは体育祭なのだろうと望美は推測する。
 入場門から姿を見せたのは青紫色の軍帽にうしろだけが丈の長い軍服に似た詰め襟制服とプリーツスカート、それにショートブーツと言った出で立ちの少女で、大きな白い懸章が目立つ。
 彼女は錫杖のような大きな飾り付きのメジャーバトンと呼ばれるものをライフル銃のごとく抱え、まるで軍隊の行進を先導するように規則正しい足取りで歩く。軍の上級将校のようなその少女は初代の【杜若】に相違なかったが、この間見せられたDVDの映像と違って細剣は佩いていなかった。
 そのうしろにはそれぞれが自分の演奏する楽器を構えて【杜若】に従う、白い詰め襟制服の上着に黒のスラックス、そして革靴といった下級士官のような姿の人々が続いている。飾りのない軍帽をかぶって同じ制服に身を包む下級士官たちは一糸乱れぬ行進を披露しており、携える楽器以外に違いがないと錯覚してしまうほど完全に統率されていた。
 メジャーバトンで拍子を刻む【杜若】がグラウンドのトラックを歩いていく動きに合わせ、行進曲を演奏しながら行進する下級士官たちはいっそ壮観だ。
 トラックを大きく半周して朝礼台の正面に【杜若】が歩を進めれば、そのうしろに楽器を持った下級士官たちが整列するまで軍隊式の規則正しい行進は続き、定位置らしき場所についても号令がかかるまでは足を止められないのか、その場で洗練された足踏みを繰り返している。
 行進曲が終わると同時に指揮者がホイッスルを吹けば、キレのある動きで足を揃えて見事に揃った敬礼をした。
 朝礼台の上の指揮者がふたたびホイッスルを吹き、タクトで拍子を変えればその通りのリズムで別の曲の演奏が始まる。それは誰もが聞いたことのある国民的なアニメのメインテーマで、未来の地球から広大な宇宙へと地球の命運をかけて飛び立っていく宇宙戦艦が自然と思い浮かんだ。
 その曲に合わせて鼓笛隊とでも表現すべき楽器を持った下級士官たちは演奏をしながら行進し、決められたフォーメーションへと次々に移動していく。
 演奏を率いる【杜若】はと言えば、メジャーバトンでの華麗かつ優雅なトワーリングを披露しながら行進を続けるという実に高度なことを行っていた。
 演奏部隊の指揮を兼ねる立場であるドラムメジャーとして【杜若】が存在しているのに、わざわざ朝礼台の上にも指揮者を置いたのは肝心のドラムメジャーが部隊を率いながらもメジャーバトンを器用に操り踊っているためだろう。
 高くトスを上げ、まるでバレエのように舞い踊りながら落ちてくるバトンをキャッチし、さらに手を伸ばして体の周りでバトンを大きく回転させている。
 本来ならば拍子を取るためのメジャーバトンで高難度のトワーリングの技を次々に披露しながら、それでも部隊を先導して行進は続けていく【杜若】は一流の演技者と評しても過言ではない。
 そして曲のクライマックスに差し掛かり、ふたたび【杜若】を筆頭に部隊はグラウンドの正面に向けて整列する。最後の一音と共に【杜若】が大きくメジャーバトンを放り投げ、くるくるとその場で回転したあとそれを受け止めた。
 曲が終わり、遙か彼方の宇宙へ旅立っていく宇宙戦艦の勇壮な幻影が消えると指揮者はタクトを下ろす。朝礼台の上に乗ったままタクトを足元に置き、代わりに小走りでやって来た真っ白な詰め襟服にフレアスカート、膝丈のブーツに軍帽という出で立ちの少女から黒いケースを受け取った。
 その間に【杜若】率いる部隊は次に備えて陣形を整える。メジャーバトンで次々と示される定位置に、演奏部隊の下級士官たちが配置されていく。
 グラウンドの左右から、紺色の大きなフラッグを持った少年と少女がそれぞれ飛び出してきて【杜若】に向かって敬礼をした。
 片方はまだ幼さの残る少女で、純白の丈の短い詰め襟服の上着に膝丈のふわりと広がるレース付きのスカート、軍帽をかぶり膝丈ブーツ姿のその姿は【真珠】だった。
 もう片方の青みを帯びた緑を基調とした詰め襟服の上下と軍靴、それに同色の軍帽姿の少年は【常盤】だ。
 二人はフラッグを構え、直立不動の体勢を取った。
 グラウンドでそんなパフォーマンスが行われていた間に、いつの間にか朝礼台の上にはバイオリンを構える指揮者の姿があった。指揮者だったはずの彼も、演奏部隊の構成員なのかもしれない。
 高く掲げられた【杜若】のメジャーバトンがスッと拍子を刻むように下ろされた瞬間、次の曲が始まった。速いテンポで鳴りだしたその曲は、遙かな未来に人類に成り代わって世界の支配者となった巨人に対し、蹂躙(じゅうりん)されるばかりの弱者に成り果てた人類が一矢報いることを掲げた有名なアニメのメインテーマだ。燃え盛る狩人の矢を思い浮かべるその曲の主旋律を奏でるのはバイオリン。音楽に合わせ、再び演奏しながらのフォーメーションが始まった。
 曲と共に行進を始めた演奏部隊の隙間を縫うようにして、グラウンドの四方からえんじ色のフラッグを手にした人影が勢いよく走り込んでくる。四つの人影のうちシルエットから少年だと思われる三つの人影はそれぞれ赤、漆黒、黄色のヒーロースーツを、そして紅一点と思われる人影はピンクのヒーロースーツを身にまとっていた。カラーリングから【ジャスティスレッド】、【ジャスティスブラック】、【ジャスティスイエロー】、【ジャスティスピンク】だろう。
 激しく動き合う二色のフラッグはまるで戦っているようにも見えた。
 【杜若】がメジャーバトンをトスするのに合わせるように、彼らもまたフラッグを大きくはためかせ、時には投げる。
 【真珠】と【ジャスティスピンク】、そして【常盤】と【ジャスティスイエロー】がそれぞれ自分たちの持つフラッグをまるで剣でも交えているかのようにクロスして掲げ、対峙しながら行進を始めた。
 グラウンドの中央付近では【ジャスティスレッド】と【ジャスティスブラック】が自らの持つえんじ色のフラッグを棒術武器のように操り、洗練された演武のごとき踊りを繰り広げている。その合間を縫って【杜若】はメジャーバトンを操りながら軽やかに舞った。
 【ジャスティスレッド】と【ジャスティスブラック】が曲のクライマックスに合わせて大きくフラッグを振りかぶり、それが振り下ろされる瞬間にフラッグの隙間から飛び出した【杜若】が高くメジャーバトンを放り投げる。それが降ってくる高さに合わせ、【ジャスティスレッド】と【ジャスティスブラック】もフラッグを交差するように高く投げた。
 最後の音と共に、【杜若】はメジャーバトンを、【ジャスティスレッド】と【ジャスティスブラック】はそれぞれ相手が投げたフラッグをキャッチする。
 人類の敵である巨人が駆逐される幻影を見ながら、演奏が終わった。
 指揮者がまたタクトを取り、ホイッスルを吹き鳴らす。隊列を取り直した演奏部隊に向けてタクトが振られる。ドラムが刻みだしたリズムはこれもまた誰もが耳にしたことがある、アンドロイドが未来の抵抗軍に関係する存在を抹殺するために現代に送られ、人類側が抹殺から逃れるために死闘するという内容の映画のメインテーマであった。重厚なその曲と共に、トラックを行進しながら演奏部隊は退場門へと消えていく。
 そこで映像は終了した。テレビの電源を落とす小笠原の背中に向け、望美は声をかける。
「初代【杜若】がやっていたことをしろ、と理事長はおっしゃるのですね?」
「ええ、そうです」
 にこやかにうなずいた小笠原に、お言葉ですが、と望美は返した。
「わたしはバトントワリングなどしたことはないので、あのような芸当はできないと思うのですが」
「では習ってみるのはどうでしょう?」
 意外な言葉に望美は目を見開く。習う? 誰に?
 望美の表情からその考えを読み取ったのだろう、笑みを深くした小笠原がテレビへと視線を向ける。その画面に今は何も映っていないが、先ほどまでは演奏部隊を指揮する初代【杜若】の姿が映されていた。
 それに、なるほど、と望美はうなずく。ようするに、彼は初代【杜若】から習ってこいと言っているわけである。
「了解しました」
 そう言って立ち上がると、小笠原に向けて一礼して部屋を辞する。残された小笠原はひどく満足そうな顔でほほえみ、デッキからDVDを取り出すとトールケースにしまって元のように戸棚に納めた。


 階段を上がって三階まで戻ってくると、望美は生徒会室を行き過ぎて国語科準備室の前に立った。とんとん、と軽く扉をノックすると、はいはい、という声と共に扉が開けられる。顔を出したのは土屋だった。
「あれ、在原さん? 何か用ですか?」
「忍足先生はいらっしゃいますでしょうか?」
「瑞貴さんですね、いますよ」
 ちょっと待ってくださいね、と言いながら土屋が顔を引っ込める。しばらくすると代わりに忍足が廊下に出てきた。
「何か用?」
「少々バトントワリングをご教授願いたいのですが」
 唐突すぎる望美の言葉に忍足はぱちりとまばたきした。不思議そうな顔で口を開く。
「何がどうしてそうなったのか、経緯を説明してくれるかな」
 もっともなその発言に、望美は周囲を確認した。幸いにも生徒や教師の姿は見当たらない。
「文化祭のイベント戦闘で吹奏楽部と協力してマーチングを行うこととなり、自分がドラムメジャーを拝命しました」
「……なるほどね。それで、どうして僕のところに?」
 普通に考えたらバトン部に行くべきじゃない? そう首を傾げた忍足に、望美は言葉を続ける。
「理事長に、初代が体育祭でマーチングを行っている映像を見せていただきました」
 それに忍足が押し黙った。呆れているのか困っているのか判別のつかない顔でため息をつく。
「聞くけど、僕がまだ踊れると思ってるの?」
 あれ、十年前の話だよ? そう首を傾げた忍足に、望美は力強くうなずいた。
「踊れると思っています」
「わかった、教えるよ」
 あっさりうなずくと、忍足は準備室のドアを開け、中に向けて少し出てくる、と声をかけた。
「じゃあとりあえず駐輪場で練習しようか。先に行っててくれる? 僕は一度バトン部に行ってバトン借りてくる」
 そう言ったところで、あ、と思い出したように声を上げた。
「体操服に着替えてきてくれるかな。足を高く上げて歩く練習するから」
「了解しました」
 望美の言葉にうなずくと、忍足は階段を下りていった。望美も生徒会室に一言断りを入れてから体操服を取りに自分の教室へと向かう。


 着替えて駐輪場で待つことしばし、やって来た忍足はなぜか長袖シャツにハーフパンツという出で立ちの女子生徒の集団を連れてきた。
「瑞貴ちゃん本当に演技指導とかできるの?」
「それ以前にバトントワリングなんてできるんですかー?」
 口々にそう言うところから察するに、彼女らはバトン部の生徒なのだろう。忍足が望美に指導するということを聞き及び、本当に彼が指導などできるのか興味本位でついてきた、というところではないだろうか。
 忍足はため息をつくと、二本持っていたバトンのうち棒の片側に丸い球のようなものがつき、反対側に房飾りのある方を望美に差し出した。
「ちょっと持ってて」
 そう言うと、忍足は普通のバトンの方を手に取った。感触を確かめるように投げ上げて受け取る。小さくうなずくと、今度は高く投げ上げてその場でくるりと三回転する。落ちてきたバトンを胸のあたりで受け取ると、続けて投げ上げた。今度は側転し、落ちてきたところを右腕で受け止めるとそのまま腕の上でくるくると回転させる。右腕から左腕まで、回転させたまま腕を伝わせる。左手でバトンを受け取ると、横に回転させながら投げ上げて右手で受け止めた。
「まぁ、こんな感じかな」
 そう言った忍足に、生徒たちがわっと歓声を上げた。すごいすごいと声を上げる。それに声には出さないものの望美も同意した。忍足がバトンを操れることは知っていたが、実際に目にしてまた驚きが新たになったのだ。何より、スーツを着たままあんな芸当ができるあたりがすごい。
「納得したなら、きみたちは練習に戻って。僕もやることがあるんだから」
 その忍足の言葉に、名残惜しそうにしながらも生徒たちはおとなしく従って校舎へと戻っていった。
「さて、それじゃ練習を始めるんだけど……」
 言いながら、忍足は望美からバトンを受け取った。代わりに今まで自分が操っていたバトンを渡す。
「構えはこう」
 右手でバトンの下から三分の一ほどの位置でライフルを構えるかのように斜めに持ち、左手は腰の位置に当てた。
「で、八歩で五メートル歩く、これがマーチングの基本動作」
 言いながら、彼はすたすたと大股で八歩歩いてみせた。一歩が子どもの肩幅より広い。
「そこからここまで、そのポーズのまま八歩で歩いてみて」
 言われてやってみるが、なかなか八歩で忍足の位置までたどり着くことができない。歩幅に注意を向けすぎれば姿勢が崩れ、姿勢を気にすれば歩幅が小さくなる。最初はなかなかうまくいかなかったが、何度も繰り返すうちにだんだんとコツが掴めてきた。
「うん、じゃあその構えと歩幅のまま、駐輪場の端から端まで往復してみて。あ、バトンはこれに変えてね」
 そう言って持たされたのは飾りのあるバトンだった。映像の中の【杜若】が操っていた指揮杖だと、改めて持ってみて気が付いた。重さは五百ミリリットルのペットボトルよりもやや重いかという程度で見た目から想像するほど重くはなかったが、先ほどまで持っていたバトンとは重心の位置が違うのかやや持ちづらい。
 苦心しながら構えを取り、まずは八歩歩いてみる。五メートルを刻む歩幅を物にできていたのか、忍足のいる位置までたどり着くことができた。なので、そのまま残りの位置を歩ききる。
 忍足は基本は見ているだけだったが、時折姿勢に関して注意を入れてきた。
「今日はこのくらいにしておこうか。明日からは、体操服じゃなくてさっきのバトン部の子たちみたいな服を用意してきてね」
「はい、ありがとうございました」
 ぺこりと一礼すると、忍足はしまってくるから、と言って望美からバトンを受け取った。


 ドラムメジャーの本格的な指導に入る前に、当然ながら単純にバトンの扱いやそれに沿った身のこなしを覚えなくてはならない。バトン部の部員たちとは違って本格的な新体操のような床運動の動きは必要ないが、バレエの基礎のような動きやしなやかな動きなどを身体に叩き込むことから始めることとなった。それができなければバトンを操って踊ろうだなんて到底無理だと言われてしまえば、望美は必死になってそれを身に着けるしかなく、結果的には指導者である忍足が驚くほどに早い上達を見せた。
 しかしいざバトンの扱いとなった途端、望美は大きな苦労を強いられることとなった。
 たとえばトスの練習。ただ上空に放り投げて取るという動作だけで、忍足がやってみせたような更なる動きの追加はないというのに、落ちてくる場所が自分の手元ではなくて数歩離れたところであったり、あるいは頭の上であったりもした。
 ほかにもくるくるとバトンを回転させる基本的な動作であっても、重心の位置をテーピングして合わせているのに回しているうちにどんどんズレてしまって結局手から落としてしまうということも多々あった。
 ほんの少しできるようになったところで試しにメジャーバトンなる実際に使用する指揮杖に変えてみれば、当然ながら重みも重心もまったく違うせいでさっぱり操ることができなかった。
 それでも、望美は連日練習に励んだのであった。
製作者:篠宮雷歌