異世界召喚されずに乙女ゲーに組み込まれたようです 4

―――夢。
そう、夢を見ていると思いたい光景だった。
「まさに奇跡的な出逢いだね。どうかな、可愛いお嬢さん、ひとつ私と劇的な心中でもしてみないかい?」
カフェの奥まった半個室の空間で、見目麗しい20代前半と思われる細身の青年が、何故か片膝を立てて物語の騎士のように(かしず)いて女子高生の手を(うやうや)しく眼前に掲げているという、何ともシュールな光景が広がっている。手を取られる形で、微笑みを貼りつけ困惑しているのは唯音で、半個室の席には、片側に陽菜と綾香が大人しくちょこんと座っており、反対側には小太郎が座っていた。闖入者(ちんにゅうしゃ)とも言える青年の奇行に、陽菜は困惑の様子を見せ、綾香は完全に呆れた表情を浮かべ、そして小太郎は無表情のまま視線を逸らし、珈琲(コーヒー)(たしな)んでいる。三者三様に我関せずを決め込んでいるが、それはつまり得体の知れない相手ではなく、よく知っているからこそ()えて放って置いているという意志表示に等しい。
そもそも事の発端は、10分少々(さかのぼ)る。
校門前で待ち合わせ、仲良く4人連れだって予定通り駅前のカフェに向かった。そこまでは、何の問題も無かったのだが、その闖入者とはまさしくカフェの入口で遭遇したのである。その怪人物は、一見すれば憂いを帯びた(かげ)のある美青年という表現が実にしっくりくる外見で、カジュアルなシャツにベストとジャケット、スラックスと言った私服なのか仕事着なのか少し悩む服装で、何故か両手首に真っ白な包帯が見える以外、特に変わった所のない出で立ちだった。唯音はその人物を見かけた時、妙な既視感(デジャヴ)に囚われ、さてどこで出逢った相手だろうと記憶を辿りかけたところで、その人物が4人の方に視線を向けたのである。
「あれぇ?学校帰りにこんな場所に寄るなんて、不良だねぇ?」
見知った顔に向けて、青年は柔和な笑みに少しだけ瞳に冷たい光を(たた)えてそう言った。
「あ、先輩。こんなところで何してるんです?」
青年の声に応えるように、陽菜がきょとんとした表情で小さく首を傾げる。既知の間柄だと容易にしれる気安い様子に、その隣で声を掛けるのを止めそこなった綾香が深々と溜息を零す。
「ハル…馬鹿、他人のフリをしておけばいいものを…」
呆れ交じりに呟いた綾香の声は、どうやら青年にも届いたらしく一瞬だけ視線を向けたが、何か声を掛ける事はなかった。
「いやぁ、猫の黒ちゃんを探していてね?そしたら素敵なカフェがあるじゃないか。立ち寄ろうと思ったところで、陽菜ちゃんたちが来たんだよ」
穏やかそうな声に、柔らかい笑顔で青年はそう言って順番に視線を向けていく。話をしていた陽菜には柔らかい瞳を向け、次いで綾香に一瞬だけ冷めた瞳を向け、そして小太郎には穏やかな瞳を向け、それから最後に唯音に視線を向ける。既知と知れる3人が、言外に白々しいとでも言いたげに青年に視線を向けていたので、もしかすると青年はここで誰かを待ち構えていたのかもしれないと唯音は勝手に推測した。視線が交わった瞬間、唯音はやはり何処かで見た事のある青年だと確信はしたが、何故かその邂逅(かいこう)が思い出せずに機械的に会釈を返し小さく笑みを浮かべる。
「それにしてもきみたちも隅に置けないねぇ?こんな可愛らしいお嬢さんとお茶だなんて。ぜひ私も混ぜてくれないかなぁ?当然私が奢ってあげるからさぁ」
青年はそう言って、勝手に同席を決め込み、カフェのドアを開けて4人を招き入れた。
「奢っていただく理由はありませんよぉ?」
状況の割には動じていない唯音はと言えば、同席は断らなかったもののやんわりとお金を出して貰う事は断って大人しく店の中に足を踏み入れる。本心の読めないアルカイックスマイルを浮かべている唯音に、1年生女子コンビは「大人だ…」と小さく呟いた。
修治(しゅうじ)さん、初対面であまりにも普段通りだと普通は引かれますよ。あとご馳走様です」
自分もちゃっかり奢られるつもりの小太郎が、普段通りの無表情でやんわりとそう告げる。一応申し訳程度に頭を下げているので、本気で青年に金を出させる気なのだろう。
「小太郎くんも?まぁ構わないけれどね。ほらほら、早く席に行こうじゃないか」
軽い苦笑で応じながら、青年は小太郎の分も奢る旨を了承し、奥まった半個室へと勝手に先導していった。
今更回れ右をするワケにもいかず、女性陣3人は軽く顔を見合わせてからその後へ続く。
先導されるままにあれよあれよと注文を済ませ、程なくしてそれぞれが頼んだ物がテーブルに並び、そして改めて自己紹介でもという流れになった。そこまでには、多少の強引さは否めないものの、大して珍妙な出来事もなく、そして1年生女子コンビ、小太郎、唯音の順で各々が名乗る。別のおかしなことはない普通の流れだったのだが、青年は芝居がかった動作でソファから立ち上がると、己の魅力を熟知しているとしか思えない笑みを浮かべて唯音だけに視線を向けた。
「可愛らしいお嬢さん、私の名前は(さかき)修治(しゅうじ)。一応、新社会人だよ。お見知りおきを?」
外見が整っているからこそ許される芝居がかった様子で、唯音の真横まで行ってからわざわざ名乗りを上げる。
「はい、よろしくお願いしますねぇ」
余所行きのアルカイックスマイルを貼りつけ、唯音は軽く小首を傾げてソファの横に立つ長身の青年、修治を見上げた。内心では「どうしてこうなった」と嘆いてはいるが、日ごろからの訓練の賜物か、表情に動揺を出す事はない。
柔和な笑みを浮かべたまま、修治はごく自然な動作で唯音の手を取ったかと思うと、実に優雅な所作でソファから立ち上がることを求めた。求められるまま、下手に抵抗しても面倒だと感じた唯音は素直に立ち上がった。
そして、冒頭の出来事に至った訳だ。
「出逢いは別に劇的でも無ければ、見ず知らず同然の方から心中に誘われる理由も無いんですけれど、可愛いと言う評価だけは有難く頂戴しますね」
にっこり、ときらきらしい笑みを浮かべる修治に負けないくらいの笑顔を浮かべ、唯音はキッパリとそう言い切った。一瞬、サイコさんかと疑いそうになったのだが、クラスメイトの小太郎と部活の後輩である陽菜と綾香の知り合いという事を(かんが)みて、もしかするとただの愉快犯かもしれないと少しだけ警戒しながら様子を窺う。
「いやぁ、私の今年の目標が一日一自殺でねぇ。今日の分はまだなので、せっかくお知り合いになれた可愛らしいお嬢さんとご一緒出来ればと思ったのだけれどね」
にこにこと素敵な笑顔を浮かべたまま、修治はそう言ってそっと唯音の手の甲に触れるだけのキスを落とす。
「先輩!いきなり唯音さんを冗談で混乱させないでください!」
このメンバーの中では最も常識人というか、理性的で直情的な陽菜がこれ以上妙な事を口走るなという威力を込めて、修治に向けて少しだけ声を荒げた。
「いやいや、私は何時だって本気だよ?陽菜君もよく知ってるじゃないか」
詰め寄る勢いで語調を荒げた陽菜に対し、何処吹く風と暢気な口調で応える修治は対称的だが、見た目の年齢差の関係で駄々をこねる少女を宥める青年の図に見えてしまう。実際にはより理性的な発言をしているのが少女であるというのが実態ではあるのだが。
「一日一自殺ですかぁ。それはまた、愉快な年間目標ですねぇ。失敗し続けた場合にはつまり1年間で365回の試行ですし、毎回異なる手段を講じた場合には、それはもう1冊のマニュアル本の完成ですねぇ」
しかし、陽菜の予想を1番裏切ったのは、陽菜が庇ったハズの唯音の発言だった。唯音は実に楽しそうな笑顔を浮かべ、まるで夕食のレシピ本を作るかのような朗らかさと僅かな恍惚(こうこつ)(にじ)ませふわりと笑って見せる。ここまで来れば、もう悪ノリしてしまった方が後々楽かもしれないという状況判断だ。
「おや、まさか同好の士がこんな所にいようとは。やはり心中は運命だねぇ。私は無神論者だが、これぞ神の采配というのかもしれないねぇ」
唯音の言葉に気を()くしたのか、修治は心からとしか思えない柔らかな笑みを浮かべ、大仰に何度も頷き、自然な動作でソファに座るように促した。エスコートとしては完璧な所作なのだが、いかんせん発言の突飛さが際立ってしまう所為(せい)で普通に考えれば憧れよりもドン引きが先に来てしまう。
「あくまでも知的好奇心故ですけれど、かの有名なマニュアル本を愛読書の1つにはしておりますもの」
促されるままに優雅な所作でソファに納まった唯音は、(まと)う衣装こそ高校の制服ではあるが、まるで晩餐会(パーティ)にでも招かれた令嬢のように微笑んでそう言った。唯音の言うかの有名なマニュアル本とは、その存在を知っている人間にとってはごく自然な流れで何を指すか明らかで発刊されてすぐに様々な物議を呼んだ『如何(いか)にすれば人は死に至るか』を事例を踏まえて事細かに記した自殺愛好者にとっての聖典(バイブル)のようなものである。勿論正常な思考で知的探求心を満たす目的で購入する人間が大半であるし、その本の著者からして決して自死を推奨する意図はないと明記しているのだが、それでも自死を目的として購入する人間が少なからずいた為に、現在では絶版、一部では回収、図書館によっては置かないといった措置を取られた本だった。
「その本は私の愛読書だからねぇ。こうして長閑(のどか)な夕暮れ時に可愛らしいお嬢さんとこんな有意義な談義が出来るとは、今日こそ成功するという天啓かもしれないね」
何時までも立っているのは人目を引くと思ったのか、ソファに落ち着いて珈琲を啜っていた修治も、やはり一日一自殺などという巫山戯(ふざけ)た抱負を掲げているだけあって、唯音が(ぼか)して挙げた書籍を愛読書としているとあっさり頷く。それどころか、テーブルの上で唯音に握手を求めるように手を差し出した。袖から覗く白く眩しい包帯も、この会話の後であれば所謂(いわゆる)自傷なのだろうかと疑わない方が難しい。
「成功してしまったら、自殺愛好家としてはもう他の手法を試せないという意味では喜ばしくないんじゃないですかぁ?それに、断言しますよ。アナタは今日は絶対失敗します」
会話内容さえ聞こえなければ優雅に談笑しているような表情で、唯音はきっぱりと言い切った。
「おや、どうしてそう思うんだい?流石の私も失敗続きで(へこ)んでいてね?そろそろ成功させたい所なのだよ?」
自殺を、という目的語を省いて話す修治の表情は、実に優し気で穏やかに見える。決して自殺に憧れているような青年には見えないのだが、しかして彼が省いた目的語は間違いなく自殺であった。
「今日、このままの流れで成功されてしまうと、私たちは自殺幇助(ほうじょ)という罪に問われちゃいますからねぇ。それはもう、どのような手段であっても妨害しますよぉ?勿論、あの教本のお蔭で応急処置もバッチリですし」
にっこりと感情を読ませない笑みを浮かべ、唯音はさらりと失敗する理由を述べる。確実に自殺をすると解っている人間をそうと知りながら何の手段も(こう)じなかったというのは、見殺した事と変わらないという判決が下らないとも限らない。唯音が言っているのは、そういった自衛であって、決して尊い人命が失われる事が問題だと言ってはいなかった。その時点でかなりの問題発言ではあるのだが、修治には正しい意図が伝わったらしい。
「今日は降参しておこう。そんな理由で妨害されてしまうと、他人に迷惑を掛けないクリーンな自殺をモットーとしている私としては強行出来ないからねぇ」
修治は芝居がかった動作で諸手を上げ、降参のポーズを示す。死にたいという人間に、死んではいけない、生きていれば良い事が云々の精神論や、人命の尊さをどれだけ説いても無駄である。追い詰められ他に手段がなくて死ぬしか解放されないと凝り固まってしまった訳ではなく、あくまでも趣味と称して死にたがっている人間に、一般的な説得方法など無意味でしかない。何せそういった一般的な、死んではいけない等の一般論に対しての言い返す内容程度は用意してあるのである。しかしながら、唯音の主張は、自分が迷惑を被るので止めて頂きたいという、死ぬこと自体を止める事ではなく、自身に火の粉が降りかかるのが嫌だという、人道から外れた内容であった。要するに我儘(わがまま)である。そんな我儘で自殺を止める言葉など、修治は過去に1度も聞いた事がなく、何故かその自己中とも思える発言が心地よく感じてしまったのだった。
「死体が残る以上、クリーンな自殺は理論上不可能なんですけどねぇ。自分で骨まで溶かす薬品にでも飛び込みますかぁ?もっとも、その薬品がその後使用不能になってソレはソレで迷惑かもしれないですけど」
どこまでも物騒に、しかしどこまでも朗らかな笑顔で、唯音は変わらず笑みを浮かべている。
その様子を、ただただ見守るしか出来なかった憐れな1年生の少女たちは、顔を見合わせた後、「強い…」と声に出さずに呟いて引き()った笑みを浮かべた。さらにそれを含めた一連の全てを、完全に無関係な傍観者として眺めていた小太郎は、やはり何処までも無表情ではあったが、少しだけ興味深そうに瞳をキラリと光らせる。小太郎からしてみれば、修治の戯言にあのような切り返しをする人間がいたとは…という一種の感嘆と、そんな会話を平然と交わす彼らの精神は果たして正常なのだろうかという疑問が沸いたのだが、終始和やかに物騒な言葉を交わす彼らはあくまでも穏やかであり、それこそ明日の天気の話をするような暢気(のんき)さに見え、止めるのも馬鹿馬鹿しいと放って置いたのだった。

「有意義な時間をありがとうございましたぁ」
果たして本当に有意義かはさて置き、和やかに生産性が欠片もない話をしていた彼らは、そろそろ時間だと言う小太郎の用事に合わせて店を出る。カフェを出て入口から数歩逸れた所で、唯音はそう笑って軽く会釈程度に頭を下げて手を振った。
「いやいや、此方(こちら)こそ。実に有意義だったよ、お嬢さん」
片手をジャケットのポケットに突っ込み、もう片方の手を軽く掲げて応じる修治も、柔らかな笑みを崩さない。
「修治さん、謀りましたね」
しかし、小太郎は相変わらずの無表情で、淡々とそう言った。帰宅の辞去の挨拶ではないし、ここで別れる筈の唯音に向けた言葉でもない。ただ、現在置かれている状況を的確に把握してのあくまでも確認に過ぎなかった。
「うぅ…なんで僕らまで…強制労働ですよ、これって」
盛大な溜息と共に、陽菜は恨みがましい目を修治に向けている。自分まで頭数に含まれているのか、と言いたげなジト目だった。
「陽菜くん、きみ、女の子なのだからせめて一人称の僕は止めなさい」
ジト目で睨まれている事も気に留めず、修治はやれやれと肩を竦めてそう言うと、ポンと陽菜の頭を軽く撫でる。
「あの…、その前に唯音さんまで巻き込まないで頂きたい。この手抜き突貫工事は誰の仕業ですか」
挑むような視線を修治に向け、綾香が少し強めの口調で詰め寄った。その瞳に、僅かに怯えが見え隠れするのは、2人の間に何等かの遣り取りがあった証拠だろう。
「手抜き突貫は酷い言われようだにゃ?俺はいつも通りきちんと囲ったんだがにゃー?」
口調だけは可愛らしく、けれども低い落ち着いた青年の声が、何処からか降って来た。直後、ひらりとカフェの屋根辺りから黒い小さな塊が地面に舞い降りる。綺麗な2回転捻りで地面に降り立ったのは、毛並みの美しい真っ黒な猫だった。
「えぇ!?黒さん!?本当に囲ったんですか!?部外者巻き込んじゃってますよ!」
現実世界で黒猫が平然と人語を発した事ではなく、囲ったという発言の方に問題を感じたらしい陽菜が慌てたように黒猫と唯音を交互に見やる。
「どう見ても囲ってあんだろ?周囲をちゃんと見てみろよ」
不機嫌そうに艶やかな尻尾を地面に打ち付け、黒猫は陽菜の方をふり仰ぐ。
「ふむ。確かに囲われてますね。ドアも開きませんし、窓も割れません」
落ちていた大きな石を拾い、小太郎は淡々とした表情のまま大きく振りかぶって窓ガラス目掛けて投げつけたのだが、窓は(たわ)みすらせずビクともしなかった。それどころか、出て来たばかりのカフェのドアは、押しても引いても微動だにしない。
「そうなのだよねぇ。何故か彼女も此方(こちら)側に入れてしまうようなのだよ。さて、如何(どう)しようか」
如何(どう)しようか、と考えている暇はないかと。捕捉されたようですが」
芝居がかった様子でのんびり肩を竦めて見せる修治に、綾香が横からそう声を掛ける。
「うわぁ、たくさんいますよ!?」
陽菜が悲鳴染みた大きな声で言う通り、陽菜や綾香の視界には、黒いもやもやした実体のないナニカが大量に(ひし)めいていた。不気味に(うごめ)くそのもやもやしたナニカは、科学の発達した現代では認識する事はおろか、存在するという事を()っている人間の方が圧倒的に少ない、アヤカシだとかバケモノだとか妖怪だとか呼称される存在だ。正確には、その成れの果てとでも言うべき、数は多く放って置いて寄り集まればそこそこの脅威には育つものの、単体では大して強くも無い、低級霊みたいなモノである。しかし、視界には軽く3桁に達するのではという数が(ひし)めいており、例えばこれらが徒党を組んで一斉に襲い掛かって来た場合、一般的な人間に及ぼす影響は、例えば精神疾患など引き起こした挙句の自殺などであり、そうやって死んだ人間もまた、その魂は死後そういった存在と同化してしまう。
陽菜が悲鳴を上げた理由は、数が多いから、だけではない。
「幾ら何でもこの数で無関係な一般人を護りきれるかと問われると難しい物がありますが」
綾香は陽菜の足らない言葉を補う形で、チラリと唯音に視線を向けた。
「そもそも、巻き込んでしまった時点で説明は必須、口止めも必須ですし。修治さん、どうします?」
あくまでも年長者に責任転嫁をしてしまう勢いで、小太郎は修治に問いかけるとクラスメイトである唯音に視線を向ける。
「…えっと…?」
何故かよく解らない状況で一身に視線を向けられる立場となった唯音はと言えば、ひたすら困惑したような表情で首を傾げた。唯音の視界には、ただの駅前の光景が広がっているだけである。陽菜や綾香の視界に映るような黒いもやもやしたナニカなど見えておらず、ただ時間が止まっているのかと錯覚する程、静止した風景が見えているだけだ。ぴくりとも揺らがない草木には流石に違和感を覚えるが、あくまでもその程度である。
「視えていないんですね。まあ俺にも視えないんですが」
困惑した表情で、きょとんと首を傾げている唯音を見て、小太郎は正確に状況を読み取ったらしい。普通、視界に(うごめ)く実体の不明な何かがあれば、正常な女子高生であれば怯えるだろう。視えずとも少しでも感知能力があれば、得体のしれない何かに対する恐怖を抱く事もある。けれど、唯音はそういう意味でもかなり鈍感に見えた。視えず、知覚する事もない、というのは、オカルト的な意味で絶縁体のような体質だ。しかし、知覚せずとも、防御能力もなく襲われたらひとたまりもないのだが、怯えて(わめ)かれるよりはマシだと敢えて考えないようにする。
「うーん、本当に視えていないようだねぇ。黒くん、如何(どう)しよっかぁ」
「それを考えんのは手前の仕事だろ?俺の仕事は囲う事とヒヨッコ達のフォローだけだしにゃー」
本当に考えているのか、それともそう見せているだけなのか、修治は腕を組んで傍らの黒猫に話しかけた。話を振られた黒猫は、器用に修治を見上げながら我関せずを貫く姿勢のようだ。
「わわっ!とりあえず、まとめてやっちゃいます!アヤ、行こう!」
「仕方ない…。後できちんと時間外強制労働分の手当ては貰いますよ」
持っていた通学用の鞄を地面に置くと、陽菜は黒いもやもやしたナニカが密集している方へと駆け出す。小さく溜息を吐くと、綾香も同じように鞄を地面に置いて陽菜を追いかけた。勢いよく飛び込んでいく陽菜とは対照的に、綾香は悠然と後ろから歩いて行くだけだが、それが彼女たちの人ならざるモノとの戦い方のセオリーだ。
素手のまま、黒いもやもやに殴り掛かり、蹴り飛ばすという物理攻撃によって文字通り吹き飛ばす陽菜と、どこから取り出したのか特殊なワイヤーを何本も同時に操り周囲一帯を()ぐ綾香ではあるが、決定的な殺傷力はどうやら陽菜の方が上で綾香の攻撃は主に援護であり、陽菜に襲い掛かってくるモノを引かせる為の行為らしい。(ほこ)の役割が陽菜、盾の役割が綾香といった所だろうか。その光景は、まるで舞踏のようであり、粗削りながらも将来はより洗練されていくだろうという展望を抱ける程だった。
「…きみ、割と動じないんだねぇ」
陽菜と綾香の様子を見守っていた修治だったが、ふと傍らに佇んだままの唯音に視線を向ければ、唯音はじぃっと黒猫を見つめている。
黒いもやもやしたナニカ、アヤカシと呼ばれる存在を視認出来ていないのが明らかであるのに、いきなり駆けだし何もない空間に向かって攻撃をしているようにしか見えない少女たちを見つめる唯音は、何故か動じているように見えなかった。
「いぇいぇ、コレでもそれなりに動じてるんですよぉ?ただ、ここまで現実離れしていると夢かと思いまして。…黒もふもふ、ちょっと触ってもイイですかね」
視線を感じて修治の方に顔だけを向けた唯音は、言葉通りに一応は戸惑いを覚えてはいるのだが、生来の性格故かある種の訓練の賜物か、動転して正気を失うという事はない。確かに予想していなかった展開に戸惑ってはいるものの、今はそれよりも重要な要素が唯音の思考の大半を占めている。
「黒もふもふって、黒くんの事かなぁ。本人が良いと言えば構わないんじゃないかなぁ」
本当に動じているように見えない唯音に、修治は本当に何も視えていないのだと確信し、苦笑しながら応じた。
「触っても?」
修治から、本人が良ければとの許可を得た唯音は、律儀にしゃがみ込むと可能な限り黒猫と視線を合わせようとし、そして真っ直ぐに黒猫を見て問いかける。この時点で、猫が日本語を理解すると信じているというか、回答を得られるのを確信しているのか、それとも夢だと割り切っているのか、様子だけでは周囲も判断を悩むところだ。
「…構わねえけど」
真っ直ぐと視線を向けられた黒猫はと言うと、やや戸惑った様子で視線を逸らしつつも触って良いとの許可を出す。何故、目の前の女子高生が猫と会話するという行動に疑問を覚えないのだろうかという僅かな困惑が揺らぐしっぽに現れていた。
「わぁ!ふっかふか!触り心地最高、ふっかふか…。にくきゅーもぷにぷに…」
許可が出たため、唯音は真っ直ぐに手を伸ばすと、ふわふわした毛並に触れる。触り心地のよい柔らかな毛に歓声を上げてふかふかと撫でたかと思えば、おもむろに片手を取り上げてその肉球に触れた。いきなり少しばかり行き過ぎのスキンシップであるが、無類の猫好きのように見える。
「佐倉さん、猫好きだったんですか」
その光景に、傍観者に徹していた小太郎は淡々と声を掛けた。
「猫に限らず、もふもふした生物は全部尊いよ?狼とか狐とか狸とか、この際ふかふかなら熊でもライオンでも(ぬえ)でも饕餮(とうてつ)でも猩々(しょうじょう)でも全部可愛いと思うの」
きらきらした瞳で、唯音は自説を語る。無類の猫好きではなく無類の毛物(けもの)好きらしく、ふかふかもふもふであれば凶暴な生物であっても気にしないらしい。しかし、彼女が述べたふかふか生物の後半は、有名な妖怪の名でもあるので、無節操すぎるもふもふ好きのようだ。
「…そうですか」
その回答には、流石の小太郎も少しばかり戸惑ったような表情で、呻くように呟く。
「黒くん、大人しく撫でまわされるの珍しいねぇ」
修治は、大人しくされるがままの黒猫の様子が意外だったのか、小さな苦笑と共にそう言った。
「…別に、此奴(こいつ)の触り方は悪くねえし」
憮然(ぶぜん)とした様子でそう言いながら、黒猫はゴロゴロと喉を鳴らす。黒猫にとって、唯音の撫で方というか、触れ方は心地よく、警戒心を抱かせない不思議な感覚だった。何故警戒せずに好きなようにさせているのか、その理由は知っているようで、思い出せない。
「おい、彼奴(あいつ)ら取りこぼしてんぞ?ったく…ちょっと離れとけ」
視線だけで陽菜と綾香の方を窺っていた黒猫が、何かに気付いたらしく撫でている唯音に声を掛けた。
「…ふわもこ…」
名残惜しそうにしながらも、唯音は大人しく撫でていた手を放し、立ち上がって1歩下がる。黒猫に言われたというのを疑いもせずに理解しているだけでなく、視えもしないのにこの状況判断力は異常というか、異様な適応能力の高さと言うか、その様子を修治はヒュウっと口笛を吹いて称賛した。
唯音の視界には映っていないが、陽菜と綾香が戦っている所謂(いわゆる)前線はあくまでも黒いアレが密集している場所であって、他に存在していない訳ではない。彼女等の攻撃を(まぬが)れた有象無象(うぞうむぞう)のナニカたちは、他に人が密集している場所を目掛けて本能のままに襲い掛かってこようとしているのだ。それを視認しているのは、修治と黒猫だけであって、本人の申告に基づくのなら唯音にも小太郎にも視えていない。けれど小太郎はその性質から知覚はしているようで、周囲に群がっている事は感覚で気付いていた。
「じゃあ佐倉さんはこちらに」
この場に戦闘員側の身内として立っているからには、小太郎には視えずとも対処は可能な程度の技能に覚えはある。基本的に相棒制であり、自身が普段組んでいるパートナーはこの場に存在しないが、別に個人でやってやれない事はない。その自負から、小太郎は進んで完全な部外者の保護の立場を買って出た。もちろん、クラスメイトであり同じ部活に所属する友人という立場からの純粋な好意でもある。
「はぁぃ」
さっぱり理解が及ばないハズの状況でありながら、唯音は素直だった。異を唱える事無く、示されるままに小太郎の傍らに立ち、視えもしないのに成り行きを眺めている。視えていないからか、僅かな不安もないという様子でただ佇んでいる様は、アヤカシと対峙する事に慣れた彼らの中にあって、妙に馴染んで見えた。
「ちゃんと護ってやっから、動くなよ」
黒猫は落ち着いた声に好戦的な色を微かに(にじ)ませ、そう言って地面を蹴って飛ぶ。宙でくるりと一回転したかと思えば、すらりと背の高い青年の姿へと転じていた。服装としては黒のTシャツに黒のダメージジーンズ、編み上げのデザートブーツにシルバーのアクセサリーだが、首元を飾る細いチェーンに揺れるのは軍などで見かけるようなネームタグだ。辛うじて全体的な色彩と目の色で黒猫と同一の存在と理解は出来るのだが、ここまでくるといっそ夢かと思う様な見事な展開に、普通の人間ならそろそろ思考停止をしているか発狂している。それか夢だと決めつけて何かしら突飛な行動をとっている頃だろう。
人当りの良さそうな柔和な笑みで事の成り行きを見守っている修治の瞳は、表情とは裏腹に冷めて鋭利な刃物のような凍てつくような温度だった。彼の視線の先には、戸惑う事もなく、けれども状況を正しく把握しているとは到底思えない様子で静かに(たたず)む唯音の姿がある。何故、この状況下でこんなにも自然体のままいられるのだろうか。その疑問が修治と、そして小太郎の脳裏に浮かんでいる。
陽菜と綾香が維持する戦線から漏れた有象無象たちは、美しく凶暴に舞う漆黒の爪に裂かれ無に帰していく。人の姿をしていても、黒猫は黒猫なのか、しなやかに跳び、宙を舞い、そして長く伸びた爪なのかそれとも爪から伸びる別のナニカなのか、鋭利なソレでひたすらに蹂躙(じゅうりん)し続ける。まだ(つたな)さを残す少女2人と比較して、まるで洗練された舞踏のようなその姿は、ただひたすらに美しい光景だった。


製作者:月森彩葉