異世界召喚されずに乙女ゲーに組み込まれたようです 5

―――夢。
そう、夢の中にいるような、不可思議な世界。
夢と(まが)う光景と、現実味だと知らしめる五感を刺激するあらゆる感覚。
それらが同居する世界から解放されたのは、その世界を織りなす人物たちが一仕事を終えてたらだった。
「さて、佐倉くん、と言ったかな。君には、悪いけれど書類にサインをして貰う必要があるんだ。一緒に来てもらえるかな」
柔らかな笑顔を貼りつけ、瞳にだけ冷たい色を湛えた修治が、唯音に真っ直ぐと手を差し出す。その傍らには人の姿を保ったままの黒猫、そして何時の間にか唯音の傍を離れた小太郎、それから人ならざるナニカを殲滅(せんめつ)し尽くした陽菜と綾香が立っていた。元黒猫現青年は、何故か慈しむような優しい瞳とシニカルな笑みでチラリと視線を向けているし、小太郎は相変わらずの無表情だし、陽菜は困ったように視線を彷徨(さまよ)わせているし、綾香は同情するような視線を向けている所為(せい)で、唯音は一体どういう表情をすれば正解だろうかと真剣に悩んいる。
確かな事は、このまま「また明日」と手を振って別れられないという事だけだと、唯音は正確に状況を把握していたが、だからと言って素直に頷く訳にもいかない事情があった。そもそも、唯音はこれからあまり大きな声では言えない類のバイトが控えているのだ。確実に今日決行しなければならない義務もないが、早く取り掛かるに越した事はないという種類のバイトである。しかし諸般の事情だけでなく守秘義務が課せられているような内容なので、彼らに明かすワケにもいかない為、唯音はひたすら状況に流されるしかなかった。
「…書類?サイン?」
何の事か理解が出来ないと、困惑の表情を浮かべて首を傾げるだけが、唯音に出来る唯一の回答だ。下手に勘ぐっては自分の首を絞めるだけだと、唯音はよく理解していた。
「そう。今日見た事を口外しない、とね。ああ、改めて自己紹介をしておこうかな。私の名前は榊修治、さっきも名乗ったけれどね」
茶目っ気たっぷりの表情に、目だけが笑っていない。まるで映画の1シーン、マフィア幹部がうっかり取引を見てしまった(あわ)れな一般市民に向けるような、有無を言わせない圧力を感じさせる柔らかくて冷たい表情だった。
帝都観光(ていとかんこう)の、幹部の1人だよ」
にっこりという表現がしっくりくる表情で、修治はそう告げる。
改めてと前置きをするだけあって、修治の発言は唯音に小さくない驚きと納得を与えるものだった。
帝都観光というのは、この地域に本社を構える全国規模の旅行代理店である。その名の通り各地の観光プランをニーズに沿って組み立ててくれるその筋で有名な企業だ。どんなプランを依頼しても、提示された金額を支払えば叶えられるという噂の、ホワイトなのかブラックなのか不透明なグレーという評価の会社として、良い意味でも悪い意味でも名の知れた会社だ。
「…幹部?」
普通、企業のそれなりのポストであれば、幹部などという言い方はせず、役員だとか役職持ちだとか、管理職だとかそういった言い方をする。幹部などという言い方から連想するのは、裏社会だとかマフィアだとか、とにかく合法的ではない組織だろう。だから、唯音は不思議そうに目を瞬かせ、ただ首を傾げるだけだった。
「その説明もしなければならないねぇ?さて、それじゃあついてきてくれるかい?ああ、くれぐれも逃げようなんてしないでくれたまえ」
にこにこと朗らかに、修治はそう言って先導するべく歩き出す。
「…申し訳ありません、唯音さん。巻き込んでしまって恐縮ですが、ご自身の安全の為にご同行頂くことを推奨します」
「ごめんなさい!あの、危害は加えませんから…。頑張って僕が守りますし」
不信感を出来るだけ与えないようにという配慮なのか、綾香がすかさず隣まで来てフォローの言葉を口にした。陽菜も反対側に回り込み、安心させるようにと必死に訴える。
せっかく仲良くなれた学校の先輩に嫌われるのが怖いのか、彼女たちの訴える瞳は真っ直ぐで、含むところは何もないと真摯(しんし)に訴えている。
「…えっと、よく解らないんだけど、着いて行けイイのかなぁ」
しかし、年下から気を遣われた立場の唯音はと言えば、普通は不信感を(あら)わにする場面でただ不思議そうに首を傾げているだけだ。そこに、可愛い後輩たちへの不信感は欠片も感じられない。それどころか、少しばかり楽しそうに見える程だ。
「おら、とっとと行くぞガキ共」
その様子を眺めていた黒猫の青年は、先導していく修治の背を指して歩けと促した。逃げられないようにという訳では無さそうだが、どうやら後ろからついて歩くつもりらしい。
そうして、先導されるままに連れていかれたのは、何てことはない、駅からなんと徒歩15分程の、近場の大きな駅から数分で着くような大きなオフィスビルだった。
看板には『帝都観光』としっかり明記してある。自動ドアを潜ってエントランスに足を踏み入れれば、企業のエントランスらしく総合受付が存在しており、企業の制服に身を包んだ綺麗な女性が座っていた。
「おかえりなさい…?お客様ですか?」
受付の女性は、連れだって奥へ歩いて行く集団の中から目敏く唯音を見つけ、先導している修治に声を掛ける。
「私と黒くんの個人的なお客様だから報告も記帳も必要ないよ。それより、奏多くんは本部内にいる?」
「はい、少々お待ちください。………ええ、はい、本部内に居られる筈です」
言外に詮索するなと制し、修治は受付の女性にこれから関係のある人物の所在を尋ねた。受付は、幹部を名乗る修治に言われては詮索する事も出来ず、機械的に問われた内容について即座に調べ、外出記録がない事を確認してそれを伝える。
「ありがとう」
これ以上の会話は不要と、修治はさっさと奥へと進んで行く。来客者も従業員も等しく使えるエレベーターに乗り込み、上層階のボタンを押して全員がエレベーターに乗り込むのを待った。上層階、25階建てのビルは然程都会でも無いこの辺りでは珍しく、修治が押したのは23階と言うかなり高い階だ。
エレベーターでは逃げ場もないし、連れていかれる先から飛び降りるのは流石に無理があると冷静に考えながら、しかし危害を加えられる事も恐らくないと唯音は冷静に考える。自分の身の安全よりも、優先して考えるべきなのは如何(いか)にして身内に状況を伝えるかであったが、この状況下で家に連絡を入れたいと言い出せるハズもない。さてどうしようかと唯音は困惑の表情を張り付けた裏で、それなりに真剣に考えていた。
「さて、着いたよ」
何時の間にかエレベーターは目的の階に着いたらしく、修治の先導で順番に小さな箱の中から降りていく。オフィスビルの、恐らく役員室などが並ぶフロアなのだろう。床には絨毯が敷かれ、廊下の調度品も高価そうな物が並んでいる。調度品の間に隠れるようにして並ぶドアも重厚な造りで、このフロアに立ち入るにはそれなり以上の肩書が必要なのだろうと(うかが)わせた。
先導されるままに、奥まったある一室に通された所で、唯音はわざと詰めていた息を深く吐いてほっと胸を撫で下ろす。まるで企業の役員室のような造りの部屋は、廊下側の入口の他に隣室へと続くドアがあった。廊下で見た扉と扉の間隔から推測するなら、隣室からは廊下へ出るドアは存在しないので、単純に続きの部屋だろうと推測できる。大きなマホガニー製の重厚そうな執務机一式に、高価層なアンティーク調の応接セットの置かれたこの部屋は、成程確かに企業役員室のように見えた。
「…花瓶とか絵画とか高そうで緊張したぁ…」
「危害は絶対に加えさせないですからね!」
「ええ、それだけは保証します」
苦笑交じりで独り言のように零した唯音に、陽菜と綾香はどこか申し訳なさそうな表情を浮かべて交互に声を掛ける。
「それじゃあ早速だけど、そこに座ってくれるかな?今、飲み物でも運ばせるから待っててね」
一見優し気で人当りの良さそうな笑みを張り付けたままの修治はそう言うと、応接セットを指して有無を言わせずに座らせる。それから執務机の上に置かれた備え付けの電話から受話器を取り上げた。
「ああ奏多くん?お客様だから7人分のお茶とお菓子持って私の部屋まで来てくれるかな」
修治は電話越しに誰かに指示を出したらしく、二、三言葉を交わして受話器を置く。そのまま、応接セットの前で困惑の表情のまま所在無げに立っている唯音と、そんな唯音の側を離れない陽菜と綾香にも身振りで座るように示した。示されたのは窓を背にする上座側で、中央に唯音を挟み左に陽菜、右に綾香がちょこんと座っている。その正面、下座側の1人掛けのソファには修治だけが腰を下ろし、黒猫の青年と小太郎はその背後に立っていた。
僅か数分で、控えめなノックの音が廊下側から聞こえ、中からの返事も待たずにドアが開かれる。
「…持ってきたケド?」
ドアの向こうから台車を押して入って来たのは、18、19歳くらいの見た目の青年で、柔らかいような透明感のある声をしていた。しかし、それ以上に唯音の意識を捉えたのは、その色彩で、蜂蜜を溶かしたような陽の光を編んだような金の髪に、褐色の肌、それからオレンジがかった黄金色の瞳という、おおよそ日本人には持ち得ない色に包まれているその姿だ。それなのに、服装は着崩した和服である。肌蹴(はだけ)た白い着物に黒のタンクトップのシャツ、赤い模様の入った黒い羽織を適当に肩にかけているような、そんな出で立ちだ。粋と言えば粋なのだが、色彩からしてチャラい雰囲気の青年なので如何にも遊んでそうだという印象に見えてしまう。
「…6人じゃん。しゅー、数間違ってるし」
台車を部屋の中に押入れながら、青年はひい、ふう、と順番に部屋の中に居並ぶ面々に視線を向け、数を数えてボソリと少し不機嫌そうに言った。
「ああ、奏多くんご苦労様。きみも部屋の中に入りたまえ」
首だけを巡らし、修治はそう言うとすぐに正面に座る唯音たちに向き直る。
「それじゃあ改めて、佐倉くんと言ったよね?まずは、この世の理から説明させて貰おうかな」
台車で茶器一式とお茶請けを運んできた金髪和装の青年に給仕を任せ、修治はにこやかにそう話を切り出した。
「きみは、この世の中の心霊現象や超常現象を、どう思っているかな?この科学の発展した現代文明では、所謂(いわゆる)、神の存在や妖怪と呼ばれる存在の類を信じている人間はあまりいないだろうけど、きみ自身はどうだい?」
ゆったりと深くソファに沈みながら、修治は世間話でもするような口調で話し始める。柔らかな口調で語られた内容は、(にわ)かには信じがたいようなもので、それでいて真実だと理解出来る内容でもあった。
古来より、日本には…いや、日本だけでなく世界には、人知を超えた所謂(いわゆる)オカルトと呼ばれる何者かの存在がある。日本に限定して説明すれば、御霊信仰や土着の八百万の神々への信仰、自然崇拝など様々な形で崇められ畏れられてきたソレらは、実際に存在するというのだ。また、その人知を超えた存在とそれを結び付ける人の存在も、呼び名は多くあるが、一般的に浸透している呼び名であれば審神者(さにわ)だとか玉依(たまより)姫だとかいういう名称で知られている。神を降ろせるだとか、狐()きだとか、依童(よりわら)だとか、霊能者だとか、その存在の能力の程度に応じて呼び名は変わっていくが、確かにそういった科学では解き明かせない種類の存在がいるのだと、修治は淡々と説明していく。
悪しき存在が人に害を為さないよう見張る役目が存在したり、悪意や害意から人を護るために神の座に連なる高位の(あやかし)が存在したり、またその妖は特別な人と契約する事で真価を発揮するのだと、背後に立つ2人や給仕に勤しむ青年に視線を向けながら説明していく修治は、まるで人知を超えた存在のようにすら見える。人という器に収まっているはいるものの、その本質は限りなく人知を超えたナニカに近いとすら感じさせる雰囲気で、ただ信じがたい話を続けていく。
そもそも、大昔から日本という国は、邪馬台国の卑弥呼の時代から、常に当代の日巫女(ヒミコ)と呼ばれる存在が云々という昔の話に(さかのぼ)り、きちんとした法律が施行された後も、神祇庁やらが存在しただの、現在もこっそりその流れを汲む省庁があるだの、何やら信憑性があるのか無いのか解らない話になった辺りで、唯音は脳の容量オーバーだとでも言うように降参のポーズで両手を挙げた。
「ええと…つまり、日本には妖怪変化とか、幽霊とかがわんさかいて、良いヤツと悪いヤツがいて、しかも国にそういうのを管理する機関が存在する…?」
中二病設定かとうっかり言いたくなるような説明を何とか理解しようとしている様子で、唯音は話を遮るように確認の意味を込めて修治を見つめる。まさか本当にそんな機関が存在すると彼らは信じているのだろうか、という猜疑(さいぎ)の眼差しで修治や黒猫の青年、小太郎に金髪和服の青年を順に眺めた。
「理解が早くて助かるよ。それで、ここからが本題なのだけれどね?」
唯音の理解で概ね間違っていないとでも言いたげに、修治は殊更(ことさら)柔らかく微笑むと空になった紅茶のカップを掲げておかわりとでも言うように金髪和服の青年に視線を向ける。他愛のない世間話に興じているような雰囲気なのに、室温は低く下がったように感じられた。
「私たちの所属する、この帝都観光という会社は、元々は政府組織の下請けでね?」
まるで明日の天気は晴れだね、くらいの気楽な口調で、修治はそう告げる。
「…ぅぇ!?」
まさかいきなりそんな内容を教えられるとは思っていなかった唯音は、出された紅茶のカップに手を伸ばそうとして、思わず間抜けな声を上げた。
「おや?驚いてくれたかい?良かった良かった」
可笑しそうにくすくすと笑いながら、修治は事も無げに説明を再開する。
帝都観光という会社は、そもそもこの地に帝都が存在した頃からの流れを汲む、由緒ある組織が母体であることの説明に始まり、元は政府の神祇庁に正式名称ではないがアヤカシ対策課なる課が存在した頃に、全国津々浦々をカバーする目的で設立された企業であるらしい。観光会社というのは、あくまでもその隠れ蓑であり、本来の目的は人外や人知を超えた何等かの存在によって、一般市民の生活が阻害されないように守ったり、秘密裏に解決したりという訳目を担っていた。解りやすく言えば、安倍晴明で有名な陰陽師である。平安時代まで遡れば陰陽寮(おんみょうりょう)という国営組織は確かに存在するのだ。その時代の検非違使(けびいし)が警察や警備会社ならば、帝都観光は陰陽寮の未来の姿と言っても過言ではないかもしれない。そんな、とにかく表情を引き()らせるしかない途方もない話を、修治は柔和な表情のままただ語る。
鎖国が解除された後なんて、西洋魔術結社の類や、西洋の一神教などが日本に入ってきて、統制もめちゃくちゃで大変だったらしいよ、とまるで見て来た誰かから直接聞いたかのような口ぶりで苦労話を語る様子など、まさしく頭がオカシイと思えなくもない。けれど、修治の背後に控える、それぞれ見目麗しい黒い青年、金髪の青年、そして小太郎はまるで当事者であるかのように何度も頷いているのだから、一種の集団洗脳か集団ヒステリーを疑うレベルであった。
「…おっと、話が逸れてしまったねぇ。つまりね?そういう訳だから、私たちは裏側からこの平和な日常を護る立役者と言う訳なのだよ」
理解して貰えたかな?と中二病を拗らせた末期患者のような台詞を平然と(のたま)う修治に、それに同調するような男性陣。そして、唯音がちらりと様子を窺えば、少女たちも異を唱える様子どころか、信じて貰えるだろうかと不安げな表情を浮かべている始末である。
「…話の流れから察するに、もう国家組織の下請けじゃないですよねぇ…?…つまり、ボランティア?」
唯音は、あえてオカルト部分には故意に触れず、ズレた感想兼質問を口にした。頭からオカルトを信じるよりも、何となく信憑性のありそうな部分から外堀を埋めていくだけか、それともまだ思考がオカルトに追いつかないのか、とにかくややズレた疑問を口にして、小さく首を傾げる。
「あはは、確かにそうだねぇ。でもボランティアじゃあないよ?帝都観光の本社、社長直轄の調査部という組織でお給料を貰って人助けに勤しんでいるんだよねぇ。その運営資金は、当然事件解決の依頼を受けて報酬として貰っているよ?」
茶菓子として並ぶ焼き菓子に手を伸ばしつつ、修治は唯音の着眼点が面白かったのか、裏を感じさせない素直な笑みを見せた。
「成程…?」
お茶を(たしな)むフリをして、唯音はさて何と答えるべきか、と少しだけ溜息を吐きたい心境で時間を稼ぐ。修治の説明が本当の事ならばと仮定した場合、大変(まず)い状況だとしっかり理解はしている。普段はほわほわした女子高生ではあるが、編入試験満点の頭脳は一応伊達ではない。
「…ええと、全部がホントのコトと仮定して…。つまり、人目を忍んでお役目だかお仕事だかに勤しんでいる瞬間をうっかり見ちゃったから、口止めプラスアルファでもしないと家に帰してあげられないなぁ、って言われてるのかなぁ…私」
意を決して、唯音は手にしていた紅茶のカップをそっとテーブルのソーサーに戻すと、まっすぐに修治を見据えてそう言った。全部が本当の事であると仮定などと口にしてはいるが、唯音は既に黒猫が青年に転じる様子をしっかりと目の当たりにしている。何もない空間目掛けて、陽菜と綾香が演舞のように舞っていたのも見ていたし、小太郎が窓ガラス目掛けて石を投げても撓みもしなかった瞬間だって目撃していた。
それに、少しばかり人には言えない事情で、唯音はオカルトが妄想の類ではないと知っているのだ。幼い頃の夢が、それを物語っている。何せ、幼少時の唯音が『おにいちゃん』と呼び慕っていたうちの1人は、魔女の宅急便のジジのように人語を解する黒猫であったし、その黒猫は大学生くらいの青年の姿にも転じたりしていた。他にも、兄のように慕っていた青年がいて、その青年は時折、公園に飛来する黒いモヤのような存在を札1枚で撃退していたり。また、つい最近、夢で見てそんな過去があったのかと知った中では、九尾の狐とすら話していたのだ。
一番新しい記憶など、超高速で駆け抜けてくる大きなげっ歯類を見たばかりではないか、と唯音は自身の記憶を辿る。オカルトを信じないのならば、幼少時の自分の記憶とやらを全否定する事に等しい。
「実に物分かりが良くて有難いよ。それじゃあ、後は口外しませんという書類にサインして貰う事と、極力うちの組織の者の監視下に居て貰うって事を了承して貰うだけだねぇ」
何時の間に用意したのか、修治がヒラリと1枚の書類を唯音に差し出した。
「ああ、安心したまえ。普通の日常生活は一切邪魔をしないし、学校では小太郎君や陽菜ちゃんに綾香くんがいるからねぇ。然程(さほど)今迄の生活と変わったりはしないだろう」
契約書に万年筆を添えて、修治はにっこりと笑う。
「サインしないとココから出られないんだよねぇ」
やれやれと肩を(すく)め、唯音はあっさりと万年筆を手に取った。甲乙で記載された、契約書の体裁をしっかりと踏襲(とうしゅう)した書類に、用意のイイ組織だなぁと苦笑混じりに考えつつ、ざっと内容に目を通す。修治の言う通りの内容しか書かれておらず、別段()められているような感じもしなかった。
「それじゃ、サインしちゃいますねぇ」
万年筆で、唯音はさらさらと規定の箇所に、『佐倉唯音』と署名する。この契約書の持つ効力は、唯音にとって別段困った事態には陥らないという自信があるのか、普通ならば怯えるなりしても不思議ではない状況で、豪胆にも書類を仕上げてしまった。
「うん、潔いねぇ。…さて、陽菜ちゃん、綾香くん、きみたちはこの書類をうちのボスに届けてくれるかな。私はもう少しだけ注意事項を説明してから、彼女を送って行くよ」
潔くというよりもあっさりしすぎに見える様子で署名された書類を確認し、修治は唯音の両横に座っている少女たちに声をかける。
「でも、先輩、それじゃあ、あまりにも可哀相じゃないですか!?」
陽菜は差し出された書類と修治と、そして唯音を順番に見てそう言った。いきなり変な組織に連れて来られ、問答無用でサインまでさせられ、そして1人残されるというのは心細いに決まっていると、強い瞳で修治を見上げている。
「一応顔見知りとして、俺が居ますけど、佐倉さんはそれで安心出来ます?」
いつも通りの無表情で、これまで静観に徹していた小太郎が一応の助け舟を出した。何を考えているのか相変わらず読めないが、害意がない事だけは確かのように思える。
「1年生はちゃんと宿題とかして、バイトは程々にねぇ?私は大丈夫だよぉ?だって、現代日本で人を1人消すのって、相当大変だしねぇ」
案じられている張本人である唯音が、茶目っ気たっぷりに耳を疑うような台詞を口にした。思わず目を剥く両サイドの少女たちに、ひらひらと手を振って「また明日ねぇ」と暢気に笑う姿は、豪胆なのか鈍いのか判断に迷うくらいいつも通りの様子である。
「…わかりました。それでは、届けて参ります」
先に折れたのは、綾香だった。修治の手から書類を受け取り、陽菜を無理やり促して席を立たせると、そのまま真っ直ぐにドアの方へ向かった。
「それでは、また明日。唯音さん、学校でお会いしましょう」
綾香はぺこりと礼儀正しく頭を下げ、まだ不満そうな陽菜を引き摺るようにして部屋を出て行く。
「さて、それじゃあ幾つか制約の説明をさせて貰うんだけどね?その前に、きみ、昼間の仕事も見てたよねぇ?」
何故か急に弛緩した空気を纏い、修治はソファにだらしなく座りなおしながら、唯音に視線を戻す。
「昼間ですかぁ……?……ああ、超高速で走ってくるカピバラ…」
昼間という言葉で、唯音は記憶と辿る。そこで思い至るのは、ファンタジーこの上ない夢の内容だった。真っ黒なスーツの青年は、言われてみれば確かに修治と酷似している。というか服装が違うだけでどう見ても本人だろう、どうして今迄気付かなかったんだ、と唯音は自分で自分の頭を殴りたくなるような衝動を覚えた。
しかし、思い返してみると、1番インパクトが強かったのは、原動機付き自転車の法定速度よりも高速で、時速50キロくらい出てるのではないだろうかという速度で走って来たカピバラであったので、口をついて出た言葉はあくまでもその感想だ。
「ああ、成程。そういえば、佐倉さんはカピバラ好きなんでしたっけ。カナタ、良かったですね」
カピバラという単語が出た所為か、小太郎が退出した陽菜と綾香の分の茶器を台車に戻している金髪の青年に声を掛けた。
「へ?何の話?」
まったく話が見えないとばかりに、金髪の青年はきょとんと首を傾げる。見た目のイケメン具合と色彩から受けるチャラい印象を裏切って、少し抜けた雰囲気は癒し系動物のソレに似ていた。
「ん…?西山君、この金ピカが、例の?」
あのカピバラ弁当を作ったカピバラ好きなのか、という意味を込めて、唯音は小太郎に視線を送る。
「はい、例の」
小太郎はそれだけで意図を察したらしく、しっかりと頷いた。昼休みにお弁当箱の中身を見て、唯音がカピバラ好きだと知った記憶はまだかなり新しい。
「あのカピバラの!ええと、ヨロシクねぇ、カピバラの人~」
唯音はルームシェア中の自分の私室のベッドの上にも、大きなカピバラの柚子さん人形を置いている程度にはカピバラというゆるきゃらを愛でている。唯音の脳内では、カピバラ弁当を作った人は無類のカピバラ好きという図式が成り立っているため、目の前の金色の色彩の青年に屈託のない笑顔を見せた。
「へ!?何で知ってるの!?」
いきなり驚きの発言と笑顔を見せられた青年は、台車の上でガシャンと食器をぶつけつつ、驚きを露わにして唯音をまじまじと見つめる。どうしてそんな事を知っているのだと言いたげな、困惑の表情は青年の外見年齢よりも幼く見えて、何故か親しみが沸く。
「えへへ、昼間、偶然見ちゃったぁ」
もはやこの場が帝都観光の暗部の一角であるという事は完全に頭の隅に追い遣ったのか、唯音は可愛らしい笑顔でにんまりと笑ってみせる。まるでドッキリ成功と言いたげなその表情は可愛らしかった。
「へ!?ちょっと!何でそんなヘイゼンとしてるの!!?」
青年はますます困惑したようで、目を瞬かせながら慌てたように唯音の言葉にわたわたと目に見えて落ち着きを無くしていく。
「可愛いよねぇ、カピバラ~♪もう、全力でもふりたい…っ!」
獣ならぬ毛物大好きを自称する唯音は、まだ触れた事のないリアルカピバラの毛並を思って、うっとりとした表情を浮かべた。完全にここが何処か忘れているような様子に、修治は少しばかり表情を引き()らせてその成り行きを眺めている。
「…小太郎くん」
「…何でしょう」
「…彼女、何で知ってるの?」
「…さぁ?」
ひたすら困惑する金髪の青年と、キラキラした瞳でまだ見ぬカピバラに恍惚(こうこつ)とした表情を見せる唯音を前に、修治と小太郎はぼそぼそと言葉を交わす。
「…まぁ後は適当にどうにかしろよにゃー」
どうしてこうなったというような表情を見せた黒い青年は、棒読みでそう言うと小さな音と共に縮んだ。正しくは、真っ黒な毛並の目つきは悪いが愛らしい黒猫の姿に転じた。
「ちょっと黒くん、誰を監視につけるかは黒くんの采配だよねぇ…?」
我関せずを決め込もうとしている黒猫のしっぽを掴み、修治は逃げるなと言外に告げる。
「そんなもん、奏多で決まりだろ?」
他に適任がいると思うのかよと黒猫は不機嫌そうに言って、修治の手からしっぽを引き抜く。
「あ!黒もふもふだぁ!にくきゅーぜひ!」
既に普段の自分自身のキャラクターを完全に見失った様子の唯音は、視界の隅に現れた黒猫を目敏く見つけるとキラキラした笑顔を見せた。
「おー、イイぞー」
黒猫は棒読み気味にそう言うと、ふわりと応接テーブルの上に飛び乗って唯音の手の届く範囲まで移動する。
「…もふもふ生物尊いなぁ」
ふわふわとした手触りを楽しみながら、唯音は黒猫に蕩けた笑みを見せた。
「…カピバラがスキなんじゃないの?触りたいんでしょ?」
何故か拗ねたような声音で青年は言うと、小さく頬を膨らませる。
「ふぇ?」
確かに触りたいが、目の前に居るのだから今は黒猫の方が優先と唯音が言いかけた次の瞬間、金色の青年はポンっと小気味の良い音を立てて、その姿を縮めてしまった。
正しくは。
唯音の真横に鎮座する形で、体長1メートル程の大きなげっ歯類へと姿を変えた。
「えぇぇぇぇー!!?」
目の前でカピバラに転じた青年の姿に、唯音は思わず大きな悲鳴を上げる。カピバラ好きだと思っていた青年が、まさかカピバラとは思っていなかったらしい。
「……何で驚くの?オレがカピバラって知ってたんでしょ?」
「え?カピバラがカピバラ弁当作ったの…?共食い……?」
思わず視線を交わらせた唯音と、元金髪青年現カピバラは、ほぼ同時にそう言葉を発して、固まったのだった。
製作者:月森彩葉