異世界召喚されずに乙女ゲーに組み込まれたようです 6

―――夢。
そう、夢なら良かったと思うような、そんな光景。
カピバラ弁当の作り手が、まさかのカピバラそのものだとは、いくら唯音が非常識的な環境に対する適応スキルが高いとしてもちょっと受け入れがたい状況だ。
「…どういうコト。こた、オレがカピバラってバラしたんじゃないの…」
カピバラはジト目と解る視線を小太郎に向け、カピバラに転じたら驚かれてしまった事が不満だとでも言うように不機嫌そうな声をあげた。
「俺がバラしたのは、カナタが陽菜と綾香の弁当を作った人物だというだけですが」
悪びれる様子もなく、小太郎はしれっと噛みあってるようで噛みあっていない会話の内容を暴露する。何時の間にか応接セットの側に小さな椅子を運んでのんびりとお茶を飲んでいた。
「うーん…カピバラの手触りって…タワシ…?」
驚きはしたが、自他ともに認めるケモナーである唯音は、せっかく目の前に現れてくれたカピバラに手を伸ばす。見た目はふわふわとした印象なのに、その手触りは決して柔らかくなく、鍋を磨くタワシの硬さを思わせる手触りだった。
「ちょっと…ソレはヒドくない…?せっかく触らせてあげたのに」
タワシと評されたカピバラは不満のようで、不機嫌そうな声音のまま、唯音に視線を向ける。いきなり人語を駆使する動物が目の前に2匹も沸いたというのに、その非現実的な部分を完全に無視してカピバラの手触りを堪能している女子高生というのも異様に見えた。
「…ええと、佐倉くん?後でいくらでも堪能させてあげるから、とりあえず話を進めて構わないかな」
流石に見兼ねたというより、このままでは何時まで経っても部外者を外に出せないと思ったのか、修治がやんわりと口を挟む。
「ぁ…。そうでしたぁ。ごめんなさい、つい…」
声を掛けられ、一応見た目は平静を取り戻りた唯音だが、その手は未だカピバラの背に触れている。タワシと評しながらも、その独特の手触りが気に入ったらしく、無意識レベルで硬い毛並を撫で続けていた。
「まず、帝都観光という会社が、まぁ皆さまの安心と安全を秘密裏に守っている事は理解して貰えたんだよねぇ?」
修治は脱線どころか明後日の方に逸れて行った話の軌道を戻すべく、のんびりとした口調のまま相手の理解度を図るように真っ直ぐと視線を向ける。
「ええと、はぃ。悪い事をするオカルト的何かを排除してくれているってコトですよねぇ」
何度も念を押さなくても大丈夫だと、唯音はふわりと笑みを見せた。視えないとは言っても、幼少期は視えていたのか取り巻く環境が特殊だったのか、とにかくオカルトに親しんで育った身の上だ。そういう存在の事は、素直に受け入れられる下地がある。
「ったく…手前の説明じゃ日付変わんだろ。いいか?俺が説明してやっから、ちゃんと聞け」
テーブルの上で猫らしく毛づくろいをしているような体勢だった黒猫は、そう言うとひらりと地面に降り立った。同時に、もう何度も見ている青年の姿に転じる。よくよく見れば、その姿は唯音が昼間の夢の中で『おにいちゃん』と呼んだ人物と酷似どころか、本人だろうと推測できた。
唯音は、その黒猫の青年を何故『おにいちゃん』と呼んだのだろうと、記憶を辿り、そして幼い頃の邂逅に辿り着く。そして、改めて目の前の青年を見つめ、けれど記憶の中の青年とは何処か異なる気がして唯音は小さく首を傾げる。確かに、この外見は知っているのにと、唯音は違和感の正体を探ろうと考えた。
「まず、自己紹介っつーか、簡単にな。俺や奏多に小太郎は、帝都観光の籍を置く、所謂(いわゆる)人じゃ無え存在だ。そこまではもういいな?理解出来てっか?」
教師を思わせる雰囲気で、青年は心ここにあらずといった様子で自身に視線を向けつつも何処か虚空を見つめているような唯音を覗き込む。
「…黒もふもふとか、タワシとか…。西山君も……?」
思考の大半は黒い青年に関する違和感で埋められていたが、唯音は素直にそう応えた。理解は出来ているのだ。恐らく、偶然の産物で仕事風景をうっかり見てしまって書類にサインをさせられた歴代の誰よりも、しっかりと。話の流れからして、小太郎もそちら側なのだと感覚では理解していたが、唯音は注文通りそう問いかけてみせた。
「俺は………、これです」
小太郎は言葉で説明しようと言葉を紡ごうとしたが、途中で言葉での説明を諦め、ポンっと言う音と共に茶色いふわふわした生物へと転じる。その姿は、紛う事なく狸だった。ふかふかの柔らかそうなチョコレート色の毛並の狸が、ティーカップを両手で持っている様子は実に愛らしい。
「…西山こたぬきちゃん…把握…」
ケモナーである唯音の目の色が喜色に染まり、思わずカピバラを撫でていない方の手が宙に浮く。触れたいと、その無意識の行動が如実に語っていた。
「勝手に俺の名前変えないでください、小太郎です」
キラキラと喜色の浮かぶ瞳を向けられても、例え見た目が狸になっても、小太郎は相変わらずの無表情を貫いている。一応、主張する所はきちんと主張しているようではあるが、こたぬきちゃんという呼称を特に嫌がっているようには見えなかった。
「んで、ややこしいから名前教えとくな。俺は黒って呼ばれてんよ。ま、別にちゃんとした名前もあるけど、それはまあ機会があれば教えてやんよ。で、そっちのカピバラが奏多、小太郎は小太郎。一応、俺らは兄弟みたいなもんだ。ここまでで何か質問あっか?」
黒猫青年は、見たままの名前を名乗り、それぞれこの部屋の中に存在する人外を紹介する。
「わざわざ紹介してくれた理由は何かなぁ…」
何となく予想がつきながらも、唯音はへらっと笑って見せた。解説役を黒が引き継ぐ前に、監視役云々と言っていたのを聞き()らしていた訳ではない。巫山戯(ふざけ)ていても、唯音はきちんと状況把握に努めてはいた。
「手前は何でか俺らが囲った場所に入れんだよ。結界つって、普通はそういう能力のない奴は入れねえようになってんだがな?だから安全と機密保持両方の理由で、手前には監視が付くんだが、面識も出来たし奏多でいいな?」
黒はそう言って、未だカピバラ姿のままの奏多にも視線を向ける。唯音の意志は、この際可能な限り尊重する義務くらいはあるかもしれないが、奏多の意志を確認する必要はない。それがこの帝都観光で飼われている人外の宿命と言えばそれまでだからだ。
「…了承したら、帰れるのかなぁ」
最低限の手札しか明かさない心算(つもり)なのだろうと唯音は推測しながら、黒に苦笑を向けた。恐らく、口ぶりから察するに、帝都観光には他にも人外は存在するだろう。神の末席に連なる存在であったり、もっと小物だったり、妖怪の類だったり、種類は豊富だろうが、それらの中で主導権を持っているのが、黒たちの兄弟なのだろうか、と足らない情報は推測で補って考える。
「ああ。責任もって俺と奏多で送ってくぞ」
つまり、了承しなければ帰せない訳だが、と言外に告げ、黒は唯音の処遇を明らかにした。悪意も害意も敵意も見いだせないどころか、黒は唯音に対して最大限以上の譲歩をしているようにすら見える。強制ではなく、一応は意思確認をしているところからして、力に物言わせての強引に事を運ぼうというようには見えない。
「えっと…じゃあ、ソレで。…つまり、このタワシ生物と親睦を深めたらイイのかなぁ」
考えても仕方がない事は考えないようにしようと、唯音は素直に首肯した。ここで下手に拒絶したところで、帰りが遅くなるだけだ。
「オレの名前、奏多なんだけど」
タワシと呼ばれた奏多は、不満げな様子を隠そうともせず口を尖らせるが、それでも唯音の手を跳ねのけようとはしなかった。
「じゃあ俺は学校で今まで通り仲良くしましょうね。今日はお役御免でしょうし、宿題でもやってきます」
一応のまとまりを見せた辺りで、小太郎はそう言ってティーカップをテーブルの上にそっと置くと、自分の通学鞄を拾って、よいしょとそれを背負う。ふわふわした可愛らしい狸のままで、てくてくとドアの前まで歩いて行くと1度だけ振り返ってぺこりと頭を下げた。
「小太郎くん、お疲れ様」
解説役から傍観者に変わった修治は、狸姿のままでは届かないだろうドアの取っ手に手をかけ、小太郎が廊下にでられるようにドアを開けてやる。開いた隙間から、小太郎はふわふわした姿のまま廊下へと消えて行った。
「んじゃ俺は首領に話通してくっから、奏多の部屋でちょっと待ってろよ?んで、手前は幹部なんだから報告しに一緒に来いよ」
これで話は終わりだと、黒は唯音に視線を向けてそう宣う。難しい話はこれで終いという訳だが、送り届けて貰うには上の許可が必要らしいと唯音は黒の言葉に頷く事で応じた。
「えぇー?私も行くのかい?まぁ仕方ないか。それじゃ、佐倉くんは奏多くんの部屋にでも連れて行って貰ってくれるかな。これから、よろしくねぇ」
それだけ言い置いて、黒と修治は連れだって部屋を出て行ってしまう。別にそんなに急いで出て行かなくても、と思うが彼らには彼らの事情があるのだろう。
「……えっと、タワシちゃん」
どうしようか、という問いを込めて、残された唯音は傍らのカピバラに声をかけた。
「オレの名前は奏多。覚えてよ。…オレの部屋、案内するから」
不満そうな声音のままそう言うと、奏多は何の予告もなく人型に転じる。ソファの足元に置かれてあった唯音の通学鞄を手に取ると、「着いてきて」とだけ言ってさっさと歩きだす。一応、ついてくるのを待つようにドアの前で足を止めて振り返るが、唯音がソファから立ち上がって着いてくるのを確認するなりドアを開けて廊下に出て行った。
「…前途多難…かなぁ?」
先に出て行った奏多の後を追いながら、唯音は誰にともなきポツリと呟く。やれやれと軽く肩を(すく)めると、何事も無かったかのようにドアを開けて先を歩く奏多の背を追った。

唯音が連れていかれたのは、1つ下のフロアの、同じように役員室が並ぶようにしか見えない一室。ドアを開けて、通された部屋は、先程修治に案内された執務室然とした部屋と大して変わらない造りをしており、強いて違いを挙げればマホガニー製シェルフに陳列されている食器などの小物や調度品の色が違う事や、執務机と思しき机の上に乗っている小物が異なる事くらいだ。それぞれの部屋と銘打たれているらしい点を考慮すれば、その辺りで個性を出しているのだろうと推測できる。先程の部屋よりも幾分か生活感のある、片付いてはいるけれどどこか雑多な印象の部屋だった。
「こんな部屋じゃ落ち着かない?」
部屋に招き入れるなり、ドアの前から動かずに茫然と立ち尽くしているような状態の唯音に、奏多は僅かに案じるような声音で問いかける。
「えっと…そういうワケじゃないんだけどねぇ…」
言葉で害意などないと言われても、このビルは唯音にとって完全な未知の領域だ。部屋に通されたからと言って、ホイホイと応接セットで(くつろ)ぐわけにもいかないし、そもそもごく普通の女子高生がいきなりこんな場所で(くつろ)げる方が違和感を拭えない。
「ゆいね、ダイジョーブ?オレは危害加えたりしないケド、不安なら向こうの部屋に居てもイイよ」
見た目の軽薄さを裏切る真摯な瞳でそう言うと、奏多は奥の部屋へ続くドアを開けて見せた。チラリと見えたその内装は、執務室と一転して完全に和で統一されている。
「…ゆいね…?…あぁ、私の事かぁ」
唯音は一瞬だけ首を傾げたが、直ぐにそれが自分を指した単語だと理解した。漢字だけ見れば、確かに『イオン』より『ゆいね』の方が圧倒的に納得のいく読み方だ。
「…名前、ゆいねじゃないの?それともさくらって呼ぶ方がイイ?」
不思議そうに首を傾げ、いきなり名前を呼んだから不快にでも思ったのかと、奏多は僅かに淋しそうな表情を見せる。見た目年齢の割に、浮かべる表情が子供っぽく、唯音は小さく笑みを零した。
「唯の音で、イオンって読むんだよ、名前。だから、正しくは、サクラ、イオン。呼びやすいなら、別にゆいねでもイイけどねぇ」
唯音はくすくすと笑いながら、ドアを開けてくれた奏多の後ろから、ひょいっと部屋を覗きこんだ。害意が本当にないのかは考えても仕方がないと割り切り、それなりに友好的な態度を示されている以上、拒絶するのは得策ではないとの判断だった。
部屋は、ドアの開閉の妨げにならない程度のスペースを開けて、靴を脱いで上がるような数十センチ高い床が作られており、ご丁寧に襖で閉じられるようになっている。開いている襖から見える部屋は、本当に完璧な和室で、床の間もあれば掛け軸や花入れ、香合(こうごう)まで置かれている茶室っぽさと、文机に箪笥(たんす)、それから押入れまで完備されていた。奥の襖も開いていて、水屋まであるらしく、執務室よりも相当広いスペースが取られているのが窺える。
「じゃ…ゆいね。こっちの方が落ち着くなら、こっちで待ってたら?一緒がイヤなら、オレは執務室にいるから」
中に入りやすいように身体を引くと、奏多はそう言って不安そうに瞳を揺らした。拒絶されるのを恐れている子供のようなその仕草は、見た目の所為(せい)でかなりアンバランスだ。
「お邪魔します…っと。時間あるなら、色々お話聞かせて欲しいかなぁ。名前、カナタって言うんだよね。漢字?片仮名?」
人懐っこい笑みを浮かべ、唯音は奏多の横を自然に通って和室へと足を踏み入れた。きちんと靴を脱いで揃えると、手入れは行き届いているがそれなりに年季の入った畳の部屋に入って、振り返る。少し高い位置に立っている所為で、奏多よりも僅かに目線が上になり、ふわふわの綿あめのような金色の髪に目を奪われた。
「漢字。奏でるに多いで、カナタ。話すなら、お茶淹れてあげる。ソコ、座布団あるから使ってイイよ」
口調こそ変わらないが、奏多は瞳に喜色を浮かべ、草履を適当に脱ぎ捨てると奥の水屋に向かっていく。流石に炉は切られていないが、風炉(ふろ)は置かれており、古めかしい釜が乗っている。奏多は襖1枚隔てた先で何やら本当に用意しているらしく、パシャリと水の跳ねる音がして、すぐに重そうな鉄瓶と釜に引っ掛ける輪を持って戻って来た。
「…あ」
そこで、鉄瓶を持ったままでは釜をどかす事が出来ないと気付いたらしく、間抜けな声をあげる。
「…かなたん、天然…?」
思わず完全に素で呟いて、唯音は小さく吹き出した。そのままつかつかと歩み寄ると、釜の前にきちんと正座をし、予め風炉の側に立てかけられていた鍋敷きのような木の板を畳の上に置いて、奏多からひょいっと引っ掛けるための輪を取り上げる。
手慣れた所作で余計な所には一切触れずに輪を通すと、すっと力を込めて釜を持ち上げ、木の板の上に置いた。中身は空だったらしく、重みは大してないので唯音でも問題なく移動させることが出来る重さだったが、奏多は少女が垣間見せた優雅な所作に一瞬だけ目を奪われる。高校の制服が仮に振袖か何かであっても、この少女は実に優雅な所作で裾をさばき、袂を押さえ、釜や茶器を扱う事が出来るのだろうと思える程、無意識レベルまで洗練された所作だった。
「鉄瓶、置かないの?」
じっと唯音を見ている視線に、唯音は小さく首を傾げて目線を上げる事で交わらせる。
「あ、ゴメン…。アリガト」
見惚れていた奏多は、流石に本物の炭ではなく風炉専用の電熱器がセットされているに鉄瓶を置くと、電熱器のスイッチを入れた。
「用意してくるから、待ってて」
奏多はソレだけ言うと、慌てたように水屋の方へと引っ込んでしまう。カチャカチャと確かに食器やら何やらを用意している音が、静かな部屋の中に響く。
唯音は暇を持て余し、という訳ではないが手持無沙汰で床の間の前に移動すると、飾られている掛け軸や、花入れに活けられた花に視線を向けた。掛け軸の文字は達筆すぎて唯音には解読できないが、花入れの純白の椿や、合せ貝を模した香合から仄かに香る白檀は解る。
半ば無意識に制服のポケットの上に手を置けば、丸みを帯びたひやりとした感覚が伝わり、唯音は小さく息を吐いた。ポケットに入っているのは御守りのようなもので、肌身離さず持つようにと言われている。落とさないようにと結ばれた組紐の感触まで指先で辿ると、無意識のうちに緊張に強張らせていた身体から力が抜けた。穏やかな気持ちで、きちんと正座をし、飾られた道具に向かう。
特に深い意味は無いのだが、元々生まれ育った環境で正座する事が多かったからか、唯音の佇まいはこの空間に馴染んでおり、どこか静謐な空気すら醸し出していた。静かに目を伏せて姿勢を正して座る姿は、例えば弓道で矢を射た後の残心に似た空気を纏っているように見える。
「…ゆいね?何か気に入った?」
漆塗りのお盆に急須と湯呑とお茶請けを乗せて戻って来た奏多は、静かに正座をしている唯音の姿を認めるなりそう声を掛けた。
「ぁ。んーん、何でも。えっと、かなたん…でいい?」
ぱちりと瞼がひらく音がする錯覚。停止していた時間が再び動き出すような、静から動へと変わるように、唯音は奏多をふり仰ぎ、ふわりと笑う。
「…オレの名前、奏多なんだけど」
1度ふざけて呼ばれた時に訂正しなかったからなのか、奏多と呼んで貰えず少し不満そうに言って、風炉の隣に盆を置いて座り込みながら奏多は言い返す。
「響きがねぇ。淋しいから好きじゃないなぁって」
唯音は苦笑してそう言って「奏多…カナタ…彼方…どこか遠く」と独り言のように続けた。彼方という言葉は、現在から遠く離れた過去や未来を示す言葉であったり、ある物に隔てられて見えない場所などをさす。唯音にとっては、決して好ましいとは言えない響きだった。
「…でも、かなたんはヤメテ」
言葉に合わせてどこか遠くを見つめる横顔を故意に見ないようにしながら、奏多は懐から袱紗(ふくさ)を取り出し、湯気を立てて沸いている鉄瓶の湯を急須に注いだ。コポコポとお湯が注がれる音だけが響く部屋は静かすぎて、何故か淋しいと感じてしまう。
「何で、奏多、なの?」
ふと、他愛のない言葉にように、唯音は問いかけた。ただ『カナタ』という響きは、手を伸ばしても届かないように思えて、無性に物悲しくなる所為(せい)で呼びたいと思えず、せめて由来が解ればこの気持ちが払拭されるかもしれない、程度の軽い気持ちで。
「……オレが、音楽、スキだから」
少し迷った末に、奏多はそう言った。遠い記憶。もう、鮮明に思い出せる光景は少ないくらい、過去の話だ。本当は奏でる事が好きなのではなく、奏でられた音色を聴くのが好きだった。
「…じゃあ、私はソラって呼ぶ事にする」
逡巡の後、唯音はそう言ってにっこりと透明な笑みを浮かべる。
「…ソラ…?」
ソラとは、空の事だろうか、何処にも共通点なんて無いと思うのだが、と奏多は首を傾げた。
「そう、ソラ。奏でるに楽しい、で奏楽。こっちの方が、響きが好きだから。私の名前、勝手に変えて呼んでるんだし、お互い様でしょ?」
くすくすと可笑しそうに笑いながら、唯音は決定事項だと言外に告げる。奏多だって、『イオン』ではなく『ゆいね』と呼んでいるではないか、ならば自分だって渾名のように呼んでも構わないだろうと、その瞳が悪戯っぽく細められていた。
「…イイケド…。そら…『奏楽』…」
奏多は少し照れたように笑うと、口の中で呼ばれた名前を繰り返す。まるで、大切な宝物のように、倖せそうで儚い笑みを浮かべて。
部屋に満ちるのは、急須から湯呑に柔らかい色のお茶が注がれる音。
それから、奏多が茶器を扱う小さな音。
それだけだった。
「…お茶、ドーゾ。お菓子もあるケド」
僅かな静寂の後、奏多は小さな茶托(ちゃたく)にお茶を乗せて、そのまま唯音の方にそっと押し出す。小さな菓子皿の上に懐紙を敷き、その上に可愛らしい細工のされたきんとんの主菓子が鎮座している。そっと菓子きりまで添えられているとところを見ると、奏多という人物は見た目の軽薄さを裏切ってかなり細やかな性格をしているのかもしれない。
「ありがと。さてと、じゃあ親睦を深めないといけないから単刀直入に」
唯音は正座したまま向きを変え、まっすぐと奏多に向き直ると、そう言って出されたお茶を優美な所作で手に取った。
「単刀直入に?」
一体何を言われるのだろうかと、自分の前にも置いたお茶に手を伸ばしながら、奏多は鸚鵡(おうむ)返しに聞き返す。
「監視って24時間365日一緒にいるとか、そんな内容?四六時中その目立つ恰好で着いて来られると高校生活もままならないと思うんだけどどうなのかな。それとね、オカルト的ナニカとか言われても長いしややこしいし、普段呼んでる名称があれば教えてくれるかなぁ?あとそれから、さっきの黒先生の説明だと、黒先生とか奏楽とか小太郎くんってこの国に古来から存在してる人外って認識でイイの?」
にこにと愛らしい笑みを浮かべて、唯音は一気に疑問に思っていることをまとめて問いかける。頭の回転は悪く無い方だ。それに、突発的事象への対処も、幼い頃から色々と経験している為、慣れている方である。普通の人の脳が受け入れを拒絶する、人外が目の前に存在する超常現象については、物心ついた時点で触れ合う機会があったのでもう今更何も疑問に感じたりもしない。
「えっと…。監視っていうより保護なんだケド…。うん、出来ればそうしたい。囲ったトコに入れるなら危ないし。学校にはサスガに着いて行かない。こたもいるし、はるもあやもいるから。オレたちはあの存在をまとめて闇って呼んでる。にーさんやオレやこたは、昔から日本に住んでるすっごい長生きなイイ妖怪みたいなモノ」
一気に問いかけられた質問に、それでも奏多は淀むことなくスラスラと答えていった。本当なら黒や奏多、もしくは修治がもっときちんと説明し、理解を得るべき内容なのだが、目の前の少女の状況適応能力に感心しながら、否を唱えられていないことに心底安堵する。
「………昔から日本にいるのに、何でカピバラ…?カピバラって外来種じゃなかったっけ…。あと、イイ妖怪でも、人食べたりするの?殺したりはやっぱりダメだと思うんだけど、ソレってどうなの」
奏多の答に、唯音は異を唱える事も、否を唱える事も無かった。代わりに、もっと別の疑問が沸いてきたらしく、ポソリと独り言のように零す。
「ソコ…?ベツにカピバラでもイイでしょ…?大体、ゆいね、カピバラはスキなんじゃないの?…オレは人間襲って食べたりしないし…。ちゃんと契約してる人から、生気分けて貰うダケだし…省エネだし…」
独り言にも、奏多はきちんと答を返した。カピバラの何が悪いのかという逆ギレ染みた言葉に始まり、最後は歯切れ悪くゴニョゴニョと尻すぼみで口にする。
「契約主いるのに、仕事とはいえ四六時中、私に着いてくるの?ソレ、契約主怒らない…?」
カピバラ好きは否定しないが、今はそれよりも気になる言葉が出てきて、唯音は目を丸くして奏多を見た。
「…もう、本契約切れて…だいぶ経ってるし…。仮契約だって…もう10年以上前だから。だから、オレ、どうせそんな長く寿命残って無いと思うケド?」
ふと、奏多は淋しそうな瞳で手の中の湯呑に視線を落とす。ゆらゆらと揺れる水面に、歪んだ自分の顔が映って見えた。
「…ぇ」
唯音は表情を無くし、奏多を茫然と見つめる。あっさりと告げられた言葉は、それ程衝撃的な内容だった。寿命が残っていないという事は、消滅してしまうと言うことだ。ふと、幼い頃に見かけた、ふわふわした黄金色の毛並が脳裏をよぎる。人の姿も取れない程、消耗していた美しい毛並を思い出して、とても居た堪れなくなったのだ。
ガシャン…と鈍い音で、唯音はハッと我に返る。
気付いた時には遅く、畳の上の茶托に落とした湯呑がぶつかって、割れた音った。
「あ…ごめんなさい!」
慌てて飛び散った破片に手を伸ばす。幸いにも、中身は大して入っておらず、思い切りお茶をぶちまけるという惨事は免れたものの、器物損壊はいただけない。
「…痛…っ」
「触っちゃダメ」
慌て過ぎたせいか、破片で指先を切ったらしい。唯音が小さな悲鳴を上げて思わず手を引いた瞬間、その手を膝立ちで身を乗り出した奏多の手がしっかりと掴んでいた。
「あーあ…ケガ、ダイジョーブ?」
ジクジクとした鈍い痛みと共に(にじ)みだしてくる赤い血液を、奏多は心配そうに見つめる。
「…割っちゃって…ごめんなさい。拾うよ、手、離して?」
唯音は自分らしくないなと自嘲しながら、掴まれた手を僅かに引いた。しかし、存外強く掴まれているのか、手は離されることはない。
「オレがするから。…ケガ、痛いよね」
ペロリと、奏多はごく自然な様子で僅かに溢れた血液を舐めとった。その行為自体は治療としては決して褒められる行為ではないのだが、日常的にそれなりの頻度で目にする事があるため、唯音は少し驚いただけで嫌悪も不満も感じない。
いや、何かを感じる暇は、無かった。
「え!?何…!?」
「へ?ウソ…」
一体何が起こったのか、真っ白な光が室内で()ぜて、2人を包み込む。困惑した唯音の声も、茫然とした奏多の声もかき消されてしまうくらいの、眩い光。ただひたすらに、眩しい光が、ちょうど2人の中心、奏多の手と、唯音の手が重なっている場所から(ほとばし)っていた。
製作者:月森彩葉