異世界召喚されずに乙女ゲーに組み込まれたようです 7

―――夢。
いっそ夢だと思いたいと心底思う、頭を抱えるしかない状況。
ああ、コレは確実にお説教なんていう可愛いモノでは済まない。
良くて報告書、悪くて始末書、もっと悪くて処分。
最悪の場合は、ちょっと考えたくないな…と現実逃避気味に考えた。
今、しん…と静まり返った和室に、唯音と奏多は大人しく正座をさせられている。
「手前ら、ちょっとそこに大人しく正座しろ」
光の奔流(ほんりゅう)が収まって、あまりの眩さに視界に色が戻らずに何度か目を瞬かせていると、部屋のドアが慌ただしく開いて、急き切って姿を見せた黒先生が、開口一番こう(のたま)ったからだ。有無を言わせない迫力に、散らばった破片を片付けるのもそこそこに揃って大人しく正座をする事になったのである。
「んで?奏多…手前、何やらかしたか解ってんだろうな」
正座する唯音と奏多を前に、仁王立ちした黒は呆れたと全身で表しながら、そう言った。
「…ゴメンナサイ」
素直にそう言って、奏多はチラリと隣で正座する唯音を気にしながら項垂(うなだ)れる。言うなれば偶然が重なっただけの不幸な事故ではあるのだが、取り返しがつくかは正直微妙な所だった。
「…えっと、何が起こったのか聞いてもイイですかぁ…?」
控えめに挙手をして、唯音は見下ろしてくる黒に問いかける。何も考えずに利き手を上げた結果、黒の視界に薄らと血の(にじ)む指先が入った。
「手前、その怪我、どうしたんだ?あの破片か?」
深々と溜息を吐きながら、黒は畳の上にまだ片付けられず散らばった湯呑の破片に目を向ける。
「割ってしまって…。すみません…」
やはり身柄を拘束…ではないが、事情があって逗留している身で粗相をいうのは大変よろしくないと、唯音は心証が悪くなると今後に影響があるなどと考えながらどのように挽回しようかと思考を巡らせた。
「怪我さえしてなきゃ何も言わねえよ。安心しろ、手前には怒ってねえかんな」
黒はそう言うと、安心させるようにポンポンと唯音の頭を2度程優しくあやすように撫でる。
「何が起こったか、順を追って説明してやっから、しっかり聞けよ。その前に、1つ大事な事の確認なんだが、手前カピバラ飼う気あるか?」
黒は少し声の調子を変え、説明を始めようと口を開く。口調はともかく、雰囲気はどことなく教師のようで、自然と話を聞こうという気にさせる。
「…普通の家でカピバラを飼うのは、まず飼育環境難しいんじゃないかなぁ…」
飼う飼わない以前に、物理的にかなり無理があると、唯音は苦笑と共に零す。カピバラの姿に転じる自称イイ妖怪みたいな存在であればあるいは飼育環境自体は楽かもしれないが、その場合は同居というか同棲にしか見えないだろう。そもそもシェアハウスで暮らしている唯音としては、同居人が果たして是と言うか、家主が許可を出すかという大きな問題が立ちはだかってくる。
「ま、そうだよにゃー?そこも含めて説明すっけど、ちゃんと聞いとけよ?題して、黒先生のカピバラでも解る主従契約について、だ」
そう言って、黒はニヤリと口角を上げた。
「んじゃまず、大前提の話からしてやんよ。俺らみたいな、人じゃねえ存在は長命だし、闇と戦うのにも適してんだけど、それは理解出来てんだろ?こう見えて、俺や弟たちは強いぞ」
相手の理解度を確かめるように、黒は唯音を真っ直ぐに見ながらその表情を見逃すまいと話を続ける。表情を見れば、どこまで理解が及んでいるか、大体は図れるというものだ。
「だが、俺らみたいな強い人外が何の制約もなく普通に全力を出せる状態だと、人間側はまぁ不安だよな。だから、もう何百年も昔から、それこそ陰陽師の時代から俺らと人間とで交わした制約っつーのがあんだよ」
世間話をするような軽い調子で、黒は言ってしまえば先程、書類にサインをする時に説明を端折(はしょ)った話を語る。帝都観光に、人外が在籍しており、さらに一室を与えられたりしている理由、契約によって成り立つ、要はギブアンドテイクの関係についてだ。
「俺らは人間側の能力者から、闇と同一に見られないある種の加護を受ける。別にその辺の人間の能力者程度にどうこうされたりはしねえが、大量に徒党を組んでこられたら流石に無理だしな?その代わり、俺らは主従の契約を結んだ主からのみ、餌となる生気を貰う。他の人間には手を出せねえって制約だな」
「他の人に手を出したらどうなるんですかぁ?」
黒の話に真剣に耳を傾けていた唯音だったが、その制約や契約に、直接的に行動を縛る拘束力が存在しているように思えず、つい疑問を口にしてしまう。
「あ?俺らには加護があるっつー話、したろ?信頼関係が切れりゃ、餌を無理やり奪っても大した糧になんねえんだよ。あと主人がもう要らねえって思うと、その加護も消えっしな。逆に信頼関係しっかりしてりゃ、超燃費いいし、超強いぞ」
つまりはそういう事だと黒は説明する。大元の、原初の契約からもうかなりの時代が経過しているのだ。そんな原初の契約を説明したところで、巻き込まれただけの少女には無用だろうと黒は重要な部分だけをかいつまんで話す。
「ま、そんな訳で、俺らは誰かと契約する。契約主から餌を与えられて、主の意向に沿うって形でなら、まあ全力が出せるっつー、まあ厳密にはもっと細けえが、そう理解しときゃ問題ねえぞ。だから俺らは帝都観光に所属してんだが…そこの説明はいるか?」
もっと詳細な説明は必要かと黒は視線で唯音に問いかける。その視線に、唯音は左右に首を振る事で応えた。理解の範疇を超えて拒絶している訳ではなく、聞かずとも(おおよ)そは理解出来ているような雰囲気に、黒はニヤリと笑みを深くする。
「んじゃ、こっからが本題だ。…奏多、俺らが誰かと契約する時の条件、言ってみろ」
今迄の話は、あくまでも本題の前の、与太話の類だ。今、この場でしなければならない話はここから先だと、黒は奏多に水を向けた。
「…まず、精神的に、このヒトとならやっていけそうって思うコト。すっとばしてもイイケド、ソレがあった方が信頼関係生まれやすい、から…。アト…餌、貰えば…一応準備完了」
奏多は上目遣いで黒を窺うように、恐る恐るそう口にする。仮にも帝都観光で一室を与えられる待遇を受けている身で手順が解らないという事はない。ただ、この場合、どこから答えていいのかと少しばかり考えはした訳で、あくまでも精神的な信頼関係の上に成り立つ主従という意味では重要だが、契約だけなら飛ばしても構わない手順を述べた。前段階としては、餌となる何かを与えられるだけで構わないのだが、精神的な信頼関係がある方が良いに決まっているのだ。
「まあ、そうだな。んで、手前…えっと、サクラでいいか?手前は、仮にこの馬鹿を飼うとして、受け入れられると思うか?」
黒は溜息を1つ落とし、唯音に視線を向ける。何と呼べば良いのか悩んだらしく、結局苗字を選んでそう言った。
「えぇ、まぁ。自他ともに認めるケモナーなので、例えタワシでも毛物生物なら守備範囲内ですねぇ」
唯音は考える素振りすら見せず、即答する。見た目は、お気に入りのゆるキャラ柚子さんに似ている生物だ。この際、手触りがタワシなのは仕方ないとしても、可能か不可能かと聞かれれば可能の方で間違いない。
「その時点で、第一関門は突破だな。んじゃ、奏多、仮契約と本契約の条件、言ってみろ」
「…仮契約は…、その…何か形のあるモノ…貰えば…一応は成立。本契約は、オレとかにーさんが、主に名前をあげたら…完了なんだケド?」
合ってるかと、奏多は僅かに不安そうに黒を見上げる。これが本来の手順だと奏多は記憶しているが、不安になるのには理由があった。確かに奏多は、唯音の事を「イオン」ではなく「ゆいね」と呼んでいる。順序としては逆だが、餌となり得る血液も、ほんの僅かではあるが結果的に貰ってしまった。けれど、形のあるモノは何も貰っていない。だから、うっかり契約なんて成立する事は無いはずだった。だからこそ、契約成立の光に包まれた瞬間、奏多は心底戸惑ったのだ。
「合ってんよ。んで、手前はサクラに契約の重さを説明せずに契約したんだな?」
「ちょ、ちょっと待った!オレは契約しようと思ってなんてナイし!そもそもオレ、ゆいねから何も貰ってないし」
目に見えて怒気を露わにした黒に、奏多は慌ててそう言った。悪気どころか故意に契約をした訳ではない。言ってしまえば、何故か不完全な状態で本契約が成立してしまった不幸な事故以外の何でもないのだ。
「ソレに、オレ、15年くらい前に、仮契約してるじゃん…」
仮契約でも契約は契約としての効力は発揮するようで、餌の補充がされていない為に弱体化はしているが奏多には一応の加護が発生している。奏多はその仮契約の相手を、大切に想っており、だからこそこんな簡単に上書きなどされるはずがないと高を括っていた。
「あ?ああ、手前が迷子になった時な。死にかけて血を貰ったって話だろ?」
そんな事もあったなと黒はやれやれを肩を竦めてみせる。恐ろしく長寿な黒や奏多にとっては、ほんの少し前という感覚だが、人間の間隔で考えれば15年は相当な期間だ。
「あの時、もうダメだと思ったケド、あの子がオレに血をくれたから寿命延びたんだし。オレ、あの子なら仕えてもイイって思ってたから、仮契約成立してたハズなんだけど」
厳密には血を貰っただけで仮契約にはならないのだが、順番を前後して奏多はその幼子から形あるモノも渡されていた。奏多の感覚としては精神面の関係が重要らしく、幼子との仮契約が成立していたまま、何故新しく契約出来てしまったのかという疑問が拭えないようだ。
「まあ、この際なんで契約出来ちまったかは横に置いとけ。…奏多、1つ確認すっけど、手前、その過去の仮契約で出来たラインあんだろ?それ、どうなってんだ?」
仮契約だろうが本契約だろうが、それを結んだ相手とは目に見えない何かで繋がっているような感覚が生まれる。その事を指して、黒はふと浮かんだ疑問を奏多に問いかけた。
「………まだ、繋がってる」
黒の問いに、奏多は瞳を閉じて集中して目に見えない繋がりを辿る。衣服の下に身に着けた、繋がりの証に服の上からそっと触れた。よく運命の赤い糸に(たと)えるその繋がりは、まだ相手との関係性が途切れていない事を伝えてくるもので、仮に相手が鬼籍の住人になったりなどすれば、ぷつりと切れた感覚が返ってくるのだ。
「んじゃ、サクラとは?」
一体、奏多の契約状況はどうなっているのかと、黒は訝しむような表情を見せた。
「…手、ちょっとイイ?」
言われて、奏多は隣で成り行きを見守っているしかない唯音にそっと声をかける。契約が成立していれば、この距離なら視る事が可能な繋がりを確認する事が出来るからだ。
「…ん」
唯音は言われるままに、そっと手を差し出した。今更、拒む理由は何もなく、むしろ状況をはっきりさせるのに必要なら、手でなくても差し出したい程だ。
「…アリガト」
すっと目の前に出された手を恭しく取ると、奏多は小さく礼を述べてから、そっと手の甲に口付を落とした。
奏多の唇が、唯音の手の甲に触れた瞬間、先程の眩さと比べれば蛍光灯と蛍の光くらいの差はあるものの、仄かな光が2人を包み込んでいく。
「…繋がってんな」
目視でそれを確認した黒は、不可解だとでも言いたげに深く深く溜息を吐いた。
「契約が成立しちまった以上、ただでは帰してやれなくなっちまったぞ…」
マジでどうすんだと黒はぼやくと、改めて唯音に向き直る。
「手前は、たった今から、奏多の主だ」
重々しく告げられた短い言葉が、状況を全て物語っていた。

意図せず帝都観光所属の人外と契約を果たしてしまった唯音は、主の役割についてザックリとした説明を受けた後、人気のない公園に立っていた。勿論、その傍らには人の姿の奏多の姿があり、少し離れた所にお目付け役として付いてきた黒と修治の姿も見える。奏多は帝都観光の建物の中で見かけた粋だけどチャラい着流し姿ではなく、黒のタンクトップシャツに白い麻のボタンダウンシャツ、濃い色のデニムにデザートブーツ、首には黒いレザーのチョーカー、腕にはシルバーのアクセサリー、耳にはオレンジ色の天然石が光るピアスという、着流しとどっちがチャラく見えるだろうかという恰好をしていた。
「……えっと、もう1度手順説明してもらえる?」
緊張した面持ちで、唯音は傍らの奏多に問いかける。丑三つ時という程遅くも無いが、もう間もなく日付も変わろうという時間に、こんな人気のない公園に女子高生がいるという状況からして色々と言いたい事はあるが、そこはもう仕方がないと諦めるしかない。
「えっと…。オレがこの公園を囲って、オレが闇を全部片付ける。ゆいねは、ただオレの横に立ってるダケ。危ない目には遭わせない、オレが絶対守る」
成り行きとはいえ主従契約を交わしてしまった唯音に、奏多は安心させるようにそう言った。闇と無関係な一般人を巻き込んでしまったという引け目があるのだろう、見た目の軽薄さとは裏腹に、真摯(しんし)な瞳を唯音に向けている。
「…視えないのに危険も何もないと思うんだけど…」
そもそも囲われた場に立っているだけで危険というのなら、既に夕方に1度、現場に立ち会っているのだし、唯音は大して危機感を感じている様子はない。ただ、ひたすら困惑している様子で佇んでいるだけだ。
「…視えなくても闇の気に当てられたりするし。…じゃ、始めるから…。少しだけ…イイ…?」
奏多は申し訳なさそうに唯音を見て、そう言った。
下僕である人外生命体が、闇と対峙する際は、基本的に主から餌を貰うのだと、黒から説明があり、唯音もそれを了承したからこそ、今この場所に立っているのだが、それでも奏多としては無関係な一般人を巻き込んだ負い目を感じているのがありありと伝わってくる。
「ん。どうぞ?」
軽い調子で、唯音はそう言うと、高校の制服のネクタイを軽く緩め、カッターシャツのボタンを上から2つ開けた。片手でくいっと襟を大きく開き、細い首筋を露わにする。
「…へ?」
いきなりの行動に、奏多はキョトンと目を丸くして、間抜けな声をあげた。
「餌って、血でしょ?首からじゃないの?」
唯音は驚かれるのは心外だとばかりに目を丸くすると、不思議そうに首を傾げる。余計に、首筋が露わになって、目のやり場に困るというのが正直な所だ。
「オレ吸血鬼とかじゃナイんだケド…。…えっと、イタダキマス」
血さえもらえれば別に場所は問わない、好みで言えば首筋よりも横腹とか柔らかい所が好きだとやや現実逃避気味に考えながら、奏多は据え膳のように目の前に差し出された首筋にかぷりと小さく噛みついた。
鋭い牙が肌を食い破る感覚はするのに、不思議と痛みを感じる事はなく、唯音はただぼんやりと痛くないなとだけ考える。
目には見えないが、熱の無い火に包まれるような感覚に、唯音は漠然と奏多の闇討伐が始まったのを悟った。
奏多の言う通り、唯音はただその場に佇んでいるだけだ。客観的に見れば、奏多を信じているに見えるか、もしくは欠片も状況が飲み込めていないように見えるだろう。それくらい、ただ静かに佇んでいる。()いだ水面のように静かな瞳で、ただ虚空を見つめる姿は、高校生という肩書に似合わない程落ち着いていた。
虚空を見つめる唯音の瞳には、この場に居合わせる他の3人のように、闇と呼ばれる存在は映っていない。だから、唯音の見つめる先には何も存在せず、焦点が合わないままぼんやりと見つめているだけだ。
奏多も、黄昏時の陽菜や綾香のように物理攻撃を仕掛けるような戦い方ではないらしい。本当に隣に立って、闇を片っ端から燃やすという荒業を披露している。勿論、その様子が唯音には視えていないので、ただ真剣な面持ちで立っているようにしか見えなかった。
そんな2人の様子を少し離れた所で見守っているお目付け役の黒と修治は、手出しする事も無さそうだと穏やかな雰囲気で成り行きを見つめている。
「…ねぇ、黒くん。奏多くん、カピバラのくせに安定しているよねぇ…?」
のんびりとした口調で、奏多や唯音に聞こえないくらいに潜められた声で修治は傍らの黒に話しかけた。視線は、(ほのお)を駆使して戦う奏多と、その隣で佇んでいる唯音に固定したままだ。
「ああ。カピバラのくせに安定してんだよな。有り得ねえだろ、普通に考えて」
重々しく頷くと、黒は修治の問いにも似た言葉を肯定する。黒の目から見ても、闇を焼き尽くすオレンジ色の炎は安定した出力を保っているようで、殲滅作業もこのまま眺めているだけで終わりそうなくらいの単純作業だ。
「真面目な顔してるから、カピバラなのは変わらないはずなんだけどねぇ」
その状況が不思議なのか、修治は解せないという面持ちで腕を組んで奏多による殲滅作業の流れを見つめる。本来、急造コンビで、それも成り立て主従で、更にイレギュラーが重なったような組み合わせで、こんなに安定した能力の発現は困難であるはずだと、その表情が物語っていた。
「奏多の奴、消耗しきってっからカピバラのままだってのに、この状況はどういう事だ…?」
黒から見てもやはりこの状況は不可解な状況で、何故こんなに安定しているのか不思議を通り越して不気味な程だ。
もうすぐ消滅してしまうと本人から衝撃の告白がもたらされる程、奏多には生命力も残っていない筈で、そんな状態では僅かに糧を得たところでこんな安定して力を行使できる筈がない。しかも、急造ペアである所為(せい)で、信頼関係などあってないようなもののはずだ。そんな状態だと言うのに、奏多は安定して能力を発現させている。長年組んで来たペアならともかくついさっき、事故でうっかり契約しちゃいました、なんて程度の組み合わせで、この安定感は異常以外の何でも無かった。
「アト、ちょっと…」
集中力を途切れさせないように気を配りながら、奏多は視界の闇を全て焼いていく。不思議な程調子が良いと自分自身でも思う程、何故か安定している。奏多は頭の隅で僅かにその不思議な状況を何故だろうと考えながら、殲滅に専念すべく意識を集中させた。
「…ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここの、たり…」
不意に、澄んだ声が小さく奏多の耳朶(じだ)を打つ。驚いて声の主を見れば、当然ながら声の主は傍らに立つ唯音だった。
「……ふるえ、ゆらゆらと、ふるえ…」
唯音が虚空を見つめながら何の感情も窺えない声で呟いているのは、布瑠(ふる)の言と呼ばれる祓詞(はらえことば)のひとつだ。本人の意思で唱えているのかすら定かではないが、これはれっきとした鎮魂の祓詞(はらえことば)で、確かに今、奏多が殲滅している闇は、元を辿れば御霊である。だからと言って、視えもしない女子高生が、この状況下で唱えるのは違和感を覚えるような、そもそも知っていることを驚くような言葉だった。
「…ゆいね?」
奏多は虚空を見つめ祓詞(はらえことば)を唱える自分の契約主に向き直ると、焦点の合っていない瞳を覗き込む。
「………あ」
声を掛けられ、唯音はハッと我に返ったように焦点を至近距離の奏多に合せ、小さく声を上げる。
「…イマ…」
聞いてはいけないと思いながら、どうしても声を掛けずにはいられず、奏多は恐る恐る声を掛けた。何を、と問いかける言葉は音にはならず、唇が小さく震えただけだ。
「今?んー…?私、何か変な事でも?」
いっそ大袈裟な程、不思議そうな表情を浮かべ、唯音は軽く首を傾げる。普通の女子高生らしい少しオーバーアクション気味の、可愛く見せるための仕草で上目遣いに見つめる様子は、故意か偶然かやや判断に迷うところだった。
「え…無意識…?」
無意識に祓詞(はらえことば)を紡ぐ女子高生という図は奇妙ではあるが、先程の雰囲気と不思議そうな表情をしている今の雰囲気は、いっそ別人だとか神憑(かみがか)りだとか言われた方がしっくりくる。奏多は僅かに案じるような瞳で、成り行きで巻き込んでしまった少女を見つめていた。
「どうしたの?タワシちゃん」
キョトンとした表情で、唯音はにこっと可愛らしい笑みを見せる。内心は割と穏やかではいられない状況に、笑顔で強引に押し切ってしまおうというような、それは可愛らしい笑顔だ。唯音は、女子高生としての自分の魅せ方を熟知している。どうすれば相手の思考を支配出来るのかという言い方をすれば人聞きは悪いが、要するに自分の魅力を正しく理解し、それを武器に出来るだけの強かさを持っていた。
「…タワシって何!?」
思わず、奏多は間抜けな悲鳴を上げる。この、ある意味緊迫している筈の囲われた場だというのに、素っ頓狂な間抜けな声だ。
「カピバラって言いにくいんだよねぇ…。だから、手触りでタワシ。タワシちゃん。食器用タワシか浴槽用タワシかどっちがいい?あ、掃除用でもいいよ?」
くすくすと可笑しそうに笑って、唯音は目の前で唖然とした表情で固まっている奏多の頬を、指先で軽く突いた。
「オレの名前は…っ」
奏多は、『奏楽』と呼ばれたのを記憶している。そう呼ばれてからほんの僅かな時間しか経過していないのに、まさか目の前の少女は忘れてしまったのだろうか。ただの戯れで、深い意味もなくて、大切な響きだと思ったのは、間違いだったのかもしれない。そんな風に、心が沈んでいって、自分の名前は『奏楽』だと、口にする事が出来ない。
「おい、奏多!手前、状況考えろ!」
せめて自分の名前は『奏多』だと主張しようとした瞬間、代わりに少し離れた所の黒から鋭い声が飛んでくる。
「…っ!」
「あははっ!タワシちゃん、その反応いいねぇ」
そうだ、まだ終わっていなかった…と奏多が認識するのと、いきなり傍らの少女に飛び掛かられ、体勢を崩しかけるのは同時だった。慌てて抱き留めた所為(せい)で、転びそうになるのと何とか耐えた、その刹那。
…チリン…と小さな鈴の音が耳朶(じだ)を打ったような錯覚と、世界から音が消えるような感覚。
そして、奏多の目には、自分目掛けて襲い掛かってきた闇の渦が、一呼吸程前に自分の身体があった場所にある唯音を飲み込むのが視えた。
闇が襲い掛かる衝撃に、抱き留めた身体が跳ねるのを直に感じる。奏多は咄嗟に対処らしき事など何も出来ず、ただ意識を刈り取られ倒れ込んでくる身体を強く抱きしめる事しか出来ない。
「ゆいねっ!」
奏多は慌てて腕の中の少女の名前を呼ぶが、瞳は固く閉ざされたままだった。軽く揺さぶってみても、何の反応も帰ってこない。ぐったりと動かなくなってしまった唯音を前に、奏多は恐る恐る首筋にそっと震える指を添えた。色素の薄い肌の下で、脈が正常に波打っているのを感じて、ほっと小さく息を吐く。
「馬鹿か手前は!動かすんじゃねえぞ…?」
いきなりの出来事に慌てたのは、奏多だけではなく、黒も一呼吸置かずに飛んできたかと思えば、今にも思い切り揺さぶりそうな奏多の手を掴む。
「ありゃ…困った事になっちゃったねぇ」
口調こそふざけてはいるが、黒に遅れて傍にやってきた修治の声も硬い。状況を一瞥(いちべつ)すると、修治は羽織っていた上着のポケットから綺麗に折りたたまれた和紙を取り出す。
「奏多くん、この貸しは高くつくからね?」
そう言うや否や、修治は折りたたまれた和紙を真っ直ぐに伸ばし、人差し指と中指の間に挟んで眼前に掲げた。
「さてと。祓い賜い、清め賜え、っと」
修治はそう言って、指で挟んだ和紙、広げたら符になったそれを残留している闇目掛けて放つ。元はただの和紙だと感じさせないくらい鋭く飛んでいくと、符はバチバチと音を立てて闇を撃ち据える。
「相変わらず適当だな、手前は」
黒はそう言って、修治による闇討伐にやれやれと肩を(すく)めた。
「別に台詞は何でも良いもの。気分の問題だよ」
かなりあっさりと闇を祓ってしまった修治は、そう言ってひらひらと手を振って見せる。仮にも帝都観光の幹部を名乗るだけはあると言わしめる実力だと、もし他にこの光景を見る者があればそういう評価を下しただろう。
しかし、夜も遅い時間に、こんな人気のない場所を好んで選ぶ人間など普通に考えてまず居らず、そもそも囲われた空間の中では誰にも目撃などされるはずもないのだった。
製作者:月森彩葉