異世界召喚されずに乙女ゲーに組み込まれたようです 9

―――夢。
所謂(いわゆる)、夢小説とか、乙女ゲーとか、そんな状況を連想せずにはいられない。
円卓をぐるりと囲む12の席、その席のうち8つが埋まっている状況は、さながら会議のようだろう。
まるで会議だと思う様な状況に、女性は唯音ただ1人である。
そんな状況なのだから、唯音が思わず冒頭のように逆ハーレムだと考えてしまうのは仕方がない。もっとも、唯音にとって円卓を囲む彼らはあくまでも同じ空間で生活をしているメンバーなのであって、恋愛の対象にはならないのである。そして彼らもまた、唯音に対して同居人としてや可愛い後輩としての愛情はあっても、恋愛や性欲の対象にはならない。その距離感から、(まわ)し放題という状況なのにそういった間違いが起こらないシェアハウスだった。
円卓は12席、入口から1番遠い所を時計の12時にするならば、1の席と2の席は空席、3の席に亮が座っている。4の席には円卓を囲む中では最も体格の良い如何にも柔道等の武道に精通していそうなよく鍛えられた短髪の青年が座しており、何故か割烹着姿というミスマッチである組み合わせなのだが、自然と似合って見えた。亮の1つ上、大学の4回生で、塩沢(しおざわ)往人(ゆきと)という名の彼は趣味と実益を兼ねてこのシェアハウスの家事を一手に引き受けている為、同居人たちからオカンと呼ばれている。陽菜と綾香がカピバラ弁当を披露した際に唯音の手元にあったカフェご飯風の弁当を用意したのが、つまり往人だった。それから5の席には学が座しており、続く6の席に玲一が座している。7の席には唯音が学校で注目される原因を作ったフェラーリの主、智信が座っていた。その隣の8の席は空席で、その隣の9の席には、唯音と同じ年齢くらいに見える大人し気な青年が座している。青年と呼ぶか少年と呼ぶか迷うが、文学美少女をそのまま男にすれば出来上がるような一見穏やかで優し気な雰囲気を(まと)っており、名は森村(もりむら)実里(みのり)と言って、亮と同じ大学3回生だ。名前と相まって女性と間違われる事が多いが、本人は間違った相手に誠心誠意、間違いであると説いている。手段は聞かない方が良いと言うのがこのシェアハウス内の暗黙の了解となっていた。そしてその隣、10の席には生真面目を絵に描いたような文武両道を思わせる雰囲気の、けれど物静かな雰囲気の青年が座っており、青年の前には薄型のノートパソコンが置かれている。名を細川(ほそかわ)(かける)と言って、必要な事でも声に出さずトークアプリで送ってくる程の機械依存でひきこもり体質だが、このメンバーはトークアプリでの会話に慣れて久しい。年齢で言えば年中組、往人や玲一と同じ学年だった。最後に、11の席が、唯音の定位置になっている。
これでシェアハウスの現在の住人は全員集合で、つまり空席に相当する住人は初めから存在しない。
何故、全員集合しているかと言えば、最年少でしかも女性である唯音が無断外泊をしたから、ではなかった。それも議題のひとつではあったのだが、唯音が帰宅早々に直球ストレートに宣言した内容に問題があったからだ。
「サクラ、もっかい言って貰えるー?何を飼いたいってー?」
議事進行役の学は、全員がきっちり席に着いたのを見計らってそう言った。揃う直前にオカンこと往人が全員の前に並べてくれた湯呑を手に取り、一口啜る。
「って、オカン、これ梅昆布茶?何でこのチョイス…!?」
緑茶かと思えば、よくよく見れば塩漬けの桜の花が湯呑の中で綺麗に花開いている。見もせずに口にした学は思わず驚きの声を上げていた。
「たまたま桜の塩漬けが届いてな。せっかくだから淹れてみたんだが、どうだ?」
往人は表情を動かさずに平坦な声音で問いかける。見た目を裏切らず基本的に寡黙で表情も大して動かないため、主夫でさえなければ見た目通りの人物だ。
「美味しいけどさ、今はそんな話してねえだろ。何飼うって?」
話の軌道修正を図ったのは亮で、梅昆布茶というチョイスに特に驚いた様子も見せず、ひょいっと湯呑を持ち上げながらそう言った。学と亮の言葉で、円卓の視線は唯音に集中する。
「うん。だからね、カピバラ」
にっこりと笑って、唯音はそうきっぱりと言った。彼氏と同棲したいですという言い訳が駄目だと言われるのは解っているが、ペットとしてなら連れ込めるかもしれないと一応言ってみたのである。帝都観光側から可能な限り一緒に居るように言われてしまったので、最終的に駄目と言われるのであっても、一緒にいる為の努力はしたと示さなければならない。
「…頭でも打ちましたか?正気で言ってます?」
表情だけはにこやかに、実里は何言ってるんだコイツというオーラを隠しもせずにそう言った。
「犬や猫ならいざ知らず、どうしていきなりカピバラなんて飼いたいんですか」
馬鹿じゃないのかと言外に告げながら、実里はやれやれと大げさに肩を竦めるポーズまで見せて、唯音に咎める視線を向ける。
「可愛いじゃん、カピバラ!」
頬を膨らませて言い返す唯音だが、内心はやはりと思っていた。そもそも、あくまでも一応聞いてみただけである。帝都観光側に、聞いてみたけどやっぱりダメでしたと伝える為に、必要な手順を踏んでいるだけだ。駄目な理由など、自分の状況や肩書を考えれば許可が出る方が驚きなくらいだ。
「カピバラを飼うって、お嬢ちゃんカピバラの生態知ってるかい?結構無茶だし、飼育費用も莫大だったよ」
智信がのんびりとした口調でそう言った。手にはスマホが収まっており、カピバラ、ペットという単語で検索された画面が表示されている。
「まず温水プールの設備が必要みたいだよ?それから食費だけで1日1万は軽くいくんじゃないかな。お嬢ちゃん、高校行きながらそんなに稼ぐ暇ないでしょう」
冷静に考えて、カピバラの飼育はまず無理ではないかと智信はわざわざトークアプリを起動してシェアハウスの伝言用グループに貼りつけた。
『餌代1日数千円から1万円…wwwww』
そのトークアプリに、翔が即座にそう打ち込んだ。ご丁寧に驚きのマークのカピバラシリーズ柚子さんスタンプまで添えられている。話す方が楽だと思うのが一般的な考えだが、話す速度と大して変わらない速さでスマホでもパソコンでも打ち込む翔に関しては、楽な方で話せば?というのが同居人の総意だった。
「可愛いのは認めるが。だからと言って飼って良いかは別だからな?大きなぬいぐるみなら買ってあげるから、それで我慢しないか?」
玲一に至っては、妥協案をこう提示してくる。頭ごなしに駄目というより、代替え案でも出してやれば納得するのではないかと、完全に子供扱いも良いところだ。
「む。それくらい自分のポケットマネーで買えるもん」
ますます不満という様子で、唯音はついそう言い返した。別に飼ってはいけないという結論に達する事は初めから解っている。言い返すだけ時間の無駄だと思いながら、それでもつい、口をついて出た言葉はそんな内容だった。
「高校生のポケットマネーなんてたかが知れてんだろ」
サラっと、ある意味禁句を言ったのは亮だ。唯音はこのシェアハウスで普通に生活出来るだけの財力を有している。それは当然、同居人である全員が知っていることだ。
「ふふふ、残念でしたー!お金ならあるもんね」
得意げに言い返し、唯音は綺麗にブイサインを突きだして見せる。
「生活費を切り崩してペットを飼うのは感心しないぞ」
そう告げたのは往人で、言葉からも主夫っぽさが(にじ)む。まるで保護者のような発言も、彼をオカンと言わしめる要因だろう。
「というワケで満場一致で却下なー?んで?無断外泊についてオレらにいう事あるっしょー?」
議題其の1、カピバラを飼うに関してはこれにて閉廷とばかりに学は手を打った。元々、このシェアハウスに他者を住まわせる予定はない。それは何も、人だけに限った事ではなく、ペットの類でも当然家主の許可が必要だ。家主が許可を出すことなど、あるわけがないと円卓を囲む住人は唯音も含めて理解していた。
「無断外泊って言うか、不可抗力だもん!」
別に好きで無断外泊した訳ではなく、成行きと偶然が重なった結果、気付いたら翌日になっていたというだけだと唯音は重ねて主張する。それに、無断外泊をしたところで、本当なら怒られる(いわ)れはないし、彼らとて本気で怒っている訳でもない。
「いいから、ゴメンナサイはー?オレら心配したんだけどー?」
しかし、学はきちんと謝罪するよう唯音に言葉を向けた。心配をしたのは事実だろう。外泊した事に関しては、個人の自由なので(とが)めるつもりはない。しかし、無断という部分に関しては、家族のように同じ空間で暮らしている以上連絡くらいは欲しいというのが正直な気持ちだ。
「そうだ。連絡が無ければ、晩ご飯が必要か解らない」
それは困ると往人までが追従した。確かに台所を預かるオカンである往人からすれば、それは重要な問題だ。しかし、一気に場の空気は和んだ気がする。
「…ごめんなさぁーい。だって、バイト決まって、説明受けて、ついでに初仕事してきたんだもんー。帝都観光だよー。時給めちゃくちゃイイんだよねぇ」
ついでとばかりに唯音はそう白状した。この時点で掛け持ち仕事になるが、仕方がない。それに、同居人たちにはきちんと言っておかねば、また無用な心配をかける事になる。
「へえ…?バイトねー?」
含むところのありそうな雰囲気で、学はニヤリと口角を釣り上げた。
「お前、そーいう事こそトークでも何でもいいから書置きしとけよ」
深く溜息を吐くと、亮もニヤリと笑みを見せる。事情が知れたからなのか、責める雰囲気は一切ない。
「そうですよ、そう言っておいてくれたら僕らも心配せずに済んだんですから」
にっこりと綺麗な笑みを浮かべ、実里もそう続けた。
「それは連絡が出来なくても仕方がないが。次からは気を付けろよ」
玲一までもがそう言って、連絡が出来なかった事に納得したように大きく頷く。これで、同居人たちによる唯音の無断外泊への追及は終了だった。
「帝都観光ってブラックって聞いたよ?頑張ってね、お嬢ちゃん」
最後に、智信がそう言って、片目を眇めウィンクして見せる。可笑しそうな様子を隠しもしないところを見ると、ブラックという噂は割と信憑性のあるものかもしれない。
『勤労学生おつwwww』
翔がそう打ち込んだ通知が全員に届いたところで、円卓を囲むエセ会議は終了となった。
各々が部屋に戻るなり作業に戻るなりで席を立つ中、唯音はこの予定調和の内容を帝都観光側へ報告すべく、一応車で送ってもらう際に交換したトークアプリのアドレスをタップする。生憎、契約を交わしたカピバラ奏多はスマートフォンなど所有していないらしく、送り先は猫の黒が指定したアドレスだ。何故、黒猫がスマートフォンを所持しているのか疑問に思わなくも無かったが、そこは人の姿で契約でもしてきたのだろう、戸籍も身分証明もないと思うのだが、車の運転をしていた点から免許証くらい持っているようだと勝手に推測していた。
相手側に、壁からチラっと顔を出すもふもふキツネスタンプを送り、唯音は返事が来るまでに席を立つ。
「ご飯の時間まで部屋にいるね。手伝い必要なら呼んでぇ」
各々既に自由気ままな生活に戻った同居人たちにチラリと視線を向け、唯音は最後に往人にそう声を掛けて自室へと引き上げた。

部屋に引き上げた唯音は、いい加減着替えようとブレザーを脱いで無造作にデスクの前の椅子に掛ける。女子高生の部屋らしいのはベッドの大きなカピバラの柚子さんぬいぐるみとソファの上のパステルカラーのマカロンクッション、それにふかふかしたラグだろう。全体的に白とパステルピンクで統一された部屋は、モデルハウスの女子高生の部屋のようだ。天板がガラスになっている大きめのデスクの上には白いノート型パソコンと、可愛らしいマグカップをペン立てにした機能性より可愛らしさを重視したブックエンドなどが並んでいる。そのすぐ傍には大きな白いシェルフとラックと本棚が並んで存在し、可愛らしい小物やアクセサリーの入った小箱が可愛らしくディスプレイされていたり、簡単な身支度の小物が並んでいて、かと思えば本棚にはびっしりと難しそうな専門書から軽い読み物までがしっかりと詰まっているのだが、ソコに高校の参考書や問題集は収まっていない。勉強机というよりはパソコンデスクという雰囲気のデスクの側に置かれた通学鞄がどこか浮いて見える。唯音はそのまま大きなクローゼットに向かい、着替えを取り出すべく大きく開け放った。クローゼットの中はきっちり整頓されていて、可愛らしい余所行きの服からスポーティな服まで揃っているが、全体的にガーリーで可愛らしいという印象を裏切らない揃えられ方だ。
「…コレでいっかぁ」
太腿くらいまで丈のある長めの白のオフショルダーニットに黒いスキニーという楽な恰好に着替え、ふわふわの髪を適当にシュシュでサイドにまとめる。可愛らしい女子高生というよりも短大生や専門学校生のような垢ぬけた雰囲気になった。
着替えて満足したのか唯音は脱いだ制服をとりあえずソファに放り投げ、ブレザーのポケットに入れっぱなしだったスマホを取り出すと、ソファではなくマカロンクッションをラグの上に置いてその上に適当に座る。
パスコードロックを解除し、スマートフォンの通知を確認すれば、トークアプリの新着を告げるアイコンがディスプレイで明滅していた。唯音はタップでそのアイコンを選択し、トークアプリを開く。予想に違わず、通知は連絡先を交換したばかりの相手からの返事ではあったが、しかし通知の文章はどう見ても黒からではない。
トークアプリに表示されている文章は、『改めて宜しくね。そうそう、黒くんはスマホなんて持っていないからねぇ、これは私のIDなのだよ』というもので、可愛らしい猫スタンプが添えられている。友達登録が承認されましたという通知の時点で名前を確認して置けば良かったと唯音は表示されている名前に苦笑した。表示されているのは『みんなの治お兄さんだよ☆彡』というなんとも巫山戯(ふざけ)たもので、名前から連想するなら、つまりこれは修治のスマホということだろう。
『こちらこそヨロシクお願いします。シェアハウスでカピバラ飼いたいって言ってみたんですけどね、当然のようにダメって言われちゃいました』
唯音は少しだけ文章を考えた後、当たり障りない口調を選んでそう送った。帝都観光の面々だって、まさかカピバラのまま飼うとは思っていないだろうし、かと言ってシェアハウスで同居も無茶だと察しているだろう。
『そうだよねぇ、それで飼って良いよなんて言われたら流石に私も吃驚(びっくり)だよ。万が一彼氏と同居なら構わないと言われても、それは此方(こちら)からお断りしないといけないしねぇ。人型で一緒になんて暮らしたら、何時奏多くんが人じゃないって知られてしまうか解らないからねぇ?』
即座に返って来たレスにはそう書かれてあった。その文章を見て、唯音はやっぱり自分が最低限死守しなければならない領域は問題ないとこっそり安堵する。もちろんトークの相手である修治にそれを伝える訳にはいかないが、唯音にもオフレコのままにしておかなければならない懸案事項がいくつか存在するのだ。
『彼氏と同居は憧れますけど、まだ早いですしね。今日はこの後に出掛ける予定は今のところありません。何かあればまた連絡しますね。明日、学校に行けるかどうかは改めて書置きします。それじゃ、また後ほど』
そう一方的に書き置いて、唯音は可愛らしいもふもふキツネスタンプの手の代わりに尻尾を振っている物を貼りつけた。既読が付いたのを確認し、すぐに返事がないのを確認するとこの短いやり取りを消去する。別に残していてもパスコードの解除をしなければプライベートな内容は何も見られる心配はないのだが、秘密厳守という書類にサインした以上、リスクは少ないに越した事はない。
短い遣り取りを終え、唯音は大きく伸びをするとソファに適当に身体を預ける。
なんだか厄介な事になった気がするのが半分、結果オーライなのが半分というのが唯音の偽らざる本音だ。
明日から色々大変だが、これくらいやってのけなければとソファに預けていた身体を起こした時、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「はいはーぃ?」
部屋にいることと誰何(すいか)を合わせて、唯音はドアに向けて返事をする。
「俺だけど。お前、今暇してたりしねえ?」
ドアの外からそう掛けられた声は、亮のものだった。
「あれ?りょーちゃん?一応暇だけど、どうかした?」
何か約束でもしてただろうか、記憶にはないけれど唯音は首を傾げて立ち上がるとドアを開けるべく近づいて行く。
「お前の高校、球技大会やんだろ?バスケって聞いたけど。俺が鍛えてやろうか?」
ガチャリをドアを開ければ、そこにはニヤリと笑みを浮かべる亮が立っていた。ご丁寧にバスケットボールを小脇に抱えている。
「何でりょーちゃんがそんなコト知ってるかなぁ?鍛えて貰わなくても私、概ねサボる予定なんだけど」
唯音はきょとんとした表情でまだ近い位置にある亮の顔を見上げた。年齢が1番近いからか、亮と実里は男性の割にどちらかと言えば低身長に含まれる分類で、唯音からすれば長時間至近距離で話していても首が痛くならない貴重な相手のうちの1人だ。
「行事くらい真面目に参加しろよ、お前」
少しだけ呆れを(にじ)ませ、亮は気安い調子で唯音の頭を撫でるようにポンと片手を乗せる。一緒に暮らしてそれなりの時間が経過しているからか、まるで家族のような気安い距離感だった。
「もう日も暮れますし、外は止めた方が良いですよ。虫にも刺されますし、危ないです」
ドアの所で話をしている亮と唯音を目敏く廊下の向こうから見つけてそう声を掛けたのは実里だ。実里は3階から1階まで降りる所だったのか、その逆だったのか、たまたま階段を通った時に廊下から声がしていたので近づいてきたようだ。
「シェアハウスの敷地内でやる予定だったんだけどな。あれ、実里は何でそんな分厚い本抱えてんの?」
ひょいっとドアの前から半分身体をずらし、亮は姿を見せた実里にそう言った。
「この本ですか?サクラさんがこの間読みたいと言ってたのを、たまたま講義で使ったので、そのまま貸そうと思っただけです」
実里はそのまま亮が少しずれた場所に立って、ドアから顔を覗かせている唯音にすっと本を差し出す。唯音は当然のようにその本を受け取って、表紙を確認するなり瞳を輝かせた。
「みのりんありがとぉ!これ、高校の図書館に無かったんだよぅ」
今にも飛びつきそうな勢いで、唯音は嬉しそうな笑顔を見せる。
「そんな本が高校の図書館にあったら驚きます。それ、一応曲がりなりにも専門書の類ですよ」
表面的には呆れたような表情を作ってはいるが、仕方ないとでも言いたげな優し気な空気を(まと)って実里が言った。実里が唯音に渡した本は分厚く、タイトルも著者名も日本語ではない。実は中身も日本語ではないのだが、それでも読みたいと言った唯音の為にわざわざ借りてきてくれたのだろう。本当に、高校の図書館の蔵書リストに載っていれば驚くを通り越してちょっと怖い。
「お前またこんな難しそうな本読んでんの?よく飽きねえな」
ひょいっと本のタイトルを覗きこんだ亮が、うへぇと嫌そうな声を上げる。自然と日本語ではないタイトルを理解し、その内容まで推測できる程度には亮も頭脳明晰語学堪能ではあるが、好きか嫌いかで言えば机に向かって勉強をしているよりも身体を動かしている方が好きらしい。
「この系統の本、かなり面白いよ?りょーちゃんも読めばハマるかも。みのりんはもう読んだ?」
「はい、読みました。サクラさん。本はまだ2週間借りられるので、急がなくていいですよ」
「読まねえよ。少しくらい身体動かさねえ?」
唯音が水を向ければ、実里と亮は同時にどう返す。友達よりは兄弟のように近い関係に見える親密さは、彼らが短くない時間それなりの密度で関わっている証拠だろう。
「本置いてくるね。外出るならりょーちゃんとみのりんの1on1見たいかな」
軽く笑って唯音は受け取った本を置くために部屋の奥へ踵を返す。ぱたぱたと軽い足取りでパソコンの置かれているデスクの前まで行くと、大切そうに分厚い本を目立つところに置いた。そのまま後ろ髪引かれる様子もなく、部屋の外で待つ2人の元へと戻る。
「んじゃ、外行こうぜ」
軽い調子で言う亮の言葉に、唯音も実里も異を唱える事はない。連れだって階下へ降りて行けば、1時間も掛からないうちに夕食が出来るので、早めに切り上げるようにとキッチンから顔を出した往人が声を掛けてくる。それにそれぞれが了解と伝え、外へと出た。
陽は傾きそろそろ暗くなり始める頃だが、視界が悪いという程でもない。
「んで?球技大会目前なのにサクラはやらねえの?バスケ」
玄関に置いてあったバスケットボールを片手持って亮は2人を先導するように歩くと、庭のに設置されたリングの下へやってきた。そのまま、お手本のように綺麗なフォームでシュートを決める。無駄な力の入っていない気楽に放ったシュートであるのに、リングに吸い込まれるように放物線を描いたボールはストンと地面に落ちた。
「相変わらず綺麗なフォームですね」
コロコロと足元まで転がって来たボールを拾い上げ、実里は亮に称賛の視線を向ける。
「そりゃシュート打つだけなら簡単だしな」
実際にコートに立ってシュートを放つ時はブロックを掻い潜ったり、ドリブルからの無理な体勢だったりするのだから、ただ練習でシュートをどれだけ綺麗に決められても意味はないとでも言いたげに、亮は小さく苦笑して見せた。
「みのりんだってフォーム綺麗だと思うけどなぁ」
ボールを持ってリングから離れていく実里に、唯音は笑顔でそう告げる。
「まあ、試合でなければシュートは入りますよね」
実際のコートでは3Pシュート確実という距離まで離れると、実里は振り返って亮同様綺麗なフォームでシュートを放つ。狙い定めるような時間を掛けず、振り返りざまに放たれたシュートはやはり綺麗な放物線を描いてリングに吸い込まれて行った。
「んじゃ次、サクラな」
亮は、自分と実里のちょうど間くらいの距離で2人のシュートを眺めていた唯音に、拾い上げたボールを投げる。
「だからぁ、球技大会なんて手抜きするに決まってるでしょぅ」
飛んできたボールを受け止めるなり、唯音はそのままシュートを放つ体勢に入ると、流れるような動作でボールを放った。ふわりと浮いたボールは、そのまま綺麗な弧を描いてリング目掛けて飛んでいく。
「やるじゃん」
リングの枠に触れる事無く、ど真ん中を綺麗に落ちていくボールを見て、亮はヒュウと口笛を吹いた。
「そもそも暇な時はシェアハウスの皆でバスケとかテニスとかしてるじゃないですか。サクラさんだって一緒にやってるんですから、上手くて当然ですよ」
わざわざ称賛する程でもなく、この程度ならやってのけて当然だとでも言うように、実里は柔和な笑みを見せる。実里にとって目の前の2人は裏のない見た目通りの柔らかな笑顔を見せる数少ない相手だ。
「1on1やるんじゃないの?」
キョトンとした表情で、唯音は年の近い青年2人を交互に見る。一見正反対に見えるこの2人は、実の所とても仲が良い。そこに唯音も加えての3人がシェアハウスでの所謂(いわゆる)年少組と呼ばれるメンバーなので、こうやって一緒にいる事が多いのも要因のひとつだろうが、それを差し引いても相性は良いように思えた。
「んじゃ3人で交代で1on1やろうぜ」
くるりと片手で器用にボールを回転させて、亮が唯音と実里に笑顔を向ける。断られるとは思っていない人懐っこさと好戦的な雰囲気を織り交ぜたような笑みは、活動的な亮の雰囲気にとても似合っていた。
「仕方ないですね。付き合いますから、後で資料運び手伝ってくださいね」
規定事項として告げながら、実里が亮の正面に立つ。連れだって外に出て来た以上、断るという選択肢など初めから存在しない。
「じゃあ先攻りょーちゃん!交互に攻守入れ替えで、3ポイント獲得までに時間が掛からなかった方の勝ちねぇ」
唯音はそう言って、2人の邪魔にならない場所まで下がる。勝負開始の合図の代わりに、大きく手を振り上げて成行きを見守った。  
製作者:月森彩葉