この空と大地に誓う 四章

 気がつけば暗闇の中に一人きりで立っていた。右を見ても左を見ても、ただ真っ暗な闇が続いている。足下も闇に包まれて何も見えなかったが、地面の感触がしているから自分が立っているのだということはわかった。
「……俺、もしかして死んだのかな」
 だったらまずいなぁ、と頬をかきながらディーンはつぶやいた。死なないとフェオンに約束したのに、それを破ってしまったことになる。天と地にかけた誓いを破ることは大変不名誉なことだが、それ以上に気がかりなのはフェオンのことだった。
 身も世もなく泣いていた少女を思い出す。もし本当に自分が死んでしまったのだとしたら、彼女はきっとあの時以上に泣くのだろう。
「それはまずいなぁ、うん」
 彼女のためにもまだ死ねないと考えた時、ふとそれに気がついた。

「――っく、ふ……うぅ……っ」

 押し殺したような泣き声。
 まだ年端もいかぬであろう子どもの泣く声がどこからか聞こえてきた。その声でまた彼の神獣の泣く姿が脳裏にまざまざとよみがえり、心臓を掴まれたように胸が痛んだ。
 耳を澄まして泣き声の方向を探ると、ディーンはそちらへと向かって歩き出した。
 しばらく歩いていると闇の中に白い影が浮かび上がった。
 そのうしろ姿に、ディーンは見覚えがあった。各所を紐で留めることによって無理に着付けた、丈の合わない空色の衣、ゆるく波打ち肩へと落ちる白銀の髪、華奢な肢体――。
 それは彼の神獣の姿だった。
「……フェオン?」
 呼びかけるも、少女の(いら)えはない。顔を覆った両手の隙間からすすり泣く声が漏れるのみだ。
「何を泣くんです? フェオン」
 もう一度呼びかけると、少女は顔を上げぬまま、すまないとつぶやいた。
「わたしのせいだ。わたしにもっと力があれば、こんなことにはならなかったのに。おまえたちを護れたのに」
 そう言って、彼女は背を向けたまま己の無力さを嘆いた。
「違う、貴方のせいなんかじゃない」
 反射的に否定の言葉が口をついて出る。
「貴方がいなければ、俺たちはとっくに死んでいた。貴方は俺たちを護ってくれたんです、力がないなんて、そんなことはない」
 だから、と言いながらディーンは(ひざまず)いた。少女の小さな体に手を回し、うしろからそっと抱きしめる。
「だからどうか泣かないで」
 そうささやいたところで、ふわりと体が浮かぶような感覚に包まれた。


「――いで……」
 耳を打つかすかな声に、セイディは弾かれたように振り向いた。
「ディーン!?」
 視線の先には、幼なじみの青年が薄く目を開けて右手を伸ばしている姿があった。包帯を取り替えるために用意していた軟膏を思わず放り出し、ディーンの顔をのぞき込む。そのうしろで手伝いをしていたルークが目を見開き、祈るように手を組み合わせた。
「気がついたのかい、ディーン!」
 セイディの呼びかけに、ディーンはぼんやりとした眼差しのまま顔を向けた。二、三度まばたきし、やがてその瞳に意思の光が宿る。
「……セイディ?」
 彼女を呼ぶ声にセイディは思わず言葉を失った。できる限りの処置は施したが、このまま意識が戻らない可能性も高かったのだ。そのまま泣き崩れそうになったが、どうにか涙を押さえ込んだ。振り向かないまま、背後のルークに呼びかける。
「ルーク、族長たちを呼んできておくれ!」
「は……はいっ!!」
 何度もうなずき、転びそうになりながらルークが天幕から駆け出す。
「ディーン、体の調子は? どこか痛いところとか、おかしなところはないかい?」
 問いかけにディーンは思案するように天井へと視線を泳がせ、やがて問題ないとうなずいた。そうして、ふと何かに気づいたかのようにセイディへと視線を向けた。
「フェオンは?」
 いの一番に彼の無事を確かめに来るであろう少女の姿が見当たらないことに違和感を覚えて問いかけると、途端にセイディの表情が強張った。落ち着きなく視線を泳がせる娘の姿に、ディーンはきょとんとしてまばたきを繰り返す。
「セイディ、フェオンはどこにいるんだ?」
「その問いにはオレが答えよう」
 もう一度問いかけた時、そんな声が降ってきた。顔をそちらへと向けると、仕切り布をかきわけるカイルの姿が目に映った。そのうしろからエリックが続いて天幕に入ってくる。
 カイル様、と呼びかけると、彼はどこか安堵したような困ったような顔でディーンに笑いかけた。
「意識が戻ったようで何よりだ。一時はどうなることかと思ったぞ」
「ご心配をおかけしたようで申し訳ありません」
 謝りながら体を起こそうとしたディーンに向けて、そのまま寝ていろとカイルは告げる。言葉に甘えて再び体を横たえたディーンを見ながら、何から説明したものかな、とカイルはつぶやいた。
「とりあえず簡潔に言おう。お前が眠り続けている間に帝国の襲撃があり、フェオンはオレたちを逃がす時間を稼ぐためにその場に残った。彼女は戻らないままだ」
 簡潔にまとめられたその言葉は、あまりにも衝撃的すぎた。どこから追及すべきなのか一瞬ディーンは迷い、気を落ち着かせるように大きく深呼吸をする。
「……これからどうなさるおつもりですか?」
 ためらいがちに問いかけたディーンに視線を向け、それは族長会議についてかとカイルは問い返した。
「意見は割れている。一度は抗戦の方向でまとまりかかっていたが、フェオンを失ったことでそれも白紙に戻った」
 このまま行けば帝国に従属することになるだろうなと告げ、だがそうするつもりはないとカイルは宣言した。
「フェオンさえいれば、まだ帝国に抗うことはできる」
「……そうやって、彼女を戦の道具に使うおつもりですか?」
 視線以上に冷ややかな声に、カイルは言葉を詰まらせた。
「それは……」
 言い訳するように口を開いたカイルを遮り、それじゃだめなんですとディーンは訴えた。
「神獣を道具として扱えば帝国と何も変わらない。神獣はあくまでも象徴としてあるべきで、その力に頼りすぎれば草原の誇りを失います」
 違いますか、と問いかけたディーンに、カイルは息を吐き出すようにして笑った。
「お前たちはいつもそうだな」
 ひどく重い言葉に、問うようにディーンは視線を向ける。それを受け止め、カイルは淡い苦笑を浮かべると小さく(かぶり)を振ってつぶやいた。
「お前も、フェオンも……いつだってこちらの痛いところを突いてくる」
 右手で顔を覆ってため息をついたカイルに、ディーンが言い過ぎたかというような顔で眉を寄せる。
 どこか気まずい沈黙の中、エリックが発言権を求めるように挙手をした。
「ですがどの方法を採るにせよ、フェオンがいなければ話にならないのではありませんか?」
 神獣を戦の切り札とするにせよ、団結のための象徴とするにせよ、エリックの言う通りフェオンがいなければ始まらない。そもそも彼女が無事でいるという保証もないのだ。
 だがそう訴えたエリックに、大丈夫だとディーンは答えた。
「フェオンは無事でいる」
「なぜそう言いきれるのです?」
 目を細めて問い返したエリックに、ディーンは右手を上げて手の甲を彼らの方へと向けた。そこには彼が祭司であることの証である刻印があった。
「これがある限り、フェオンが無事であることの証明となる」
 彼女はこれを己の銘の一部であり、契約の証だと言った。神獣は祭司に加護を与え、祭司はその生涯を神獣に捧げる――その契約はどちらかの死によってしか解消されないのだ。
 無言でディーンとその右手の甲の刻印を見つめていたカイルは、やがてゆっくりとうなずいた。
「その言葉、信じよう」
「けど……けどさ、フェオンが無事だとしても、帰ってこない理由はどう説明するんだい?」
 そう口を挟んだセイディに、カイルたちは思わず視線をそらした。問いの答えをうすうす理解しながら、それを口にするのを無意識に避けたためだった。
 その様子にセイディは不安そうに眉を寄せる。
 ため息と共に口を開いたのはエリックだった。
「彼女が帰ってこない理由は、おそらく帝国側に捕らえられているからでしょう」
 その言葉に、セイディだけでなくルークまでもが悲鳴をこらえるように口元を押さえた。そんな、と震える声でつぶやく。
「助けてあげられないんですか?」
「彼女の救出に向かうということは、すなわち敵の本拠地のただ中に飛び込むということです」
 そう簡単にできることではないということは、言われずともルークやセイディにもわかっていた。それでも、と問いかける。
「どうしても……無理なのかい?」
 すがるような二人の眼差しに、カイルは顔を覆って大きく息を吐き出した。
「オレの独断で動かせて、しかも手練れの戦士となると数が限られるな」
「ですが敵地に潜入する以上、あまり大人数で行動するのは見つかる危険が大きいでしょう。せいぜい数人が限度――それを考えればちょうどいいとも言えます」
 顔を付き合わせて相談を始めたカイルとエリックに、セイディとルークがほっとしたように息を吐き出す。
「それ、俺に行かせてもらえませんか、カイル様」
 体を起こして訴えたディーンに、顔色を変えたのはセイディだった。
「何をバカなこと言ってるんだい!? 傷も塞がりきっていないのに、無理に決まってるだろう!」
「問題ない。第一、フェオンを助けに行くのに俺が行かないでどうするんだ」
「戦闘とは無縁のあたしにだって、フェオンを助けに行くのがどれだけ難しいことなのか想像がつく。万全の状態じゃないあんたが行ったって足手まといになるだけだよ!」
「それでも、俺は行かなくちゃいけないんだ!」
 互いに譲らず、肩で息をしながら叫ぶ二人を(いさ)めたのは、それまで黙って話を聞くだけだったマーサだった。
「言い分もわかるんだけどね、セイディ。けど、男には無理を押してもやらなくちゃいけない時ってのがあるんだよ」
「だけど、マーサさん……」
 なおも渋るセイディに、わかっていると言いたげにマーサはうなずいた。
「だから私も行こう。バカ息子のフォローは、母親の私の役目だろうさ」
「しかしな……二人だけというのも心配だ」
「その通りだよ!」
 渋る様子を見せたカイルに、味方を得たとばかりにセイディが声を大きくする。
「カイル様、先ほども申し上げた通り大人数では見つかるおそれがあります。かと言ってこの二人だけに任せるのも心配です」
 ですから、とエリックは告げた。
「私が同行し、無茶をしないように見張りましょう」
「たしかに、手練れという意味ではこの三人が適任かもしれないが……」
 納得しつつも割り切れないのか、カイルは何度も(かぶり)を振った。だが、やがて吹っ切るように腹の底から大きく息を吐き出すと、
「――わかった、お前たちに任せよう。そのかわり、絶対に無理はしないこと。……いいな?」
 危険だと思えばすぐに戻ってこい。そう言って、カイルは三人を向かわせることを決めたのだった。


         ◆


 ユミリアはカーダの最北端、大陸の南北を遮る山脈の麓に位置する商業都市である。大国との国境線である南端に位置する都市とは比べようもないが、遊牧民や山脈越えを試みる旅人たちを相手にすることによってそれなりに栄えた都市であった。
 しかし、それも今は昔の話である。カーダへの侵攻を開始した帝国軍によって、半ば見せしめのように滅ぼさたためだ。
 街に縦横に広がる大通りは、かつては市場が開かれ露天商でひしめいていたものだが、今は見る影もなく寂れて各所に破壊の爪痕が生々しく残っている。
 そんな街の最奥に、奇跡的に破壊をまぬがれた一邸の館があった。かつては街を統治する者の住居であり、現在は帝国軍の拠点とされている館だ。
 その館の一室でフェオンは帝国の皇女と対峙していた。いや、対峙と言うとやや語弊があるかもしれない。鏡台の前に座らせたフェオンの髪を皇女(オーレリア)が結っているのだ。オーレリアの表情はひどく楽しげで、そしてどこか優しげでもある。草原に侵攻した帝国の皇女と、それに抗う草原の守護者たる神獣であるということを知らぬ者が見れば姉妹だと思ったかもしれない。
「はい、できたわよ。ふふっ、思った通りとても可愛いわ」
 ブラシを置いたオーレリアが満足そうにフェオンを見やって笑みを浮かべた。髪を押さえつけるようにきっちりと編み込む草原式とは違い、ゆるやかに髪の流れを出すようなふんわりとした編み方だ。少々くせがあり、ふわふわと広がりがちなフェオンの髪質からすれば、外見相応の少女の姿に似合いの愛らしい髪型である。結ばれたリボンも鮮やかな色をしており、白銀のフェオンの髪によく映えている。しかし鏡の中のフェオンの表情は不機嫌極まりないといった様子だった。さもあらん、この館に連れてこられてから数日が経とうとしているが、その間ずっとこんなことをされているのだ。人形遊びの人形とさしたる変わりはなかった。
「……何を考えている?」
 声音以上に冷ややかな視線を鏡越しに受け止めたオーレリアは、何事もないかのようににこりと笑った。
「あきらめた方がいいわ」
 フェオンの問いには答えず、彼女はまるで歌うように告げた。遠からず草原は帝国の一部となる、抗うだけ無駄なのだ、と。
「わたしに遊牧民(かれら)に降伏するよう説得しろとでも言うつもりか?」
 低く問いかけるフェオンに、オーレリアは(とろ)けるような笑みを向ける。
「無駄な流血はお互い望んでいないでしょう?」
 彼らが抵抗をやめるのであれば悪いようにはしない。しなだれかかるように耳元でそうささやいたオーレリアを、フェオンは突き飛ばすようにして振り払った。――無駄な流血(、、、、、)? それをおまえが言うのか。
 ふざけるな、と考えるよりも先に言葉を叩きつけていた。
「先に血を流したのはおまえたちの方ではないのか!?」
 あの日、高台でディーンが語っていたことを思い出す。流血には流血で報いる、それが草原の流儀――だからこそ自分たちは戦い続けるのだと、どこか悲しげにも見える眼差しで語った青年の姿を覚えている。
 そしてもう一人、強い意志を込めて語った青年がいた。草原の誇りを守るためにも降伏するわけにはいかないと、そう言っていたのはカイルだ。
 フェオンには彼らの考えはとうてい理解できそうもない。けれども彼女は思う。そうやって語る彼らは好ましいと。だからこそ決めた。たとえ求められずとも、彼らを護ると。
 糾弾するように睨みつけたフェオンの勢いに呑まれたのか、オーレリアの顔から表情が消えた。形の良いくちびるを噛み、ふるえる拳を握りしめながらうつむく。
 低く、聞こえるかどうかといった声で娘がささやいた。
「……こんなこと、わたくしは望んでいない」
 どこか傷ついた色を浮かべた瞳が細められ、まぶしそうにフェオンを見つめる。
「わたくしの声に応えたのが貴方だったら、違っていたのかしら?」
 泣きそうに揺れる声がか細くささやく。すがるようなその眼差しを、けれどもフェオンはすげなく切り捨てる。
「たとえ応えたのがほかの神獣であったとしても、結果は変わらなかっただろうな」
 睨むでもなく見下すでもなく、ただそこにあるものとして何の感慨もなく見つめて。
「たしかに赫蛇(かくだ)は流血を好む性質であるようだが、そんな神獣を呼んだのはおまえにも同じ性質があるからだ」
「違うわ! わたくしはそんなこと望まない!!」
 髪を振り乱して否定するオーレリアに、ならばなぜ、とフェオンは追及する。なぜ、おまえは兵を率いて草原に侵攻した?
「命じられたからよ! 勅命に逆らえるわけがないでしょう!?」
「……本当に?」
 静かな、凪いだ湖面のように深い色をした瞳がオーレリアを捉える。
「そこにおまえの意志は微塵もなかったと言えるのか?」
「――ッ!!」
 どこまでも静かな糾弾にオーレリアが息を詰まらせた。服の胸元を両手で握りしめ、必死に(かぶり)を振る。
 違う、とうわごとのように繰り返す娘の姿にフェオンは小さく嘆息した。おまえもまた勘違いしているようだ、と吐息と共に告げる。
「神獣はおまえが考えているような万能な存在ではない。そして神獣の性質は、少なからず降臨させた者の影響を受けるのだ。だから赫蛇があのように好戦的で流血を好む性質なのは、おまえにも責任の一端がある」
 そう語ったフェオンに、オーレリアはうつろな眼差しを向けた。感情のうかがえない声音がぽつりとつぶやく。
「……ならば、あのまま死ねと言うの?」
「そんなことは言っていない」
「同じことよ!」
 ヒステリックに叫んで、オーレリアは血走った目でフェオンを見つめた。まるで絞め上げるかのごとく、少女の細い首へと両手を伸ばす。フェオンは抗うこともせず、狂気を帯びた顔つきのオーレリアをただ見上げていた。
 少女のその青い瞳が、白銀の髪が、オーレリアに一つの情景を思い起こさせる。知らず少女の首を絞める腕に力が込もった。
 降り積もる雪と、何年も溶けることなく押し固められて氷となった残雪。
 一年の大半が冬である山脈の北側、それらの国の中でもロアヴィルはひときわ貧しい国だった。春が来て雪が溶ける地域はほんの一握りで、ほとんどは永久の凍土に覆われている。穫れる作物の量などたかが知れており、そのわずかな実りも質は悪い。冬を越せずに死んでいく者は、毎年数えるのもうんざりするほどだ。
「もう死なせないと誓ったのよ! あの雪の大地では護れないと言うのなら、冬の寒さに怯えずに済む場所を手に入れる! ――たとえ奪い取ってでも!!」
 血を吐くような声で宣言し、オーレリアはフェオンを解放した。少女には一瞥もくれず、ふらつく足取りで部屋を出ていく。
 けほ、と小さく咳を吐き出しながらフェオンはオーレリアが去った方を見やった。
「……相手がただの侵略者であれば楽だったのだがな」
 そうであれば、全力で抗い、相手を叩き伏せることをためらいはしなかった。けれど相手もまた護るべきもののために戦っているのだと知ってしまった。
 だが、とフェオンは考える。相手がどのような理由であれ、自分はもう決めたのだ。あの草原に住む人々を護ると――。


 ドアに背を向け、窓の外を見るともなしに眺めていたフェオンだったが、不意に背後に人の気配を感じて目を閉じた。嘆息して背後の人物に向けて告げる。
「何度言われようと、おまえの言い分を聞くわけにはいかない」

「――どうしても、ですか?」

 返ってきたのはやわらかな青年の声だった。苦笑するようなその声は、ここでは聞けるはずのない彼女の祭司の声。
 目を見開いて振り返ったフェオンに、ディーンは優しくほほえんだ。
「助けに来ましたよ、フェオン」
 その言葉に、フェオンは思わず泣きそうになって歯を食いしばった。
「人間が神獣を助けるなど、そんなバカな話があるか」
 ぎゅっと拳を握りしめ、震えそうになる声を精一杯抑える。
 そう、そんなことがあってはならないのだ。神獣が人間を助けるならばまだしも、その逆など。それもこれも、すべては自分の無力さに起因することとフェオンはうなだれる。
「……わたしにもっと力があれば、こんなことにはならなかったのに」
 そうすればディーンが傷つくこともなく、フェオンが囚われることもなかった。まだ傷も治りきっていないだろうディーンが、彼女のために無茶をすることもなかったのだ。
 強く握りすぎたのだろう、爪が手のひらを食い破り、ぽたりと床に血が落ちる。それに気づいたディーンが、そっと手を伸ばして彼女の拳をほどかせた。
「フェオンは充分俺たちを助けてくれました」
 言葉もなく(かぶり)を振る少女に小さく笑う。彼女もまた草原に生きる者なのだと不意に思った。どこまでも意地っ張りで、責任を自分で抱え込もうとする。それは草原で生きる者の性質だ。
「ねえ、フェオン。聞いてくれますか?」
 膝をつき、少女と目線を合わせてディーンは口を開いた。
「俺はね、思うんです。一方的に庇護し、それに頼りきるような関係は不自然なんじゃないかって。神獣と人間が互いに助け合う、そんな関係があったっていいはずでしょう?」
 その言葉にフェオンが瞳を大きく揺らした。小さく開かれたくちびるが言葉を発するその寸前――。

「そんなことが本当に可能だと、本気でそう思っているのかしら?」

 トゲを含んだ冷ややかな声が投げられた。弾かれたようにそちらへと視線を向ければ、ドアにもたれかかるようにしてこちらを見やるオーレリアの姿があった。
 びくりと肩を震わせたフェオンをかばうように、立ち上がったディーンが一歩前へと足を踏み出す。まっすぐにオーレリアを見据えて口を開いた。
「実現してみせるさ」
 強く決意を込めた声で宣言したディーンを見やると、彼女はのどをのけぞらせて笑った。ひとしきり笑うと冷めた眼差しを二人へと投げる。
「そう、ならば好きにすればいいわ。こちらは全力で叩き潰すのみ……」
 せいぜい足掻(あが)いてみせるがいいわと告げると、オーレリアはドアの向こうの闇へと姿を消した。
 そのうしろ姿が見えなくなると、早く逃げましょうとディーンはフェオンを促した。
「外で母さんとエリックが退路を確保してくれていますが、いつ見つかるかわかりません」
「あの二人も来ているのか!?」
 マーサならばまだわからないでもないが、あのエリックが敵陣に忍び込むことをよく了承したものだと驚いた。フェオンに対して懐疑的だったエリックのことだから、このままフェオンを見捨てるようカイルに進言しても不思議ではないと言うのに。
 驚いたように目を見開いて立ち尽くすフェオンをもう一度促すと、ディーンは彼女の手を取って走り出した。


「……行かせてよかったのか?」
 手を取り合って館から走り去るフェオンとディーンを見やりながら、つまらなさそうに赫蛇が問いかけた。ちらりと視線を向けた先には、胸の前で腕を組みながら見るともなしに逃げる二人を眺めているオーレリアがいる。
 今からでも追って殺すことは可能だと(わら)う赫蛇に、オーレリアはかすかにくちびるを吊り上げてみせる。
「気づいていながら放置したのは貴方でしょう?」
 わざわざ進入させておいて今更何を言うの、と吐き捨てる。
「いいのよ。この程度、何の障害にもならないわ。……ええ、何の問題もなくってよ」
 まるで自分に言い聞かせるかのように問題ないと繰り返し、オーレリアはきびすを返した。自分の居室へと戻る彼女を見送り、赫蛇は笑みを浮かべる。(うやうや)しく、けれども敬意の欠片もない礼を彼女へと送り、ささやく。
「仰せのままに、皇女殿下」


         ◆


「フェオン……!」
 ディーンらと共に野営地点へと戻ると、ずっと待っていたのだろう、フェオンの姿を認めたセイディが駆け寄ってきた。ぎゅっとその腕に抱きしめられ、フェオンは思わず目を見開く。エリック共々疎まれていたと思っていただけに、この反応は予想外だった。
「無事でよかった。どこもケガはないかい?」
 膝をついて目線を合わせ、確かめるように触れてくる手はどこかくすぐったく、そしてそれ以上に嬉しかった。だからしがみつくようにしてその首に両腕を回した。
 セイディは一瞬驚いたように目を瞠ったが、すぐにその眼差しを和らげた。無事でよかった、ともう一度繰り返す。
「兄さん! それにフェオンさんも! 無事だったんですね!!」
 ばたばたと騒々しく駆けてきて叫んだのはルークだった。上体を折るようにして膝に手を突き、深々と息を吐き出す。よかった、と泣きそうな声でつぶやく。
「無事のようで何よりだ」
 先の二者よりはやや落ち着いた声で告げたカイルも、その額にはうっすらと汗がにじんでいる。報せを受けて慌てて飛んできたのであろうことが見て取れた。
「……心配をかけたようで、すまない」
 つっかえながらもフェオンがどうにかその言葉を口に出すと、その場にいた全員がそれに応えるように笑みを浮かべた。それにふわりと心が温かくなって、ごく自然に口元が笑みの形を刻む。
「フェオン、戻って早々に申し訳ないのだが、これから族長会議がある。草原の民としてどうするか、そしてカーダがどうなるのか、それを決定する重要な会議となるだろう。同席してもらいたい」
 緊張を孕んだ硬い声音に顔を上げると、まっすぐな視線でカイルはこちらを見ていた。その瞳に宿るのは強い意志の光。草原の民としての総意を決める会議に挑み、己の意見を通してみせるというそんな感情(おもい)
 カイルの目をまっすぐに見返し、フェオンは大きくうなずいた。
「わかった、おまえと共に行こう」


 野営地点の中央、それぞれの部族ごとに固まって設営された天幕群のちょうど真ん中あたりに会議場として急遽新たな天幕が張られていた。カイルのあとに続いて天幕の中へと入ると、そこにはすでにほかの部族の長たちの姿があった。
 車座になった場の中、一つだけ空いていた場所に迷いなく腰を下ろすと、カイルは一同の顔を確かめるようにぐるりと視線を動かした。
「本日お集まりいただいたのは、ほかでもない今後の我らの動向について話し合うためです」
 そこで一度言葉を切ると、カイルはあぐらをかいた膝の上でぐっと拳を握った。横目で自分の背後に立つフェオンの姿を確認するように視線を巡らせ、また前へと戻す。
「我らソジュ族としては、神獣白凰(はくおう)を旗頭に、草原の民が一丸となって帝国と対峙することが総意となることを願う」
 まっすぐに前を見据えて告げたカイルの言葉に、いぶかしげに声を上げたのはヴィルトフ族の長だった。発言権を求めるかのように軽く手を挙げる。
「神獣を使って帝国を倒すのではなく、か?」
 試すようなその言葉に、いかにも、とカイルはうなずく。
「神獣の力は借りるが、あくまでも戦うのは我々草原の民だ」
「だが実際問題として我々で帝国に敵うのか?」
 ヴィルトフ族の長の言葉に同意を示した何人かがうなずき、あるいはそうだと声を上げる。
「――わたしが護る!」
 混乱の元となりかねないから黙っているようにと言い含められていたが、たまらずにフェオンは声を上げていた。
「おまえたちがわたしを必要としてくれるなら、この身を懸けてそれに応える!」
 そう訴えるも、長たちは互いに視線を見交わして戸惑ったような声を上げるばかりだ。
 くちびるを強く噛みしめながら、それも無理からぬことかとフェオンは思う。女――それもこんな幼子が護ると言ったところで、信用を得られるわけがないのだ。
 諦観と共にまぶたを閉ざした時だった。
「……我らはソジュ族を支持しようぞ」
 老いた男の声が決意を込めてそう告げた。弾かれたようにそちらへと目を向ければ、言葉を発したのは赫蛇の襲撃の際にフェオンがかばった老人の一人だった。
「お嬢さん、――いや、神獣白凰殿。わしはあの日お主に命を救われた。その恩に報いるためにも、我らユンア族は共に戦おうぞ」
 皺に隠れた瞳の奥に強い決意を秘め、彼はそう告げた。その言葉に、日和見(ひよりみ)揶揄(やゆ)されていたほかの三部族の長もうなずく。
「それを言えば我らも同じ」
「いかにも。恩に報いぬは、草原に生きる者として何よりも恥ずべきこと」
「しかり。ゆえに我らも戦いましょうぞ」
 順繰りに言葉を紡いだ三者を見やりながら、ヴィルトフ族の長が苦笑混じりのため息を吐き出した。
「ソジュ族の、過半数が抗戦派に回りながら、それでもまだ意見を求めるか?」
 その問いかけに、そうだとうなずいたのはフェオンだった。
「無理に戦えとは言わない。――いや、そんなことを言う資格はわたしにはない」
 どうするのか、それを決めるのはおまえたちだからだ。そう語ったフェオンに、ヴィルトフ族の長は不意に笑い出した。フェオンのみならず、ほかの長たちまでもが何事かといぶかしげな視線を彼へと向ける。
 気の済むまで笑ったのか、余韻を残しながらも瞳だけは真剣な色を浮かべてヴィルトフ族の長はフェオンを見つめた。
「この状況で帝国に降伏すると言うぐらいなら、もうとっくに降伏している」
「では……!」
 期待を込めて問いかけたカイルに、ヴィルトフ族の長は力強くうなずいた。
「我らもまた、共に戦うことをここに誓おう」
 父なる空と、母なる大地にかけて。六つの声がそう唱和した。


 会議の内容が実際に帝国をどうするのかという方向に流れた時だった。帝国の戦力について多少報告できることがあるとカイルが告げ、天幕の外に待たせておいたエリックを中へと招いた。
 天幕へと入ってきたエリックは、ほかの長たちに向けて頭を下げてから口を開く。
「帝国の主戦力はあくまでも神獣赫蛇です。人間の兵士は戦力として考える必要はないでしょう」
「言い切ったな。その根拠を聞かせてもらおうか?」
 挑むようなヴィルトフ族の長の視線を受けながらも、エリックは気圧(けお)されることなくうなずいた。根拠は二つ、と指を二本立てる。
「一つは、我々が神獣奪回のために敵の本拠地へと潜入できたこと。帝国軍が主力を人間だと定めていたならば、神獣の奪還は元より潜入することすら難しかったでしょう」
 厳密に言うならば、彼らは誰にも見つかることなく潜入できたわけではない。見張りとして立っていたのがすでに降伏した草原の民であったため、見て見ぬ振りをされたというだけである。
 これが一つ、と告げ、言葉を続ける。
「もう一つは、今までの戦闘において赫蛇以外と交戦したことがないということです。また兵糧のことを考えても、さほど多くの兵を連れてきてはいないと思われます。――以上が根拠となります」
 そう言葉を締めくくると、エリックはまた一礼して壁際へと下がった。
 ざわりと戸惑ったような空気が生まれる中、声を発したのはやはりと言うべきかヴィルトフ族の長だった。
「よもや敵地のど真ん中に潜入しようとはな。ずいぶんと無茶をしやがる」
 にやりと笑いながら告げられた言葉は、非難と言うよりはどこか面白がるような響きがある。
「……必要なことだと思ったから実行したまでだ」
 それに答えるカイルの声は、無茶をしたという自覚があるためかやや歯切れが悪かった。それをごまかすように口を開く。
「すでに帝国に降った者も多いだろうが、赫蛇さえどうにかしてしまえばそれも離散するだろう」
「たしかに。だが問題はいかにして帝国の神獣を倒すかであるが……」
 セロザ族の長の言葉に、一瞬場が凍り付いた。
 そう、問題はそこなのだ。赫蛇さえどうにかできれば勝機は見えるが、そこに至るまでの壁がとてつもなく厚い。それぞれの部族で戦力の核となる優秀な戦士は抱えているが、生身の人間ではよほどの策がないと難しいと身を以て知っているのである。
 互いに目を見交わしたまま黙り込む長たちに向かい、フェオンはゆっくりと口を開いた。
「赫蛇は……ヤツはわたしに任せてほしい」
 その言葉に視線が一斉にフェオンへと向く。そこに浮かぶのは期待や戸惑い、不安など様々な色だが、共通したものが一つだけあった。
「貴方はすでに一度戦って、負けているでしょう?」
 長たちの心情を代弁するかのようにエリックが指摘する。
 すでに一度勝敗が決した相手に挑んでも、同じことになるのではないかというのが長たちに共通した思いだった。
「だが、人間では戦いにすらならない」
「そんなことはやってみなければわからない!」
 血の気の多い性質であるのかヴィルトフ族の長がそう吠え、
「たしかに相手の力は強大だが、対抗策がまったくないわけではないだろう?」
 彼をなだめるためか、あるいは自分でもそう思っているからか、カイルがそう問いかける。
「対抗策、な……」
 小さくつぶやき、フェオンが(かぶり)を振る。
「ないと思ってもらってかまわない」
「……人間ではどうしようもないと言う理由は、瘴気(しょうき)が原因だからですか?」
 フェオンの祭司であるという理由で最初から天幕内にはいたものの、今まで陰に潜むように発言せずにいたディーンが不意に問いかけた。
「瘴気、とな。どういうことか理由を説明いただけようか? 神獣のお嬢さん」
 騒然となった場を納めるように手を挙げ、テフォラ族の長が問いかける。それにこくりとうなずいてフェオンは口を開く。
「我々は瘴気と呼ぶが、厳密には力の余波と言うべきかもしれんな。神獣が本気で戦闘行為を繰り広げる、あるいは神獣の力量によっては戦意を解放しただけで周囲の生き物に影響を及ぼし、恐慌状態に陥らせる。そこにいるだけで威圧される、というのが正しいのかもしれん。とにかく、普通の人間ではどうしようもないのだけはたしかだ」
「その瘴気とやら、中和するすべはないのかの?」
 当然といえば当然の問いかけに、フェオンは一瞬言葉に詰まった。ちらりと己の斜めうしろに立つディーンに視線をくれる。何か言いかけ、けれども彼女は結局口を閉ざして(かぶり)を振った。
「さっきも言ったが、ないと思ってもらってかまわない」
「その言いぐさからすると、何かすべはありそうに思うがねぇ?」
 ミュラ族を預かる老婆の言葉に、びくりとフェオンの肩が揺れる。探るように老婆の目を見やり、彼女に退く様子がないことを見て取るとあきらめたようにため息をついた。
「……加護があれば、瘴気を中和することも可能だろう」
 だが、と釘を差すように言葉を続ける。
「赫蛇の力は強大だ。祭司ほどの加護があれば中和できるだろうが、そのレベルの加護を何人にも与えられるほどの力は、残念ながらわたしにはない」
「ならば、その祭司とやらであれば戦列に加われるということであろう?」
 ヴィルトフ族の長の言葉にカイルとエリックが揃って顔を見合わせ、それから当の祭司へと視線を向ける。その二人の視線を追うように、ほかの長たちの視線も一人へと集中する。フェオンの祭司――すなわちディーンへと。
 当のディーンは集まった視線にきょとんとした様子でまばたきし、小首を傾げた。
「わかりました、じゃあ俺もフェオンと一緒に赫蛇の方に当たります」
 あっさりと言い放たれた言葉にカイルとエリックが何か言いたげに口を開き、けれども言うだけ無駄だと悟っているのか何も言わずにため息だけを吐き出した。
「おまえ……自分が負傷しているという自覚はあるのか?」
 じっとりとした視線で問いかけたフェオンに、ディーンは平然とうなずく。
「ありますが、問題ないです」
「……そうか」
 こちらもまたあきらめの境地に至ったらしいフェオンが、それだけつぶやいて嘆息する。
「とにかく、赫蛇はわたしとディーンがどうにかする」
 頭痛をこらえるようにこめかみに右手を添え、フェオンが宣言した。
「ではオレたちが皇女とその護衛の兵を引き受けよう」
 カイルがそう言い、それでかまわないだろうかとほかの面々に視線を向ける。
 異議を唱える者がいないことを確認すると、どこか満足げにほほえんだ。
「では、そういうことで決まりだ。各々自分たちの部族の者にこれを伝え、万が一反対意見が出た場合には後日改めて方針を決めるとしよう」
 彼の言葉にうなずきで応えると、長たちは立ち上がって天幕の外へと向かう。カイルたちもまた天幕を出て、ソジュ族の天幕のある方向へと向かって歩き出したのだった。


「――以上が族長会議の決定である!」
 ソジュ族の天幕のある場所へと戻るとカイルはエリックに残っているソジュ族を一箇所に集めさせ、先ほどの会議の内容を説明した。
 当然と言うべきか、話を聞いた彼らは戸惑いの様子を見せた。何しろ神獣だと言われて紹介されたのは年端もいかぬ子どもである。この子どもに自分たちの命運をかけて戦えと言うのがどだい無理な話なのだ。
 ざわざわと互いに言葉を交わしながらも積極的に意見を言おうとしない彼らに、カイルはさらに言葉を重ねる。
「異議がなければ、これをソジュ族の総意とする!」
 その言葉に、すっと挙げられた手があった。人並みをかき分けるようにして最前列に出てきたのはルークだ。
「異議はありませんが、質問があります。なぜ兄さんだけが、フェオンさんと共に帝国の神獣を相手にすることとなったのですか?」
 もっと多くの人手を割いた方が勝率は高くなるはずだとの言葉に、フェオンが否を唱える。
「神獣との戦いに人間を連れていくことはできない。瘴気に(おか)され、まともな判断を下せぬようになるからだ」
 そう言って、フェオンは族長たちにしたのと同じ説明を話して聞かせた。一層ざわめきが大きくなるが、無理もあるまい。彼らの常識からはあまりにもかけ離れた内容だ。
「その加護は、ほかの人間に与えることはできないんですか?」
 なおも食い下がるルークに、フェオンは戸惑ったように瞳を揺らした。ためらったあとで口を開く。
「赫蛇との戦力差を考えれば、せいぜい一人か二人……。だが少々人手が増えたところで、神獣相手には意味がないだろう」
 (かぶり)を振ってつぶやいたフェオンに、それでも、とルークは訴える。
「弓での支援があれば、少しは違うはずです!」
 だから、どうかぼくにも加護を。強い決意を秘めた眼差しで、少年はそう告げた。
 注がれるまっすぐな眼差しに、フェオンが射竦められたように動きを止める。どうしたものかと答えに迷う彼女にのみ届く声量で、そっとカイルがささやいた。
「実際のところどうなんだ?」
 眉間に皺を寄せ、フェオンは小さく(かぶり)を振る。
「加護自体を与えることは可能だ。戦力が向上するかどうかは……ないよりはマシという程度かもな」
 そもそも人間が神獣に挑むというのが前例のない話なのだ。どう転ぶかなど、それこそやってみなければわからない。
「俺は反対です」
 声を潜めたディーンがそう訴え、エリックもうなずいて口を開く。
「私も同感です。これがマーサさんならば問題はないでしょうが、ルークでは……」
「そうだな、さすがに成人の儀もすませていないような子どもを戦地に送り出すわけには行かない」
 二人の訴えにカイルも納得したようだった。一つうなずき、ルークでは認められない旨を伝える。
「マーサであれば適任かと思うが、どうだ?」
「期待されるのは悪い気はしないんだがね……悪いけど弓手(ゆんで)ならほかを当たっておくれ」
 私は弓は苦手なんだよ、とあっさりと言い放つ。
 またもやざわめきに包まれる場を見やり、フェオンがどうすると言いたげにカイルへと視線をやった。
「もういっそのこと、一番の弓の使い手に加護を与えるということでどうだ?」
 ディーンだけを連れて戦闘に赴くというのでは、ルークは納得しないだろう。かと言って適当な人選と思われたマーサは、当人に振られたばかりである。
「「ソジュ族一の、弓の使い手……」」
 揃ってつぶやいたカイルとエリックがある方向へと視線を向ける。彼らの声を拾った人々もまた、同じ方向を見つめていた。すなわち、ルークの方を。
「……子どもが一番の使い手ってどういうことだ」
 思わずボソリとつぶやいたフェオンの言葉は、幸か不幸か誰の耳にも拾われることがなかった。
「ダメです、認められません!」
 沈黙を引きちぎり、ディーンの叫び声が響いた。ルークはまだ子どもだと訴えるも、
「たしかに成人の儀はまだですが、年齢では問題ないはずです!」
 当のルークが真っ向から反論する。そのまま睨み合う兄弟に、どうするつもりだと人々がカイルへと視線を向ける。
「おまえがどうにかしない限り、あれは収まらないと思うぞ?」
「……そのようだな」
 フェオンの言葉にうなずき、カイルが盛大にため息をつく。どうしてこんなことになったのか。
「わかった、ルークの戦列への参加を認める。ディーンと共にフェオンの支援に当たるように」
 そう声を張り上げたカイルに、兄弟が揃って彼の方へと視線を向けた。
「「カイル様!!」」
 ディーンは非難を、ルークは歓喜の色を声に込めて彼の名を呼ぶ。
「これは族長命令だ、異議を唱えることは許さん」
 バッサリと切り捨てられ、ディーンは不服そうながらも渋々口を閉ざしたのであった。


 翌日、再び長たちは中央に設えられた天幕に集まった。他の部族でも混乱はあったようだが反対意見は出なかったことから、抗戦の方向で意見はまとまることとなった。
 フェオンの援護のためにルークに加護を与えるということを報告した時に異議が出たものの、ルークがソジュ族一の弓の使い手であること、またフェオンの信頼を得ていることから決定したとカイルが一蹴して取り合わなかった。
「それで、問題はいつ仕掛けるかじゃな」
 テフォラ族の長の言葉に、意見は真っ二つに割れた。ヴィルトフ族の長は即座に仕掛けることを提案し、クオミ族の長は相手の兵糧が尽きるまで待つよう訴えた。互いに譲らぬ二人の長の口論を、ほかの長たちは口を挟むこともできずにただ見つめるだけだ。どちらに肩入れしても角が立つと思ったのか、あるいはどちらの意見も一理あると思ったのかもしれない。
「まあ、相手は遠征してきている状態だからな、兵糧が尽きるのを待つというのも一つの手ではあるが……」
 握った拳を口元に当ててカイルがつぶやいた。その眼前では、相も変わらず二者が侃々諤々(かんかんがくがく)と意見を戦わせている。終わりを見せないそのやり取りを見やりながら、フェオンが口を開く。
「だが、すでに帝国側に降った部族と都市があるのだろう? そこを経由して補給するのはないか?」
「ですよねぇ……」
 フェオンの意見にうなずいて、ディーンが小さくため息を吐き出す。状況を考えれば、兵糧攻めは難しいと思われた。
「それに時間をかけすぎればこちらの士気が落ちる可能性も否めない。そうなっては元も子もあるまい」
 フェオンの言葉に、カイルもまた同じ意見だったのか、たしかに、とうなずいた。
「――すまない、少しいいだろうか」
 未だ論議の終わらぬ二者の息継ぎの合間を突き、カイルが言葉をねじ込んだ。一斉に突き刺さった視線に戸惑いつつ、わずかに手を挙げる。
「御老の意見も理解できるのだが、帝国側に降伏した部族と都市の存在をお忘れではないか?」
 そちらから兵糧は補給される可能性があると暗にほのめかした言葉に、クオミ族の長は言葉に詰まった。ごまかすように大きく咳払いする。
 勝ち誇ったように口を開きかけたヴィルトフ族の長の機先を制し、カイルは言葉を続ける。
「かと言って、性急に攻め込むのもいかがなものかと思われる。準備期間に三日を置き、その後仕掛けるというのでいかがだろうか」
 カイルのその提案に誰もが黙り込む。吟味するようなその沈黙に、ほう、とフェオンが小さく声を上げた。
「うまく収めたな」
折衷(せっちゅう)案を出すの得意ですからね、カイル様」
 喧嘩の仲裁なんかもうまいですよ、とディーンがうなずく。
「では、三日の準備期間の後仕掛ける、そういうことでよろしいですかな、各々方」
 確認するように声を上げたテフォラ族の長に異議を唱える者は誰もいなかった。
製作者:篠宮雷歌