この空と大地に誓う 五章

「考え直す気はないのか、ルーク?」
 帝国への総攻撃を明日に控えた夜、弓を手入れする弟に向かってディーンは何度目かの問いを発した。
「人間の力でどうにかなるような相手じゃないんだぞ?」
 死ぬかもしれないのに本当にいいのかと訴える兄の言葉に、ルークは手を止めた。弓から顔を上げ、まっすぐにディーンを見据える。
「どうして兄さんならよくて、ぼくではダメなんですか?」
 人の身で敵う相手でないと言うのなら、それは兄さんも同じでしょう。そう反論されてディーンはひるんだ。何度か口を開き、けれども言葉が見つからなかったのか結局何も言わないまま口を閉ざす。小さく(かぶり)を振ると、彼は背後を振り返った。
「……フェオンからも何とか言ってください」
 唐突にそう振られ、見るともなしに兄弟のやり取りを見ていたフェオンは首を横に振った。
「そう言われてもな……。言い分としてはルークが正しい」
 だからわたしにはどうしようもないとため息をついてそっぽを向いたフェオンに、ディーンがそんなと情けない声を上げる。
「お前たち、まだやってるのかい?」
 鍋から料理を皿によそいながらマーサがおかしそうに笑う。その様子に、ふと疑問を覚えてフェオンは口を開いた。
「マーサ、母親としておまえはどう思っているんだ?」
 ルークが総攻撃に参加することが決まってからずっとディーンは異論を唱え続けてきたが、よく考えてみればマーサは一言もその件に触れていないのである。
「……私かい?」
 料理を盛った大皿と人数分の取り皿、箸を床に並べながらマーサが問い返す。ふっと笑い、そうだね、と考えを巡らすように視線を天井へと向けた。
「自分でそう決めたのなら、私は何も言う気はないよ」
 その言葉は息子を信頼しているようにも、放任しているようにも取れる響きだった。無責任だと感じなかったのは、彼女の表情がどこか見守るようなそんな笑みであったせいかもしれない。
「兄さんはどうしてそう(かたく)なに反対するんですか?」
「どうしてって、当然だろう? 子どもが戦になんて関わるべきじゃない」
「ぼくはもう子どもじゃない!」
「そういうことを言うあたりが子どもだと言うんだ!」
 互いに一歩も譲らず、叫んで睨み合う息子たちを見やったマーサがやれやれと(かぶり)を振る。煮込んだ羊肉を一欠片口に放り込むと、呆れたようにつぶやく。
「どっちもどっちだねぇ」
「……止めなくていいのか?」
「やるだけ無駄だよ」
 問いかけたフェオンにあっさりとそう返したマーサは告げる。
「早く食べないと冷めるよ」
 その言葉に、いいのだろうかと首を傾げつつも、フェオンは料理へと箸を伸ばしたのであった。


 食事が終わったあとも、兄弟は飽きもせずに同じことで口論を繰り広げていた。最初は面白がっていたマーサの視線もどこか冷ややかだ。
「……なあ。そんなにこだわるんなら、いっそのことやってしまったらどうだ? その成人の儀とやら」
 終わりの見えないやり取りに辟易(へきえき)したフェオンがぼそりとつぶやく。その言葉に、ニヤリとマーサが笑みを浮かべた。
「そうか、その手があったね。ちょっと族長に掛け合ってくるよ」
「ちょ……! フェオンも母さんも何を言い出すんですか!?」
 それに慌てたのはディーンだった。成人の儀を行ってしまえば、反対する理由がなくなってしまうではないか。
 止めるように伸ばした手の先で、無情にも仕切り布が激しく揺れる。
「……あきらめろ」
 もはや反対しているのはおまえだけだとフェオンに告げられ、ディーンはがっくりと肩を落とした。


「……まだそんなことでもめているのか?」
 呼ばれたカイルは事情を説明されるなりそう問いかけた。呆れたような眼差しをディーンへと投げる。
「残念ながら、もめている真っ最中だ」
 うなずいたフェオンの顔には、もううんざり、と大きく書いてあった。
「ルークが成人の儀を行っていないのが問題だと言うから、それをやればすべて丸く収まるのではないかと思ってな」
「まあ、たしかに原因がそれだというのなら、解決しますね……」
 決戦前夜に至ってまだこんなくだらないことでもめているとは思わなかったのだろう、呆然とエリックがつぶやいた。
 どうするのかと期待半分、不安半分で見やってくるフェオンらに、カイルは大きくうなずいてみせた。
「わかった、今からルークの成人の儀を行おう」
 その言葉に、思わずルークの口から快哉(かいさい)が漏れる。
「カイル様!?」
 反射的に非難の声を上げたディーンに、カイルは冷ややかな視線を向けて告げる。
「いつかも言ったが、族長命令だ」
 逆らうことは許さんと反論を封じる。
「ですがカイル様、儀式に使う鳥の羽はどうするのです?」
 エリックの問いかけに、あ、とつぶやいて顔を背けるカイル。口元を手で押さえて視線を泳がせている。
 何か条件があるのかとフェオンが問いかけると、儀式を受ける者が自分で取ってくる必要があるのだとエリックが答えた。
「それは鳥そのものを取ってくる必要があるのか? それとも羽だけでいいのか?」
「鳥ごと狩ってくるのが望ましいとされていますが、羽だけでもかまいません」
 何か考えがあるのかと眼差しで問うたエリックに、フェオンはうなずいてみせた。ルーク、と呼んでその目をまっすぐに見つめる。
「わたしの羽で手を打つ気はないか?」
「……え?」
 一瞬何を言われたのか理解できなかったのだろう。ルークはきょとんとした様子で首を傾げ、やがて言葉の意味を理解したのかその目が大きく見開かれた。
「フェオンさんの羽をくれるんですか!?」
 ぱっと表情を明るくしたルークにフェオンがうなずく。
「鳥であれば種類は問わんのだろう?」
 今までの会話で【鳥の羽】とは言っていたものの、どの種類の鳥とは彼らは言っていなかった。
「ええ、【自分で取ってきた鳥の羽】であれば種類は問いません」
 もっとも、とエリックは付け加える。
「この先ずっとお守りとして身につけることとなりますので、自分が気に入るかどうかが条件となりますが」
「……まあ、そうなるわな」
 そうでなければ【自分で取ってくること】という条件は付かないだろう。もっとも、この条件は自分の力を示す意味合いも大きいのかもしれないが。何しろ鳥を狩ってくるのが望ましいとされているのである。
「どこかこのあたりで転化しても問題ないような広い場所はあるか?」
「湖のほとりがいいでしょうね」
「ではそこに行こう」
 話がまとまり、ぞろぞろと湖のほとりに向かって歩き出そうとした時、エリックがカイルを呼び止めた。
「カイル様、私は儀式の準備を進めておきます」
 その言葉に一瞬考え込む様子を見せたが、カイルは小さくうなずいた。
「そうだな、その方がいいだろう」
 頼めるかとの言葉に、エリックは笑みを浮かべてうなずいてみせる。
「お任せください」
 一礼して離れていくエリックを見送ると、カイルはフェオンらを追って歩き出した。


 湖畔へと着くと、フェオンはほかの者らに自分から離れるようにと告げた。彼らが距離を取ったのを見ると、自身の内へと意識を向ける。その途中、一瞬だけためらった。ディーンは回復したけれども、本当に転化できるのだろうか? 自分はまだ必要とされているのだろうか?
 そんな思いからか、視線が無意識にディーンを追った。彼はフェオンの視線に気づくと、一瞬不思議そうに首を傾げてからほほえみを浮かべた。その笑みに理由もわからずに嬉しくなってフェオンもほほえむ。先ほどまで抱いていた不安は跡形もなく消え去っていた。
 深呼吸してふたたび集中する。思い浮かべるのは、もう一つの己の姿。
 ふわり、と白い燐光が少女の体を覆う。夜目にも鮮やかなその光は大きさを増していき、そして耐えかねたように弾けた。
 きらきらと降り注ぐ光の向こうには、うずくまるようにして翼を休める白い大鳥の姿があった。人一人どころか数人はその背に乗れそうなほどの大きさがある。月明かりに照らされ、その羽はわずかに青みを帯びて輝いていた。
『ルーク』
 首を伸ばして自分を呼ぶ大鳥に、ルークは思わず背筋を正した。こちらへ、と促されておそるおそる近寄る。
『好きなのを取るがいい』
「どれでもいいんですか?」
 戸惑いながら尋ねると、そうだ、とうなずかれた。本当にいいのかな、と思いながらルークは大鳥の周りを歩く。
 てっきり月光を弾いているのだと思っていたのだが、実際にはその羽自体が発光しているらしく、闇の中に白く浮かび上がって見える。今はうずくまっているが、これが風を切りながら空を駆けたならばどんなに美しいのだろうかと想像して胸が躍った。
 吹き寄せる夜風にさらさらと鳴る音は大鳥の冠羽だろうか。全体が見えるように少し離れて大鳥へと目を向ければ、長い飾り羽が風にそよいでいるのが見えた。まるで馬の尻尾のようだと思ったが、近づいて見てみれば全然違った。真ん中に一本通った筋を覆う、細くしなやかな糸のような羽毛。飾り羽の一番うしろや所々に丸く固まった羽毛があって、矢羽根のように見えた。
「あの、飾り羽を一本もらってもいいですか?」
 振り返って尋ねると、どうぞと言うように大鳥は頭を下げた。その仕草でまた光が弾けてきらきらと踊る。
 そっと一本の羽に手を添える。痛みを与えないように細心の注意を払いながら、ルークはそれを引き抜いた。
「うわぁ……」
 手の中の羽は風を受けてさらさらとなびいていた。羽毛が手のひらを優しくくすぐる。白一色に見えていたが、動かす度に光の加減で絶妙のグラデーションを描く。くるくると表情を変えるその様は空を思わせた。
「ありがとうございます!」
 頬を上気させ、興奮したように叫ぶルークにフェオンはくすりと笑みをこぼした。
『気に入ったか?』
 そう問えば、彼は何度もうなずいた。大事そうに両手で胸元に羽を抱き寄せる。
 その仕草にもう一度笑みをこぼし、フェオンはふたたび意識を己の内へと向けた。光が大鳥を包み、少女へとその姿が変わる。
 天幕が張られた場所へと戻ると、大きく空けられた場所の中央に火が焚かれていた。焚き火の脇にはマーサが、やや離れた場所では焚き火を囲むようにして人々が立っている。
 カイルに気づいて近寄ってきたエリックの手には、布に包まれた一振りの短剣があった。
 エリックにうなずいてみせると、カイルは人々の間をすり抜けて焚き火の脇へと向かう。ついて行くようにとエリックに促され、フェオンらもカイルのあとを追って焚き火の脇に立つ。
 よく見ると焚き火の横には敷物が敷かれていた。促すようなマーサの視線を受け、ルークがその上に座る。手にしていた羽は膝の前へと置かれた。フェオンたちはマーサの横に立つようにと言われたので、それに従う。
 カイルは取り囲む人々へと目を向けると声を張り上げた。
「これより、ルークの成人の儀を執り行う!」
 すでにエリックから聞かされていたのだろう、人々は特に反応を示さなかった。見守るような眼差しを中央にいるルークへと向ける。
「具体的に何をやるんだ?」
 こそりとささやいたフェオンに、ディーンもそっとささやき返す。
「族長と儀式を受ける者の家族が一房ずつ髪を切っていくんです。最後に儀式を受ける者が、切られた自分の髪と用意した鳥の羽でお守りを作って終わりです」
 正直それで何が変わるのかと思ったが、彼らには意味のある儀式なのだろうと考えてその言葉を飲み込んだ。代わりに問いかける。
「なぜわたしまでここに並ばされているんだ?」
 敷物の上にはルークが座り、その横にマーサとディーンが、眼前にはカイルと、彼の後ろに控えるエリックの姿が見える。彼らは儀式を執り行う中心人物であるから理解できるが、なぜ自分までこの場に引っ張り出されたのかが理解できない。
「さあ……儀式に参加しろってことでしょうか?」
 そう答えるディーンもどこか戸惑ったような顔をしている。
 そんなことを話していると、カイルがくるりときびすを返してこちらを向いた。ルークの前へと歩み寄る。
 足を止めたカイルの横でエリックが手にしていた布を広げ、カイルに短剣を捧げるようにする。カイルはエリックの手から短剣を受け取ると、短剣の腹の部分をルークの額に当てた。
「汝に父なる空と母なる大地の守護があらんことを」
 朗々と詠うように告げると、彼は短剣をルークから離してその背後へと回った。結われた髪を手に取ってほどくと、その一房をざくりと切る。控えていたエリックが差し出した布の上に切り取った髪と短剣とを置いた。
 エリックが今度はマーサの元へと向かい、同じように短剣と髪の置かれた布を捧げる。短剣を受け取ると、マーサもまたルークの髪の一房を切り取った。
 ディーンも先の二人と同じようにすると、なぜかエリックはフェオンの前へとやってきた。戸惑ったようにフェオンが視線で問えば、エリックは周りには聞こえないくらいの小さな声でそっとささいた。
「彼らと同じようにしてください。カイル様のご指示です」
 その言葉にカイルへと目を向ければ、彼もまたうなずいた。なぜ、と疑問を抱きつつも儀式を中断させるわけに行かず、フェオンは言われたままに短剣を手にするとルークの背後へと回った。一瞬人々からどよめきが起きたが、それはカイルの視線の一撫でで収まった。
 ディーンと同じ色をした髪を一房握ると、それに短剣をあてがった。わずかな手応えのあと、ぶつりと音がして髪はあっけなく切り落とされた。エリックが捧げ持つ布の上に髪の束と短剣とを置く。
 布を手にしたエリックがふたたびカイルの前でひざまずく。捧げられた短剣を手に取ると、カイルは残っていたルークの髪をすべて切り落とした。
 髪の毛と短剣が布の上に置かれたのを見ると、エリックはそれを持ってルークの前へと回った。彼の座る敷物の前に布を置く。
 布の上でとぐろを巻く自分の髪を見て、ルークはどこか感慨深そうに目を細めた。あとはこの髪とフェオンから譲り受けた羽でお守りを作れば、儀式は完了する。
 置いていた羽を手に取ると、どのようにしようかとルークは考えを巡らせた。
 羽毛が丸く固まった部分は、グラデーションによって円が幾重にも重なったようにも見える。この部分と、糸のように細長い羽毛を使おうと決めて短剣の刃を入れた。
 指の太さほどの束にして毛髪を手に取ると、それを手早く編んでいく。所々に糸のような羽毛を混ぜ込んで編み、最後に矢羽根のように丸まった羽毛の部分と一緒に束ねた。
 できあがったお守りを腰帯に結びつけ、ルークはカイルへと視線を向けた。それにうなずきで応えると、カイルはふたたび人々を見やった。
「この者を成人として、また戦士の一人として迎えることを宣言する」
 カイルの言葉に、人々が祈りを捧げるかのように一斉にひざまずく。
 ――父なる空と、母なる大地にかけて。
 唱和されたその声は、ひどく厳かな響きを宿していた。


         ◆


 そうして翌日、決戦の日がやってきた。フェオンたちが先行して赫蛇を引き離し、その後草原の民たちが帝国軍に攻め入る算段となっている。
「ルーク、考え直すなら今のうちだぞ」
「……あんたね、まだそんなこと言ってるのかい?」
 懲りもせずに弟を説得しようとするディーンを見て、セイディが呆れたようにそうつぶやいた。いい加減腹をくくったらどうだと言われ、ディーンが気まずそうに顔を背ける。そんなディーンを見やってため息をつくと、セイディはフェオンへと顔を向けた。
 じっと自分を見つめるセイディに、フェオンはきょとんとした表情で首を傾げる。
「セイディ? どうかしたのか?」
 問われた彼女は何か言おうと口を開きかけ、けれども結局(かぶり)を振った。
「……気をつけて」
 それだけをどうにか絞り出すと、セイディはフェオンを抱き寄せた。その小さな体をぎゅっと抱きしめる。最初驚いたように身を強張らせたフェオンだったが、すぐに体の力を抜いた。おずおずとセイディの背に手を回す。
「わたしなら大丈夫だ、心配いらない。必ず帝国軍を草原から追い出してみせるから」
 その言葉に、セイディはフェオンを抱く腕に力を込めた。
「ちゃんと帰ってくるんだよ」
 約束だからねとささやいて、彼女はフェオンを解放した。
 見送る視線を受けながら、フェオンはディーンの馬に乗せられて野営地を出発した。
 野営地を離れてしばらくすると、フェオンはディーンに馬を止めるように求めた。地面に降り立つと、ディーンとルークを見上げる。
「念のために言っておく。あくまでも戦うのはわたしで、おまえたちはその援護だ。少しでも()されるようならば、おまえたちはすぐに逃げろ」
「フェオンさん!?」
「そんなの、できるわけがないでしょう」
 不服を訴えた兄弟だが、フェオンは(かぶり)を振った。厳しい調子で告げる。
「ダメだ。これが守れないと言うのなら、お前たちを連れて行くことはできない」
 どうするのかと問われ、兄弟は渋々その条件を了承した。


 ユミリアに近づいたところで、フェオンが不意に手を横に伸ばした。止まれ、と短く命じる。いぶかしみながらも馬を止めた兄弟は、彼女の視線の先に人影を認めて息を呑んだ。
 草原の物とは異なる黒い衣、固まりかけた血を思い起こさせる暗赤色の長い髪。ひどく鮮やかな赤い瞳は愉悦を含んで輝いている。
「懲りもせず、また俺に挑むつもりか? 小鳥」
 貴様では俺に勝てない、そう告げる声は自信ではなく、確信を感じさせる響きだった。
「……そんなもの、やってみなければわからないだろう!?」
 叫ぶと、フェオンは鞍の上に立ち上がった。とん、と鞍を蹴って飛び上がると同時に転化する。
「できるものならやってみせるがいい」
 笑みを含んだ声でささやいて、赫蛇もその姿を大蛇へと転じた。


 空を切って急旋回したフェオンがその鋭い(くちばし)で、あるいは鉤爪で赫蛇へと攻撃を加える。避けられないはずはないだろうに、あえてその攻撃を受ける赫蛇に(こた)えた様子はない。だがフェオンは何度となく攻撃を仕掛け、そのたびに赫蛇は余裕に満ちた様子でそれを受ける。
 神獣同士の戦いを前に兄弟は手を出すことも叶わず、ただその戦いの行く末を見守ることしかできなかった。
「人間が神獣に敵うはずがない、か……」
 かつて自分が弟に言ったその言葉が胸をえぐる。ああ、その通りだ。自分は何もできず、ただ手をこまねいて見ているだけ。偉そうに弟に向けて説教を垂れていた自分を殴りたくなった。お前も同じなのだ、と。
「……けど、だからと言ってこのまま見てるだけってわけにもいかないんだよ」
 自分に言い聞かせるようにささやいて、腰のうしろにくくりつけていた鞘から剣を抜く。
 そんな兄を見やり、ルークもまた弓を握る手に力を込めた。そうだ、自分が志願したのはただのわがままではない。少しでも力になりたくてあの時声を上げたのだから。
 顔を見合わせ、兄弟は強くうなずいた。神獣と比べれば非力な自分たちにだって、できることがあるはずだ。
 低く飛びかかってきたフェオンに向けて赫蛇がその尾を打ちつける。フェオンは斜めに傾くようにしてそれを避けると、一度高く舞い上がった。
 その刹那、ひゅん、と空気を切る音がして眼下を矢が飛びすぎた。続けて何本もの矢が飛んでいく。
 何事かとそちらへと目を向ければ、ディーンが剣を手に赫蛇へと斬り込むところだった。手が届く胴体へと剣を振り下ろすも、硬い鱗に阻まれて剣は弾かれる。
 うるさそうにそちらへと目をやり、赫蛇が虫でも追い払うように尾を振った。危うく叩き潰される寸前でその下から逃れたディーンが馬を走らせる。ルークが攪乱(かくらん)するように矢を乱射したその隙に距離を取り、機会を伺う。
 何を無茶なことを、そう思うと同時にフェオンの体は動いていた。錐揉みするように急降下。落下の勢いを利用して赫蛇の右目に突っ込む。
 (くちばし)は眼球をかすめたものの、彼女もまた尾の一撃を喰らって盛大にはね飛ばされた。衝撃で一瞬意識が飛ぶ。
 少女の姿に戻って落下するフェオンに気づき、ディーンは思い切り馬の腹を蹴った。剣を鞘へと納めると、落ちていくフェオンへと追いすがって手を伸ばす。その体が地面に叩きつけられる前に受け止めると、片手で手綱を操って赫蛇から距離を取った。
「フェオン、……フェオン!」
 何度か呼びかけると、腕の中で少女が小さく動いてまぶたを開いた。それにほっと息を吐き出す。
「よかった……どこか怪我はありませんか?」
左翼(うで)をやられたようだ」
 わずかに顔をしかめて左腕を押さえ、フェオンがつぶやく。
「転化はできるが、うまく飛べないだろうな」
 その言葉にルークが小さく声を上げた。自分が傷を負ったかのように顔をしかめる。
「撤退してはどうですか? このまま戦っても不利ですよ」
 ルークの訴えももっともだった。唯一の戦力足り得るフェオンは負傷し、満足に戦えない。ならばこれ以上勝ち目のない戦いを続けるのは無意味だろう。
 だがフェオンは(かぶり)を振ってその訴えを拒絶した。
「ダメだ、ここで退くわけにはいかない」
 ここで退けば、たしかに自分たちは助かるだろう。だがそうすれば赫蛇を抑える者がいなくなる。帝国軍に戦いを挑んだ草原の民たちを、むざむざ危険にさらすことになるのだ。それだけは何としてでも避けなければならなかった。


         ◆


 ひゅん、と風を切りながら飛んできた矢をカイルは剣で切り払った。応じるように背後からも矢が射かけられるが、どこか勢いがなかった。周囲に目を向ければ、剣や弓を手にした仲間たちは皆戸惑ったような表情を浮かべている。
 視線を眼前へと向ける。整然と並んでこちらに弓矢を向けているのは、空色の衣に身を包んだ一団だった。
「ラーエとチェロト、か……」
 帝国に降った部族の名前を口に乗せ、カイルは顔をしかめる。敵に降伏したとはいえ、かつての仲間と剣を交えるのはひどくやりにくかった。だがそれはお互い様であったらしい。あちら側もかつての仲間には攻撃しづらいらしく、散発的に矢が飛んでくるだけだ。
 結果、互いに牽制するかのように距離を置いて矢を打ち合うだけという、ひどく消極的な戦いとなっていた。
「どうする、ソジュ族の」
 近寄ってきてそう問いを発したのはヴィルトフ族の長であった。
「同じ草原の民とはいえ、帝国に降った連中だ。一思いに蹴散らすか?」
 やや血の気の多い草原の民の中でも特にその気が強いのか、ヴィルトフ族の長は物騒なことを口走った。それに顔をしかめてカイルは(かぶり)を振る。敵に寝返ったとはいえ彼らは同胞だ、できればそれは避けたいところだった。
「我々の敵は帝国のみ。彼らを傷つけずに突破し、帝国軍のみを相手にしたい」
 しばらくはこのまま様子見だと告げたカイルに、ヴィルトフ族の長は考え込むような仕草を見せたあとでうなずいた。
「了解した、しばらくはこのままの状態を保つとしよう」
 そう答えて離れていくヴィルトフ族の長を見送り、カイルは大きくため息をついた。血気に逸る彼の気持ちもわからないでもないが、もう少し抑えてほしいものである。
「……あちらは大丈夫だろうか」
 ぽつりとつぶやいたカイルの声を拾い、エリックが顔を上げた。
「フェオンのことですか?」
 そうだとうなずくカイルは、心ここにあらずと言った表情だった。よほどフェオンのことが気がかりなのだろう。
「彼女自身が大丈夫だと言ったのです、信じましょう」
 そううなずいて、それよりも、とエリックは眼前に視線を向ける。
「問題はどうやって前線を突破するかでしょう」
 我々の敵は背後に控える帝国軍だとのエリックの言葉にうなずきながら、カイルはそっと空を見上げた。
 そこに先ほどまで空を舞っていた白い大鳥(フェオン)の姿はない。それがひどく不安を煽った。


         ◆


 けして退くわけにはいかないとフェオンは告げた。それが彼女のプライドや意地から来るものではなく、退くことによって危険にさらされるであろう草原の民を思ってのことだということがディーンにはわかっていた。だから彼はわかったとうなずいて弟の反論を封じる。しかし、かと言って彼女一人を危険にさらすつもりなど、彼にはなかった。
「俺たちにできることはありますか? フェオン」
 申し出に驚いたようにフェオンは目を瞠り、だがディーンの決意を悟ると小さくうなずいた。
「わたしを赫蛇のすぐそばまで連れて行け」
 あと一撃だ、とフェオンは告げた。
「もう一撃加えることができれば、赫蛇の右目は潰せる。そうすればこちらにも勝機はある」
「そうは言っても……!」
 止めるように声を上げたルークの肩を押さえ、ディーンはかぶりを振った。彼女はもう決めてしまっているのだ。今更自分たちが何を言ったところで意味はない。
「やるしかないんだよ、ルーク」
 諭すようにささやいたたディーンに、ルークは不安を隠せない様子ながらもうなずいた。


 フェオンを鞍の前へと乗せると、ディーンは剣を手に赫蛇へと突撃した。振るわれる尾をかわしながら、剣、あるいはフェオンの風で攻撃する。しかしそれらはどれも硬い鱗に阻まれ、体表に薄い傷をつけるだけだ。それでもフェオンたちは何度となく攻撃を繰り返す。
 なおも無意味な行動を繰り返す二人を見下ろすように、赫蛇が大きく首をもたげた。
『結局その程度か、小鳥』
 そう赫蛇がせせら笑うのと、
「やれ、ルーク!!」
 フェオンが叫ぶのとは同時だった。
 彼女の合図に、ルークは引き絞っていた弦を放した。ぱぁん、と弾ける音がして矢が放たれる。狙いは過たず、矢は赫蛇の右目へと突き刺さった。同時に(やじり)に仕込まれていたフェオンの術が炸裂する。
 眼球から血液をまき散らしながら、持ち上げられていた赫蛇の頭部が大地に落ちた。ずん、と音を立てて大地を振るわせる。
「――やった!」
 快哉(かいさい)を上げるディーンに、まだだ、とフェオンは鋭く叫んだ。あと一押し足りない。
 負傷した左腕を押さえながら、少女はキッと空を見上げた。その体が光に包まれ、大鳥へと姿を変える。


         ◆


 何かが倒れるような重い音がして大地が揺れた。それに交戦していた草原の民たちが一斉に音のした方へと顔を向ける。直後、眩い光が空に弾け、蒼穹に白い鳥の影が浮かんだ。あまりにも大きなその鳥の姿に帝国側からは恐れの声が上がる。
『この地は白凰が守護する草原の国ぞ! 侵す者あらば、何人(なんぴと)たりとも容赦はせぬ!!』
 どこか幼さを残すその声は白き鳥から聞こえてきた。その恫喝と、何よりも先ほどまで見えていたはずの赫蛇の姿がないことに気づいたのだろう、帝国側に動揺が走る。その隙をカイルは見逃さなかった。
「今だ、突撃しろ!」
 剣を振り上げて叫ぶその声に、ソジュ族が応じて馬を駆けさせる。それにほかの部族も次々と続いた。武器を取ることすら叶わないラーエ族とチェロト族の脇を駆け抜け、その背後の帝国兵へと迫る。
 乱戦となったその場をカイルは駆け抜ける。斬りかかってくる帝国兵をいなしながら、その目が探すのは敵の総大将――皇女オーレリアの姿だ。
 何人の帝国兵を斬り捨てたのか、血にまみれた剣を手に周囲を見渡すカイルの目が一人の娘の姿を捉えた。娘は周囲を取り囲む兵士たちによって、いずこかへと誘導されていく。
「逃がすか……ッ!」
 低く叫ぶと、彼は手早く剣を鞘へと収めて代わりに弓を手に取った。
 狙いを定めて矢を放つ。しかし心臓を狙ったはずの矢は逸れ、娘の肩口を射抜いた。
 舌打ちして弓を投げ捨てると、カイルはふたたび剣を抜いた。雄叫びを上げながら突撃する。
「殿下!」
 気づいた帝国兵の一人が声を上げ、振り下ろされるカイルの剣を受け止めた。


「……そんな、そんな! 赫蛇!!」
 蒼穹に浮かぶ白鳥の下、そこにいるはずの彼女の神獣に向けてオーレリアは声を上げる。射抜かれた左肩の痛みなど感じなかった。ただ、赫蛇が無事であるかどうかだけが気がかりだった。
「赫蛇!」
 呼びかけるも、彼女の神獣は姿を見せない。
 取り乱した様子で何度も赫蛇の名を呼ばう皇女に、近衛であろう兵が近寄った。
「殿下!」
 強い調子で呼ばれ、彼女はハッと我に返った。
「ここは危険です、お早く」
 促すように視界を遮られる。それでも迷うように彼女は切り結ぶ兵士たちと、そこにいるであろう赫蛇との間で視線を行き来させた。
 殿下、と再度呼びかけられてようやく決意が定まったのだろう。最後にもう一度だけ睨むように空の白鳥に目を向け、背を向ける。
「退却だ、急げ!」
 皇女を守るように周囲を固めながら近衛兵が声を上げる。それに呼応するように退却を叫んで兵士たちが退いていく。残されたラーエ族とチェロト族は、戦う意志がないことを表すかのように自分たちから武器を捨てた。
「……勝った、のか……?」
 自信のなさそうな誰かの声を皮切りに、わっと快哉が上がる。
「やった、勝ったんだ!」
「帝国の奴らを草原から追い出した!」
 白凰様、と熱の入った声があちらこちらから上がる。次第に一つとなったその声は、彼らの神獣の名を高く叫ぶ。
 離れた場所からでも届く自分を呼ぶ声に、フェオンは戸惑ったように視線を地面に下ろした。その戸惑いを察したのだろう、見上げたディーンが声を張り上げる。
「彼らに応えてあげてください」
 その言葉に小さくうなずき、フェオンは自分を称える人々へと視線を向けた。くるりと宙をひるがえると、人々の声はさらに大きくなった。
 白凰様、と称える声はいつまで経っても絶えることはなかった。
製作者:篠宮雷歌