鮮赤のメシア 四章

 翌日、ディーは指定された時間よりも少し早めに旧坑道へと向かった。そのまま探索となる可能性を考慮して服は動きやすいものを選び、荷物の大半はレングナー家に預けてきた。現在所持しているのは細身の片手剣と、ダニエルから与えられた旧坑道の鍵と地図、そして光石(こうせき)が数個だ。
 地図もそうだが、光石を得られたのは僥倖(ぎょうこう)だった。明かりを求めるだけならば松明(たいまつ)でも事足りるが、片手が塞がるため行動に支障をきたす恐れがある。その点光石であれば、荷物や衣服の一部などにくくりつけておけばいいだけなので簡単だ。
 問題の旧坑道は、話に聞いていた通り厳重に封鎖されていた。鉄製の扉は閉ざされ、取っ手の部分を頑丈そうな鎖で幾重にも巻いて固定するという念の入れようだ。
 その鉄扉の前に二人の男が立っていた。共に藍色のコートを身にまとい、左胸にメダルをつけている。
 おそらく彼らが協会の討伐士であろうと推測しながらも、ディーはすぐには声をかけずにやや距離を置いて彼らを観察した。
 一人はやや長めの銀髪をうなじで一つに束ねた大柄な男。ハルバードを右腕で抱き込むようにしながら、鉄扉に背中を預けている。
 もう一人は茶髪で、少し幼さを残す青年だ。銀髪の男と比べると小柄に見えるが、体格としては平均的なものだろう。彼はベルトから吊った剣に左手で触れながら、どこか落ち着かない様子で周囲に視線を向けている。
 青年の方が昨日協会の支部で出会った人物であることから、やはり彼らで間違いないようだとディーはうなずく。
 何かを感じ取ったのか、男が不意に顔を上げた。周囲へと投げかけた視線がディーと交わった瞬間、彼は驚いたように大きく目を見開いた。ハルバードが鉄扉にぶつかって大きな音を立てる。
「……アルヴィーンさん?」
 物音に気付いた青年が(いぶか)しげに声を上げて男の方に顔を向けた。驚愕に瞠られたままの男の視線を追ってディーに辿り着くと、その目もまた大きく見開かれる。
「あの子ですよ、昨日僕が言っていたの!」
 ディーを指さして慌てたように叫ぶ青年をいなしながら、男はディーへと向き直った。
「あんたが市長の使いか?」
 その問いにうなずき、ディーは彼らの方へと歩み寄る。
「協会から派遣されてきた討伐士というのは、あなたがたで間違いはありませんか?」
 そう問い返すと、男はうなずいてコートからメダルを外した。協会の紋章が刻まれた表側を示した後、裏返す。
「討伐士協会本部から派遣されてきた。特級討伐士、アルヴィーン・カルツだ」
「同じく、二級討伐士、ハンス・デーメルです」
 男と同じようにメダルを示して青年が名乗る。
 彼らが手にした認定証にも、その名乗りと同じ内容が彫られている。彼らはしばらくディーに向けて認定証を掲げていたが、やがて元のように左胸に着け直した。
「本部からの委任状も持ってきているが、確認するか?」
「ええ、お願いできますか?」
 わかったとうなずいて荷物の中から一枚の書状を取り出すアルヴィーンの隣で、ハンスはがっくりとうなだれた。
「うわぁ……信用ガタ落ちって聞いてはいたけど、実際目にするとキッツイですねぇ」
 ぼそぼそとうめくハンスをよそに、ディーは受け取った書状へと視線を落とす。予想通り、彼ら二人に全権を委任するという内容だ。
 文面を確認したディーは、今度は書状を持ち上げて頭上に掲げるようにした。陽光を透かした書状に討伐士協会の紋章が浮かび上がるのを確認し、ディーは小さくうなずく。討伐士協会の公用文書には、すべてこの透かし模様が入れられる決まりとなっているのだ。
「たしかに、確認させていただきました。あなたがたは間違いなく協会から派遣されてきた討伐士です」
「じゃあここの鍵を開けてもらえるんだな?」
 返却された委任状を荷物の中に戻しながら、アルヴィーンは鉄扉を示した。
「ええ。ですが、その前にこれを」
 うなずきながら、ディーは荷物から取り出した旧坑道の地図をアルヴィーンに手渡した。簡易的な地図とは言え、内部の構造を把握しておいた方がまだ行動しやすい。彼らもそう考えたのか、早速地図を確認している。
 そんな彼らを横目に、ディーは鉄扉へと近づいた。取っ手に巻きつけられた鎖の両端には、これまた頑丈そうな南京錠が付けられている。おそらく、預けられた鍵はこれのだろう。
 鍵を差し込んで回すと、わずかな手ごたえがして(かんぬき)が外れた。鍵と共に南京錠を荷物の中にしまうと、鎖を外して扉の脇に邪魔にならないように置いておく。取っ手に手をかけると、鉄扉はわずかに軋みながら開いた。
「では行きましょうか」
 振り返ってディーがそう告げると、ハンスは驚いたように声を上げた。
「行きましょうかって……ダメですよ! ここはもう何人もの人を殺した異形が潜んでいるんですよ!?」
 女の子が行くような場所じゃないと大げさに慌てるハンスに、アルヴィーンとディーが問題はないと口を揃えて告げた。
「別に女の討伐士なんて珍しくもないだろ。そんなに騒ぐな」
 アルヴィーンの言葉に、ピタリとハンスが動きを止めた。訝しげに眉を寄せて繰り返す。
「――討伐士?」
「そう、討伐士。委任状を確認する時、光に透かしていただろう? 協会の公用文書のお約束を知ってた段階で気づけ」
 ため息混じりのアルヴィーンの言葉に、ハンスは記憶を掘り起こした。言われてみれば、委任状を確認する時に頭上に紙を持っていったような気がする。あの動作は透かし模様を確認するためのものだったのか。
「全然気づきませんでした……」
 呆然とつぶやいたハンスに、アルヴィーンは深々と嘆息する。
「バカが。もっと周りに気を配れ」
 冷ややかに罵倒されてハンスはうめいた。――相変わらず容赦ない、この人。
「……何でも屋です」
 それまで黙って彼らのやり取りを眺めていたディーが、不意にぽつりとつぶやいた。その声を拾い、二人が問いかけるような視線を投げる。
「たしかに以前は討伐士でしたが、今はただの何でも屋です。ミロディの市長、ダニエル・レングナー氏から異形討伐を依頼された、ディーと申します」
 その声は静かだが、有無を言わせぬ圧力があった。それに気圧(けお)され、ハンスはこくこくと何度もうなずく。――異議はないです。
「納得していただけたならば、行きましょう」
 そう言って彼らに背を向けると、ディーは坑道へと向かって歩き出した。アルヴィーンがそれに続く。
 二人のうしろ姿が見えなくなった頃、我に返ったハンスが慌てて彼らを追いかけた。


 日の射し込まぬ坑道内部は思っていた以上に暗かった。光石のおかげで周囲を確認することはできるが、視認できる範囲は狭い。
 時折蛍火のように(またた)き揺らぐ光は心許なく、まるでハンスの不安を煽るかのようだった。
「あの、アルヴィーンさん。本当に彼女と一緒に行くつもりですか?」
 ささやくようにして問いかけたハンスを一瞥(いちべつ)し、アルヴィーンは先頭を行くディーへと視線を向けた。
 周囲を警戒してかその足取りはゆっくりしたものだが、迷いや怯えは感じられない。身形(みなり)も軽装ではあるが動きやすそうなものであるし、武器も携帯している。探索中に戦闘が起こる可能性を考慮したうえでの服装だろう。前歴が討伐士である以上、足手まといとなることはないように思われた。
「目的は一緒なんだし、人手は多いに越したことはない。あちらさんから同行を申し出てきたんだ、わざわざそれを蹴ることもないだろう」
 声を落としてハンスに返事をし、それとも、とアルヴィーンは問いかける。
「おまえは不服か?」
「そういうわけじゃないんですけど……」
 煮え切らない言葉に、アルヴィーンはハンスへと視線を向けた。言いたいことがあるならハッキリ言えと促すと、ためらいがちにハンスは口を開いた。
「討伐士なんて、女の子がするような仕事じゃないですよ」
 どこか拗ねたようなつぶやきに、思わずアルヴィーンは噴き出した。口元を押さえるが、それでも殺しきれずに笑い声が漏れる。
「――おまえ、言うに事欠いてソレか」
 くつくつと笑うアルヴィーンに、ハンスは恨めしげな視線を送ってぼそりとつぶやく。
「アルヴィーンさんが言えって言ったくせに……」
 ひとしきり笑ったあと、アルヴィーンは大きく息をついた。目尻に浮かんだ涙を拭う。
「間違っても本部でそういうこと言うなよ? 袋叩きにされるから」
 討伐士という職種は割合としては男性の方が多いものの、けして女性が珍しいわけではない。女性蔑視とも取れるハンスの言葉は、女性討伐士たちの怒りを買うだろう。
「あと、おまえの憧れの鮮赤のメシアも女の子だったぞ?」
 茶化すように言って、アルヴィーンはわずかに足を速めた。ディーの隣に並ぶと、わずかに視線を向けて背後を示す。
「――アレ、どうする気だ?」
「昨日一緒にいた子ですよね?」
 低い声で囁いたアルヴィーンの言葉に続き、こちらも声を潜めたハンスが問いかける。
 足を止めぬままディーが横目で背後を見やると、やや距離を置いて三人のあとをついてくるスヴェンの姿があった。当人は隠れているつもりなのだろうが、丸見えである。
「市長のご子息です。討伐士に憧れているようでしたから、ついてきてしまったのでしょうね」
 小さく(かぶり)を振ると、ディーはため息と共に言葉を吐き出す。
「帰らせるよりほかにないでしょう」
 ハンスは様子を窺うように上目遣いでディーを見やり、恐る恐る口を開いた。
「ええと……連れていってあげちゃダメですか? 僕、あの子の気持ちがわかるんですよね」
 少年にとって、異形を退治して人々を守る討伐士は英雄だ。憧れ、近づきたいと思う気持ちはハンスにも覚えがあった。ついてきてしまったものは仕方ないし、いっそのこと同行させて自分たちの目の届く位置に置いておく方がいいのではないだろうか?
 だが、ハンスのその訴えは呆気なく却下された。
「足手まといとなるのがわかっているのに、連れていってどうするんです?」
「俺たち討伐士には、一般人を危険から遠ざける義務があるんだよ。わざわざ危ない目に遭わせてどうする」
「いや、だからこそ一緒にいて守ってあげるわけでですね……」
 冷ややかな二対の眼差しに気圧(けお)されつつも、あきらめの悪いハンスは尚も言い訳じみたことをもごもごと口にする。
 それを横目で見やると、ディーは深々と嘆息した。(きびす)を返し、暗がりに隠れるようにしていたスヴェンの前に立つ。
 自分の行く手を塞ぐようにして突如現れた影に少年がビクリと肩を震わせ、慌てて顔を上げた。無表情に自分を見下ろすディーと目が合い、そのまま凍り付いたように動きを止める。
「街へ戻ってください」
 少年が口を開くよりも早く、ぴしゃりとディーが言い放った。
「ディーたちの邪魔はしない! だからオレも連れていってくれよ!」
 すがるようなその声に、ディーは(かぶり)を振って嘆息する。
「だめです。素人がいるというだけで、すでに邪魔です」
「な……っ! そ、そんな言い方しなくたっていいだろ!?」
 見下すような物言いに、スヴェンは強く拳を握りしめた。自分の身くらい、自分で守れる。スヴェンがそう訴えると、ディーは目を眇めた。ただでさえ冷ややかだった眼差しが、切れそうなほどに鋭さを帯びる。
「あなたは異形のことを何も知らない。子どもの遊びが通用する相手ではないのですよ」
「子どもって……! あんただって子どもじゃないか!」
 自分と大して変わらない年のくせにと叫ぶスヴェンを見下ろすと、ディーは小さくため息をこぼした。無感情につぶやく。
「これでも、わたしは二十三歳ですよ」
「「……え?」」
 爆弾発言とでも言うべき内容に、スヴェンのみならずハンスまでもがぽかんと口を開けて間抜けな声を上げた。
「「――二十三歳? ……え? だって、どう見たって十代後半くらいじゃ……?」」
 思わずといった様子でこぼれたつぶやきが綺麗に重なる。
「わたしの年齢はどうでもいいです。とにかく、元とは言えわたしは正式な認可を受けた討伐士であり、それ相応の経験を積んでいますから異形との戦いがどんなものか知っています。勝つためならば、手段なんて選んではいられない。一体の異形に複数の討伐士で挑んで、それでも返り討ちに遭うことも少なくないんです。そんな場所に、子どもが遊び気分で来られては迷惑です」
 吐き捨てるようなディーの言葉に、スヴェンは無言でうつむいた。服の裾を両手でぎゅっと握りしめる。
 たしかに、自分は何も知らない子どもかもしれない。好奇心からの後先考えない行動で、彼らに迷惑をかけているのかもしれない。だけど、それでも――。
「そんな言い方、しなくたっていいじゃないか……っ!」
 (まなじり)に涙を浮かべてスヴェンは叫んだ。突き飛ばすようにしてディーを押しのけ、坑道の奥へと向かって駆け出す。
「あ、ちょ……待って!」
 あわててスヴェンを追いかけるハンスの背中を見送り、アルヴィーンは前髪をかき上げた。深々と息を吐きだす。
「うん、まぁ、何だ……。あの年頃の少年は扱いが難しいからなぁ」
 慰めるようなその言葉に、ディーがうつむいて両手で顔を覆った。すみません、と指の間から声が漏れる。
「どうも、わたしは言葉の選び方が悪いみたいで……。最近は人との距離の置き方まで忘れてしまったようです」
 自分を責める言葉に、気にするなと告げてアルヴィーンはディーの頭に手を乗せた。
「言ってること自体は間違いじゃないさ」
 優しい声音でそう告げると、彼はやや乱暴な仕草でディーの頭を撫でた。
 そう、彼女の言い分は間違いではない。しかし言葉を選ぶべきではあったとアルヴィーンは思う。
 討伐士は世間で思われているほどいいものではない。異形との戦いは非常に過酷だ。――肉体的にも、精神的にも。
 奴らを叩いて、潰して、切り刻んで――それでも殺せないなら、焼き払う。時に仲間の死体を踏みにじってでも、異形の殲滅(せんめつ)を優先しなければならない。そんな戦い、知らずに済むならその方がいいに決まっている。
 あんたは悪くない、そんな思いを込めてもう一度頭を撫で、アルヴィーンは手を離した。うつむいたままの娘に声をかける。
「ハンスが追ったとはいえ、異形の住処にいつまでも子どもがいるのはよくない。さっさと追いかけて保護してしまおう」
「そう、ですね……」
 顔を上げ、笑みのようなものをディーが浮かべた時だった。
「うわああぁぁぁ――――!!」
 坑道の奥から大きな悲鳴が上がった。それに顔色を変えたディーが即座に駆け出す。わずかに遅れ、アルヴィーンもそれに続いた。


 振り下ろされる爪を剣で受け止め、弾く。相手が体勢を立て直す前に斬りかかるも、切っ先はむなしく空を切った。
 青みを帯びた灰色の毛並みと、しなやかな体躯(たいく)銀狼(ぎんろう)と呼称されるその異形は目撃報告例の多い種類だが、ハンス一人で仕留められるほど弱いわけではなかった。今はどうにかあしらえているが、それもいつまで続くかはわからない。
 剣を構え直し、切っ先を異形に向けて牽制(けんせい)しながらハンスは背後へと視線を投げる。そこには怯えた顔で立ち尽くす少年の姿があった。
「きみ! 早く逃げて!」
 叫ぶも、市長の息子だというその少年にハンスの声は届いていないようだった。少年ははガタガタと震えながら、焦点の合わない瞳で異形を見つめている。その口からこぼれるのは、意味をなさない言葉ばかりだ。
「う、あ、あぁ……」
 立っているのもようやくという様子の少年に向け、ハンスは再度叫ぶ。
「逃げて、早く!」
 少年へと意識を向けすぎたのか、ハンスの注意が一瞬異形からそれた。その隙を見逃さず、異形が跳躍する。気づいたハンスが前方へと視線を戻すが、わずかに遅い。剣を使ってどうにか牙の一撃はそらしたものの、勢いのまま吹き飛ばされた。
 悲鳴を上げて壁に叩きつけられたハンスには構わず、異形はスヴェンへと視線を向けた。びくりとスヴェンが肩を揺らす。
 しばらく見つめ合うようにしたあと、トンと異形が地面を蹴った。スヴェンが悲鳴を呑み込み、ぎゅっと目をつぶる。
 異形の牙が襲いかかる寸前、横から手が伸ばされた。スヴェンを庇うように抱え込んだその腕に異形が食らいつく。
「――ッ!」
 わずかに漏れた苦痛の声に、スヴェンはそっと(まぶた)を開いた。眼前の光景に目を見開く。
「ディー!?」
「じっとしていてください」
 低くささやき、ディーはスヴェンの視界を塞ぐように自分の胸に抱き込む。
 異形はディーの腕の肉を噛み千切ると、くるりと宙返りして距離を取った。空いた空間にアルヴィーンが滑り込む。彼はスヴェンを抱えて腕から血を流すディーと、壁に叩きつけられたままうずくまるハンスをそれぞれ一瞥すると小さく笑った。
「こりゃまた派手にやられたことで」
 からかうようにつぶやいてくちびるをなめると、アルヴィーンはハルバードを握り直した。どこか凶暴さを感じさせる目つきで笑い、異形へと告げる。
「さあ、どこからでもかかって来いよ」
 アルヴィーンの挑発に乗るかの如く、一声吼えた異形が地面を蹴った。弾丸のように突っ込んできたのをいなし、払ったその勢いを利用してハルバードを振るう。振り下ろされた刃は狙いを違わず、異形の頭蓋(ずがい)を叩き潰した。
 異形が沈黙したのを確認すると、息を吐きだしてディーは抱え込んでいたスヴェンを解放した。恐る恐る顔を上げたスヴェンが生々しい傷口を目にして息を呑む。
「だ、大丈夫なのか!? ディー!」
 悲鳴じみた声を上げたスヴェンから隠すように負傷した左腕を背後へ回し、ディーが小さくうなずく。
「あなたは、怪我はありませんか?」
 問いかけに泣きそうになりながら、スヴェンは何度もうなずいた。
「オレは大丈夫だけど、ディーの方が……ッ!」
「大丈夫ですよ」
 言葉少なに答えたあと、ディーはためらいがちに右手を伸ばした。不器用な手つきで少年の頭を撫でると、もう一度大丈夫と繰り返す。
「傷の具合は?」
 頭上から降ってきた声に顔を上げると、どこか気遣わしげな顔でアルヴィーンが彼女を見下ろしていた。
「問題はありません」
 一言で突っぱねたディーに物言いたげに口を開き、アルヴィーンは額に手を当てた。片膝をついてディーと目線を合わせると、まっすぐに見据える。
「いいから、見せろ」
 そう言うや否や、彼は問答無用でディーの腕を取った。未だ血を流し続ける傷口には、肉を噛み裂いた牙の痕が生々しく残っている。相当な痛みを伴うであろうに彼女は顔色一つ変えず、ただのかすり傷だとでも言いたげにアルヴィーンを見上げていた。
 眉を(ひそ)めて一旦手を離すと、アルヴィーンは荷物から応急処置の道具を取り出した。消毒薬の瓶の蓋を開けて再びディーの腕を取る。
()みるぞ」
 短く言い置いて、アルヴィーンは中身を思い切り振りかけた。ディーの眉が(ひそ)められ、押し殺したような悲鳴が漏れる。アルヴィーンは傷口にガーゼを当てると、慣れた様子でその上から包帯を巻いていく。
「ありがとうございます」
 手際よく処置された左腕に触れてディーが礼を述べる。それに気にするなと返すと、アルヴィーンは背後へと顔を向けた。未だうずくまったままのハンスを見やる。
「で、おまえの負傷状態は?」
 問いかけにうめきながら立ち上がると、ハンスは状態を確認するように体を動かした。しばらくしてうなずく。
「大丈夫です。たぶん打ち身だけで、骨とかはやってないと思います」
 それにうなずくと、アルヴィーンは立ち上がった。ディーとスヴェンに手を貸しながら問いかける。
「歩けそうか?」
 問題ないとの返答にうなずくと、彼は放り出したままのハルバードと荷物を拾い上げた。
「そこのガキもそうだが、負傷者もいることだし今日は引き上げるとするか」
 アルヴィーンの提案に異論を唱える者はおらず、彼らは全員で来た道を引き返すことにしたのだった。


         ◆


 坑道を出ると扉を閉め、元のように封鎖して鍵をかける。
 スヴェンを家まで送っていくというハンスと別れると、アルヴィーンとディーは討伐士協会の支部へと向かって歩き出した。
 しばらく黙ったまま並んで歩いていたが、不意にアルヴィーンが口を開いた。
「ハンスに何を頼んだんだ?」
 別れ際、ディーがハンスに何か頼んでいたのを思い出して問いかける。わざわざ追いかけてまで頼むようなことなどあったのだろうか?
「スヴェンさんの家に荷物を預けていたので、それを取ってきてくれるようにお願いしました」
「何のために?」
「支部を拠点とした方が、何かあった時に動きやすいからですよ」
 前を見たままのディーの言葉に、アルヴィーンは疑問を覚えた。
 たしかに彼女の言い分にも一理ある。協会の支部は門の近くにあるし、協力して事に当たるつもりならば拠点を同じくしたほうが便利だろう。だが、彼女の言葉にはそれ以外の何かが含まれている気がした。
 荷物を回収するだけなら自分で行けば済む話である。先方からすればハンスは見知らぬ他人だ。いくら本人から頼まれたと言っても、素直に渡してくれるとは限らない。それなのに、なぜハンスに頼んだのか。
 じっと注がれるアルヴィーンの視線に観念したのか、ディーは小さく息を吐き出した。
「また流される可能性があったからですよ」
 ミーネも、ダニエルも、スヴェンも、レングナー家の人間は皆揃って人がいい。ほとんど素性の知れないディーを、彼らは疑う様子もなくもてなした。あの笑顔で引き止められれば、意志が揺らぐ可能性があった。
「彼らの家に厄介になったのが、そもそもの間違いだったんです」
 規模の差こそあれ、どんな街や村にも宿の一つはあるものだ。最初から宿を利用すればよかったのに、彼らの厚意に甘えてしまった。彼らとは住む世界が違うとわかっていたはずなのに、不用意に近づきすぎた。スヴェンを危険にさらしたのは自分のせいなのだと、ディーはどこか自嘲気味につぶやいた。
 アルヴィーンはしばらく言葉を選ぶように視線をさまよわせていたが、結局見つからなかったのかディーの頭に手を伸ばした。髪をかき混ぜるようにして撫でる。
「必要以上に責任を感じる必要はないと、俺はそう思うぞ?」
 わしわしと頭を撫でながら告げたアルヴィーンの言葉に、ディーは小さくありがとうございますとつぶやいた。


 支部に着くと、アルヴィーンは常駐する討伐士の私室と思われる部屋の中で、比較的荒れていない一室へとディーを案内した。散らかっていて悪いがとの言葉に、ディーは気にしないと返して(かぶり)を振る。
「必要なら手を貸すが?」
「いえ、自分で治療できますのでお気遣いなく」
 素っ気ないディーの言葉にそうかと答えると、アルヴィーンはテーブルの上に救急箱を置いた。
「何かあれば呼んでくれ」
 ひらひらと片手を振りながらそう言って、アルヴィーンが部屋をあとにする。
 彼の足音が遠ざかったのを確認すると、ディーは左腕に巻かれた包帯に手をかけた。取り払われたガーゼの下から傷口が現れる。
 異形によって抉られた箇所は肉が盛り上がり、すでに治癒の気配を見せていた。
「……気持ち悪い」
 顔をしかめ、吐き捨てるようにつぶやく。
 しばらく傷口を睨むようにしていたが、やがてディーは部屋に備え付けられた水道設備を使って腕についた血を洗い流し、傷口に消毒薬を振りかけた。傷口を隠すように右手で覆う。
 しばらくして手を離すと、傷はわずかに痕を残すだけでほとんど塞がっていた。
 たとえかすり傷であったとしても、これほどまでに早く治るのは異常だ。腕の半ば近くまで肉を噛み裂かれるような怪我であれば尚のことである。アルヴィーンらの追及を避けるため、ディーは新しいガーゼを当てて包帯を巻き直した。
 以前はこんな風ではなかった。変わったのは三年前。ある出来事から彼女は驚異的な――むしろ異常とも言うべき治癒能力を手に入れ、そうしてそれまでの生活をすべて失った。捨てざるを得なくなった。


 腕の包帯に視線を落としたまま立ち尽くしていたディーは、ノックの音で我に返った。
「……ディー? 入ってもいいか?」
「あ、はい。どうぞ」
 室内に入ってきたアルヴィーンは難しい顔つきをしていた。用があったから来たのであろうに、彼は一向に口を開こうとしない。
 どうかしたのかとディーが尋ねると、ハンスが帰ってきたのだが、とだけ答えて彼は嘆息した。
「何かあったのですか?」
 何か言いたげに口を開いては閉じて、ということを繰り返すばかりのアルヴィーンを訝しみ、ディーはそう問いかける。
「いや、別に何かあったというわけではないんだが……」
 言葉を濁し、額に手を当てたアルヴィーンは再びため息をついた。
「さっきのガキが、あんたと話がしたいと言ってるんだよ」
「……スヴェンさんが?」
「ああ、下でハンスと一緒に待ってる。……どうする?」
 会うつもりがないなら追い返す、言外にそんな意味合いを含んだ問いかけに、ディーは考え込む様子を見せた。だがすぐに顔を上げると、アルヴィーンを見上げてうなずく。
「わかりました、会いましょう」


 一階のエントランスホールへと降りていくと、ハンスに付き添われたスヴェンの姿があった。
 ディーに気づいた少年は弾かれたように椅子から立ち上がった。彼女の目の前まで駆けていくと勢い良く頭を下げる。
「ごめん! ディーの言う通りだった!」
 驚いた様子で目を(またた)かせるディーの前で、スヴェンは言葉を続ける。
「オレが素直に言うことを聞いて引き返していれば、ディーが怪我をするようなこともなかったのに……。本当に、ごめんなさい!」
「いえ……わたしも言葉が過ぎました」
 だから気にしないでくださいとの言葉に小さくうなずいて、スヴェンは顔を上げた。ディーの顔色を窺うように上目遣いに見上げる。
 そんな少年を安心させるようにぎこちないながらもディーは微笑みを浮かべ、彼が胸に抱え込んだ荷物へと手を伸ばした。
「わたしの荷物、持ってきてくれたんですね。ありがとうございます」
 ためらうように荷物とディーを見比べたあと、スヴェンはおずおずと荷物を差し出した。
「……ディー、帰っちゃうのか?」
 不安げな顔つきで問いかけたスヴェンに、ディーは(かぶり)を振る。
「依頼が終わるまでは帰りませんよ。拠点をこちらに移すというだけです」
「どうして? うちに居ればいいじゃないか、誰も迷惑だなんて思ってないよ」
 すがるようにスヴェンが訴える。その言葉にディーはためらうように瞳を揺らし、そっと目を伏せた。
「討伐士と一般人とは、必要以上に近づかない方がいいんですよ」
 その方がお互いのためなのだと告げたディーに、スヴェンは納得できないと言いたげに口を開いた。けれど、自分を思い留まらせるように彼は(かぶり)を振る。
「ディーがそう言うんなら、きっとそうなんだろうな……」
 寂しげにつぶやかれた言葉に、ハンスが慰めるように少年の肩に手を置いた。
「あ、あの……! 僕、彼を家まで送ってきますね!」
 しんみりとした空気に居た(たま)れなくなったのか、ハンスがやや裏返った声でそう告げた。スヴェンを促して外へと出る。
 二人の姿が完全に見えなくなった頃、ふと思い出したとでも言うような調子でアルヴィーンがつぶやいた。
「……あいつ、ちゃんと帰ってくるのかねぇ?」
 問いかけるように自分を見上げてくるディーの視線を感じながら、アルヴィーンはため息をつく。
「方向音痴なんだよ、あいつ」
 結局アルヴィーンの予想通り、ハンスはいつまで経っても帰ってこなかった。道に迷ったらしいハンスを探すのに時間がかかったため、今後の作戦会議は翌日に持ち越されたのだった。


         ◆


 翌朝、一階のエントランスホールにはテーブルを囲む三人の姿があった。一見するとそれは和やかな朝食の席にも見えたが、彼らの眼差しはひどく険しい。
「やはり、問題は坑道の入り口に見張りを立てていなかったことでしょう」
 そうすればスヴェンが坑道に立ち入ることもなく、もっと奥まで調査することができたはずだとディーが訴えた。紅茶で口の中の物を飲み下しながら、アルヴィーンがうなずいて同意を示す。
「普通は後方支援の部隊を用意するものだからな」
 よほどの例外を除き、異形討伐の際には戦闘に特化した部隊と、それを支援する後方部隊の二種類が用意される。戦闘部隊が異形を殲滅(せんめつ)し、後方部隊は討ち漏らされた異形が街に侵入するのを阻止したり、逆に一般人が戦場に立ち入らないよう見張る役割を持つ。そうやって被害を最小限に食い止める努力を行っているのだ。
「それはそうですけど……三人しかいないんですよ? どうしようもないと思うんですけど」
 ハンスの言い分ももっともだった。ただでさえ異形討伐に当たるには頭数が足りていないのだ。被害軽減のために人手を割き、そのせいで失敗したのでは本末転倒だろう。
「それでも、見張りは立てるべきでしょう」
 尚も自分の意見を曲げないディーにため息を付き、ハンスはアルヴィーンへと視線を向けた。
「アルヴィーンさんはどう考えているんです?」
「俺か?」
 意見を求められたアルヴィーンは腕を組んで天井を見上げた。突き刺さるような二対の視線を感じながら、しばらく思案した後つぶやく。
「ディーの意見に一票、かな」
「……わかりました。それじゃあディーさんに見張りをお願いしましょう」
 その腕で戦闘は厳しいだろうと告げたハンスに、ディー自身が異を唱える。
「問題はありません」
「問題ないわけないでしょう!? あれだけの大怪我ですよ!?」
「ああ、はいはい。ちょっとおまえら落ち着け」
 互いに一歩も譲らず、睨み合う二人に嘆息すると、アルヴィーンは両者を遮るように手を伸ばした。
「言い合ってたってどうせ結論は出ないんだ、模擬戦でケリをつけろ。負けた方が見張り役だ」
 ディーが勝てば怪我の具合が戦闘に影響しないことの、ハンスが勝てば戦力外であることの証明となる。アルヴィーンのその言葉に、異を唱えていたハンスも最終的にはその条件を受け入れた。


 屋外へと出ると、ディーとハンスはそれぞれ調子を確かめるように軽く体を動かした。ここで負傷しても無意味であるため、準備運動は念入りに行う必要があるだろう。
 ある程度体が温まってきた頃、ハンスはアルヴィーンに呼びかけられた。そちらへ顔を向けると同時に木剣を投げ渡される。勢い良く飛んできた木剣をどうにか受け止めたハンスは、それを行った人間に不服を訴えた。
「危ないじゃないですか、投げないでくださいよ!」
「おう、悪い悪い」
 まったく悪びれた様子もなくアルヴィーンが笑う。相変わらず言うだけ無駄なその様子に、ハンスはこっそりとため息をついた。
「ディーは何を使う?」
 帯剣していることから恐らく得手は剣であろうと予測はついていたが、念のためにアルヴィーンは問いかけた。訓練用の武器はそれなりに見つかっている。よほど特殊な武器でもない限り用意できるはずだった。
「ペイント弾なんてありましたっけ?」
 自分がかき集めたため何があるかは記憶しているのだろう、首を傾げてハンスが口を挟む。
「ある程度はな」
「……ある程度、ですか」
 アルヴィーンの答えに、ハンスは顔をしかめてつぶやいた。多いとも少ないとも取れる微妙な言い方だ。何だかひどく嫌な予感がした。
「まさかとは思いますが、実弾を使うとか言いませんよね?」
 実弾使用の模擬戦なんてシャレにならない。それこそ負傷必至、下手をすれば命を落としかねないだろう。
 不安げなハンスの問いに答えたのはディーだった。
「わたしの武器は剣ですから、ご心配なく」
 その言葉に、ハンスはほっとした様子で息を吐き出す。これで負傷の可能性は格段に低くなった。
 木剣を受け取ると、ディーは距離を置いてハンスと向き合った。右手で木剣を持ち、中段の位置に構える。左手もゆるく拳を握り、胸の下あたりに置いた。左手にも木剣があれば、ちょうど切っ先が交差する形だ。
 その構えを見て、ほう、とアルヴィーンが声を上げた。
「アイクホルスト流か」
 そのつぶやきを拾い、ハンスが興奮したように口を開く。
「アイクホルスト流って言うと、鮮赤のメシアが使っていた流派ですよね!」
 握り拳で叫んだハンスに、ディーが目をまばたかせて不思議そうに首を傾げる。
「鮮赤のメシアに何か思い入れでも?」
「憧れの人なんです」
 はにかむように笑ったハンスの答えにもう一度まばたきし、そうですかとディーはつぶやいた。
 鮮赤のメシアは討伐士の中でも一、二を争う有名人だ。同じ討伐士として憧れを抱く者も少なくはないだろう。ただ、ハンスのそれは少しばかり重症なように思えた。
「いつまでも無駄口を叩いてないでおまえも構えろ」
 ハンスの後頭部を(はた)いてアルヴィーンが注意する。それに返事をすると、ハンスも木剣を構えた。
 アルヴィーンの合図で両者は同時に飛び出した。上段から打ち込まれたディーの一撃をハンスが受け流す。
 突き、切り上げ、払い、そしてまた突き――速度で上回るディーの攻撃にハンスは防戦を強いられていたが、その顔に焦りの色はない。落ち着いた様子で攻撃を捌いていく。
 ディーの木剣が振り下ろされるのにタイミングを合わせ、ハンスは逆袈裟に己の木剣を振り上げた。音を立てて互いの木剣が噛み合う。ぎりぎりと鍔迫り合いをしながら、残念ですとハンスがつぶやきを漏らした。
「左手、怪我していなかったら万全の状態で戦えたのに」
 もう一度残念ですとつぶやくと、ハンスは力尽くで木剣を振り抜いて拮抗状態を崩した。手首を返して木剣を振り下ろす。
「……誰が、不全だと言ったのです?」
 ぽつりとつぶやきを零し、距離を詰めたディーが左手を振り上げる。そこにはどこから取り出したのか一振りのダガーが握られていた。彼女は逆手に握ったダガーの腹の部分で木剣を受け流す。
 今の一撃を凌がれるとは夢にも思っていなかったのだろう、ハンスが驚愕の声を上げて一瞬動きを止めた。ディーはその隙を見逃さず、ハンスの手から木剣を叩き落とすとその喉元に己の木剣を突きつけた。
「わたしの勝ちです」
 無表情にハンスを見やって勝利宣言をしたあと、ふとディーは首を傾げた。ハンスに木剣を突きつけた体勢のまま、視線だけをアルヴィーンへと向ける。
「今更聞くのも何ですが、暗器は反則になりますか?」
 淡々としたディーの問いかけに、小さく肩をすくめてアルヴィーンは言葉を返す。
「別にいいんじゃないか? アイクホルストの裏は暗器を使う流派だろう?」
「裏って……何ですか、それ」
 へたり込んだハンスを見下ろし、流派の一つだとアルヴィーンは答えた。
 アイクホルスト流と呼ばれる剣術には二通りの流派が存在する。一つは双剣を使う【アイクホルスト流剣術・表式】。もう一つは剣と暗器とを併用する【アイクホルスト流剣術・裏式】である。一般的には、アイクホルスト流と言えば表式のことを指す。
「そんなの聞いたことないですよ……」
「そもそもアイクホルスト流自体がマイナーですからね。そこから派生した裏式の知名度は言うまでもないでしょう」
 納得いかないと言いたげなハンスに、ディーがそう補足する。
 鮮赤のメシアが使っていたことでアイクホルスト流の名前だけは有名になったが、それがどんな流派なのかを知る者は少ない。むしろ知名度がゼロに近かったからこそ、名前だけが独り歩きしている状態だ。
「それなのに、アルヴィーンさんはよく知ってましたね」
 立ち上がって服についた土を払いながら、感心したようにハンスが声を上げた。それにアルヴィーンは曖昧にうなずく。
「知り合いがアイクホルストの裏を使っていたからな」
「その知り合いって、鮮赤のメシアのことですよね? 教えてくれればよかったのに……」
 半眼になったハンスが拗ねたようにつぶやく。
 ハンスと組む以前、アルヴィーンの相棒を務めていたのは鮮赤のメシアだったと聞いている。ハンスが鮮赤のメシアに対して強い憧れを抱いているのは、討伐士協会において最早周知の事実である。アルヴィーンがそれを知らないはずはないのだ。
 恨めしげに自分を睨むハンスに、アルヴィーンは小さく噴き出した。
「おまえは詰めが甘いよなぁ」
「……どういう意味です?」
「そのままの意味だよ」
 詰め寄るハンスを意にも介さず、肩を揺らしながらアルヴィーンは答えた。
 鮮赤のメシアは協会に属する討伐士である。当然、鮮赤のメシアに関する資料や当人を知る人物は協会内に存在するのだから、それらを当たれば情報はいくらでも出てくる――アルヴィーンはそう言っているのだ。
「戦闘に関しても、おまえは詰めが甘いところがある」
 笑みを引っ込め、アルヴィーンはそう指摘した。けして筋は悪くないものの、不意を突かれたり予想外の出来事が起こると動きが止まりがちだ、と。
「今回は模擬戦だったからいいようなものの、実戦だったら確実に死んでいるぞ」
 厳しい口調でそう言ったあと、彼は不意にニヤリと笑った。
「見張りはハンスで決まりだな」
「……了解です」
 大きくため息をついてハンスはそう答えた。正直なところ、負傷しているディーを討伐隊に回すのは不本意極まりないが、負けてしまった以上はどうしようもない。納得いかない気持ちを全部吐き出すようにもう一度嘆息すると、ハンスは問いかけた。
「これからすぐに坑道に向かいますか?」
「いや、そういうわけにはいかないだろ」
「何が起こるかわかりませんからね。準備は万全にすべきでしょう」
 二人の言葉に、それもそうかと納得する。今回はただでさえ人数面でハンデがあるのだ。それを補うためにも入念な準備は必要だろう。
「そういうわけで、おまえ買い出し行ってこい」
「は!? 僕一人でですか!?」
 アルヴィーンの言葉に、ハンスは思わず大声を上げた。探索に必要な物と言えば、食料や飲料水、焚き火用の燃料などだろうか。ざっと思いつくだけでもそれなりの量になりそうだった。それを一人で買ってこいと言うのか、この人は。
「そう言いたいところだが、二度手間になるからあとで行く」
 ニヤニヤと笑いながら、アルヴィーンは付け加える。
「罰ゲームで、おまえ一人で荷物持ちな」
「何でそうなるんです!? さっきの模擬戦は見張り役を決めるためのものでしょう!?」
 そう言って食ってかかるハンスに、アルヴィーンは人の悪い顔で笑うばかりだ。そのせいでハンスの声量は段々と上がっていく。騒がしい二人を横目で見やり、ディーは小さく嘆息した。
「あと必要なのは、情報の再確認でしょうね」
 ディーが持っている情報はダニエルから聞いたもののみだ。それも伝聞や推測が多分に混ざっている。協会側が握っている情報と照らし合わせ、足りない分を補完する必要があるだろう。そもそも彼女は今回の討伐対象が何かすら知らないのだ。全体的に情報が足りなさすぎる。
「できれば今回の件に関する討伐記録と手配書が見たいのですが」
「わかった」
 あっさりとうなずいたアルヴィーンに、慌てたのはハンスだった。
「いいんですか!? 討伐記録も手配書も機密情報じゃないですか!」
 情報を外部に漏らさないというのは、討伐士の服務規程の中でも最重要項目として記載されている。これを破ると、最悪討伐士の資格を剥奪(はくだつ)される恐れがあった。
「ディーは認定証を持っているんだ、問題ないだろ」
「それはそうですけど……勝手なことをすると怒られますよ?」
 アルヴィーンはこれまでにも自己の判断で行動しては、それを上層部から叱責されるということが多々あった。たしかに特級討伐士ともなれば、現場での自己判断による命令無視が大目に見られることもあるが、アルヴィーンのそれはかなり度が過ぎている。
「おまえが黙っていればわからないだろ」
 そう言っていたずらっぽく笑ったアルヴィーンに、ハンスは盛大なため息をついた。


「……これですべてですか?」
 読み終えた資料をテーブルに置いたディーが、アルヴィーンらを見やって問いかけた。テーブルの上には今回の件に関する資料が置かれているが、その数は非常に少ない。アルヴィーンたちが持参した手配書と、ミロディ支部が作成した討伐記録のみである。
「残念ながら、今回の件に関して見つかっている資料はこれだけだ」
 逃げ出す時に誰かが持ち出しでもしたのか、討伐記録はほとんど見つからなかった。この件に関する物が残っていただけ僥倖(ぎょうこう)だと言える。
 アルヴィーンの言葉にため息をつくと、ディーは再び討伐記録を手に取った。手配書と見比べる。
「内容、ほとんど同じですね」
 ディーのつぶやきに、アルヴィーンも同意して胸の前で腕を組む。
「そうだな、手抜きにも程がある」
 ミロディ支部の討伐記録に記されていた内容は、アルヴィーンたちが持参した手配書と大した違いはなかった。いつ、誰が交戦したか、という記録の有無くらいである。
「でも、組織された討伐隊は壊滅して帰ってきていないって話でしょう? 情報が少なくても仕方がないんじゃないですか?」
 ミロディ支部を庇うかのようなハンスの言葉に、それでも不自然だとディーは首を横に振った。
 手配書には異形の名前と外見的特徴を表した絵、習性などの注意すべき点が記載されている。
 今回の討伐対象はメシュニア・アイビーという植物型の異形だった。食虫植物から変異したと考えられており、獲物となる生物を呼び寄せる習性を持っている。呼び寄せられた獲物の中には、動物型の異形が混じることも少なくなかった。メシュニア・アイビー自体の攻撃性も高く、手配書が作られたのも納得がいく。
 一方、昨日坑道で遭遇した銀狼は、群れを形成する習性を持つ動物型の中でも特に大規模な群れを作る。単体での脅威度はさほど高くないとは言え、群れとなると話は別だ。手配書に記載するほどではないだろうが、討伐記録に一切の記述がないというのはおかしい。
「たしかにな。銀狼がいるとあらかじめわかっていたなら、本部への報告書に応援要請を追加していた」
 ディーの言葉にうなずき、アルヴィーンが顔をしかめる。不測の事態が発生する可能性は考慮していたが、よもや銀狼の群れと対峙することとなろうとは完全に想定外だ。
「あの……ミロディ支部が機能不全に陥ってから銀狼が発生したとは考えられませんか? メシュニア・アイビーに呼び寄せられたという可能性だってありますよね?」
 尚も異論を唱えるハンスに、その可能性もあるとディーはうなずいた。記録がない以上、何が起こったのかは推測の域を出ないのだ。
製作者:篠宮雷歌